日本の歴史認識近代日本の歩み第2章 大日本帝国 / 2.1 立憲政体の模索 / 2.1.3 明治14年の政変

2.1.3 明治14年の政変

明治14年の政変とは、国会期成同盟など民間で議会の開設や憲法の制定要望が高まる中で、イギリス流の議院内閣制を提唱した大隈重信が政府中枢から排除され、プロイセン憲法をモデルとした憲法を制定する方針が事実上決定した事件である。

 図表2.1(再掲) 立憲政体の模索

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(1) 立憲政体に関する意見徴集註213-1

明治政府が国憲取調掛に伊藤博文と大隈重信を任命し、憲法制定に関する調査を始めたのは1874(明治7)年のことだった。翌年には漸次立憲政体樹立の詔が出され、1878年の地方3新法により府県議会が開設、同年には愛国社が再興されて1880年に国会期成同盟が結成されるなど、民間でも立憲政体に向けた活動が活発化していた。

こうした情況下、山県有朋は1879(明治12)年12月に意見書を出し、憲法制定にあたって有識者による議会を設置することを提案した。三条太政大臣と岩倉右大臣はこれを契機として、各参議から立憲政体に関する意見を徴することを提案した。これに対して、意見無しとした西郷従道と寺島宗則を除く各参議は1880年中に次のような意見書を提出した。(カッコ内は提出月)

1880(明治13)年には国会期成同盟が結成され、4月には国会開設願望書が提出されたが、政府内は議会開設は時期尚早という空気が大勢を占めていた。

なお、元老院は1880年12月に憲法草案第3次案を提示したが、政府は却下した。伊藤の評価は「西洋諸国の憲法の焼き直しに過ぎない」であり、岩倉は西洋の憲法の知識が乏しかった※1

※1 岩倉は憲法を聖徳太子の憲法や律令格式などのようなものと理解し、「西洋の憲法についての十分な認識がなかった」…(大石眞「日本憲法史」,P82)(2.1.1項(5)参照)

(2) 大隈重信の意見書註213-2

意見書提出を督促された大隈は、1881年3月、天皇が読むまで他の大臣・参議には見せない、との条件をつけて有栖川宮熾仁左大臣に意見書を渡した。その意見書は交詢社の私擬憲法を起案した矢野文雄が執筆したもので、イギリス流の議院(政党)内閣制をモデルにし、1881年中に憲法制定、2年後には国会を開設するという急進的なものであった。

大隈は意見書の最後で次のように政党の重要性を強調している。「立憲政治とは政党政治である。政党の争いとは主義主張をめぐるものであって、国民の支持が勝敗を決める。議会が開設されれば、明治政府の中心人物たちは、その立場を捨てる覚悟を持たねばならない。難しいことだが、それが国家のためである」。

(3) 大隈意見書への反論註213-3

井上毅(こわし)の反論

大隈の申し入れにもかかわらず、有栖川宮左大臣は大隈の意見書を三条と岩倉に見せ、岩倉は6月10日前後に太政官大書記官の井上毅にも見せた。井上は大隈意見書の背後にイギリスの議院内閣制をかつぐ福沢諭吉がいることを見抜き、法律顧問のフランス人ボアソナードとドイツ人ロエスレルにイギリスとプロイセンの政体などについてヒアリングした上で、6月下旬に意見書にまとめた。

井上は、イギリスでは行政権の実権は政党に握られてしまい、国王は「虚器」となってしまうが、プロイセンでは国王が国政を掌握している、とした上で、議会に左右されない内閣にするために次のようにすべきだと主張する。

井上毅の意見書は、大隈意見書への反論のみならず、独自の立憲体制を提示したものであり、それに同意する岩倉の意見書として、7月5日に三条太政大臣、有栖川宮左大臣に提出されている。

伊藤博文の対応

6月27日、伊藤博文は三条太政大臣から大隈意見書を借用して全文を筆写した。伊藤は大隈意見書の内容にも驚いたが、それ以上にこれだけ重要な上奏が3月に提出されながら3カ月も参議たちに知らされなかったことに衝撃を受けた。翌28日、岩倉は伊藤を呼んでこれまでの経緯を説明し、井上に自身の意見書を伊藤に送るよう指示した。井上の意見書を読んだ伊藤は、内容についてはほぼ同感だが詳しい話を聞きたいと、30日に井上を呼んで熟談している。

7月1日、伊藤は三条に手紙を送って丸3カ月何の対応も取らなかったことを批判し、2日には岩倉に「大隈の急進論にはついていけないし、考えも違う」と述べて辞意をもらした。

