明治維新史の研究は、維新が始まった直後から始まったが、次の3つのフェーズに分けられる註112-1。
第1期 「政治史の時代」; 維新開始直後から史料の収集・編纂が始まり、1920年頃まで続いたとされているが、1911年(明治44年)に始まった政府による史料編纂事業の延長線上で、文部省が1939年(昭和14年)から41年に刊行した「維新史」がこの時期の集大成とみなされている。
第2期 「社会科学の時代」; 第1期のあと、1960年代まではマルクス主義史観に基づく研究・論争が活発に行われた。
第3期 「多様性の時代」; 1960年代以降マルクス主義史観は衰退し、実証的研究をもとに様々なテーマについての研究が増えていった。
この時期には、各藩や家にあった史料が収集・編纂された。政府が維新史として作成する動きもあったが、対立を激化させるだけとして、昭和の初めにまで持ち越された。
最も初期のものではないかと思われるものが、徳川御三家に次ぐ家格をもち公武合体の推進役でもあった越前家で、1859年(安政6年)から自家の政治的事績をまとめ始めた(完成は1892年)。また、幕府は外国方が1867年(慶応3年)から開港直後2年間の外交史料を編纂し始め、同じころ、歴代将軍の事跡を記した「徳川実紀」として、11代家斉から15代慶喜について編纂を始めている(1905年(明治38年)から刊行)。
他方、明治政府は1872年(明治5年)から17年をかけて、「復古記」という戊辰戦争の戦史を1889年に刊行したが、関係者の間で功名争いが起きることを怖れて積極的な「解釈」を施していない。
1889年(明治22年)、島津家の働きかけにより、薩摩、長州、土佐、水戸の4藩で「史談会」が結成され、やがて公家や大半の大名家を加えて、政府の補助金により史料の収集・編纂が始まった。収集した史料は藩・家単位の史料集として、1892年から順次刊行され、1938年まで続けられた。
これらも「復古記」同様、積極的な「解釈」していないものの、薩長が主導した同盟が対幕戦争に勝利を収めて近代天皇制を確立した、という「王政復古史観」の範囲内にとどまるものであった。しかし、幕藩体制が世界に珍しい双頭(朝廷と幕府)、かつ250以上の藩で構成される連邦制であった以上、敗者側の協力も必要だったのだが、新政府がそこに踏み込むのは困難であった。
帝国議会の開会(1890年(明治23年))がせまると、ジャーナリズムが活況を呈し、民間の知識人たちが積極的に発言するようになった。
福沢諭吉の「文明論之概略」(1875年)などに始まる「文明開化」の歴史に日本を置いて未来のあるべき姿を考えようとした著作や、維新前後の日本を描いた竹越與三郎「新日本史」(1891-92年)などがある。
旧幕府出身者などによる敗者を擁護するような著作が出てくる。島田三郎「開国始末」(1887年)は、井伊直弼の評伝で井伊家所蔵の史料をもとに井伊大老の開国政策の正当性を主張した。ほかに福地桜痴の「幕府衰亡論」(1892年)、会津松平家に関わる北原雅長「七年史」(1904年)、山川浩「京都守護職始末」(1911年)などがある。
また、関連する人物の伝記も刊行された。徳富蘇峰の「吉田松陰」(1893年)、宮内庁図書寮編「三条実美公年譜」(1901年)、多田好問「岩倉公実記」(1903年)、勝田孫也「大久保利通伝」(1910年)などがある。渋沢栄一が新進の学者たちに作らせた「徳川慶喜公伝」(1917年)は貴重な書となっている。
明治維新史研究第1期の総仕上げとして文部省によってまとめられたのが、「維新史」全6巻(うち付録1巻)である。現在の中学・高校の歴史教科書において、明治維新は「維新史」に基づいて記述されており、現在の日本人の多くが持っている明治維新のイメージはこの官製「維新史」にもとづいていると思われる。
1911(明治44)年に文部省により維新史料の編纂が15年計画で始められ、1931(昭和6)年から「維新史料稿本」として順次刊行されていたが、1938(昭和13)年に史料編纂から歴史叙述の刊行に方針が変更された。1935年に美濃部達吉らによって唱えられていた天皇機関説に対して軍部・右翼から異議が出されて紛糾した際、「維新の大方針と国体の尊厳を国民に周知せしむる」ために、正史として[維新史」を編纂するよう要請されたのがその理由、と伝えられている。
こうして方針変更された「維新史」は、1939~41(昭和14~16)年に刊行された。扱う時代は、1846年の孝明天皇践祚から1871年の廃藩置県までである。
