日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.2 立憲政体の成立 / 2.2.6 明治立憲制の特質

2.2.6 明治立憲制の特質

ここでは明治憲法(大日本帝国憲法)下における立憲政体の特質について整理するが、その前に、55年間にわたる明治立憲制の推移を確認しておこう註226-1

 図表2.2(再掲) 立憲政体の成立

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(1) 外見的立憲主義註226-2

明治憲法の特徴としてまず挙げられるのが「外見的立憲主義」であり、{ 各種の天皇大権を設定することにより、内閣が議会の意向に留意せずに行える国政の範囲が極めて広い}※1 立憲政体のことをいう。具体的には以下(3)以降で述べるが、{ 国家の統治権は君主が総攬すべきものとする大原則を前提に、議会の権限を憲法の明文で列記された事項に限定する}※2 ことになる。

※1 坂野潤治「明治憲法史」,P46  ※2 大石眞「日本憲法史」、P301

一方でこれを否定的にみる研究者も少なくない。{ …明治憲法の非民主性や外見的立憲主義の側面ばかりを強調するのは歴史の実態には即していない。}(瀧井一博「増補 文明史のなかの明治憲法」,P298)

議会の権限は制約されているという主張と、議会は強い力を持っていた、という主張はともに正しい、と私は考える。つまり、憲法の文面上は議会の権限は制約されているが、例えば議院内閣(政党内閣)制のように内閣と議会の間で合意形成がしやすい場合は、議会の意思を国政に反映しやすくなるからである。ただし、伊藤博文らが憲法草案を作った時点では議会の権限を抑制しようとし、審議を通じてそれがやや緩和されたが、それでも議会の権限は限定的だった(2.2.4項)こともまた、事実である。

(2) 万世一系の天皇註226-3

明治憲法の第1条は、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」である。「万世一系」という用語は、幕末に水戸藩の藤田東湖らが易姓(えきせい)革命論※1で王朝の交代を正当化する中国に対抗して主張したことに始まると言われている。

※3 易姓革命論; 天子は天命を受けて国家を統治しているから、天子の徳が衰えれば、天命もあらたまり、有徳者が新たに王朝を創始するとするもの。(コトバンク〔デジタル大辞泉〕)

天皇の統治権は神武天皇から受け継いだものとされ、日本は万世一系の天皇を中心とした神の国であるという言説が国民の政治思想、歴史意識、教育などに大きな影響を与えた。

皇位継承など、皇室に関する規定は総て憲法本体から切り離し、皇室典範に記載された。皇位継承で問題になったのは、女性及び庶子による継承だった。女性の皇位継承は賛否両論あったが、女帝の配偶者が政治に干渉する危険があることを理由に拒絶された。

庶子(正妻以外が産んだ子)については、明治天皇の皇后に子がなく、側室5人の間に15人の子がいたが、成人した男子は一人しかいなかった。直系男子にこだわるかぎり、庶子に皇位を継がせるしかなかった。なお、1735年即位の桜町天皇から大正天皇までの9代はすべて、庶子だった。

(3) 天皇大権註226-4

天皇大権については、第4条で「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規により之を行ふ」としたあと、第16条までに次のような権限が記されている。

立法権 議会の開会、解散など 行政各部の官制 文武官の俸給,任免 陸海軍の統帥 陸海軍の編制 宣戦、講和、条約締結 戒厳宣告、叙勲、特赦

これらの権限を行使するにあたっては、立憲制の基本的な要件である君主の権限の制限及び君主無答責つまり責任を問われない、という条件を満足する必要があった。それは、立法権については、議会の協賛(承認)が必要であること、その他の行政権については内閣の関係大臣の補佐=輔弼(ほひつ)を受けることによって実現された。ただし、統帥権は陸軍参謀本部と海軍軍令部がその任を受けることになるので、内閣は一切関与することができなかった。これが昭和に入って軍部の発言権が強くなる原因のひとつになった。

