熱心達磨。.... 佐久間學

(08/6/21-08/7/9)

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7月9日

The New Lyric Flute
Susan Royal(fl)
CENTAUR/CRC 2907


スーザン・ロイヤルというアメリカのフルーティストのアルバムです。演奏している曲が、すべて21世紀になってから(1曲だけ2000年のものがありますが)アメリカの作曲家によって作られたものばかり、というところに惹かれて、聴いてみました。
ロイヤルという人は全くの初対面、日本にも来たことがあるそうなのですが、もちろん演奏を聴いたことはありません。ジャケ写(って)はちょっと見若いギャルですが、よくよく見るとおばさんが入っているみたい。もちろん、ライナーの経歴では実年齢は分かりません。でも、モイーズに師事したことがあるぐらいですから、そこそこの年であることは推測されます。現在はニューヨーク州立大学(SUNY)フレドニア校音楽学部の教授を務めている「博士」、かつてはバッファロー・フィルに20年以上在籍していたこともあるそうです。
ここに収められている6人の作曲家の作品は、もちろんほとんど出来たばかりの「現代音楽」なのですが、タイトルにあるように「リリック」な属性を持つものばかりです。あるいは「ロマンティック」と言い換えても差しつかえないのでしょうが、かつて「現代音楽」といえばすぐ連想されたような取っつきにくい、「難解」なものは一つとしてありません。というか、やはりひところ流行った「前衛的」なテイストのものを聴こうという機運は、最近ではかなり少なくなっているということなのでしょうか。コンサートでファーニホーやブーレーズを演奏するのは、もはやかなり勇気の要ることになっている、というのが、今時のフルート界の流れなのかもしれません。アルバムのプロデューサーでもあるロイヤルは、あえて難解な曲をオイヤルことで、親しみやすいものに仕上げたかったのでしょうか。
ここで演奏されている作曲家の中で、良く名前が知られているのはゲイリー・ショッカーとロウェル・リーバーマンでしょうか。ショッカーの「Hanna's Glade」(2005年)は、いつもながらのスリリングで親しみやすい作品。ゴールウェイが、自分のためではなく奥さんのジーニーのために委嘱したというリーバーマンのフルート、チェロ、ピアノのためのトリオ(2005年)は、4つの楽章を持つバラエティ豊かな曲、そこそこの技巧も要求される手堅い仕上がりになっています。ただ、このロイヤルという人は音の立ち上がりがかなり重苦しく、そこで音程がずり上がるという変なクセがあるものですから、こういったオーソドックスな曲にはちょっと違和感が残ってしまいます。もっとあっさり吹いていたら、これらの曲の本当の魅力も伝わってきたことでしょうに。
ですから、グレン・コーテスという人が、あの「911」に触発されて2002年に作った「I Dream'd in a Dream」では、その重いテーマをさらに重っ苦しく演奏しているものですから、そのメッセージは十分すぎるほど伝わってくるものの、正直ちょっと辛い思いが残ってしまうのも事実です。
そんな彼女の欠点があまり目立たないのが、これも最近の「クラシック」の一つの流れですが、ラテンリズムなどの「軽め」の要素を取り入れた作品です。ロイヤルのSUNYでの同僚のギタリスト、ジェームズ・ピオルコフスキが2006年に作った(もちろん、演奏にも参加)フルートとギターのための「Musique D'amité」などは、そんな曲、リズムのノリには難があるものの、楽しんで聴くことが出来ます。同じようにギターとフルートのための曲で、プエルト・リコ出身のウィリアム・オルティスが作った「Ricanstructions」(2000年)なども、ちょっとジャズ的な奏法も取り入れて、のびのびとした味を楽しめます。
彼女と、共演しているオーボエ奏者ドナ・サンデットとの委嘱作、マーガレット・グリーブリング・ハイの2006年の作品「Dances Ravissants」は、その二人の他にチェロとハープが加わるというアンサンブルです。ここに色濃く表れているのはオリエンタルなムード。このあたりも、「現代」の重要なファクターなのでしょう。

