フランケンシュタイン協奏曲。.... 佐久間學

(09/2/16-09/3/6)


3月6日

TCHAIKOVSKY
1812 Overture etc.
Yuri Simonov/
The Royal Philharmonic Orchestra
MEMBRAN/222885-203(hybrid SACD)


録音は1994年、SACDとしてリリースされたのも2005年と、決して「新譜」ではないのですが、なぜか今ごろネットを賑わせているものですから、興味が湧いてきました。ハズレでも実売976円ですから、惜しい気にはなりませんし。
サモン・プロモーション御用達というと、あまりよいイメージはわいてきませんが、ユーリ・シモノフは決して、そこの看板スターである怪しげなピアニストの伴奏ばかりやっているわけではありません。実際、彼はかつてはN響を指揮したこともあるごくまっとうな指揮者なのです。その時の映像を見たことがありますが、まさに「キザ」が燕尾服を着ているようなその指揮ぶりには、軽い陶酔感すらおぼえたものです。あ、燕尾服はあまり好きではないような丸っこい指揮者とは別人ですよ(それは「シモノ」)。
その時には、チャイコフスキーのバレエ曲を演奏していたはずですが、これはやはりチャイコフスキーの「名曲」を集めたアルバムです。「ロメオとジュリエット」、「イタリア奇想曲」、「1812年」、そして「オネーギン」からの「ワルツ」と「ポロネーズ」という、まさに王道を行くラインナップです。
このシリーズの他のカタログ同様、最初からSACDにしようと思って録音したものではないのでしょうが、多分ハイビットのPCMをDSDにコンバートしたのでしょう、CDレイヤーと比べると、明らかにそのクオリティは高いものになっています。さらに、スタジオで録音されたいかにもマルチマイクという音は、かつてのDECCAあたりでよく聴くことの出来た、各パートがとても明瞭に分離して聞こえてくるという「ハイ・ファイ」感あふれる爽快なものでした。それは、DECCAでも、例えば晩年のストコフスキーが好んで使った「フェイズ4」のような、もしかしたら今の時代には少し敬遠されそうなけばけばしさも持ち合わせている録音です。
そんな「派手」な録音は、ここで取り上げられている「派手」な曲調のチャイコフスキーと、そして、もちろん「派手」なことは大好きに違いないシモノフの芸風とは見事に合致していました。この前のサン・パウロ交響楽団のような及び腰のところなど一切ない、最初から最後までハイテンション、どこを切り取ってみてもチャイコフスキーの魅力がフルにあふれているという素晴らしいアルバムに仕上がっていますよ。
この中ではちょっと「寝技」っぽい「オネーギン」からのナンバーが、中でも格段の完成度を持っています。「ワルツ」というのは、オペラでの第2幕の前奏曲と、それに続く舞踏会のシーンですが、前奏曲に現れる「オネーギンのテーマ」での、イ長調(ド♯ー、シ、ラ)→減和音(ラー、ソ♯、ファ♯)→イ長調(ミ)というコード進行の下降スケールの愁いに満ちた味わいはどうでしょう。続く「ワルツ」などは、まさに「キザ」の極み、「ポロネーズ」のホルンの合いの手で大見得を切っているところなどは、その指揮ぶりが眼前に広がるほどのかっこよさです。
もちろん、最高に楽しめるのが「1812年」であることは、ネットでもお馴染みのところ。ここでは、新しいエピソードが始まる前の、ほんのちょっとした「間」が、とても効果的に使われています。冒頭のチェロのコラールから常にとびきりのごちそうを味わっていたものですから、その次にはどんな料理が出てくるのか、という期待が、この「間」でワクワクするほど高まってくるのですよ。それは、エンディングの「大砲」と「鐘」への期待へとつながります。最初の「数発」は、かつての「名盤」、TELARCのカンゼル盤の迫力には到底及ばないのにははっきり言って拍子抜けでした(しかし、あちらは肝心のオケの音がしょぼ過ぎます)。しかし、「鐘」には大満足、そして、最後の最後ではまさに度肝を抜かれたというか、笑いが止まらなかったというか。その「一発」、これはぜひ、実際に聴いて頂きたいものです。

SACD Artwork © Membran Music Ltd.

3月4日

TCHAIKOVSKY
Sinfonia No.4, Capricho Italiano
John Neschling/
Orquestra Sinfônica do Estado de São Paulo
BISCOITO CLÁSSICO/BC 233


