日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.2 立憲政体の成立 / 2.2.4 憲法の立案と発布

2.2.4 憲法の立案と発布

この項では、大日本帝国憲法(明治憲法)と関連する主要法典の立案から発布/公布※1に至る過程について述べる。

※1 発布と公布: 広辞苑によれば、発布は「(法律などを)世に広く知らせること」、公布は「成立した法律・命令・条約を発表し、国民に周知させること」とほぼ同じ意味だが、大日本帝国憲法については「発布」を用い、日本国憲法およびその他の法律では「公布」を用いるのが慣例になっている。

 図表2.2(再掲) 立憲政体の成立

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(1) 対象法典と制定プロセス註224-1

大日本帝国憲法と皇室に関する重要事項を決めた皇室典範は、ともに日本における最高位の成文法として、1889(明治22)年2月11日に制定された。この2つと同時に制定されたのが、議院法、衆議院選挙法、貴族院令、会計法の4つの基本法典である。

議院法とは議院の組織や議事手続を定めたものだが、憲法学が専門の大石眞氏によれば、そのようなことは大枠を憲法で決めておき、細部は議院側で自主的に決めるべきであり、法律で決めてしまうのは、両院制の意義を失うばかりか、行政部の干渉を招く可能性が強く、立憲諸国では一般的でない、という。にもかかわらず、法律で決めることにしたのは、政府にとって大きな脅威になる可能性のある民撰議院(衆議院)の自治的な動きをできるだけ封じ込めておく必要を感じたからである。

これらの基本法典は、草案作成→枢密院による審議→最終調整という3段階を経て成立しており、その作業の中心にいたのが、リーダーの伊藤博文と井上毅(こわし)、伊東巳代治(みよじ)、金子堅太郎の「憲法起草トリオ」である。政府外の有識者も交えて検討すべき、という意見もあったが、伊藤博文は枢密院を設置し、そこで審議することで乗り切った。

以下、憲法を中心に起草、審議、最終調整の状況を概観する。

(2) 草案作成註224-2

伊藤博文は井上毅とドイツ人のロエスレルに憲法草案のタタキ台を作成するよう命じ、この二人が作った素案をもとに、1887(明治21)年6月から8月まで井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らとともに、夏島(現在の横須賀市)にある伊藤の別荘にこもって草案の作成に取り組んだ。ここで出来上がった草案を夏島草案と呼ぶ。その後、10月に東京高輪の伊藤の私邸で同じメンバーで議論して「10月草案」を作り、さらに2月草案を経て、1988年4月に草案は完成した。

これら一連の作業で議論の中心となったのは議会の権限の範囲だった。草案では、議会は立法権の承認機関と位置づけられ、法案の提出権は内閣、議会の承認を経て、裁可及び公布は天皇が担うとされた。ただし、議会には新法の制定や既存の法律の改廃に関する建議(上奏)を行うことが認められた。内閣には、緊急時に議会の承認を得ずに勅令を出す権限も認められた。予算は議会の承認が必要とされたが、議会が可決しない場合は前年度予算を執行することになった。

統帥権や宣戦・講和・条約へ議会が関与することは認められなかったが、上奏権、請願受理権、質問権は認められた。

ロエスレルは憲法第1条の「日本帝国は万世1系の天皇之を統治す」という条文に対して次のようにコメントしている。{ …こうした唯だ漠然たる文字を憲法の首条に置くことは得策でなく、むしろ「開闢以来一系」と改めたほうが歴史的事実をふまえた妥当な表現となるのではないか。}(大石眞「日本憲法史」,P178)

(3) 枢密院の設置註224-3

1887年頃には、法令の制定や改正を審議する場として元老院※2があり、憲法の審議についても元老院で行うべし、という意見は元老院内外にあった。元老院で憲法案が否決されれば大きな混乱を招くことは必至であり、それを避けるため伊藤博文は、元老院内部に多数派工作を行い、元老院内にあった憲法審議推進の意見書を取り下げさせた。その上で、天皇が定める欽定憲法であることを理由に、天皇直属の最高諮問機関として枢密院を設置し、そこで憲法の審議を行うことを決めたのである。

枢密院は天皇の政治的行為のための諮問機関として、憲法や重要な法律・勅令、外国との条約、その他国政に関する重要事項について「会議を開き意見を上奏し、勅裁を請う」場であり、これによって天皇の意思形成は宮中の奥から外に出され、その政治活動が制度化されることになった。

1888(明治21)年5月8日、枢密院は発足した。枢密院の初代議長には、内閣総理大臣から横滑りした伊藤博文がつき、新たな総理大臣となった黒田清隆はじめ、山県有朋、大隈重信、西郷従道、山田顕義、松方正義、大山巌、森有礼、榎本武揚の各大臣9名が枢密院会議のメンバーとなり、枢密顧問官として、三条実美や5人の親王、川村純義、福岡孝弟、佐々木高行、寺島宗則、副島種臣など21名が選出され、議長もあわせて31名により、まずは皇室典範の審議に臨むことになった。