三谷博氏は、{ 「維新史」は今日なお有用な書である。}(三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P30) としつつも、いくつかの問題を指摘する。その主なものを要約すると次のようになる。
・「維新史」の主筋は王政復古※1であり、それは廃藩置県で土地人民の私有を廃止したことにより完成した、とする。しかし、世界の大革命に比肩できる事実としては、皇族や旧公家・大名をのぞいて世襲的な身分がなくなった点ではないか。また、「公議・公論」のように参政権の拡大につながる原則が確立されたことは大きな成果であるにもかかわらず、限定的にしか扱っていない。これらは、王政復古※1を主題としてしまった副作用なのではないか。
※1 ここでいう「王政復古」とは「遠い昔の天皇制に戻す」という文字通りの意味ではなく、薩長が主導した同盟が対幕戦争に勝利を収めて近代天皇制を確立した、という「王政復古史観」を指す。
・安政の大獄では、攘夷を奉ずる天皇と水戸激派が、井伊大老とその側近によって理不尽な迫害を受けたというシナリオで、徳川体制の不当性を語ろうとしている。しかし、水戸学は表では国内改革を進めるためのカンフル剤として攘夷を掲げながら、裏では戦争回避のために開国を提言しており、長州系の尊王攘夷論もそれを踏襲していた。「維新史」ではそれを無視して単純に攘夷論を正当化してしまい、正しい選択をした幕府の努力を過小評価することになった。
・維新の運動は、安政の大獄(1858-59年)以降、「尊攘運動」と「公武合体運動」という枠組みで語られ、1867年頃には「討幕派」 「佐幕派」 「公議政体派」という分類がなされるようになったが、実態はそれほど簡単なものではない。こうした単純化は、複雑な協力・対立関係を分りやすくはするが、本質を見えなくする。例えば、1866年1月の薩長盟約は、薩摩の藩是変更だとするが、薩摩は政権参加の方法を変えただけで本質は変わっていない。
ロシア革命(1917年)後、日本の資本主義の現状分析と革命戦略に関する「日本資本主義論争」が1920年代に始まり、その一環としてマルクス主義史観の立場から明治維新が論じられるようになった。この論争は第2次大戦の言論統制により中断したが、戦後再開し1960年代まで続くことになる。
マルクス主義史観(唯物史観)では、人間社会は封建制から資本主義を経て社会主義にいたる、という発展段階説を採用していたが、封建制の最終段階に絶対主義がありその後に(民主的な)資本主義に移行する、と考えられていた。明治維新史に関する論争は、明治維新がこの発展段階のどの段階に相当するか、という議論に集約される。
マルクス主義が日本に入ってきたのは19世紀後半であるが、初めてマルクス主義の立場から明治維新を論じたのは1921年の堺利彦「ブルジョアの維新――経済的に見た維新前後の社会」であった。ここで、明治維新は資本主義社会に移行するブルジョア革命とみなされた。一方、明治維新を封建制から絶対主義体制への移行だとみる人たちも現れ、この2者の論争になった。前者のグループは「労農派」※2、後者は「講座派」※2と呼ばれた。
※2 雑誌「労農」に寄稿した研究者は「労農派」と呼ばれ、「日本資本主義発達史講座」に結集した研究者は「講座派」と呼ばれた。
第2次世界大戦後、1940年代後半からマルクス主義史観にもとづく研究が再開されたが、労農派はほとんどいなくなり、講座派内部の議論になった。そして講座派の代表とでもいえるのが、遠山茂樹「明治維新」(1951年)である。
マルクス主義史観は、1950年代半ばのフルシチョフによるスターリン批判やハンガリー事件※3を契機として、マルクス主義の分裂が進む中でしだいに衰退していった。
※3 1953年にスターリンが死去すると、1956年、フルシチョフはスターリンが行った反対派の大量処刑などを公表してその独裁体制を批判した。同年6月にはポーランドで、10月にはハンガリーで民衆の暴動が起き、ハンガリーの暴動にはソ連軍が介入して抑え込んだ。
1960年代になるとマルクス主義の影響力は減退する。岡義武「明治政治史」(1962年) は明治維新を民族革命――{ 民族の独立確保あるいは民族の対外的拡大を目的とした国内政治体制の変革 }(岡「同上」、P131)――と見る。