7月7日

DVOŘÁK
Symphony No.9
Marin Alsop/
Baltimore Symphony Orchestra
NAXOS/8.570714


オールソップとボルティモア交響楽団が開始したドボルジャーク・ツィクルスの第1弾です。国内盤での発売は8月の予定なのですが、すでに外国ではリリース済み、なによりもこちらでもう解禁になっているのですから、CDが手に入る前に聴いてみたっていいでしょう?ですから今回は、おそらくこれからもあるかもしれない、新しい形の「おやぢ」です。しかし、なにしろ、とりあえずCDと遜色のない音で聴くことができるのですから、ここで聴いてしまうともはやCDを買う必要はなくなってしまうかもしれませんね。痛し痒し、といったところですね。
何と言っても超有名曲、この曲の録音といったら巷にあふれかえっています。このレーベルにだって確か他の人の演奏で交響曲全集がすでに揃っていたのでは。ですから、ここであえて再録音を投入したというのは、レーベル全体のクオリティを上げようという意気込みの表れなのでしょうか。確かに、もはや「ガンゼンハウザー」などという得体の知れない指揮者には見切りをつけ、注目株のオールソップに乗り換えて「リセット」を図る方が、断然現実的な道なのかもしれません。
そんな期待を一身に受けた彼女たちは、その期待に充分に応えた演奏を披露してくれています。もはや、この中には鄙びた民族性や田舎臭い叙情性などを当てにしなくても、ストレートにヨーロッパ音楽の伝統によって語ることの出来る手法が確立されていることを感じ取ることが出来るはずです。
そんなある意味ストイックな、楽譜の持つ意味を重視した表現の一端を端的に現しているのは、第1楽章の第2主題の後半のリズムの扱いです。こちらで述べられているように、ほぼ同じメロディを最初にフルート・ソロで演奏したあとでヴァイオリンが模倣する、という形を取っているのですが、ヴァイオリンとフルートではリズムが微妙に異なっています。なにしろ、ここはクリティカル・エディションでやっと整理された形になったもので、それまではてんでいい加減な楽譜が横行していたものですから、リズムの違いなど表現にはなんの影響も及ぼすことはなかったような、些細な差違だったのです。しかし、ここでのオールソップの演奏を聴いてみれば、ここでなぜドヴォルジャークがあえてリズムを変えたのかが、はっきりと理解できることになります。フルートはさりげなく、付点音符ではない平らなリズムでテーマを提示するだけ、ところが、それを受けるヴァイオリンは、この部分の前からすでにルバートをたっぷりかけて思い切り歌い込み、ここの付点音符の意味を明らかにしてくれているのです。
こんな具合に、オールソップが表現の拠り所にしているのは、楽譜が要求していることに尽きています。そして、そこには感傷的な民族臭などは付け入る隙はないことは、最も「民族的」だと思われている第2楽章を聴けば分かります。有名なコール・アングレのソロの部分も、おおらかなテンポでたっぷり歌い込んでいるにもかかわらず、そこからは涙を誘うような安っぽい「民族の息吹」みたいなものはとんと感じることは出来ません。それよりも、そのソロにぴったり寄り沿って、まるで包み込むように一体化している他のパートの見事なアンサンブルにこそ、共感を覚えることを禁じ得ないはずです。ここでオーケストラ全体が醸し出しているのは、まさにドヴォルジャークが楽譜の中に現した、偏狭な民族性などを超えた大きな世界観だったのです。
そのように、あたかも一つの楽器のように軽快に突き進んでいくオーケストラの中にあって、金管セクションのもたつきがちょっと気になってしまいます。ここでもう少しだけタイトなリズムを決めることが出来てさえいれば、オールソップのロジックがより明確に伝わっていたはずなのに。

7月5日

BRUCKNER
Mass in E Minor, Motets
Marcus Creed/
SWR Vokalensemble Stuttgart
Mitglieder des RSO Stuttgart
HÄNSSLER/SACD 93.199(hybrid SACD)