※2 元老院については、2.1.1項(4)を参照。元老院は1890年に廃止され、貴族院が設置された。

(4) 枢密院による審議註224-4

枢密院は5月25日から6月15日まで皇室典範の審議を行った後、6月18日から7月13日まで憲法の審議を行った。主な論争は次の通りである。

・「天皇は帝国議会の承認を経て立法権を施行す」の"承認"は、下から上に対して認可を求める意味であり、天皇が議会より下に見えてしまう、との指摘があり、"協賛"に変更された。

・第2章「臣民権利義務」に対して、森有礼は「臣民は天皇に対して分限※3を有するが権利はない、憲法には分際※3のみを書けばよい」と主張したのに対し、伊藤博文は「憲法を創設する精神は、君権を制限し、臣民の権利を保護するにあり…」と猛反対した。森有礼の真意は「人民の権利は天然に所持するもの、つまり自明のことなのであえて憲法で記載する必要はなく法律で記述すればよい」とのことだったようだが、彼の前後の発言からは矛盾しており、結局これは原案通りとなった。

※3 分限と分際はほぼ同じ意味で、「身のほど、その者に応じた程度、限界、財力」といった意味。(広辞苑)

・議会に上奏権を与えることは大臣弾劾権を与えることではないか、と捉える枢密顧問官が少なくなかった。これに対して、伊藤は議会に大臣弾劾の権限はない、と言明した。

憲法の審議後、9月から議院法の審議に入り、続いて会計法、衆議院選挙法、貴族院組織令の審議が12月まで行われた。

(5) 最終審議註224-5

枢密院において憲法とその関連法の審議が進むにつれて、法典相互間の整合性などの問題が浮かび上がってきたため、起草グループは全般的な見直しをせまられた。憲法本体で重要なのは、議院には上奏権はあるが、法案提出権はない、としていたものを、上奏権はなし、法案提出権はあり、に変更したことである。ただし、最終審議で上奏権もあり、となる。

草案作成時には議会の権限を押さえようとし、枢密院審議でその方向の意見もあったが、最終的には議会はそれなりに強い力を持つようになっていた。その理由について、村瀬信一氏は次のように述べている。

{ 藩閥政府の大目標は不平等条約など…を一掃し、欧米と比肩し得るだけの近代化を実現することであり、そのためには欧米並みに整備された制度的枠組みによる立憲政治の、円滑にして安定的な運営が必要不可欠と考えられた。だからこそ、憲法の条文で藩閥勢力の優位を揺るがさない程度に議会の権限を強く認めたし、その運用も慎重かつ抑制的にならざるを得なかった。}(村瀬信一「帝国議会」,P30)

こうした修正を行った上で、1889(明治22)年1月16日から2月5日まで最終審議が行われ、2月5日午後に行われた枢密院本会議で憲法並びに関連法典が確定した。

(6) 憲法発布註224-6

1889(明治22)年2月11日、神武天皇の即位日=建国記念日にあわせて憲法は発布された。この日午前、皇居賢所で皇室典範と憲法典の制定が天皇によって天照大神や先祖に「奉告」された後、正殿において憲法発布式典が挙行された。憲法と同時に、議院法、衆議院議員選挙法、会計法、貴族院令が公布されている。発布式に向かおうとした文部大臣の森有礼が国粋主義者に刺され、翌日死亡するという事件が起きるなど、いくつかのトラブルがあったが、午後からは天皇による観兵式、夕刻からは大晩餐会が開かれ、外国人を含めた多数の参列者が憲法の発布を祝った。

同じ日、大赦令が出され、保安条例・集会条例など治安立法に対する違反を問われていたすべての人々計458名が赦免され、旧自由党系の活動家たちが大量に出獄した。

国民は、憲法が発布されるというニュースを聞いたときは無関心だったが、政府が祝賀モードを醸成するなかで、お祝いムードは高まっていったようだ。しかし、ドイツ人ラートゲンは「あらゆる喧噪やけたたましい歓楽にもかかわらず、すべては作為的で、心底から共感している者など誰もいません」と醒めた見方をしている。

(7) 超然主義演説註224-7

内閣総理大臣黒田清隆は、憲法発布の翌日2月12日に鹿鳴館で地方長官たちを集めて、「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道」を歩むことを訓示した。これは一般に超然主義と評されるが、黒田は政党の存在自体を否定したわけではない。黒田内閣には立憲改進党の大隈重信を外相として、自由党系で大同団結運動の指導者だった後藤象二郎を逓信大臣として入閣させている。