以前、ベートーヴェンの交響曲では、まさにサンバの国の人たちでなければ出来ないような、胸のすく演奏を聴かせてくれたブラジルのオーケストラ、サンバ交響楽団、いやサン・パウロ交響楽団が、音楽監督のネシュリングのもとで、今度はチャイコフスキーを録音してくれました。最近の録音ではちょっと醒めたところも見せていましたが、なにしろチャイコの「交響曲第4番」や、「イタリア奇想曲」といえば、まだまだ弾けるポイントが満載の曲ですから、期待は高まります。
まずは、「5番」や「悲愴」に比べたら、はるかに明るさが勝っている「4番」です。これはもう、冒頭のホルンのファンファーレからとてつもないハイテンションで迫ってくるものでした。最近は他のオーケストラで妙に気取って意味ありげな吹き方をしているような演奏ばかり聴いていたものですから、この直球勝負のパワーにはなんとも爽快な気分にさせられます。それを受けるトランペットも、負けじとのハイテンション、これだけでもうこの曲の方向性は決まったようなものです。
一方では、木管陣のしなやかなソロが目を引きます。フルートは突き抜けるような明るい音色、クラリネットも、潤んだ艶めかしさがたまりません。ダブルリードも開放的なオーボエと、ほとんどセクシーと言ってもいいファゴットという役者揃い。
しかし、そのオーボエが主役を演じる第2楽章は、そのソロに「憂い」を求める向きには少々不満が残るかもしれません。しかし、そのあっさり目のソロをバックアップする他の木管のお陰で出来上がった健康的な面持ちは、あるいは「in Mode di Canzona」というこの楽章の表記にはふさわしいものだったのかもしれません。
第3楽章の弦楽器のピチカートは、まさにこのオーケストラの面目躍如といった、浮き立つようなリズムに支配されたものでした。その、一瞬ともだれることのないドライブ感は爽快そのものです。そして、真ん中の部分での木管の鮮やかなこと。伸びやかに響き渡るピッコロは、ちょっとよそでは聴けないような素晴らしさです。
フィナーレも、そんなに速いテンポではないにもかかわらず、軽快感あふれる仕上がりになっています。ハイテンションの流れはそのままに、決して暴走することのないクレバーさも感じられるのは、やはりこのオーケストラの「洗練」のあらわれなのでしょうか。
続く「イタリア奇想曲」でも、めいっぱいの明るさが繰り広げられています。次々と現れるエピソードが、見事にイタリアの太陽に照らされたような輝きを放っているすがすがしさが、そこには満載でした。ところが、チャイコフスキーって、こんなに明るい音楽が作れる人だったのかという、驚きに似たものがこみ上げてきた瞬間、いきなり、なんともやり場のないような無表情な感触に襲われてしまったのです。そこは、エピソードの間をつなぐ経過的な部分、まるで借り物のような、ちょっと自分には似つかわしくないパッセージを並べたまでは良かったのに、その間を埋める作曲家としての「仕事」の部分では、つい地が出てしまったのでは、と思われるほどの、それはショッキングな体験でした。そんなチャイコフスキーの二面性を鋭く感じ取って、それが演奏に反映されてしまったのだとしたら、これはものすごいオーケストラです。
ブックレットには、彼らの本拠地「サラ・サン・パウロ」での本番の写真が載っています。ステージの後ろにも客席がある新しいホールなのですが、そこに座っているお客さんがとてもアトホームな感じなのですよ。恋人同士でしょうか。肩を抱き合いながら聴いているカップルもいますし、かと思うと、退屈して寝てしまった子どもを、優しく膝の上に乗せているお母さんもいたりして。そんな堅苦しくないお客さんにも、このオーケストラは育てられていたのでしょうね。

CD Artwork © Sarapuì Produções Artisticas Ltda.

3月2日

Italia 1600 Argentina 1900
Verónica Cangemi(Sop)
Una Stella Ensemble
NAÏVE/OP 30466


