このレポートでは、明治維新を次の6つのフェーズ(Ph)に分け、各フェーズが一つの節を構成している。この節は、Ph1を対象にしており、ペリー来航の直前から、日米修好通商条約の締結を経て、いわゆる「安政の大獄」とその後、井伊直弼が暗殺される桜田門外の変までについて述べる。
図表1.1(再掲) 明治維新、6つのフェーズ
注)陰暦を使用していた1872年以前は陰暦の日付をもとに年号だけを西暦で表示している。
ペリーは突然現れたのではなく、その10年近くも前から、いずれ使節が来るであろうという兆候はあったし、幕府もそれなりの準備をしようとしていた。
図表1.13 フェーズ1「維新のはじまり」
中国でアヘン戦争(1840-42)が終了し、日本では天保の改革(1841-43)が中途半端なまま終わったあとの天保15(1844)年7月、オランダ国王は書簡を長崎へ送り、中国の二の舞を避け平和な日本を維持するため、諸外国と通商関係を持つことを勧告した。
これに対して幕府は翌年、従来から通信関係のある朝鮮・琉球、通商関係のあるオランダ・中国以外と新たな関係を持つことはない、と鎖国維持の方針を回答している。
外国船は19世紀に入る前後から日本周辺に出没していたが、アヘン戦争が終わると、さらに活発になった。
幕府にとってインパクトが大きかったのは、1846年にフランス艦隊とアメリカ艦隊から琉球と浦賀で通商要求を受けた時である。フランスは琉球官吏の頑強な抵抗にあってあきらめ、アメリカ軍艦も中国で条約批准書の交換を終えた後に立ち寄ったもので、通商拒否の回答を受けるとすぐに立ち去った。
このときの老中は、ペリー来航時にも対応することになる阿部正弘で、彼は1846・1848・1849年の3回、異国船打払い令の復活を提案したが、軍備が整わないのに欧米と戦争はできない、と学問所の外交顧問も江戸湾警備担当の大名も反対したので、あきらめざるをえなかった。そのかわりに阿部は、「御国恩海防令」を布告し、諸大名に海防の強化を命じるとともに、百姓・町人にも身分に応じた協力をするよう命じた。
{ 鎖国政策を守るには西洋国家の軍事的威嚇を撥ね返せるほどの軍備が必要であるが、それがどの程度必要かはわからない。さりとて、開国政策に転換することは成り行き上、難しいというのが当時の状況であった。}(三谷「維新史再考」、P111)
阿部正弘は1849年、対外政策について海防掛、長崎江戸湾警備の諸大名、長崎・浦賀奉行、学問所などに意見を求めた。藤田覚氏は、この意見聴取で学問所の有識者などに開国論があったことを指摘しているが、三谷博氏は、当時の幕府内には次の3つの対外政策があったという。
弘化3(1846)年8月、朝廷は幕府に対して勅書を出し、「異国船の渡来が頻繁で心配だ。海防を強化して『神州の瑕瑾』にならないよう処置せよ。また、近年の対外情勢について報告せよ」と要求し、幕府はそれに応じて異国船の渡来状況を報告している。従来、幕府がこのような報告を朝廷に対して行うことはなかったが、文化4(1807)年の先例(1.2.7項(3))が今回確認され、朝廷は幕府の対外政策に介入できるようになっていく。
この後、朝廷は石清水八幡宮で、異国船を風波で撃退することを祈り、伊勢神宮や東大寺に「夷狄調伏」「異国撃壤」の祈祷を命じた。神仏に祈ることは当時の天皇・朝廷の重要な役割だった。
ペリー来航の1年前、嘉永5(1852)年6月、アメリカの要請を受けたオランダ商館長は、アメリカの使節が数隻の船で訪れる、と予告してきた。阿部正弘は長崎・江戸を警備する大名らへ情報を提供し警戒を指示したが、ちょうど江戸城西の丸が焼けて再建工事を始めたばかりで、海防を強化する余裕はなく、使節の到来を待つだけだった。
藤田「幕末から維新へ」,P124-P126 三谷「維新史再考」,P110
藤田「同上」,P126,付15 井上「開国と幕末変革」,P371-P372 西川「ペリー来航」,P8-P15
{ 1849年2月のプレブル号によるアメリカ人乗組員引取は、アメリカ政府が日本との間で条約を締結する必要性を改めて確認する機会になった。}(西川「同上」、P15<要約>)
藤田「同上」,P126-P127 三谷「同上」,P110-P111
藤田「同上」,P128 三谷「同上」,P112-P113
{ 阿部正弘の外交顧問の筒井政憲らは、徳川家康の時代には外国貿易が活発に行われていた歴史事実を持ち出し、鎖国祖法観を相対化している。}(藤田「同上」,P128)
藤田「同上」,P128-P129
三谷「同上」,P113 藤田「同上」,P130