日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.2 立憲政体の成立 / 2.2.2 条約改正交渉

2.2.2 条約改正交渉

幕末に欧米列強と締結したいわゆる「不平等条約」の改正は、明治政府の外交の最大の目標であり、新政府発足間もない1871-73年の岩倉使節団によるアメリカとの交渉から始まった。領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復という目標を達成するためには、国内の法や体制の整備が欠かせなかっただけでなく、強硬論を唱える国内世論の克服も必要であった。結局、領事裁判権の撤廃に成功するのは日清戦争が始まった1894(明治27)年、関税自主権の回復は1911(明治44)年までかかることになる。

 図表2.2(再掲) 立憲政体の成立

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(1) 交渉開始註222-1

岩倉使節団のアメリカでの交渉は、日本側の経験不足や他の国からの干渉もあって失敗した。
本格的な交渉が始まるのは、寺島宗則外務卿期(1873-79年)である。このときは大隈重信大蔵卿の意向もあり、西南戦争で窮迫していた財政窮乏を救うために関税関連が焦点になった。1878(明治11)年に関税自主権などを認めた日米協定が結ばれたが、同様の合意が他国とも成立することが条件になっており、イギリスが反対したため、実施には至らなかった。

(2) 井上馨外務卿の交渉註222-2

寺島のあと、1879(明治12)年9月に外務卿に就任した井上馨(かおる)は、関税自主権の回復(=税権の回復)だけでなく、領事裁判権の撤廃(=法権の回復)も目標とする方針を掲げた。そして不平等条約の改正には、「文明国」として認められることも必要だと考え、鹿鳴館を建設(1883年開館)するとともに、園遊会や舞踊会の開催、皇后の洋装など、様々な欧化政策(鹿鳴館外交)にも注力した。

条約改正予備会議

1880(明治13)年7月、条約改正交渉の基礎となる草案をまとめて各国に提示したが、領事裁判権の撤廃は関連する国内法(刑法、民法等)が整備された後、ということになっていた。

1882年1月から7月まで、15か国が参加する条約改正予備会議が東京で行なわれた。4月5日、この会議の席上、井上馨は将来的に領事裁判権の全面回復と引き換えに内地を全面開放※1する意思があることを宣明した。この宣明を各国は高く評価し、関税率の引き上げに合意したが、内地全面開放に至るプロセスの細目については、政府内外から様々な問題を指摘され、合意には至っていない。

※1 各国と締結した修好通商条約では、外国人が行動できる範囲は開港地の特定の場所だけで、例えば、生糸の産地まで行って、生産者と直接商売の交渉をする、といったことはできなかった。

条約改正会議

予備会議終了後、日本政府※2は各国委員と本国との協議状況を見つつ、条約改正の基礎となる覚書を作成し、1884年8月に各国公使に提示した。その内容を簡単に言えば、関税引き上げと限定的な法権回復(日本の行政規則や警察規則などの遵守と軽微な犯罪の裁判権など)と引き換えに、限定的な内地解放を行う、その後、全面的な内地解放が行われれば、法権も税権も回復される、というものである。

この覚書をベースに改正条約案が作成され、1886年5月に東京で条約改正会議が開催された。会議が始まると、複雑すぎて管理できないのではないか、内地解放の実現時期が大きな不確定要因になる、などといった反対意見が続出し、結局、日英独は協議の上、「裁判管轄条約案」を作成し、これをもとに議論を進めた結果、1887年4月、次のような内容で合意に至った。

※2 1885(明治18)年12月に内閣制度が発足し、伊藤博文首相のもと井上馨外相となっている。

条約改正の挫折

上記の改正内容については日本国内から強い反対意見が沸き起こった※3

先頭を切ったのは、お雇いフランス人のボアソナードである。彼は次の2点を指摘した。

合意した条約案と上記ボアソナードの指摘は世上に流れ、自由民権運動家のみならず、政府内からも多数の反対意見が寄せられた。憲法草案を作成していた井上毅(こわし)は、「単に法律の問題に止まらず、主権独立の問題である」と伊藤博文首相に意見書を送っている。

このような状況の下、井上馨外相は1887(明治20)年7月29日の条約改正会議において、会議の無期延期を通知せざるを得なくなり、9月には外務大臣も辞職した。

こうして、井上馨の条約改正も挫折してしまったが、ここで得られた成果が7年後1894年7月の領事裁判権回復につながっていくのである。

※3 1886年10月には、ノルマントン号事件(本ページ下部のコラム参照)が起きて、外国人への反発が強くなっていた。

(3) 大隈重信外相の交渉註222-3

井上馨外相の辞任後も、在野における政府追及は過激さを増したため、1887年12月、政府は「保安条例」を公布して、集会・結社・出版を規制するとともに、治安を妨害する怖れがある、として主な活動家を東京から追放した※4

※4 保安条例についての詳細は2.2.3項(2)を参照。

伊藤博文首相が兼務していた外相は、1888(明治21)年2月、立憲改進党の党首だった大隈重信が後を継いだ。激しくなっていた自由民権運動の一方の領袖である大隈を入閣させることによって民権運動を分断させようとする意図もあった。同年4月、伊藤博文は新設の枢密院議長に転出し、首相は黒田清隆に代わり、翌1889(明治22)年2月11日には大日本帝国憲法が発布される。