最近のバロック・オペラのシーンでは、かつてはカストラートが演じていた役を現代の歌手が歌うときに欠かすことが出来ない、男のような力強い声とそして逞しい容貌を持ったソプラノ、あるいはメゾ・ソプラノに数多く出会うことが出来ます。アルゼンチン出身のヴェロニカ・カンジェミもその一人、例えば「ルーチョ・シッラ」のDVDでは、その完璧なコロラトゥーラと、ブロンドの長髪をなびかせた凛々しい「男役」の姿を存分に味わうことが出来ます。ここで見られるカンジェミは、変になよなよした関西のアイドル(それは「カンジャニ」)などよりも数段男っぽく感じられるのではないでしょうか。
このアルバムは、そんな「バロック・ソプラノ」としてのカンジェミと同時に、彼女のルーツである南アメリカの音楽を歌うアーティストとしてのカンジェミを味わってもらおうというコンセプトによって作られています。その「バロック」のパートでは、期待通りのコロラトゥーラの嵐が、彼女の魅力を存分に伝えてくれていました。ただ、そこで感じられるのが、「洗練」されたものではなく、もっと「荒削り」な一面であったのは、ちょっとした驚きです。メリスマの粒立ちは、いつもながらの鮮やかなものであるにもかかわらず、ほんのちょっとしたピッチの感触などが、妙に「汚れた」印象を与えるのです。さらに、低音へ突入するときのすさまじい地声の「雄叫び」。
そのようなアップテンポの曲ではなく、スロー・バラードでも同じようなある種不思議な味わいが見られます。有名なヘンデルの「私を泣かせて下さい」では、オペラ歌手と言うよりは、まるでフォルクローレの芸人のような、ほとんど素人と見まごうほどの素朴さがつきまとってはいませんか?後半の装飾も、「非ヨーロッパ」(それがどんなものであるかを説明は出来ませんが)の趣味に彩られています。そして、パイジェッロの「ネル・コル・ピウ」ときたら、完全に「クラシックのオペラ」的な歌い方からは逸脱した軽やかなショーピースに変わってはいないでしょうか。
それらのちょっとした違和感は、20世紀に「非ヨーロッパ」で作られた3つの作品を聴くことで解消することが出来るのでは、というのが、このアルバムの制作者の目論見だったのではないでしょうか。ピアソラの「イ短調のミロンガ」は「ヨーロッパ」とも「クラシック」ともなんの接点を持たないポップ・ミュージック、そこでの彼女の愁いに満ちた共感あふれる歌は、先ほどのヘンデルとなんと多くの共通項を持っていることでしょう。グアスタヴィーノの「鳩のあやまち」だってほとんどヒット・チューンとなりうるキャッチーなバラード、そこに見られるまるで「語り」のような歌い方と、やはり先ほどのパイジェッロでの軽やかな歌い方との間に同質のセンスを認めるのは容易なことです。
そして、本質的には民族音楽であるヴィラ・ロボスの「アリア」の場合、オリジナルのチェロ8本とソプラノという編成が、ギターを中心とした全く別のアレンジで演奏されることで、その「民族音楽」たる資質はより強調されることになりました。そんな環境でのカンジェミこそ、まさに彼女の本領を最大限に発揮出来たのではないでしょうか。そう、彼女はクラシック歌手としての訓練を受け、それは確実に「ヨーロッパ」で評価されてはいるものの、その底にはまごうことなきフォルクローレのアーティストの魂が宿っていることに、気づかされることでしょう。
「アリア」でヴォカリーズのテーマが回想されるときの究極のソット・ヴォーチェ、これこそが、そんなフォルクローレのバックグラウンドと、オペラ歌手としてのキャリアを持つ彼女でしかなし得ない感動的なパフォーマンスなのです。

CD Artwork © Naïve

2月28日

DURUFLÉ
Requiem
Magid El-Bushra(CT), Peter Harvey(Bar)
Mark Chaundy(Ten)
Martin Ford, Richard Pinel(Org)
Bill Ives/
The Choir of Magdalen College, Oxford
HARMONIA MUNDI/HMU 807480(hybrid SACD)


デュリュフレの「レクイエム」には3つの稿が存在していることはこちらで分かります。それは、オリジナルのフル・オーケストラ・バージョン(第1稿)、オルガンだけ(一部にチェロが入りますが)の伴奏によるバージョン(第2稿)、そして、小編成の弦楽器にオルガン、ハープ、トランペットとティンパニが加わったバージョン(第3稿)です。それらの形態が出揃ってから半世紀近くが経過した現在では、録音の数で比べると第2稿>第1稿>第3稿と、オルガン伴奏版が最も多くなっています。確かに、フルオーケストラを使うのは手間とお金がかかりますから、それは納得です。しかし、やはりこの曲ではオルガンだけの伴奏ではちょっと物足りないところが沢山ありますから、本当はオーケストラを使いたい、というのが作曲者の願いだったに違いありません。そこで、その折衷案としてオルガンと室内オーケストラというバージョンも用意したのでしょうが、実際にはオルガン版の三分の一にも満たないCDしかリリースされていないのが現状です。しかも、1994年のNAXOS盤以来、新しい録音も絶えてありませんでしたし。
そんな中での、久々の第3稿による「レクイエム」です。演奏しているのがビル・アイヴスの指揮するオクスフォード・モードレン・カレッジ聖歌隊という、こちらで素晴らしい演奏を披露してくれた団体ですから、色々な意味で期待が膨らみます。
しかし、今回の彼らの演奏には、少なからぬ失望を隠すことは出来ませんでした。なにしろ、「レクイエム」のそもそもの始まりのテナーが、音色は揃わないし、発声は幼稚だし、表現は平板だし、と、なにも良いところがないのですからね。他のパート、成人男声のアルトはしっかりした響きですし、少年だけのトレブルも、少し雑なところはありますが、繊細さは失われていない中にあって、このテノールの拙さは致命的です。やはり、こういう合唱団は入れ替わりが激しいので、年によってはこんな「ハズレ」の時もあるのでしょうか(男声が素晴らしかった時代には、モーモドレンって)。ただ、「ピエ・イエス」でのソロを歌ったカウンター・テノールは、とても立派な声と、素晴らしい表現力を持っていました。
失望したのは、合唱だけではありませんでした。このバージョンのオーケストラは、元の編成の木管楽器やホルンのパーがオルガンに置き換わっているのですが、「生」楽器であるトランペットとオルガンとの間が、完全に乖離して聞こえてくるのです。今まで出ていた6種類の録音では、割と多めの残響などのお陰でそのような違和感がなかったものが、なまじSACDの解像度で聞かされるとそんな編曲の欠点がまざまざと露呈されてしまうのでしょう。いや、あるいは合唱にもう少しの力があったなら、これはそれほど気にはならないものだったのかもしれませんが。
このSACDには、その他に「4つのモテット」と「ミサ・クム・ユビロ」という、良くあるカップリングの他に、オルガンの曲も収録されています。そこで「オルガンのための瞑想」という、キャッチーなイントロを持つ曲が聞こえてきました。そのあとに「クム・ユビロ」が入っているのですが、最後の「アニュス・デイ」のイントロが、その曲と全く同じものだったことに初めて気づきました。デュリュフレは、こんな「使い回し」もしていたのですね。
その「クム・ユビロ」は、オルガン伴奏(これも、最初はオルガンとオーケストラという編成でした)に男声のユニゾンだけという曲です。しかし、この男声も、「レクイエム」同様、とことんだらしないものでした。中でテノールのソロが入る楽章があるのですが、このソリストもちょっと危なっかしい人で、演奏を味わう以前のところで終わってしまっています。