2月15日、伊藤博文は府県会議長に向けて演説し、即座に政党内閣を成立させることは党利党略に走る怖れがあり危険である、と述べつつ、政党や国民の政治レベルが熟せば、政党内閣の成立も可能であろう、と言う。実際、伊藤はこれから10年後、立憲政友会を率いて内閣を組織することになる。

2月21日には大隈重信も府県会議長に対して、政党内閣が将来実現するだろうと予言している。

(8) 憲法義解と欧米へのお披露目

憲法義解註224-8

憲法には解釈の幅がある。起草者たちがどのような意図で起草し、どのような解釈を認めるのかを解説したのが「憲法義解」と呼ばれる文書であり、井上毅ら憲法起草者などが作成し、皇室典範の同様のものと合わせて伊藤博文の名で1889年6月に刊行された。

欧米へのお披露目註224-9

1889(明治22)年7月、憲法起草トリオの一人である金子堅太郎は、翌年の議会開設を前に欧米の議会について調査することを目的に欧米歴訪の旅に出発した。この旅には、憲法本体ならびに「憲法義解」の英訳を携えて、各国の政治家や学者から憲法への評価を聞く、という目的もあった。

金子から憲法を提示された人のほとんどは、そこにドイツ憲法の強い影響を認めたが、イギリス流を採用しなかったことを評価する意見がある一方、立憲君主制はいずれ議会政治に移行するだろうと予測する人もいた。

1876年12月、ヨ―ロッパ圏外では初めての憲法がトルコで制定されたが、露土戦争や皇帝の専制などにより、翌年停止されており、日本も同じ轍を踏むのではないか、という観測がはびこっていた。シュタインはこのような西洋の眼差しを撤回させるために憲法制定の歴史を編纂することの必要性を説いている。

このようにさまざな評価はあったが、概ね好意的な評価を得ることができた。


2.2.4項の主要参考文献

2.2.4項の註釈

註224-1 対象法典と制定プロセス

大石「日本憲法史」,P155-P165・P186-P187 久保田「帝国議会」,P166

{ 議院法を採用している例として、南ドイツのバイエルンやオーストリアがあり、ロエスラーも議院手続準則を法律で定めることが緊要であると、説いていた。 … 議院法でとりあげる事項が多ければ多いほど、それだけ議院の自治権の範囲は狭まって行くという関係がみられる。この点、全12章57か条からなる議院法第2次案は、すでにオーストリア議会法の3倍ものボリュームを持っていた。}(大石「同上」,P188-P189<要約>)

註224-2 起草

久保田「同上」,P155-P162 大石「同上」,P170-P191

註224-3 枢密院の設置

大石「同上」,P193-P197 久保田「同上」,P167-P168 瀧井「増補 文明史のなかの明治憲法」,P181

{ 金子堅太郎は憲法の制定方法について次のように回想している。「当時は之を元老院の会議に掛けて意見を問えという論」や「各府県から一人の憲法制定委員を東京に招集して国民的に憲法を議さなければなら」ないという論が出た(金子堅太郎著作集Ⅲ)。ところが伊藤は、この憲法は天皇の定める欽定憲法であるため、天皇の諮問機関として枢密院を設置し、そこで憲法草案を審議したのである。}(久保田「同上」,P167)

註224-4 枢密院による審議

大石「同上」,P202-P230 久保田「同上」,P182-P188

註224-5 最終審議

大石「同上」,P231-P244 久保田「同上」,P188-P191 瀧井「同上」,P186-P198

註224-6 憲法発布

久保田「同上」,P197-P200 大石「同上」,P246-P248

大赦令対象者数は、久保田「帝国議会」,P198は458名としているが、大石「日本憲法史」,P247では540名となっている。

註224-7 超然主義演説

久保田「同上」,P202-P203 瀧井「同上」,P197-P198 大石「同上」,P247-P248

註224-8 憲法義解

久保田「同上」,P200-P201 大石「同上」,P249-P251

註224-9 欧米へのお披露目

瀧井「同上」,P245-P254 大石「同上」,P271-P272 久保田「同上」,P230

{ 1890年6月6日に帰国した金子は、… 19日に明治天皇への復命に向かった。… アジアの君主国トルコ帝国は、日本より14年も前、1876年12月に帝国憲法公布、翌年3月第1回議会召集と進んでいたが、露土戦争の勃発と皇帝アブデュル・ハミト2世の専制化により立憲制は有名無実となった。… あるヨーロッパ人がその事実を挙げて「一体アジア人種がヨーロッパ流の憲法を実施するも到底好結果を得たる例なし」「これを危ん」でいる、と告げたので、金子は…衝撃を受け「この実施の如何は日本国の恥辱と名誉との岐れ目の境界なり」と強調した。… 金子の悲壮な決意は、19日の復命の際にも示され、天皇と山県首相にも共有されただろう。}(原田敬一「日清・日露戦争」,P2-P3)