ブルックナーの、合唱とブラスバンドのためのミサ曲と、モテットを何曲か収録したアルバムです。ついこの間、レイトンとポリフォニーというコンビの演奏で同じようなカップリングのCDを聴いたような気がします。ほんの少し前までは、こんな風な交響曲以外でのブルックナーの録音などはかなり珍しいものだったのが、ウソのよう、素晴らしい時代になったものです。
もっとも、それはあくまでも「クラシック・ファン」という範疇での話です。世の中には「合唱の世界」というものがあり、そこには「クラシック」とは微妙に異なる嗜好が存在しているのだ、ということも、折に触れて実感出来ることになります。例えば、そんな「合唱の世界」での出来事、たくさんの合唱団が集まったパーティーで、名刺代わりに各々の「愛唱曲」のようなものを披露する、といった場面で、さる合唱団がいともさりげなく「Locus iste」を暗譜で歌ってくれたりすることが現実にあり得るのですからね。そこには何十年か前に在籍したことがあるという「OB」もいたのですが、彼らももちろん暗譜、別にブルックナーなどとは意識しないで、代々歌い継がれてきた「名曲」という受け取り方で演奏していたのでしょう。確かに、そんな匿名性を持ちうるような親しみやすさが、ブルックナーのモテットの中には存在しています。
今回のシュトゥットガルト・ヴォーカル・アンサンブルの演奏には、そんな仲間うちでの親密なハーモニーを、非常に高い次元で磨き上げた、というような印象がありました。特に男声パートの、アンサンブルの中にしっかりとけ込んだ音色と歌い方には、とことん全体に奉仕しようという意気込みが強く感じられます。例えば、七声の「アヴェ・マリア」で、最初に女声だけで歌われた後に男声だけで入ってくるところなどは、それまでに女声が造り上げていた世界を決して変えることがないような柔らかい音色の配慮が、とても好ましいものに思えてきます。
ただ、その分、パート独自の主張といったものは、若干背後に隠れることにはなってしまいます。まあ、このような曲の場合は、むしろそのぐらいの方が心地よく聴くことが出来るのかもしれません。
しかし、「ミサ曲」のように、伴奏にブラスバンドという強力な音響の持ち主が加わってくると、そんなことも言ってはいられなくなります。無伴奏で始まる「Kyrie」、合唱だけの時にはそれは深みのあるしっとりとした響きが堪能出来るものが、そこに金管楽器が入ってくると、全く別の世界に変わってしまうのです。そこでの主役はトロンボーンやホルン、合唱は陰の方で小さくなってしまっています。これは、先日のレイトンたちが、管楽器に負けぬほどの主張を堂々と繰り広げていたのとは全く対照的なアプローチに感じられてしまいます。この録音はライブではなく、教会で行われたセッションによるものです。バランスはエンジニアの手でどのようにでも変えられるはずですから、こんな極端に合唱を無視したような扱いではセンスを疑われても仕方がありませんす
そのような居心地の悪さは、最後までぬぐい去ることは出来ません。「Credo」の「Crucifixus」のように、殆ど例外的のように合唱と柔らかい金管とがえもいわれぬ至福の世界を醸し出している場面もあるにはあるのですが、その直後の「Et resurrexit」でいともノーテンキなクラリネットの刻みが入ってくると、それもぶちこわしになってしまうという絶望感に、何度遭遇したことでしょう。
このSACDでは、ミサ曲が終わった後に無伴奏の「Pange lingua」が歌われるという構成になっています。それを聴くことによって、さっきまでのブラバンの伴奏がいかに邪魔なものであったかが再確認出来るのですから、皮肉なものです。

7月3日

Best of the King's Singers
The King's Singers
RCA/88697322312


今年は1968年に結成されたとされる(その前身は、1965年から活動していました)「キングズ・シンガーズ」の40周年だそうです。現在までに80枚以上(!)のアルバムをリリースしている彼らですが、所属していたレーベルは多岐にわたっています。ただ、単発的にTELARC(ビートルズ)SONY(リゲティ)からアルバムを出したりしてはいますが、大まかにはデビューから1980年台までのEMI時代、1990年台のRCA時代、そして現在のSIGNUM時代と、一応の区切りをつけることは出来るのではないでしょうか。しかし、初期のEMIのものは、日本での国内盤はなぜかビクターが販売していたため、RCAの「ニッパー」マークが付いていたりしたのですから、混乱してしまいます。
以前EMIから出たベストアルバムをご紹介したことがありましたが、今回の「ベスト盤」は、RCA時代のものです。ただ、コンピレーションではなく、オリジナルアルバムをそのまま5枚組のボックスとしてひとまとめにしたパッケージになっています。一見復刻盤のようですが、現物はオリジナルそのもの、つまり、倉庫に残っていた在庫品をもう1度「新譜」として販売しようという魂胆なのでしょう。言ってみれば、スーパーで売れ残った生鮮食料品をパックし直して、賞味期限を改竄して店頭に並べるのと同じことなのでしょうね。ま、CDの場合腐ったりはしませんから、別に「違法」ではありませんがね。お安くもなっていますし。
ここに「パック」されているアルバムは、1992年から1997年にかけてリリースされたものです。デビュー当初こそ夢中になって追いかけていたものですが、この少し前あたりから、このグループに対する熱は完全に冷めていました。レパートリーがあまりにも安易になりすぎていたのと、テナーのメンバーがボブ(ロバート)・チルコットという、最悪な人に代わってしまったことが、その原因です。このチルコットという人、かつてはボーイ・ソプラノとして名声を博し、フォーレのレクイエムでソロを歌ったアルバムなども出ていたはずです。しかし、「大人」になってしまったら、彼はごく普通の歌手以上にはなれませんでした(腰を痛めて、「コルセット」が欠かせなかったとか)。ただ、彼は歌うことでは成功しなかったものの、編曲の才能には秀でたものがあり、このグループにも多くの編曲を提供していますし、その楽譜は今では日本のアマチュア合唱団のレパートリーにさえなっています。
そんなわけで、決してリアルタイムで接することのなかったこの5枚のアルバムを聴いてみると、そこにはそんなチルコットの「弊害」が見事に反映されているのが分かってしまいます。彼らの原点であるルネッサンスの音楽でさえ、ジョスカン・デ・プレの作品を歌った1993年の「Renaissance」というアルバムでは、彼一人のためにかつての美しいハーモニーは無惨にも崩れ去っていました。さらに、おそらく彼がアルバム・コンセプトにまで関わったであろう1997年の「Spirit Voices」などは、多くのゲスト・ヴォーカルを迎えた結果、もはやグループとしての基盤すら危うくなっているほどの、先の見えない不安定な状況が感じられてしまう駄作になっています。
この年に、テナーパートはチルコットからポール・フェニックスという人にメンバー・チェンジがなされます。フェニックスは特別な個性こそありませんが、決して「邪魔」はしない人、グループの危機は乗り越えられました。
The Golden Age
SIGNUM/SIGCD119