SACD Artwork © Harmonia Mundi USA

2月26日

証言・フルトヴェングラーかカラヤンか
川口マーン惠美著
新潮社刊(新潮選書)
ISBN978-4-10-603620-0

まだカラヤン・イヤーだった、去年の秋に出版されたものですが、今ごろ読んでいます。しかし、考えてみれば、今年だって没後20年、カラヤンの呪縛からは今年いっぱいは(10ぐらいまでは)逃れることは出来ません。
このタイトルを見て、以前も同じようなものがあったことには、誰しも気づくことでしょう。それは、1988年に音楽之友社から刊行された「フルトヴェングラーかカラヤンか」という、全く同じタイトルを持つ書籍です。これは、その前年に元ベルリン・フィルのティンパニ奏者、ヴェルナー・テーリヒェンが著した「PAUKENSCHLÄGE - Furtwängler oder Karajan -」を翻訳した際に、原題の後半だけを取って邦題にしたもの、出版当時は極めて過激なカラヤン批判として、ジャーナリズムを賑わせたものでした。なんたって、カラヤン本人はまだご存命だったのですからね。
川口さんがこの本を執筆するにあたって、このテーリヒェンの著作にインスパイアされたことは、想像に難くありません。言ってみれば元祖「フルトヴェングラーかカラヤンか」へのオマージュとして、彼女はテーリヒェンその人を含めたベルリン・フィルの元団員へのインタビューをまとめ上げたのではないでしょうか。
冒頭は、当然そのテーリヒェンへのインタビューから始まります。通常のインタビューと異なるのは、ここではインタビュアーである著者の姿が常に前面に描かれている、という点です。もしかしたら、彼女はここでインタビューという形を借りて彼女自身の変化を描きたかったのでは、と思えるほど、それは生き生きとした描写です。ですから、このテーリヒェンのカラヤン批判に対する彼女のリアクションの方が、読者としては非常に生々しいものに感じられはしないでしょうか。そう、そこではまさに彼女は「カラヤンさんのことをこんなに悪く言う人がいるなんて、信じらんな〜い」というブリッコを演じているのです。
しかし、そのあと他の元団員の彼に対するスタンスを経験した後に、再度このティンパニ奏者を訪れたときには、彼女の彼に対する感情は一変しています。「彼は、あの本を書いたことを後悔しているのではないか」という、それはもっと立ち入った思いです。その2ヶ月後に届いた彼の死亡通知、そこで彼女が「遺言を託されたような気がした」とつぶやくシーンは、感動的ですらあります。
「帝国オーケストラ」のDVDにも出演していたハンス・バスティアーンやエーリッヒ・ハルトマンの話など、彼女が元団員から引き出したエピソードは、多くはすでに公になったもので、さほどの新鮮味があるものではありません。カラヤンが作った映像に対する演奏家としての嫌悪感も、やはり別のDVDの中ですでに語られていたものです。しかし、テーリヒェンとまさに敵対していた同業者、オズヴァルト・フォーグナーとのインタビューは、別な意味で興味をそそられるものでした。それは、フォーグナー自身ではなく、彼の妻アンゲラからのコメントです。フォーグナー夫人となる前のアンゲラ・ノルテは、ルフトハンザの客室乗務員だったのですが、彼女はカラヤンの演奏旅行には常に同行させられていた、というのです。「言い寄られたこともあるのよ」と、今ではあっけらかんと語る彼女ですが、そのような(おそらく)特別の感情を抱いていた女性を妻としたティンパニ奏者に、「出来ることなら、すべての演奏会で使いたい」という希望をもったというカラヤンの精神構造は、ぜひとも深く探求してみたいものです。ふつう、こういう場合は逆に辛く当たるものですよね。それとも、カラヤンには、アンゲラを巡って、なにかフォーグナーに負い目でもあったのでしょうか。

Book Artwork © Shinchosha Publishing Co., Ltd.