一方で、明治憲法では議会の介入範囲を予算と一般法律に限定したため、行政の官制や条約締結などの外交、軍事などに議会が関与することはできず、内閣が議会の意向を気にせずに行える国政の範囲は極めて広かった。つまり、天皇大権は議会の関与を制限するためでもあった。

(4) 立法権註226-5

明治憲法第5条は「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行ふ」と、法律の制定には議会の協賛(承認)が必要としている。新たな法の発議や既存の法を改正する発議は内閣も議会も行うことができた。

但し、緊急時の勅令については議会での事後承認を求めつつも、議会での事前審議を経ずに発令することができた。また、法律の委任を必要としない「警察命令」と呼ばれた独立命令のような例外的な制度もあった※4。さらに、1938(昭和13)年に発令された国家総動員法では、臣民の徴用、物資の生産、配給や報道統制なども議会を経ずに政府に委任される運用も行われた。なお、軍人勅諭や教育勅語のように勅令ではないが、一定の強制力を持つようなものもあった。

※4 明治憲法 第8条 天皇は公共の安全を保持し又は其の災厄を避くる為 緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於て 法律に代るへき勅令を発す この勅令は次の会期に於て帝国議会に提出すへし 若議会に於て承諾せさるときは政府は将来に向て其の効力を失ふことを公布すへし
 同 第9条 天皇は法律を執行する為に又は公共の安寧秩序を保持し及臣民の幸福を増進する為に必要なる命令を発し又は発せしむ 但し命令を以て法律を変更することを得す (出典:Wikisource「大日本帝国憲法」)

(5) 予算審議権註226-6

予算の決定には議会の協賛(承認)が必要だった。ただし、天皇大権(行政、軍の編制、外交)に関する既定の歳出の削減には政府の同意が必要だった。議会の承認が得られなければ、前年度の予算が施行された。しかし、天皇大権費目で政府の同意が必要だったのは歳出の削減であって、増額について議会は拒否することができた。たとえば、日清戦争に備えて海軍の軍備を強化しようとしていた政府に対し、議会は軍事費の増額をせずにその分を地租軽減にまわすよう要求した。この問題は天皇の裁可を仰ぐことになり、天皇は海軍の軍拡費は減額せずに、かわりに官僚の俸給を減額して地租軽減の費用を捻出する案を提示、政府・議会双方がこれに同意して決着がついた、という事例もあった。

(6) 責任政治註226-7

立憲主義の政治体制であれば、国民を代表する議会は、立法権だけでなく、政府を統制する権限も持つ機関でなくてはならない。政府を統制する手段としては、①政府に説明や見解を求める、②政府責任者の責任を問う(弾劾)、③首相他諸大臣を議会の信任の下に置き、国民の審判を請う(議院内閣制)、などの方法がある。
明治憲法では②と③は存在せず、①に必要な国政調査権は制約されていた。ただし、建議権や上奏権はあったので、政府の責任追及が全くできなかったわけではなかったが、限定的であった。

(7) 司法の独立註226-8

憲法57条は、「司法権は天皇の名に於て法律に依り裁判所之を行ふ」とするが、これは伝統的な君主制国家の一般的な慣行にならったもので、立法、行政とは独立していた。ここでいう司法とは、民事・刑事事件を裁判するもので、大審院(現在の最高裁判所)を頂点とする控訴院(同左高等裁判所)、地方裁判所、区裁判所(同左簡易裁判所)などを指す。明治立憲制においては、裁判所において適用すべき法が憲法に違反していないかどうかを審査する権限(合憲性審査権)は認められなかった。