7月4日、大隈は伊藤を訪問し、「今般の事は粗暴の次第で何とも申し訳ない」と謝罪したが、伊藤は「一言の話もなくこのような大事件を奏聞するとはどういうことか。建白の内容も、諸省卿から君側の官まで民選にすることには不同意だ」と大隈を突き放した。

井上毅のダメ押し

7月12日、井上毅は伊藤博文に宛てた書簡で次のように述べ、民間より先手を打ってプロイセン流憲法の採用を決めるべきだと訴えている。

福沢の交詢社は現在、全国の多数を篭絡し、政党を約束する最大の器械になっている、… 主唱者は10万の精兵を引て無人の野に行くに均しい、と危機感を煽り、さらに、政府が英国風の無名有実の民主政を排斥し、プロイセン風の君主制を維持するつもりなら、… 一日も猶予できない。現在なら英国風の憲法論はまだ深くは人心に固結するには至っておらず、地方の士族のなかには王室維持の思想を持つものが半分以上はいるので、間に合う。

これに対して伊藤は、「現在、天皇の東北巡幸に際しており、不在の大臣もいるので、なお時日を要する」と返している。天皇は7月31日に東北巡幸に出発し、還幸するのは10月11日である。

(4) 開拓使官有物払下事件註213-4

大隈意見書をめぐる混乱の中で、政府においては伊藤博文が憲法起草の主任となることが決っていったが、大隈重信をどうするかという問題があった。

それを解決したのが開拓使官有物払下事件である。1869(明治2)年に設置された北海道開拓使は、約1410万円を官有物に費やしてきた。開拓使長官の黒田清隆はそれを同じ薩摩出身の五代友厚らが経営する関西貿易商会に38万余円という超安値で払い下げようとした。閣議は1881年7月末にこれを認めてしまったが、この時、大隈重信は独り払下げに強く反対し、黒田清隆の反発をかった。

このニュースは払下げ決定の数日前、1881年7月下旬から郵便報知新聞や東京横浜毎日新聞などに報じられ、8~9月には不当な払下げは議会が開設されていないからだという論とともに、他の新聞にも波及し、政府攻撃の激しさが増していった。政府内では誰が払下げの情報をリークしたのか、犯人探しが行われた結果、郵便報知新聞には福沢門下生が多いなどといった理由で大隈重信がリークした、という説が有望になっていった。

(5) 大隈の下野と国会開設の勅諭註213-5

1881年10月11日夜、佐賀の大隈と大木喬任を除く薩長の参議と3大臣だけの閣議が開かれ、払下げの中止、1890年の国会開設、プロイセンをモデルにした日本独自の欽定憲法の制定、が決定された。天皇は大隈の罷免に同意せず、閣議は深夜に及んだが、結局、大隈が自発的に辞表を出して決着した。大隈の追放と共に、農商務卿の河野敏鎌、同志の官吏である矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄なども下野し、大隈派は政府から一掃されてしまった。

10月12日には「国会開設の勅諭」が発表され、1890(明治23)年をもって国会を開設すること、急進的な民権論に対しては厳しい姿勢で臨むことを宣している。

こうして議院内閣制(=政党内閣制)を嫌ってプロイセンをモデルにした憲法を制定することが決定したが、憲法発布9年後の1898(明治31)年には、日本初の政党内閣として大隈重信を首班とする内閣が成立し、1900年には立憲政友会総裁に就いた伊藤博文による内閣が発足する。その時、政党内閣を忌み嫌った岩倉具視や井上毅はこの世の人ではなかった。政党内閣が出現しても、憲法は改正されず、軍部や官僚などからの干渉が大きいまま、やがて軍国主義体制へと突き進んでいくことになるのである。

(6) 積極財政から緊縮財政へ註213-6

明治14年政変後、経済的な変化も起きた。大隈重信は殖産興業政策を進めるため、積極財政を進めた結果1878年以降インフレが進み、米価を始め諸物価が高騰して紙幣価値が下落、国家財政は逼迫した。民間特に農民にとっては米をはじめ作物価格が上昇して豊かな生活を謳歌することができたが、都市の無産士族や貧民は苦しい生活を強いられ、これが自由民権運動にも影響を与えた。

大隈の失脚後、大蔵卿に就いた松方正義は一転して緊縮財政策に転換、政府出費を絞り込むとともに酒税・煙草税ほか間接税の増額・新設などを行って、紙幣を回収・廃棄していった。その結果、農産物価格は下落し、民権運動に参加した豪農層に打撃を与えた。松方はそれまで政府自身がモデル事業として鉱山や工場に直接投資してきたのをやめ、それらの施設を三菱、三井、古河などの財閥に払下げ、政府は金融支援を重点に進めるよう方針変更した。