2月24日

MENDELSSOHN
Choral Works
Hans-Christoph Rademann/
RIAS Kammerchor
HARMONIA MUNDI/HMC 901992


カラヤンとかフルトヴェングラーのように、オーケストラの音楽監督や首席指揮者というものは、かつてはかなり長期間同じ人が務めていたものでした。しかし、近頃はやたらとその交代のスパンが短くなってはいないでしょうか。ボストン交響楽団や、フィラデルフィア管弦楽団の今の音楽監督が誰なのか、知ってますか?
そんな状況は、合唱団の世界でも同じようですね。最近では、世界中のトップクラスの合唱団の間で、有能な指揮者がほんの数年で他の合唱団に移ってしまうようなことがしょっちゅう起こっているような気がします。例えば、エストニア・フィルハーモニック室内合唱団では、カリュステからヒリアーに代わったのがつい最近のことだと思っていたら、2008年からは以前リアス室内合唱団の芸術監督だったダニエル・ロイスに代わっていたのですからね。そして、そのロイスのポストを継いだのが、ドレスデンなどを中心に活躍、CARUSレーベルに多くの録音を行っているハンス・クリストフ・ラーデマンでした。頭に丼を載せている人ですね(それは「ラーメンマン」)。
その、ラーデマンの元でのリアス室内合唱団の最初の録音が、この、メンデルスゾーンの合唱曲集です。彼が作った無伴奏混声合唱のための世俗曲(ドイツ語では「Lieder」、「歌」という表記です)が、おそらくすべて収録されているアルバムです。もちろん、これは今年のメンデルスゾーン・アニバーサリーに合わせた企画であることは言うまでもありません。
リアス室内合唱団は、以前から確かにハイレベルの合唱団ではありましたが、ラーデマンを迎えてさらにその音楽性に磨きがかかってきました。しっとりとした音色には、まるでいぶし銀のような「渋さ」が加わって、まるで北欧の合唱団のような落ち着きが感じられます(その北欧、例えばスウェーデン放送合唱団あたりは、逆になんだか収まりの悪いサウンドになってきてはいませんか?)。ビブラートは極力抑えられ、ソプラノは決して張り切りすぎずに渋い音色を保っています。そこに他のパートが、見事なまでの融合を見せて、響きとアインザッツとが完全に一つのものになっているという、すべての合唱団が理想として目指しているそんな到達点に、もしかしたら彼らは達しているのかもしれません。以前フランス語のディクションではやや難点があったものも、ここでは母国語、ドイツ語ですから、なんの問題もありません。それどころか、ここで聴かれるドイツ語と旋律線との関わりには、思わず「そうだったのか!」と思わせられるような、完璧なものすら感じさせられます。ちょっとした細かい音符が、見事にその言葉の語感とマッチしているのですね。
メンデルスゾーンの合唱曲といえば、かつては日本の合唱団の定番でもありました。作品48の4曲目「Lerchengesang」などは、「おゝ雲雀」という邦題で、ある年齢以上の人にとっては愛唱曲として親しまれていたものです。作品41の2曲目「Entflieh' mit mir」は、確か吉田秀和先生の手になる「手に手を取り合い、逃げていかないか」という訳詞で歌われてはいなかったでしょうか。扱いやすいきれいなハーモニーと相まって、確かにそれらは合唱の喜びを味わうには最適のものだった時代はありました。
しかし、このような完璧な演奏でドイツ語のテキストが歌われたとき、そこにはそのような平易な合唱曲というイメージ以上のものを誰しもが感じるはずです。メンデルスゾーンが、あくまで機能和声にとどまったホモフォニーの中で作り上げたものは、そこで選ばれた詩の中に描かれた自然の営みなどを表現したとても大きな世界だったのです。ラーデマンと彼の合唱団は、これらの曲を単なる愛唱曲という次元にとどまらない確かなメッセージを持つ作品として、世に送り出していたのではないでしょうか。確かに、ここで聴く「Lerchengesang」には「凄さ」さえ感じられます。