大隈の条約見直し

大隈は1887年に各国と合意した条約案をベースに、外国人法律家の任用は大審院に限定、法典について編纂はするが、通知はしない、という方針で交渉に臨んだ。また、交渉は関係国による会議ではなく国別の交渉に切り替え、交渉が成立しない場合、条約は破棄するという威嚇も織り交ぜた。1889年に入ってアメリカ、ドイツ、ロシアとは調印に成功したが、イギリスとの交渉は進まなかった。

大隈はイギリス世論に訴えるため、改正案の内容をロンドン・タイムズに掲載した(1889/4/19)が、この記事が日本国内の新聞に転載される(1889/5/31)と、立憲改進党以外の民権派や国家主義者(右翼)は政府攻撃を強めた。井上馨時代に問題になった外国人の裁判官採用と法典の通知に対して理屈の上では対処したものの、「国家の独立保持」というナショナリズムにもとづく反対論を押さえることはできず、やがて閣僚の多くも条約改正中止論に傾いていった。

再度の挫折

1889(明治22)年の秋になっても反対の空気が収束しない中で、伊藤博文は枢密院議長を辞任(10月11日)、10月18日には大隈重信が右翼の活動家に爆弾を投げつけられて重傷を負ったため、黒田内閣は10月25日に総辞職し、後を継いだ三条実美の暫定内閣は1889年12月24日、交渉を再び中止することを各国に通知した。

なお、陸奥宗光駐米公使は1888年11月、メキシコとの間で対等の条約を締結することに成功している。

(4) 条約改正達成註222-4

領事裁判権の撤廃のためには、憲法などの基本法典の他、刑法・民法・商法などの法典を整備していくことが必要だった。憲法については1889(明治22)年2月に公布、刑法(旧・刑法)は1882(明治15)年に施行されていたが、民法・商法は1890年4月に公布されたものの、帝大教授で法学者の穂積八束(やつか)の「民法出て、忠孝忘ふ」という論説に代表される法典論争のためにその施行が延期されていた。

一方、条約改正交渉はそれ以降も継続して進められ、第2次伊藤博文内閣(1892/8月~1896/9月)の陸奥宗光外相は1894年7月、イギリスとの間で、領事裁判権の廃止を盛り込んだ新しい「通商航海条約」が締結された。衆議院では相変わらず条約反対論が優勢だったが、1894年8月に日清戦争が始まる状況の中で反対論は弱まっていった。

イギリスに続いて、1897年までにアメリカ・イタリア・ロシア・ドイツ・フランスなどと同様の条約を締結した。これらの条約が発効するのは、民法と商法が施行された後、1899年7月のことであった。
これをさらに改正して、関税自主権まで獲得し不平等条約を完全に解消するのは、次の条約更改のタイミングである1911年であった。


コラム ノルマントン号事件

1886(明治19)年10月24日、横浜から日本人乗客25名と雑貨を載せて神戸に向かったイギリスの貨物船ノルマントン号は、防風雨のため、紀伊半島沖で難破、座礁沈没した。その際、イギリス人船長とイギリス人およびドイツ人乗組員26名は全員救命ボートで脱出して救助されたが、日本人乗客は全員が船中に取り残され、溺死した。事故後、神戸駐在イギリス領事によって海難審判が行われ、「日本人にボートに乗り移るよう勧めたが言葉が通じず、やむなく日本人を残してボートに乗った」という趣旨の船長の陳述を認め、船長以下全員を無罪とした。

この判決に日本人は激昂し、無名の作家によるノルマントン号沈没の歌が作られ、全国に広まった。…
国民の怒りはこうした状況を招いた政府に向けられた。井上馨外相も、国民世論に応えざるを得ず、兵庫県知事に命じて船長の神戸出船を押さえ、兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴させた。12月8日、横浜領事裁判所判事は、船長ジョン・W・ドレークに有罪判決を下し、禁錮3カ月の刑に処したが、死者への賠償金は支払われなかった。

この頃、政府は各国と条約更改の交渉を行っており、翌1887年4月に合意するが、その後、激化した民権運動家たちの反対運動にはこの事件も追い風の一つになった。

(参考文献: 北岡伸一「明治維新の意味」,P257-P258)


2.2.2項の主要参考文献

2.2.2項の註釈

註222-1 交渉開始

大石「日本憲法史」,P36-P37 佐々木「近代日本外交史」,P20-P21 五百旗頭「条約改正外交」/日本外交#1,P22-P25

アメリカがいち早く日本の関税自主権を認めた背景には次のような理由があった。

{ アメリカの日本や清朝に対する政策には、ヨーロッパ諸国よりも宥和的な態度を示すことで、自らの道義的な優越をアピールする傾向があった。また、その対日貿易は日本への輸出よりも、日本からの輸入(茶・生糸)に利益を見出していた。そのため、日本が輸出関税を廃止し、日本産品を購入しやすくするならば、輸入関税の制定権を認めるかのような姿勢を示した。}(五百旗頭薫「条約改正外交」/日本の外交 第1巻,P24)

註222-2 井上馨外務卿の交渉

大石「同上」,P37-P53 五百旗頭「同上」/日本外交#1,P25-P32 佐々木「同上」,P22-P25 久保田「帝国議会」,P175-P176

註222-3 大隈重信外相の交渉

大石「同上」,P54-P57・P257-P262 五百旗頭「同上」/日本外交#1,P33-P34 佐々木「同上」,P24-P26 牧原「民権と憲法」,P169-P170

註222-4 条約改正達成

大石「同上」,P54-P57・P257-P262 五百旗頭「同上」/日本外交#1,P33-P37 牧原「同上」,P169-P170