大日本帝国憲法発布(1889年2月11日)の1年5カ月後、1890年7月1日に第1回衆議院選挙が行われ、同年11月25日第1回帝国議会が召集された。立憲政体初の議会とあって、政府側も議員側も立憲政体の定着に懐疑的だった欧米列強の目を気にして大きな混乱なく終了させたが、政府側に積もった不満は第2回議会で噴出する。
図表2.2(再掲) 立憲政体の成立
帝国議会は、上院である貴族院と下院に相当する衆議院で構成される。憲法草案作成の初期の頃、上院は1875年に設置された元老院を移行することが想定されていたが、伊藤博文はそれを嫌って新たに貴族院を設置することになった。
貴族院と衆議院は、衆議院の予算先議を除いて、同等の権限を持っていた。衆議院は政党がそれぞれの支持基盤の利益を代表するので党派的利己的行動に陥りやすいが、貴族院は国家的立場からそれを抑制し是正することが求められた。
貴族院議員は皇族や爵位を持つ者、功労者や学識者、多額納税者から選ばれ、衆議院議員は国民の選挙によって選ばれた。開設時の議員数は、貴族院が251人、衆議院は300人であった。
・立法; 新たな法及び既存の法改正の起案権は内閣と議会の両方にあり、貴族院・衆議院の両院で審議して協賛(承認)が得られたものが、天皇の裁可を経て公布される。
・予算・財政; 予算は内閣が起案し、議会の協賛(承認)により成立する。協賛が得られない場合、前年度の予算が施行される。また、議会は「憲法上の大権に基づく既定の歳出及び法律の結果により又は法律上政府の義務に属する歳出」について、予算を削減することはできなかった。
・その他の権限; 天皇への上奏、国民からの請願受理は両院に認められた。国務大臣は議会でなく、天皇に対して責任を負うので、議会は内閣不信任案の提出はできない。衆議院の解散は天皇が命ずるが、実質的には内閣の専権事項である。また、天皇の大権である統帥権や宣戦・講和・条約へ議会が関与することは認められなかった。
議会の召集は天皇が行う。毎年1回の常会のほか、緊急の必要が生じた場合の臨時会、総選挙後に召集される特別会の3種類があった。定足数は3分の1、出席議員の過半数により議決され、同数の場合は議長が決済する。
1890(明治23)年7月1日、第1回衆議院総選挙が行われた。選挙権は満25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者とされ、該当者は全人口のわずか1.1%※1で多くは地主であった。被選挙権は同様に国税15円以上を納める30歳以上の男子とされた。
※1 当時の日本の全人口は約4千万人なので、有権者は44万人ほどだったとみられる。
議員定数は300人、全国を257選挙区に分け、人口12万人を目安としてそれ以下の214選挙区は定員1名、それ以上の43選挙区は定員2名とされた。立候補制ではなく、公開された選挙人名簿から適当と思われる人を選ぶ方式で、記名投票で行われたので、誰が誰に投票したかがわかった。それでも当選を目指す人や、政治結社などは推薦候補を決めて演説会や戸別訪問、懇親会などの選挙運動を行った。
7月1日の選挙当日は大きな混乱もなく、投票率は93.9%と日本の総選挙史上、最高を記録した。党派の所属を明らかにして選挙戦を行ったわけではないので、党派別の当選者数は曖昧であるが、当時の新聞報道などから概算すると民党系の当選者が過半数を超えた。
議会開会までに貴族院議員251人が互選、勅選などにより選出された。
※2 勅選議員の選考責任者は総理大臣の山県有朋である。元老院議官が最多で27名、帝国大学総長や慶応義塾塾長などに加えて、渋沢栄一や岩崎弥之助といった実業家も勅選された。
第1回帝国議会は1890(明治23)年11月25日に召集されたが、審議開始に先立ち、次のような準備が行われた。
国会議事堂の建設については1884(明治17)年から検討されてきたが、デザインや建築場所、建築費などの課題の調整が進まないうちに第1回帝国議会の開催が迫り、内幸町に木造2階建て洋風建築の仮議事堂が作られた。しかし、この建物は第1回議会開催中の1891(明治24)年1月20日未明に火災で全焼してしまい、議会は虎ノ門の旧工部大学校などを利用した。その後、2代目の仮議事堂が作られて1891年から1925(大正14)年まで使われたが、これも火災で焼失したので、3代目仮議事堂が建設され、現在の永田町にある国会議事堂が完成する1936(昭和11)年11月まで使用することになる。
旧自由党は大同倶楽部、愛国公党、再興自由党などに分かれて選挙を戦ったが、選挙後9月15日に統合されて立憲自由党が発足した。立憲改進党は旧自由党系と合同する話もあったが、折り合わず独立を保った。この2党以外の勢力は「大成会(たいせいかい)」を結成し、政府寄りの姿勢をとった。この結果、議会開始時の各党派の議員数は次のようになった※3。弥生倶楽部は立憲自由党、議員集会所は立憲改進党の院内会派である。
弥生倶楽部; 131名 大成会: 85名 議員集会所: 43名 無所属; 41名
※3 研究者により多少の変動がある。上記は久保田哲「帝国議会」,P216による。
議院の運営や内部規律などを定めた衆議院規則・貴族院規則は、本来議院の自主的な決定に委ねるべきものであったが、時間的な制約もあって政府側であらかじめ用意された原案が開会2日目に提示され、その日のうちに可決された。それは、{ わが国における議院の運営自律権の内実のみならず、両院制というものの考え方にも大きな影を落とすことになる。}(大石眞「日本憲法史」,P276)