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

2月22日

MENDELSSOHN
Symphonies
内藤彰/
東京ニューシティ管弦楽団
ALTUS/ALT163

「レコード芸術」という雑誌には多くのCDのレビューが掲載されていますが、中にはメーカーの資料の丸写しに過ぎない提灯記事もありますから用心が必要です。今年の2月号では、そんな提灯記事としてまさにこのCDが紹介されていました。その中で、このCDで用いられているメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」の、別の稿の楽譜の校訂に関してのインタビュー記事が、なんと2004年の「レコード芸術」にも掲載されているとあったのです。実は、この内藤彰さんという指揮者のお名前はごく最近知ったばかり。そんな昔から、大々的なインタビューがこの雑誌に載るほどの知名度があったなんて・・・。
と思いつつ、手元にあったバックナンバーをチェックしてみたら、確かにそんな記事はありました。しかし、それは別に内藤さんのインタビューではなく、その楽譜を校訂した高名な指揮者で音楽学者であるクリストファー・ホグウッドとのものだったのですね。なんという勘違い。確かにもとの記事を良く読めば、それがホグウッドとのインタビューであることはすぐ分かるのですが、そこから内藤さんが巻頭カラーのインタビューを受けているように錯覚させるというのも、こういう提灯記事の書き手の一つの資質なのかもしれませんね。
とにかく、そんな「ロンドン第2稿」という、実際に音になるのはこれが世界で初めてとなる楽譜を使った「フィンガルの洞窟」を皮切りに、メンデルスゾーンの交響曲第3番と第4番(これも、ブライトコプフの新しい楽譜が用いられています)が収められているこのライブCDでは、楽譜以外にも指揮者のこだわりが込められたものになっています。それは、弦楽器が全くビブラートをかけないで演奏して、作曲された当時のスタイルを「忠実に」再現している、という点です。ただ、オーケストラ自体はモダン・オーケストラ、使っている楽器もすべてモダン楽器ですから、「忠実」なのは単にビブラートをかけないという部分だけ、つまり、あのノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団と行っている一連の試みと全く同じスタンスなのですね。確かに、同じ雑誌に載っているこのCDの広告では「日本のノリントン」というフレーズが、大々的に踊っているのを見ることが出来ます。
幸い、そのノリントンが録音した同じ曲もすでにリリースされていますから、「本家」の演奏との比較には事欠きません。この内藤さんの「ノンビブラート奏法」が、ノリントンを超えるものなのか、あるいは単にノリントンの亜流に終わっているのか、そのあたりを検証してみるのはなかなか興味深いところではないでしょうか。
実は、内藤さんの名前を初めて知ったのは、2005年に行われたブルックナーの交響曲第4番の「コースヴェット版」というものの世界初録音ででした。それは、今まで「第3稿」として知られていた、弟子のフェルディナント・レーヴェによる改竄版(実際はレーヴェ以外の人も関わっていたそうです)が、ベンジャミン・コースヴェットという音楽学者によって綿密に校訂されたものが、2004年に「国際ブルックナー協会版」(いわゆるノヴァーク版)として出版されたものだったのですが、それがきっかけとなって、今まで低く見られがちだったこの稿への評価に変化が起こっているのだと言われています。実際に、内藤さんに続いて、オスモ・ヴァンスカとミネソタ管弦楽団も、この稿を使った演奏を行ったという見逃せない情報もありますし。

しかし、このCD(DELTA/DCCA-0017)を聴き直してみると、ここでの内藤さんは、弦楽器にしっかりビブラートをかけさせています。もちろん、ノリントンは同じ曲(稿は違いますが)でもノン・ビブラート。 ほんの3、4年前は、彼はまだ「日本のノリントン」ではなかったのでしょうね。「日本のノリ弁当」ぐらいでしょうか。

CD Artwork © Tomei Electronics, Delta Entertainment

2月20日

MOZART
Symphonies 25, 26 & 29
Jérémie Rhorer/
Le Cercle de l'Harmonie
VIRGIN/50999 234868 2 9