大津事件

司法の独立を示す事例として取り上げられるのが、1891(明治24)年5月11日に起きた大津事件である。この事件は、現職の警察官が来日中のロシア皇太子(のちのニコライ世)にサーベルで斬りつけ、皇太子が負傷したというもので、松方正義内閣はことの重大さから大逆罪を適用して犯人を死刑にするよう裁判所に働きかけたが、大審院院長の児島惟謙(こじまこれかた)は、「刑法に外国の皇族に関する規定はなく、相手が死亡していなければ最高刑は無期懲役である」と、法治国家としての規範を貫いた。


コラム 教育勅語

明治憲法が発布された1年後、1890(明治23)年2月に開催された地方官会議で、道府県知事から「欧米に心酔して日本を卑下するような空気が広がりつつあるので、教育の道徳的方針をまとめたものを作成して欲しい」との意見が出て、明治天皇も過度な西洋崇拝の風潮に批判的だったので、「教育の方針を一定にして文章化し、学生に暗唱させるように」と命じた。

その時の首相、山県有朋は1882年に軍人勅諭の起草にも取り組んでおり、大いに賛同して、文相として腹心の芳川顕正を起用、井上毅や元田永孚(ながざね)ら保守派官僚に命じて案を作らせた。7月下旬に出来上がった草案を天皇にも見せて修正を重ね、1890(明治23)10月30日、教育勅語として天皇から山県首相・芳川文相に下された。

その内容はおよそ次のようなものである。

  • ・ 皇祖皇宗が我が国を建国、徳と忠孝という儒教の徳目が教育の原点である
  • ・ 学を修め業を習い、智能を啓発して公共の利益を増進すべし
  • ・ 一旦緩急あれば義勇公に奉し、天壌無窮の皇運が発展するよう貢献するのが臣民の務め

憲法では信教や言論の自由をうたう一方でこうした道徳が押し付けられ、国民の政治思想、歴史認識、価値観などに深刻な影響を与えたのである。

(参考文献: 伊藤之雄「山県有朋」,P250-P252、牧原憲夫「民権と憲法」,P189-P190)


2.2.6項の主要参考文献

2.2.6項の註釈

註226-1 明治立憲制の推移

大石「日本憲法史」,P281-P283

註226-2 外見的立憲主義

大石「同上」,P300-P302 坂野「明治憲法史」,P46-P47 村瀬「帝国議会」、P29-P31 久保田「帝国議会」,P226 瀧井「増補 文明史のなかの明治憲法」,P298

{ 憲法の条文からうける印象以上に帝国議会が強い力を持っていたことは … 今日では常識になっている。}(村瀬「帝国議会」,P31)

{ 近年では、… 帝国議会の強さを論証する研究も増えている。}(久保田「帝国議会」,P226)

註226-3 万世一系の天皇

牧原「民権と憲法」,P180-P190

註226-4 天皇大権

坂野「同上」,P40-P47 大石「同上」,P301-P306 久保田「同上」,P184-P187

{ 明治憲法体制の特徴をひとくちでいえば、各種の天皇大権を設定することにより、内閣が議会の意向に留意せずに行える国政の範囲が極めて広かったことにあった。… 内閣の権限を天皇大権というかたちで保障し、議会の介入を予算と一般法律とに限ったところに特徴があった。}(坂野「同上」,P46-P47)

註226-5 立法権

大石「同上」,P309-P312 久保田「同上」,P184・P194 牧原「同上」,P189-P190

註226-6 予算審議権

大石「同上」,P309-P310 坂野「同上」,P50-P56 久保田「同上」,P194

註226-7 責任政治

大石「同上」,P304・P308-P310 久保田「同上」,P184-P185

{ さらに立憲的議会は、政府に対して実効的な批判・監督を行うことのできる機関でなくてはならない。… 内閣不信任決議や大臣弾劾の制度は意識的に排除されたが、建議権や上奏権などは、利用のしかたによってはかなり意味をもちうるし、議院法の定める質問制度などの有効活用も考えられる。}(大石「同上」,P309)

註226-8 司法の独立

大石「同上」,P313-P315 原田「日清・日露戦争」,P18-P19