それから10年、これは彼らの最新作です。「黄金時代」と呼ばれた16世紀のポルトガル、スペイン、メキシコの音楽、彼らもまた往年の輝きを取り戻した「黄金時代」を迎えていることを感じないわけにはいかない素晴らしいアルバムです。アロンソ・ロボの「エレミアの哀歌」での落ち着いたたたずまいには、心を打たれます。やはり、この真摯さがなければどんなレパートリーを歌ったところで、心に響くことはないでしょう。

7月1日

DURUFLÉ
Requiem
Sarah Breton(MS), Erick Mahé(Bar)
Michel Bourcier(Org)
Gilles Gérard/
Maîtrise de la Perverie Nantes
ATELIERS DU FRESNE/300 023.2


輸入盤などは、殆ど代理店を通じて日本国内で買えているつもりになっていますが、実はまだまだ外国だけでしか入手できないというレーベルは沢山あるはずです。いや、現実に、かなりレーベルと親密な代理店でさえ、全てのアイテムを国内で扱っているわけではありませんからね。そんなことを実感させられたのが、「ユビュ王の食卓」さんのブログです。デュリュフレのレクイエムに関してはくまなく入手したつもりになっていても、まだまだ取りこぼしはあったのですね。早速レーベルのサイトから入手、録音は2001年と決して新しくはないのですが、強引に新譜扱いです。
演奏しているのは「ラ・フォル・ジュルネ」でつとに有名なフランス西部の都市ナントで活躍している聖歌隊です。実際、その音楽祭にも何度も出演していますから、なかなかの実力の持ち主のようですね。楽譜は第2稿のオルガン版、ナントのノートル・ダム教会での録音です。
ここで使われているその教会のオルガンは、まさにフランス風、さまざまな音色を持つリード管や、トレモロを作り出す機能なども備えた、かなり大きな楽器です。それが、この教会のアコースティックスの中で響き渡るさまは、まさに絢爛豪華、ヘタなオーケストラを遙かにしのぐ豊かな音色を楽しませてくれています。ただの楽器ではなく、とてつもなく人間的な暖かさを感じさせてくれるのは、そんなオルガンと、演奏しているブルシエのたぐいまれなセンスの賜物でしょうか。
そして、合唱の、なんともユニークなキャラクターには圧倒されずにはいられません。一応成人の混声合唱ですが、女声の発声はとても自然で、まるで少年のようにすら聞こえてきます。30人足らずという編成にもかかわらず、教会の響きにも助けられて、とても力強い豊かなエネルギーが感じられます。それは、あるいは合唱団としてのまとまった響きを作り出すと言うよりは、それぞれのパートの持つ力を徹底的に見せつける、といったようなふうにも聞こえてきます。
そんな合唱団が歌うデュリュフレのレクイエムでは、したがって、この曲のモチーフとして使われている単旋律のチャントが、とてもはっきり(ちゃんと)浮き出てきて、まさに本物のプレイン・チャントを聴いているような錯覚に陥ってしまうほどです。これは、ちょっと新鮮な体験でした。「近代合唱曲」の、あくまで素材に過ぎないと思っていたものが、ここでは堂々とその存在を主張していたのですから、まさにこの曲の新しい側面を見せつけられたような思いです。
例えば、「Introït」で男声が歌い出す「Requiem〜」という単旋律の引用は、おそらくデュリュフレ本人が考えていた以上の強い「力」を、ここでは放っているはずです。それを受ける女声のヴォカリーズも、もはやハーモニーの補助としてではなく、もう一つのチャントとしての役割を与えられているようには、感じられないでしょうか。
そんな風に、音楽はあくまで各パートごとの「横の」流れの集まりとして、進んでいきます。そこでは、ホモフォニックなハーモニーの動きなどは、殆ど念頭にないようにすら思われてしまいます。確かに、これだけ残響の豊かな録音会場では、そんなハーモニーの移ろいなどは、重ね合う響きの中に埋もれてしまうことでしょう。もしかしたら、これはそんな音響が産んだ音楽の作り方だったのかもしれませんね。
そんな文脈の中では、ここで登場するソリストたちはいささか分が悪くなってしまいます。特に、まるでアルトのような深い響きを持つメゾ・ソプラノのブレトンの、深すぎるビブラートがもたらすドラマティックな世界は、合唱が作り上げた透明な豊饒さとは微妙に異なる世界のように思えます。そこでオブリガートを担当しているチェロのような、ある意味静謐なテイストが、ここでは求められていたのではないでしょうか。