ダムラウのバックでとてもセンスの良い演奏を繰り広げてくれていたジェレミー・ロレルと「ル・セルクル・ド・ラルモニー」が、晴れて独り立ちしたアルバムをリリースしました。前にも書いたように、パートの中心となるメンバーだけが固定されていて、適宜必要なメンバーが集められるという団体のようですが、その分、非常に自由度の高い風通しの良いアンサンブルが実現出来ています。こういうオリジナル楽器のオーケストラでは、そんな、いわば「フリー」な集団の方がフレキシブルなアイディアがどんどんわいてくるのかもしれません。確かに、色んな包み方がありますから(それは「風呂敷」)。
そんなメンバーは、今主流になっているコンサートをそのまま収録するという「ライブ録音」ではなく、フランスの静かな田舎にある古い建物を改修した録音会場に集まり、都会の喧噪から離れた伸び伸びとした環境の中で録音セッションを持ったということです。確かに、この会場の音響がとても素晴らしいことはこのCDを聴いても良く分かります。マイクのセッティングもあるのでしょうが、余計な残響は殆どなく、個々の楽器の持っているテクスチャーが克明にとらえられて、そこからはプレイヤーたちの息づかいまではっきり聞こえてくるような迫力が感じられます。
ここでは1773年、モーツァルトが17歳の時にザルツブルクで作られた3つの交響曲が演奏されています。有名な25番のト短調と、29番のイ長調の間に挟まれて、殆ど聴く機会のない26番があるのが、目を引きます。楽章が3つしかない昔ながらのスタイルの曲ですが、その楽章は続けて演奏されているので、まるでオペラの序曲のように聞こえます。演奏時間も全部で8分ちょっとしかありませんから、まさに「序曲」という意味で使われる「シンフォニア」に相当する曲なのでしょう。事実、モーツァルトは後にこの曲を、劇音楽「エジプトの王タモス」の序曲に転用しています。両端の楽章は変ホ長調ですが、真ん中のゆっくりした楽章がハ短調で作られていて、「悲しみ」を誘うような切々としたメロディがとても魅力的です。後の「フィガロの結婚」の第4幕の冒頭でバルバリーナによって歌われる悲しげなアリアに、とてもよく似たテイストを持っています。それに続く3拍子の軽やかな楽章は、まさにオペラのオープニングを予想させるような明るさです。
メイン(たぶん)の25番と29番とでは、その調性の違いが極めて明確に演奏に反映されていることには、驚きさえ感じられるのではないでしょうか。ト短調交響曲のゴツゴツとした表現、ささくれだったような音色が、同じ演奏家でありながら、イ長調交響曲ではなんともまろやかで暖かいものに変わっているのは、ちょっとすごいことです。それは、もちろん弦楽器の響かせ方から歌わせ方までまるで違えている結果なのでしょうが、もう一つの要因はそもそもの楽器編成の違いにあることにも気づかされます。ト短調交響曲には実はホルンが4本使われていたのですね。ベートーヴェンが3つ目の交響曲で初めて3本(3声部)のホルンを使うまでは、オーケストラでは、ホルンは常に2本しか使われていなかった、というのは殆ど「常識」と化していますが、本当はモーツァルトの時代でもしっかり「4本」使っていたこともあったのです(「グラン・パルティータ」も4本ですね)。この編成を最大限に活用して、ロレルたちは圧倒的なサウンドを作り上げました。第1楽章の再現部の前のホルン4本のクレッシェンド(これはちゃんと楽譜に指示があります)には、思わずびっくりさせられてしまいます。
イ長調交響曲では対照的にフランス人っぽい粋な表現があちこちに見られますよ。最後の最後に出てくるヴァイオリンの上向スケールのディミヌエンドって、とってもおしゃれ。

CD Artwork © EMI Records Ltd/Virgin Classics

2月18日

NEUKOMM
Requiem
Jean-Claude Malgoire/
Cantaréunion
Ensemble vocal de l'Ocean Indien
La Grande Écurie et la Chambre du Roy
K617/K617210


1778年にザルツブルクで生まれ、1858年にパリで亡くなった作曲家、指揮者のジギスムント・ノイコムについては、モーツァルトの「レクイエム」の「リオ・デ・ジャネイロ版」というものがCDでリリースされたときに、その名前が紹介されていました。
その時に、そのバージョンを取り上げていたマルゴワールが、今度はノイコムその人の「レクイエム」を、「世界初録音」してくれましたよ。実は、彼の「レクイエム」に関しては、1999年にリリースされた草津音楽祭のライブ録音(CAMERATA)というのがあるのですが、今回はそれとは別の曲、なんでも、彼は全部で4曲の「レクイエム」を残しているのだそうです。
1838年にパリで作られたこの「レクイエム」は、なかなか変わったスタイルを持っています。本来は3声部の「無伴奏同声三部合唱」、つまり、男声三部合唱か女声三部合唱が歌うものとして作られていました。その合唱団は、さらに「1」と「2」という2つのパートに分かれた「二重合唱」の形をとっています。しかし、この「二重合唱」は、別に「マタイ」のように独立して歌われるものではなく、単に人数を増減するだけでダイナミック・レンジを調整するために設けられたものです。
ここには、本来の「レクイエム」の歌詞だけではなく、詩篇からの歌詞を用いた「De profundis」(詩篇130)という楽章が最後に加わります。さらに、この曲は、礼拝だけではなく、棺を運ぶときの「葬送行進曲」もセットになったものとして演奏されています。そこでは、行進の中でやはり詩篇からの「Miserere」(詩篇51)をテキストにした合唱も歌われることになっています。
本編の「レクイエム」の楽譜は、無伴奏合唱と、「アド・リブ」で合唱の声部をなぞったオルガン伴奏が指定されていますが、そこは演奏者の裁量で楽器を重ねることも許されています。ここでマルゴワールがとったのは、その「葬送行進曲」と同じ編成の楽器を加えるという方法でした。それは、コルネット、ホルン、トロンボーン、そしてオフィクレイドという楽器たちです。「オフィクレイド」なんて聞き慣れない名前、今では博物館でしかお目にかかれない楽器ですが、この頃はまだ広く使われていたキーのついた低音金管楽器です。それよりも不思議なのは、ここで指定されている「コルネット」は、正式には「コルネット・ア・ピストン」とクレジットされているもので、普通に「コルネット」といわれて思い浮かべるトランペットによく似た外観の金管楽器なのですが、演奏している写真を見ると、同じ「コルネット」でも、ドイツ語では「ツィンク」と呼ばれている、マウスピースのついたリコーダーのような楽器が使われているのです。ノイコムの時代には、もうこんな楽器は廃れてしまっていたはずなのに。女性下着では使われていましたがね(それは「コルセット」)。
そんな、マルゴワールがこだわった一風変わったサウンドは、しかし、なかなか荘重な響きをもたらしています。なんだかブルックナーを思わせるような新鮮な和声も見え隠れする中で、その金管楽器(+オルガン)だけの前奏は、確かな格調を保っていました。しかし、合唱が出てくると、そんな荘厳さは見事に消え失せ、なんともシロートっぽい世界が広がります。いったい、この合唱団はなんなのでしょう。ジャン・ルイ・タヴァンという合唱指揮者が持っている2つの合唱団の集合体ではあるのですが、そのうちの一つが「インド洋ヴォーカル・アンサンブル」、確かに写真ではアジア系のメンバーが認められる、なんとも怪しげな団体です。それはもう合唱としての体をなしていない、思わず「笑っちゃう」しかないような代物でした。そんな合唱団にかかってしまったら、存命中はあのベートーヴェンよりも高く評価されていたこともあったというノイコムの音楽など、全く伝わってくることはありませんでした。