貴族院については召集前の10月24日に議長は伊藤博文、副議長は東久世通禧が勅任されていた。
衆議院は3名の候補者を選任し、そのなかから議長・副議長が勅選されることになっていた。召集日の11月25日に候補者の選挙が行われ、中島信行(立憲自由党)、津田真道(大成会)、松田正久(立憲自由党)の3名が選ばれた。翌26日、中島が議長、津田が副議長に勅任された。
1890(明治23)年11月29日、帝国議会の開院式が行われ、大日本帝国憲法もこの時点から施行された。首相は山県有朋で、1889(明治22)年12月に大隈重信が進めていた条約改正交渉が大隈へのテロで中止されており(2.2.2項(3))、議会での主たる論争は次年度予算になった。
立憲自由党や立憲改進党などの民党は地租軽減を求めて、歳入額の約1割の800万円以上を削減する案を政府に提示したが、蔵相の松方正義は拒否し、閣内には衆議院解散論さえ出てきた。しかし、アジア初の立憲体制が機能しなければ、条約改正にも影響することは政府も民党議員も知っていた※4。
1891(明治24)年2月20日、大成会の議員から双方の譲歩を求める提案があり、立憲自由党の一部議員が造反してこの案に賛成(いわゆる「土佐派の裏切り」)し、選出した特別委員が政府と交渉して歳出を651万円削減することで合意した。貴族院では歳出削減は承認したものの、地租改正は承認しなかったため、削った651万円はそのまま国庫に剰余となった。
※4 1876年、オスマン・トルコで立憲主義的憲法が制定されたが、十分に機能せず、翌年停止されていた。欧米の世論には、日本も同じ轍を踏むのではないかという観測がはびこっていた。(2.2.4(8)参照)
結局、第1回帝国議会は会期を9日間延長して1891(明治24)年3月8日に閉会した。予算案は可決したが、提出された法案53件のうち、成立したのはわずか6件であった。
国民は議員の紹介を通して国政に関して請願することができた。第1議会には1526件の請願があり、地租軽減や地価修正を求めるものが多かったが、採択されたものはなかった。議会を傍聴することもでき、第1議会では61日間で延べ23,415人、1日平均383人が傍聴した。
4月8日、大幅な予算削減という譲歩を強いられた山県有朋首相は辞意を表明し、後任の首相には蔵相だった松方正義が就任した。
1891(明治24)年11月26日に開会した第2回帝国議会では、政府が前年度より約650万円増額の予算案を提出したのに対して、民党は地租軽減や政費節減を訴えて両者は譲らず、12月25日に衆議院は解散された。
翌1892(明治25)年2月15日、第2回衆議院総選挙が行われたが、政府は品川弥二郎内相の下で、府県知事や官吏、警察官などを動員して大規模な選挙干渉を行い、民党候補者に圧力をかけた。例えば、高知県では平服姿の警官が有権者の戸別訪問や買収、脅迫、拘束などを行い、警官が暴漢とともに自由党壮士と乱闘する事態にまで陥った。こうした暴力により、高知県では死者10名、負傷者68名を出し、全国では死者は25人、負傷者は388人にもなった。
5月2日、第2回総選挙の結果を受けて第3議会が召集された。党派別の議員数は次の通りである。
第1回選挙と比べて、民党系は過半数を割り、政府系は横ばいだったが、どちらにも属さない"中立"が増加している。
第3議会では、松方内閣の選挙干渉が追及され、「選挙干渉に関する決議案」が衆議院・貴族院で可決され、議会終了後、松方内閣は総辞職した。
1892(明治25)年8月8日、第2次伊藤博文内閣が発足し、日清戦争(1894/7月~1895/4月)に対応していくことになる。
久保田「帝国議会」,P171-P172・P193-P194 村瀬「帝国議会」,P32-P34
{ 貴族院は山県系官僚閥の牛耳る所、などと言われたし、時機によって違いはあるにせよ、実際にそのような状況にある期間が長かった。… 貴族院は表面上はあくまで国家的見地、中立・公正無私といった建前を守らなければならなかった。… 貴族院にも衆議院と同じように会派があったが、多くの場合社交クラブ的色彩も帯びており、その縛りは強くなかった。}(村瀬「同上」,P34)
久保田「同上」,P194-P196 村瀬「同上」,P27-P33 坂野「明治憲法史」,P42
久保田「同上」,P206-P208 大石「日本憲法史」,P270 飯塚「初期議会と民党」/講座#5,P57-P61
飯塚氏は選挙運動の事例として、京都府の事例を下記のように述べている。
{ 具体的な選挙運動としては、… 候補者名を周知させるために名刺の郵送を行っている。戸別訪問、演説会の開催に加えて買収も盛んであった。一郡につき300円程度の選挙資金を使ったと見られている。}(飯塚「同上」/講座#5、P59)
久保田「同上」,P207-P208 大石「同上」,P278
村瀬「同上」,P8-P16 久保田「同上」,P173-P174・P212-P222
久保田「同上」,P204-P206・P216 中元「板垣退助」,P146-P147 大石「同上」,P270
大石「同上」,P275-P278 村瀬「同上」,P26-P27 久保田「同上」,P216
久保田「同上」,P213-P215 大石「同上」,P277
久保田「同上」,P216-P224 原田「日清・日露戦争」,P13-P15・P17 飯塚「初期議会と民党」/講座#5,P61-P63 大石「同上」,P277-P279 中元「同上」,P154-P158
飯塚「同上」/講座#5,P66-P72 中元「同上」,P163-P168 久保田「同上」,P224-P225