6月29日

PEROSI
Messa da Requiem
Arturo Sacchetti/
Coro Polifonico Castelbarco di Avio
I Virtuosi Italiani
BONGIOVANNI/GB 2430-2


ロレンツォ・ペロージは、1872年に生まれて1956年に亡くなったイタリアの作曲家です。小さい頃から、才能を発揮していたんですね(それは「麒麟児」)。時代的にはマスカーニやレオンカヴァッロと同じ頃に活躍していますが、彼らのような「ヴェリズモ」とは一線を画した、もっと穏やかな作風を取っています。そもそも、彼はヴェネツィアの聖マルコ大聖堂聖歌隊の指揮者やローマのシスティーナ礼拝堂の楽長を努めたという「教会音楽家」ですから、何よりも信仰心のあらわれとしての作品を目指したのでしょう。
今までは殆どその作品は知られてはいなかったペロージですが、このレーベルがアルトゥーロ・サッケッティの指揮によるさまざまの演奏を次々とリリースしてくれたおかげで、実際にその「音」を楽しめるようになりました。今回のニュー・リリースは、1910年に作られた、「In Patris Memoriam(父の思い出のために)」というオラトリオと、1897年に作られた「レクイエム」の2曲、いずれも教会でのコンサートのライブ録音です。
オラトリオは、1908年に亡くなった彼の父親を悼んで作られたものです。かなり大規模なオーケストラにソプラノ・ソロと合唱がつきます。殆ど、そのソプラノが出ずっぱりという冗長な構成ですが、曲自体はまさに心の琴線に触れる「ツボ」満載の、魅力的な音楽です。何よりも、決して予想を裏切らない、安心出来る結末が用意されている、というのが、最大のポイントでしょう。ですから、ソロの人がこれほどドラマティックに歌うこともなく、オーケストラがこれほどいい加減な演奏さえしなければ、さぞや心に残るものとなったことでしょう。いやあ、このシンプルな曲に、なぜこれほどの「熱い」情感を注がなければならないのか、全く理解出来ません。このレーベルの常で、録音が恐ろしく悪いのも、曲の魅力を引き出すのに大きな妨げとなっています。
「レクイエム」となると、状況はさらに悲惨です。ペロージがこの曲を作るきっかけとなったのは、1897年の5月23日に、聖マルコ大聖堂での彼のお気に入りの聖歌隊員、フェルッチョ・メネガッツィくんが病気で亡くなってしまったことです。よっぽど彼のことを「愛して」いたのでしょうね。長文の弔辞を新聞に掲載したり、友人に張り裂けんばかりの胸の内を綴った手紙を書いたり、あげくにはその日のうちに追悼の「レクイエム」の作曲を始め、6日後の5月29日に行われた葬儀で演奏してしまうのですからね。ですから、この曲も、まともに演奏しさえすれば、作曲者の悲しみにうち震える心情を反映した感動的なメッセージを伝えられるはずのものなのでしょう。
ところが、この男声合唱とオーケストラ(オーケストラのパートは、後に作られました)という編成の、演奏に40分以上を要する大曲に起用された合唱団は、とんでもない代物でした。フレージングとかアンサンブルとかを言う前に、まずその声は全くのシロートのものでした。互いに声を聴き合って音を揃えるということが出来ないのか、そもそもそのような発想が全く浮かばないのか、彼らは勝手気ままにそれぞれの歌い方でがなり立てているだけなのですよ。はっきり言ってこの合唱団は、合唱団として必要な資質を、何一つ備えていないという、ただの「歌の好きなおじさん」の集まりでしかありません。ですから、「Dies irae」などは、インパクトからいったらものすごいものが迫ってきますよ。もちろん、その迫力は「音楽」とは全く無縁のもの、ほとんど「暴力」なのですがね。ほんと、グレゴリオ聖歌からの引用もある、なかなか素敵な曲なのでしょうが、この合唱団にかかってはその片鱗を想像することすら困難です。
なまじオーケストラがフツーにうまい分、その対比は一層際だちます。そして、最後にわき起こる盛大な拍手。いったいこの教会には、どんなお客さんが来ていたのでしょう。

