ドイツに憲法調査に出かけた伊藤博文が帰国すると、立憲政体樹立に向けた本格的な活動がはじまる。伊藤はまず、太政官制から内閣制への移行などを行った後、憲法本体と皇室典範など関連する基本的な法令の草案を作成し、それを新設の枢密院で審議した上で、1889年2月に大日本帝国憲法を公布、翌年第1回帝国議会(衆議院)が開催された。
立憲制を確立するには、宮中(皇室)と府中(政府)を制度的に分離し、皇室財政を議会から独立させるとともに天皇及びその側近による政治への関与を実質的に認めないようにする必要があった。伊藤博文は「欽定憲法」の調査・立案を公式な目的とした制度取調局を宮中に設置して、自身がその長官となりかつ宮内卿も兼ねて宮中・府中の分離など制度改革の主導権を握り、それらを断行していった。註221-1
図表2.2 立憲政体の成立
制度調査局は、1884(明治17)年3月17日、憲法の調査・立案を行う機関として太政官の中ではなく、宮中に設けられた。憲法が欽定になることはすでに決定しており、天皇が憲法制定に関与するためであろうと考えられている。長官は伊藤博文で局員には、井上毅、金子堅太郎、伊東巳代治という後に憲法起草の中心人物となる3人のほか、牧野伸顕(大久保利通の息子)、寺島宗則ほか数名が任命された。制度取調局は憲法案そのものを起草するのではなく、憲法制定を念頭に置きながら、行政裁判(行政訴訟)・議会・皇室制度や地方制度などに関する調査検討を行うことになった。
立憲君主制においては、原理上無答責とされる君主に対して、国政上の意思を統一し、実行力と責任ある機関が必要で、その間の意思決定のしかたは一元的でなくてはならない。責任ある機関以外、例えば天皇の側近が政治に関与するようなことがあってはならないのである。そのためには、宮中(皇室)と府中(政府、内閣)を制度的に分離しなければならなかった。
伊藤は制度調査局長就任直後の1884年3月21日に宮内卿も兼務し、宮内省の職務の機能分化、能力に基づく登用、天皇の政治的言動の機密化などを行った。
皇室経費を議会で審議することを避けるため、全国の土地を皇有地、国有地、民有地に分けて皇室財産を独立させる案が出されていたが、国土はすべて天皇のものだという岩倉具視や井上毅などの反対にあって宙に浮いていた。
しかし、法的にはあいまいなまま、皇室財産は急速に拡充されていった。日本銀行や日本郵船会社の株券や350万町歩の山林原野、佐渡・生野鉱山などが皇室財産に編入され、皇室財政は一気に豊かになっていた。
版籍奉還で華族となった公家・大名らは、その大半が家禄や金禄公債で優遇されながら社会的役割を果たしておらず、新聞や民権派から繰り返し批判されていた。政府内では、士族を含めた新たな華族制度を創設し、皇室を護る「藩屏(はんぺい)」にすべきだという意見が強かったが、岩倉具視は反対していた。私見であるが、ヨーロッパの貴族は大地主で経済的に自立していることが多かったのに対して、日本では経済力よりも家格が重視されたためではなかろうか。
1884年7月7日華族令が出されたその日、504名に爵位が授けられ、その後87年までに566名が叙爵された。そのうち旧華族483名、新華族は83名で、新華族のほとんどは薩長土肥出身の士族だった。爵位は、公・侯・伯・子・男の5等に定められ、伊藤博文ら当時の参議は伯爵となった。これは、将来開設される2院制議会の上院になる貴族院の組織基盤を定めるためでもあった。
天皇と政府との関係を一元的にするためには、天皇親政を建前とし、大臣就任に官位の制約がある太政官制度は馴染まなかった。
太政大臣の三条実美や宮中は内閣制度の導入に消極的だった。久保田哲氏によれば、以下のような経緯で内閣制度が創設されることになった。すなわち、伊藤は三条に宮中への説得を依頼したが、三条は太政大臣のポストを失うことになるため、内閣制度創設ではなく、参議の右大臣就任を認めるという太政官制の改革を主張した。宮中は伊藤の右大臣就任を望んだが、伊藤は黒田清隆を右大臣に推挙した。
明治天皇は酒癖の悪い黒田の右大臣就任には難色を示したものの最終的には了承したが、黒田自身が右大臣就任を辞退したため、内閣制度が創設されることになった。
内閣制度の権限や責任などは伊藤博文と井上毅の間で「内閣職権」としてまとめられた。内閣総理大臣は各省の統制権や9人の大臣の指名権を持ち、行政全体を統括する「大宰相主義」を採用、すべての法令は各大臣と共に総理が副署することと定められ※1、内閣が法令の立案を担うことになった。初代内閣は1885(明治18)年12月22日に発足し、次のような大臣たちで構成され、宮内大臣(初代は伊藤博文が兼任)は閣外にあった。
総理: 伊藤博文 外務: 井上馨 内務: 山県有朋 大蔵: 松方正義 陸軍: 大山巌 海軍: 西郷従道 司法: 山田顕義 文部: 森有礼 農商務: 谷干城 逓信: 榎本武揚
なお、三条太政大臣は内閣発足と同時に宮中にできた内大臣職に就いている。
