日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.2 立憲政体の成立 / 2.2.3 自由民権運動の終焉

2.2.3 自由民権運動の終焉

国会開設という大きな目標を達成した自由民権運動は、説得力のある新たな目標設定ができないまま、過激化と分裂の道をたどった。後藤象二郎や星亨は党派の枠を越え「小異を捨てて大同につく」ことを呼びかけ、折から紛糾していた条約改正交渉の問題などを取り上げて運動の再活性化を図ろうとしたが、政府は「保安条例」を制定して弾圧した。そうこうしているうちに第1回帝国議会が開催され、運動家たちは政党を設立して活動の場を議会に移していく。

 図表2.2(再掲) 立憲政体の成立

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(1) 大阪事件註223-1

大阪事件(1885年11月)とは、旧自由党急進派が朝鮮の親日開化派と連携して、日清間の軍事的緊張を作りだし、それを機に日本国内で革命を起こそうとして失敗、大阪で逮捕された事件である。

1884年9月、板垣退助と後藤象二郎は当時、ベトナムをめぐって清国と戦争をしていたフランスの駐日公使館を訪れ、朝鮮の親日開化派である金玉均(きんぎょくきん)らを支援して朝鮮から清国の影響を排除する計画を語り、それに必要な資金の供与を依頼したが、フランスは回答を避けた。金玉均らは1884年12月にクーデタ(甲申(こうしん)政変)を起こすが、失敗した。

大井憲太郎ら旧自由党急進派は、日本に亡命した金玉均らを支援して朝鮮に乗り込み、再びクーデタを起こして日清間の緊張を創り出し、その機に乗じて日本国内各地の民権家が蜂起して日本政府打倒の革命を起こす、という計画をたてたが露見し、1885年11月、大井ら首脳部が大阪で捕縛されて計画は失敗に終わった。逮捕者は最終的に139名にのぼった。大井らは朝鮮の改革運動を真剣に支援しようとしたのではなく、朝鮮を弱小国とみなして利用しようとしたのだった。

(2) 大同団結運動註223-2

“大同団結”の呼びかけ

1886(明治19)年10月24日、旧自由党系・改進党系の有志が浅草で大懇親会を開いた。発起人の代表格で旧自由党の幹部だった星亨は、「議会開設が4年後に迫った今、小異を捨てて大同を旨とすべきである」と演説し、民権派の再結集を呼びかけた。

続いて翌1887年5月15日、大阪の中の島で板垣退助も迎え入れて同様の大懇親会が開かれたが、1890年の議会開設に向けて具体的に何をするかは議論できなかった。それをすれば対立が表面化する恐れがあったからである。

三大事件建白運動

大同団結運動の目標が設定できないところにもたらされたのが、政府の条約改正交渉頓挫のニュースだった。1887年7月、政府が関係国と続けてきた条約改正交渉会議が政府内外の反対の声に押されて無期延期となり、井上馨外相は9月に辞任に追い込まれた。

条約改正問題に加えて、地租軽減と言論の自由化に関する建白書が各地から出され、大同団結運動は三大事件(条約改正、地租軽減、言論の自由化)の建白運動として進められることになった。長野県埴科(はにしな)郡ほか3郡264名の建白書は、列強と対等に交渉できないのは政府の秘密主義、専制主義のために官民が一致協力できないからで、「民衆の公望に従い政治を更革するのが急務」と主張した。また、愛媛県温泉郡184名の建白書は、欧米諸国が愛するのは「立憲国」「合議政権」だから、今の政府の組織を一変してはじめて対等に交渉できる、と力説した。

さらに1887年10月に出版された「西哲(せいてつ)夢物語」と題する秘密出版物には、お雇いドイツ人のロエスレルが作成した憲法草案などが掲載されており、民権派が憲法起草作業中の伊藤博文らをゆさぶるために出版したものと考えられている※1。翌1882年2月、秘密出版を首謀したとして星亨らが検挙され、軽禁固刑を受けている。

11月15日に開かれた全国有志大懇親会には全国から300名以上が集まり、12月2日には後藤象二郎が伊藤内閣を弾劾する上奏書を提出するなど、三大事件建白運動は盛りあがった。

※1 「西哲夢物語」の出所;{ 1887年8月6日、伊東巳代治と金子堅太郎が宿泊していた割烹料亭に泥棒が侵入した。金子の回想によると、盗まれたのは伊東のカバンで、なかにはロエスレルの作成した日本帝国憲法案が入っていた。泥棒はカバンから100円を盗み、憲法案の入ったカバンは近所の畑に捨てたという。金子の回想の真偽はわからない。… 円滑に憲法を制定しようと考えた伊藤らが、意図的にロエスレルの憲法案を自由民権派に漏洩し、彼らを処罰したとする説もある。}(久保田哲「帝国議会」,P179-P180)