6月27日

BACH
Johannes-Passion
Ruth Holten(Sop), Matthias Rexroth(CT)
Marcus Ullmann(Ten),
Gotthold Schwarz, Hentyk Böhm(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig, Gewandhausorchester
RONDEAU/ROP4024/25


最近「生ヨハネ」を聴いたばかりなので、この新譜もよりリアリティを持って聴くことが出来ました。そのコンサート本体よりも、「プレトーク」ということでちょっとしたお話しがあったそちらの方に、なかなか教えられるものがあったものですから。そこで述べられていたのが、この「ヨハネ」の「稿」に関することでした。実際にこの曲には4つの稿が存在していることは知っていましたが、それらの成り立ちのようなものが、きちんと分かったような気がします。世の中、まだまだ知らないことだらけです。
快調にレコーディングを続けているビラーとトマス教会聖歌隊、前作の「マタイ」では、初期稿などという珍しいものを披露してくれましたが、ここでも版にはこだわっています。この曲の場合、普通になんの表記もなければ、「第1稿」に近いもので演奏されるものですが、ここでは、おそらくCDでは2度目の録音となる「第4稿」を使っているのですよ。ところが、その今まであった鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏(BIS/CD-921/922)にはしっかり「第4稿」という表記があったのですが、このビラー盤には稿についてはなんのコメントもありません。ライナーでも「オリジナル・バージョン(つまり第1稿)」と「1749年か、たぶん1750年のバージョン(つまり第4稿)」との違いには言及しているものの、これがそのどちらによって演奏されているものかということは、述べられてはいないのです。
ですから、普通に第1稿を演奏しているのだな、と思って聴いていると、最後のアリアである35番のソプラノの「Zerfliesse, mein Herze」で普通はフルートとオーボエ・ダ・カッチャ(モダンオーケストラではコール・アングレで代用)でオブリガートが演奏されるものが、ヴァイオリンがユニゾンでフルートのパートを一緒に弾いていたのです。これは、紛れもない第4稿のかたちです。そこで、最も分かりやすいチェックポイントであるアリアの歌詞を見直してみると、確かに部分的に全く別のものになっているものが2曲(9番と19番)見つかり、20番のテノールのアリアでは、まるまる別なものになっていました。せっかく珍しい稿で演奏しているのですから、しっかり「こうだ」とお断りを入れておいてくれればいいと思うのですが、どうでしょう。
ただ、この「第4稿」の歌詞は、さっきのプレトークで、市議会からの外圧によって変更させられた可能性が大きいものだ、と知ったばかりであれば、これが必ずしもバッハの意志を伝えるものではなかったと思えるのは自然なことです。実際、新バッハ全集の楽譜でも、第1稿の歌詞を採用していますし。「マタイ」の初期稿といい、今回の「第4稿」といい、資料としては珍しくても実際にはそれほどの価値のない楽譜を使って演奏するというのが、ビラーたちの信念なのでしょうか。この際ですから、まだ誰もやっていないはずの、もっと大幅なカットがなされている「第3稿」の初録音を、ぜひやってもらいたいものです。
演奏自体は、稿の選択にかかわらず、非常に引き締まった素晴らしいものです。やはり合唱は的確にこの曲での合唱の役割を、しっかり把握してくれていて、ドラマティックな部分は身の引き締まる思い、コラールでさえ、歌詞の意味がしっかり伝わってくる生々しさがありました。
アルトのソロのレクスロートは男声ですが、有名な30番のアリア「Es ist vollbracht」は絶品、後半のメリスマも、男声ならではの安定感があって、胸のすくおもいです。エヴァンゲリストとアリアを掛け持ちのウルマンは、いつもながらの柔らかい声が魅力的ですが、後半はさすがにバテてきたようですね。そう、これはトマス教会でのライブ録音。なんといっても歌い終わった後の、教会全体の空気が感じられるような残響が、素敵です。

6月25日

MAHLER
Symphony No.1
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0663(hybrid SACD)