また、内閣発足と同時に制度取調局は廃止され、その機能は新設の法制局に移管された。
※1 内閣制度は憲法発布後の1889(明治22)年12月に改められ、総理大臣は国務大臣と同輩中の首席に過ぎないとされ、法令への副署も廃止された。総理大臣の権限は大幅に縮小されたのである。
内閣成立後、行政組織運用の基盤となる次のような規則を制定した。これで、憲法・皇室典範などの基本法典の起草に着手するための環境が整ったことになる。
・各省官制(1886年2月)
各省の官制を定めるうえでの統一的基準(局課の設置、官僚の選抜、文書管理、経費節減、規律遵守)を明確にした。
・公文式(こうぶんしき)(1886年2月)
法律や勅令の制定手続を定めたものを公文式という。法律は立法院(議会)の議を経て天皇の裁可を得て発するものであり、勅令や閣令、省令といった命令は立法院の議を経ずに天皇の特権で発するものであるが、議会開設前はすべての法令は政府の命令そのものになる。この時点で定めたのは、立法過程の審議以外の役割分担を明確にするためであった。
・帝国大学令(1886年3月)
立憲政治を支える知識と能力を持った近代的官僚を養成するため、帝国大学令が公布され、帝国大学が設置されることになった。翌年7月には文官試験を改革し、官僚養成システムが形成された。従来の藩閥に依存した情実人事から知識と能力による近代的な人材登用システムになっていく。
内務大臣の山県有朋は、お雇いドイツ人モッセの提案に基づき、地方に一定の自治権を与える制度を導入した。1888(明治21)年4月に公布された市制・町村制と1890年5月公布の府県制・郡制である。従来の府県と町村の間に、都市部では市を農村部では郡を置き、府県知事と郡長は官選だったが、市町村長は議会で選任された。郡会議員は町村会で選ばれた者と大地主からなり、市町村議員は一定額以上の国税納入者による等級選挙制※2が導入されたため、富裕者に有利な選挙となった。市町村長・助役などは無給の名誉職とされ、地域の有力者・資産家を優遇する制度であった。
山県は、「財産も知識もある人物が政治の中心になることにより、みだりに架空論を唱えて天下の大政を議論する弊害を一掃することができる、こうした「老成着実」の人が帝国議会を組織するようになれば、帝国の安寧を保つことができるだろう」と述べている。
※2 等級選挙; 選挙人を納税額の多少などによりいくつかの等級にわけ、各級ごとに一定数の議員を選出する制度。納税額の高い順に序列をつけて納税総額が等しくなるように各級の選挙人を区分するため、上位の選挙人は他より少ない人数で同数の議員を選出でき、富裕者に有利な選挙になる。(コトバンク〔山川 日本史小辞典〕)
政府はこれを機に町村合併を強力に推し進めた。町村の数は、1886年12月に全国で約71,500あり、そのうち100戸以下の村が7割近くを占めていたが、合併の結果1889年末には20%強の15,820にまで減少した。村人の生活は旧村が単位であることに変わりはなく、役場や小学校の位置をめぐる争いが起きた村も少なくなかった。
大石「日本憲法史」,P127-P129 久保田「帝国議会」,P146 牧原「民権と憲法」,P162
{ 【シュタインやモッセの講義で得た】知見は伊藤が諸改革を主導していく上での自信となった。伊藤は、自由民権派などは西洋の書物を単に翻訳し、議会や憲法を表層的にしか理解していない「ヘボクレ書生」ばかりであると息巻いた。(「伊藤博文秘録」) … これらは明治政府をリードしたい伊藤流の自己アピールという面もあったかもしれない。ただし伊藤が、議会開設のためには憲法制定だけでなく、全体的な国政改革が必要であると考えたことは確かである。}(久保田「同上」,P145-P146)
大石「同上」,P127-133 久保田「同上」,P144-P145
久保田「同上」,P146-P147 牧原「同上」,P162-P163 大石「同上」,P136
{ 1883年7月の岩倉の死は、ひとつの転機となった。宮中に強い影響力を誇った右大臣岩倉の死は、結果として参議伊藤の宮中入りを可能ならしめ、伊藤によって天皇と内閣との関係が再構築されることになった。}(坂本一登「明治天皇の形成」/講座#4,P264)
久保田「同上」,P147-P148 大石「同上」,P139-P140
{ 「西洋好き」の伊藤を嫌っていた天皇は、元田らを重用し伊藤とは面会すら避ける風だった。伊藤も、天皇が好悪で人物を判断し、外国公使を招いた観桜会をさぼるなど、君主の役割を放棄していると不満を持っていた。}(牧原「同上」,P164)
大石「同上」,P140-P147 久保田「同上」,P147-P149
大石「同上」,P147-P153 久保田「同上」,P149-P151 瀧井「増補 文明史のなかの明治憲法」,P178-P179
牧原「同上」,P170-P172 伊藤「山県有朋」、P228-P230 久保田「同上」,P154-P155