CD Artwork © K617 France

2月16日

BACH
Brandenburg Concertos
Richard Egarr/
Academy of Ancient Music
HARMONIA MUNDI/HMU 807461.62(hybrid SACD)

「アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック」とは、なんとも懐かしい名前です。確か、国内盤では「エンシェント室内管弦楽団」などといういい加減極まりない訳語で呼ばれている団体でしたね。クリストファー・ホグウッドによって1973年に作られたこの「アカデミー」、オリジナル楽器による演奏によって、確かな地平を開拓したまさにエポック・メイキングなオーケストラとして、記憶に残っているものです。1980年頃に行った初のオリジナル楽器によるモーツァルトの交響曲「全集」の録音は、それまでのモーツァルト観を見事に覆す一つの「事件」として、後世に語り継がれていくに違いありません。
しかし、ホグウッドがモダン・オーケストラの指揮者などを始めたあたりから、なんだか音楽シーンからは遠ざかっていったような気がするのは、単なる錯覚でしょうか。正直、この団体はもう消滅したものだとばかり思っていましたよ。しかし、2006年に、ホグウッドは指揮者の権限をリチャード・エガーに完全に委譲します。アンドルー・マンゼとともに数々のスリリングな演奏を世に問うてきたこのチェンバロ奏者の元で、この「アカデミー」はかつての栄光の日々を取り戻しているのでしょうか。事実、このレーベルからは多くの録音をリリース、中にはジョン・タヴナー(指揮はポール・グッドウィン)などの「現代」作品も含まれていますから、さらに広い展開を見せているのでしょう。
今回は有名な「ブランデンブルク協奏曲」に挑戦です。この間アバドのDVDを見たばかりだというのに。
アバドの演奏(いや、単に前に出て動いていた、というだけでしたが)からは、いかにも初々しい瑞々しさが存分に感じられたものですが、こちらは言ってみれば「大人の魅力」でしょうか。それも、分別に満ちた「大人」というわけではなく、もはや死語ですが「ちょいワルおやじ」みたいな不良っぽいところが満載の快演です。
そんな弾けた面が全開なのが、「第1番」でしょう。「コルノ・ダ・カッチャ」という指定の楽器のところに、モダンのロータリー・ホルンを使っていては、いかにそれらしく吹こうがとうていナチュラル・ホルンには太刀打ち出来ないことが、この演奏を聴くと良く分かります。なんたって「狩り」ですからね。思い切り粗野に迫っていただきましょう。他の楽器を押しのけての三連符の、豪快なこと。
そんな中で、「5番」はいかにもおやじの底力、ちょっと真面目になればこんなことぐらい軽くできるんだぜ、という、格調の高さで魅了してくれます。なにしろ、ここで演奏されているトラヴェルソの上品なこと。こういう笛を聴くと、やはりこの間のおばさんは、なにかはき違えているような気がしてなりません。エガーのチェンバロ・ソロも、特別に技巧をひけらかすというものではない、もっと堅実なものが感じられます。それと、全ての曲に、通奏低音としてテオルボやギターが加わっているのが、オシャレ。トゥッティの楽器も1パート1人だけというアンサンブルのスタイルで、メンバー同士のインタープレイにも事欠きません。指揮者がいたのでは絶対出来ないような自由なテンポの動かし方は、とてもエキサイティングです。
「6番」のようの地味な曲でも、そんなスタイルだと、まるでジャズのジャムセッションのように聞こえてくるから不思議です。「次、おまえがソロね」みたいな。実際、最後の楽章の延々と繰り返されるリトルネッロは、うっかりしているとどこが最後か分からなくなりそうなところがありますが、それを、まるでエンディングをドラムスのパターンで決めるのと同じような感じで、エガーのチェンバロが見せるちょっとしたきっかけ、これこそが、まさに「大人」の合奏の醍醐味です(大人の音なのね)。

CD Artwork © Harmonia Mundi USA

おとといのおやぢに会える、か。


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