保安条例

こうした民権運動に対して、伊藤博文は、外交を人民の公議に付すことは立憲王国に於て断じて取らざるところなり、と強硬姿勢を崩さず、1887年12月25日、保安条例を出した。保安条例は、秘密結社・秘密集会・秘密出版の禁止などを定めたもので、内乱の陰謀・教唆・治安妨害の恐れのある者を皇居又は行在所※2から3里以上離れたところに最長3年間、追放できると定めた。

三大事件建白運動の主導者の多くが追放対象とされ、合計451名が東京から退去を命ぜられて、三大事件建白運動は壊滅的な打撃を受けた。こうした強硬手段をとることについては、政府内部の井上毅※3や鳥尾小弥太などからも批判の声があがっていた。

※2 行在所(あんざいしょ): 天皇行幸の際の仮のすまい。(広辞苑)

※3 { 井上毅は、すでに10月、「政府の人民に対せる威信は殆ど地に墜ちたり」と診断し、「空言徒法」を戒める意見書を伊藤に提出していた … 井上によれば、「保安条例の発行は一時の安寧を保持するの効力」あるとしても、「枯葉を振うが如き」手段にのみ頼ることは、「八方多数の政敵を激成し政府をして孤立単独の位地に入らしめ…不幸に落ちしむる」結果になる。… 「太平の粧飾観美に属する」政費など【筆者註.鹿鳴館舞踊会などを指しているとみられる】はすべて「減省廃除」すべきである。こうして井上は … 政府宮中の反省を促している。}(大石眞「日本憲法史」,P55-P56)

(3) 民権運動から議会政治へ註223-3

1888(明治21)年2月1日、立憲改進党の元総理大隈重信が伊藤内閣に外相として入閣し、翌1889年3月22日には後藤象二郎が伊藤内閣の後継である黒田清隆内閣に逓信相として入閣したことによって、大同団結運動は分裂・衰退する。

1890年7月1日に実施された第1回衆議院議員選挙に自由党系は、大同倶楽部、愛国公党、再興自由党、九州同志会などに分裂した状態で臨んだが、同年11月25日の第1回帝国議会開会までに立憲自由党として統合され、衆議院の定員300名に対して130名※4の議員を擁する最大党派となった。分裂しなかった立憲改進党は議会開催時41人※4で、自由民権運動を担った2つの党で定員の過半数を超える171名を占めた。民権運動家たちは、衆議院議員として議会を主たる活動の場としていくのである。

※4 議会開催時点の各党所属議員数は、大石眞「日本憲法史」,P270による。


コラム 足尾鉱毒事件

休業状態だった足尾銅山の鉱業権を手に入れた古河市兵衛は、大鉱脈を探りあてるとともに、1888年、世界的な銅需要の増大を背景にイギリス系のジャーディン・マセソン商会と輸出契約を結び大増産をはじめた。鉱山には、選別機械や新型溶鉱炉、排水ポンプ、電動巻き上げ機、坑口と製錬所を結ぶ電気鉄道、坑内外を結ぶ電話網など、当時の最先端技術を導入する一方、労働条件は劣悪で労働者は使い捨てだった。

渡良瀬川では魚が減少し、1890年の大洪水で野積みされた鉱滓からヒ素やカドミウムなどが大量に流れ込んで田畑の作物が枯死した。損害賠償や操業停止を求める運動が始まり、議会で鉱毒事件の政治責任を追及した田中正造が、やがて「近代日本」とトータルに対峙する稀有な思想=運動者になっていくことはよく知られている。

足尾銅山は1973年に閉山、製錬所は1989年まで操業を続けた。足尾の鉱毒問題は日本初の公害問題であり、21世紀の現代でも失われた森林を再生するための活動が続いている。

(参考文献: 牧原憲夫「民権と憲法」,P80-P81、栃木県「資料:足尾銅山を知ろう」)


2.2.3項の主要参考文献

2.2.3項の註釈

註223-1 大阪事件

松沢「自由民権運動」,P206-P208 牧原「民権と憲法」,P124-P126 中元「板垣退助」,P123-P124

{ 【日本国内で革命を起こすという】一見無謀なこの計画は、神奈川・茨城・富山等の活動家60名以上が起訴されるほど多くの民権家を結集したもので、それなりの論理をもっていた。…
外患(対外的危機)が起きると社会に活動力が生じ人民に「真性の愛国心」が生まれる。いったん愛国心がおこれば車夫馬丁までも国家のために、一身を投げ出すようになる、と大井らは大阪事件裁判で述べている…
大阪事件は「連帯を名目とした侵略」のさきがけだった。… 大井らを批判するのはたやすいが、その批判は連帯と侵略をめぐる難問となって現在の私たちに送り返されてくるのである。}(牧原「同上」,P124-P126)

註223-2 大同団結運動

久保田「帝国議会」,P174-P182 牧原「同上」,P167-P170 中元「同上」,P135-P137 大石「日本憲法史」、P52-P55

註223-3 民権運動から議会政治へ

大石「同上」、P269-P270 中元「同上」,P138-P146 久保田「同上」,P204-P205