ゲルギエフとロンドン交響楽団とのマーラーシリーズ、第2弾です。番号が雷に打たれているようなジャケット・デザインはこの前の「6番」と共通していますから、こんな感じで全曲が揃うのでしょうね。雷と言うよりは、造影剤を入れて撮影した血管のような感じがするのが、ちょっとブキミですが。
最近のこのレーベルのフォーマットに従った、ライブ録音のSACD、録音スタッフも今までと変わってはいませんし、ホールも前と同じバービカンなのですが、なにかオケの音がいつもとは異なって聞こえてくるのが非常に気になります。屋外でもないのに(それは「ピーカン」)。弦楽器、特にヴァイオリンが、とてもバランスの悪い聞こえ方なのですよ。これもこのレーベルの常で、ブックレットにはその演奏のメンバーがきちんと書いてあるので、それによって、ファースト・ヴァイオリンが16人というたっぷりした陣容であることが分かりますが、とてもそんなにたくさんで弾いているとは思えないような、チープな音しか聞こえてはきません。
これはおそらく録音のせいではなく、ゲルギエフが求めたバランスなのだと思いたいものです。そうであれば、曲全体を覆っている救いようのないほどの「暗さ」も理解できることでしょう。例えばフィナーレの冒頭、まさに「雷」から始まって荒れ狂う「嵐」のような激しい情景がひとしきり続いた後に、場面がガラリと変わったところには、スコアに「思い切り歌って」という表記があるのですが、そこの主役であるヴァイオリンはなんとも慎ましやかにしか聞こえてきません。しかも、彼らはほとんど「歌って」はいないのですよ。正直、それは「泣いて」いるかのようにさえ聞こえるほどです。また、第3楽章の中間部、「さすらう若人の歌」からの引用の部分も、フルートの醸し出す透明な世界とは裏腹に、弦楽器はなんとも行き場のないような暗さに支配されていることを感じないわけにはいかないことでしょう。
ただ、その楽章の冒頭で、普通はコントラバス1本ではかなげに演奏されることの多い「フレール・ジャック」のパロディが、トゥッティのコントラバスによって弾かれているのには、注目すべきではないでしょうか。確かに楽譜のこの部分には「SOLO」という指示が書き込まれてはいます。しかし、1992年にマーラー協会から発行されたザンダー・ウィルケンスの校訂による新しいスコアには、「注釈」として、「1本のコントラバスではなく、コントラバス群によるソロ」という記載があるのです。これは、演奏家にとってはかなりショッキングな宣言には違いありません。今まで演奏の拠り所としていたものが、「実はまちがいだった」と根本から否定されてしまったのですからね。事実、この楽譜が公になってかなりの年月が経ったにもかかわらず、この「コントラバス群によるソロ」を採用している指揮者は極めて少ないのではないでしょうか。コンサートではここを全員で弾いた、というような噂は何度か聞いたことがありますが、きちんとしたCDでそれを耳にするのは、これが初めてのような気がします。
今までこの部分を「一人の」奏者が弾いていたものを聴いていたときには、確かにどんな名手が演奏しても一抹の危うさが漂っていたものです。それはマーラーが求めていた不安げな情感を表現した手段なのだ、とさえ言われていました。しかし、ここでゲルギエフがとっている、あくまで弦楽器に貧相な表情をさせる、というコンセプトの中で、この部分が「全員」によって弾かれると、その不安な面持ちがかえって増強されているようには感じられないでしょうか。ロンドン交響楽団のコントラバス・セクションによるユニゾン、そこには、確かに恐ろしいぐらいの「不安」が宿っていました。