コラム 交詢社憲法案と明治憲法

1881年4月に発表された交詢(こうじゅん)社の私擬憲法案はイギリスをモデルとした議院内閣制の憲法であり、1889年に公布された大日本帝国憲法(明治憲法)はプロイセン憲法をモデルに天皇に大権を集中させた憲法であるが、この2つにはよく似た文面があった。

日本近代政治史が専門の坂野潤治氏は次のように述べている。

{ 8年後に発布された明治憲法には、交詢社案を単に削除したり、修正したりしただけに見える箇所がいくつもあり、しかもそれらは明治憲法の最も重要な個所であった。…交詢社私擬憲法案が人々の記憶に残っている間は、政府内保守派もドイツモデルの憲法制定を強行するわけにはいかなかったのではなかろうか。… 内容は正反対でも文面上の両者の相違は些少だった。 … すでに井上毅の手許でほぼ完成していたドイツ風憲法の制定には至らなかったのは、このためだったと思われる。}(坂野「明治憲法史」,P34-P35)

以下、両憲法の条文例。 註. 交)は交詢社私擬憲法、明)は明治憲法。

  • 交)第2条 天皇は神聖にして犯す可からざるものとす、政務の責は宰相(大臣)之にあたる
  • 明)第3条 天皇は神聖にして犯す可からず

註) 交詢社憲法では、前半部分で「天皇は神聖」と祭り上げておいて、後半部分でその政治的権限を奪っている。

  • 交)第6条 天皇は法律を布告し、海陸軍を統率し、外国に対し宣戦講和を為し、条約を結び、(中略)国会院を解散する特権を有す
  • 交)第7条 天皇は内閣宰相を置き万機の政を信任すべし
  • 交)第12条 首相は天皇衆庶の望に依て親しく之を撰任し、其他の宰相は首相の推薦に依て之を任命すべし
  • 明)第11条 天皇は陸海軍を統帥す
  • 明)第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む
  • 明)第13条 天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す
  • 明)第55条 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず

註) 明治憲法の第11,12,13条は交詢社の第6条にその起源をみることができる。なお、交詢社憲法は第12条…天皇衆庶の望…により、選挙で選ばれた多数派の政党から首相を選ぶ政党内閣制を採用していることがわかる。

(参考文献: 坂野潤治「明治憲法史」,P22-P27・P34-P36)


2.1.3項の主要参考文献

2.1.3項の註釈

註213-1 立憲政体に関する意見徴集

久保田「帝国議会」、P102ーP105 大石「日本憲法史」,P92-P94 瀧井「伊藤博文」,P53-P54

{ 彼【伊藤】によれば、国会開設による君民共治の実現は「国体の変更」を意味し… 漸進の道を掲げる彼は…元老院を拡張し、華士族から広く元老院議官を選出することをまず提起する。…第二点は公選検査官の設置である。国民の中から会計検査官を選出し、国の財政実務に習熟させようという…、第三点として、…過熱化している自由民権運動による国会開設の要求を宥めるためにも、天皇が改めて「漸進の義」を明示することが肝要という…}(瀧井[同上],P53-P54)

註213-2 大隈重信の意見書

大石「同上」,P95-P96 久保田「同上」,P106-P107 牧原「民権と憲法」,P44 大日方「自由民権運動と明治14年の政変」/講座#4,P128-P129

註213-3 大隈意見書への反論

井上毅の反論; 大石「同上」,P97-P101 坂野「明治憲法史」,P28-P29 大日方「同上」/講座#4,P134-P136

伊藤博文の対応; 大石「同上」,P97-P101 坂野「同上」,P29-P31 大日方「同上」/講座#4,P136-P137

井上毅のダメ押し; 大石「同上」,P101-P102 大日方「同上」/講座#4,P137-P139 牧原「同上」,P45

註213-4 開拓使官有物払下事件

大石「同上」,P102-P103 久保田「同上」,P112-P114 牧原「同上」,P45-P47 瀧井「同上」,P57-P59

註213-5 大隈の下野と国会開設の勅諭

大石「同上」,P103-P107 久保田「同上」,P114-P116 牧原「同上」,P47-P48

註213-6 積極財政から緊縮財政へ

牧原「同上」,P60-P66 池田「松方財政から軍拡財政へ」/講座#5,P87-P90