1970年以降、イデオロギーから脱却して研究のテーマも多面的になる。例えば、幕府や会津藩など敗者の視点で見た明治維新(家近良樹「孝明天皇と一会桑」)、明治維新の複雑さを「柔構造」という特質に求めて分析(坂野潤治・大野健一「明治維新」)、身分制の解体という荒療治を少ない犠牲で成し遂げた理由(三谷博「維新史再考」)、等々である。
一方で次のような意見もある。{ 歴史学界でもイデオロギーからの脱却が進み、個別テーマについての精緻な実証的研究が大勢となり、そのテーマの歴史における位置づけにはあえて言及しない傾向にある。だが、この無色透明とされる研究姿勢の怖さは、常に体制へと収斂される危険と隣り合わせであることへの無自覚さにある。}(佐々木寛司「明治維新論争とマルクス主義史学」/講座#12、P75)
三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P6-P7 佐々木寛司「明治維新論争とマルクス主義史学」/講座#12、P75
三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P7-P9
三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P10-P11 家近「同上」,P18-P20
敗者側の史料収集が不十分だった理由について家近氏は次のように述べている。
{ 鳥羽伏見戦争やその後の戊辰戦争などによって、旧幕側や朝敵諸藩側の史料が焼失したり、散逸したことが無関係ではなかった。あるいは、天皇制政府の成立によって旧幕府側および朝敵諸藩側が、公然と史料の蒐集・整理に着手できなかったことが、いっそう史料を失わせ、自らの立場を正当化しえない要因となったことも見逃せない。}(家近「同上」、P20)
三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P12-P16 家近「同上」,P20
三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P17-P18 家近「同上」,P19
三谷博「維新政治史の研究」/講座#12、P17-P30
家近氏は「維新史」を次のように評価する。
{ 官が定めた幕末維新史の基調は、史料の収集と書物の編纂が勝者(藩閥)側を中心にして行われたため、当然のことながら、旧体制を打倒するにいたった必然性と、新政府成立の正当性を論証するものになった。反面、幕府側の動向は無視もしくは軽視された。}(家近「同上」,P18-P19)
佐々木寛司「明治維新論争とマルクス主義史学」/講座#12、P37-P45
佐々木寛司「明治維新論争とマルクス主義史学」/講座#12、P60-P76
遠山は明治時代を絶対主義の時代とみている。
{ ブルジョア民主主義運動であるといわれている自由民権運動ですら、…政府に妥協し…天皇制の枠内でのえせ民主化運動にとどまった。… その明治維新史観は、立憲制史観をもって天皇制を粉飾し、大権中心主義の明治憲法を歴史的に正当づけようとしたものに外ならない。}(遠山茂樹「明治維新史」、P21)
佐々木寛司「明治維新論争とマルクス主義史学」/講座#12、P71-P76、家近「同上」,P23-P26、北岡伸一「明治維新の意味」,P18-P21
以下のような主張もあるが…
{ 戦後に明治維新に対する否定的な評価が生き延びた理由の一つは、戦後の平和主義にある。敗戦後の日本において全ての戦争は否定されるようになった。たしかに如何なる戦争も悲惨であり、できるだけ避けるべきものである。しかし、世の中にはよりマシな戦争、よりやむを得ない戦争というものもある。… 日本のようにすべての戦争に対して否定的な見方をする国は、ほとんどない。すべての戦争が悪であるとする考えは、実は、たとえば、日本の侵略と中国の抵抗も同じように悪いとする、危険な議論である。
そうした戦後的な価値観からすれば、台湾出兵も日清戦争も日露戦争もひとしく悪いものであったことになる。それは戦争の性格を見極めないことになってしまう。
明治維新におけるリアリズムを評価するためには、戦争に対するリアリスティックな評価が不可欠である。戦後の平和主義が、彫りの深い明治維新論を生み出し得なかった理由の一つはそこにある。}(北岡「同上」,P21-P22)
私には、北岡氏が説く明治維新論は「彫りの深い」ものではなく、単に厚化粧をして醜い所を隠しただけのものにしか見えない。