6月23日

HERBERT VON KARAJAN
Maestro for the Screen
Georg Wübbolt(Dir)
ARTHAUS/101 459


カラヤンの記念年はまだまだ続きますねん。そんな中で、まさに今年2008年に制作されたドキュメンタリーなどというものが、即座にDVDでリリースされました。カラヤンの映像好きは多くの人に知られていますが、このフィルムはカラヤンと映像作品との関わりに焦点を当てて、その変遷を追ったものです。彼が残した映像はそれこそ腐るほどありますが、それらを惜しげもなく流すとともに、その時々に制作に関与していた人や、実際に演奏をしていた人たちへのインタビューを集約することで、立体的にその「裏側」が見えてくるという、極めて興味のある仕上がりとなっています。制作は、ベルリン・ドイツ・オペラのガラコンサートなどのDVDでのディレクターとして知られる、ゲオルク・ヴュボルトという、カタカナに直すのが極めて難しい名前の方です。
そもそも、「最初は、カラヤンは映像に対しては懐疑的だった」という証言が、今となっては驚くべきものです。しかし、そんなカラヤンが映像の力を信じるようになったきっかけというのが、日本でのテレビ放送だったというのですから、面白いものです。その、1957年の旧NHKホールでの日本語のテロップの入った映像が、まず注目されます。おそらく、当時生中継されていたのでしょう、その番組のリアクションを、ベルリン・フィルの団員たちとともに体験したカラヤンは、映像という媒体の影響力の大きさを、まさにその時に認識することになったのです。
その後、彼の映像を制作することになる2人の映画監督については、かなりの時間を割いて紹介されています。まず、フランスの巨匠アンリ・クルーゾーは、カラヤンが制作上のノウハウを獲得する人物として登場します。偉大な監督から謙虚に教えを請う、初期のカラヤンの姿が印象的です。対照的に、まるで実写版「ファンタジア」とも言うべきベートーヴェンの「田園」の前衛的な映像を作り上げたフーゴー・ニーベリングは、カラヤンの逆鱗に触れてしまった監督として描かれています。そして、このフィルムの最大の山場、「エロイカ」交響曲でニーベリングが最初に作った映像と、それをカラヤンが編集したものとが並べて映し出される、というシーンの登場です。あくまで音楽の視覚化を目指したニーベリング版と、自分自身の指揮姿だけを執拗に追い続けるカラヤン版、カラヤンが映像に求めたものを、これほど端的に物語っているシーンが、他にあるでしょうか。
実は、朝比奈隆とカラヤンとは同じ年だったことを、先日の「N響アワー」で知らされました。その時に流れたN響の映像では、殆ど全てのカットに朝比奈氏が登場していました。それはまさに必然として指揮者の姿が入っているもの、自分の姿を入れるために映像を作ったカラヤンとは良く似た結果になっていたとしても、その精神には雲泥の差があることを思い知ったのです。
ハンフリー・バートンやギュンター・ブレーストといった、今まで名前は知られていても、基本的に裏方に徹していた「大物」のレアな映像が、見物です。そんな有名無名の人々のコメントからは、カラヤンがビジネスとしてオーケストラ(や自分自身)に大きな利益をもたらしたことは明らかになっても、その映像の芸術的な価値について述べられることは、ついにありませんでした。彼が生涯をかけて成し遂げたのは、「カリスマ」としての自分の姿を「スクリーン」に記録したことのみだったのです。それは、おそらく100年後にはなんの価値もなくなっているのでは、というのが、ヴュボルトの視点だったのではないでしょうか。
このようなDVDの常で、これはもともとは放送用に制作されたものです。そして、ほんの数ヶ月前に、実はそのテレビ番組自体が日本でも放送されていました。それと比較してみると、このDVDは「商品」としての最低限のクオリティすら確保されていないことが分かってしまいます。最悪なのは日本語字幕。もちろん放送されたものとは別物で、誤訳だらけの上に、日本語としての体をなしていないひどいものでした。大賀典雄氏のコメントなどは日本語で語られている上にドイツ語のナレーションが重なり、さらにそれを日本語に訳した字幕が入るのですから、なんともシュールな世界です。さらに、放送ではソニーの盛田社長の家の表札には、きちんとモザイクがかかっていましたが、DVDではそんな「個人情報」には全く無頓着です。こんないい加減なものを決して安くはない価格で販売しようとする業者の感覚は、確実に一般の消費者には相容れないものとなっています。困ったものです。

6月21日

PUCCINI
The Complete Operas
Various Artists
SONY BMG/88697295742


プッチーニは1858年の生まれですから、今年は生誕150周年にあたります。そこで、彼が作った10曲のオペラ(「三部作」を1曲と数えます)の20枚組の全曲ボックスが登場しました。価格は5千円ちょっと、この前のワーグナーのバイロイト全集と、1枚あたりの単価は同じようなものです。しかし、見た目はこちらの方がかなり立派、立方体の箱を開けると、中にはそれぞれのタイトルがオリジナルジャケットをデザインした厚手の紙ジャケットに収まっている、という仕掛けです。もっとも、ブックレットを重ねても厚さはそんなにありませんから、両端にスペーサーが入っている、というのが、ちょっとショボいところでしょうか。このスペースに対訳でも入れてくれれば嬉しいところですが、この値段でそれを望むのは、ちょっと欲張りでしょう。

この紙ジャケ、表は元のジャケットですが裏はこのボックスのためのアール・ヌーヴォーっぽいデザインになっていて、なかなかおしゃれです。手にとって眺めているだけでも、プッチーニのゴージャスなサウンドが聞こえてくるよう。と、それぞれのジャケットの見開きを見ていると、そこには面白いものが写っていました。それは、プッチーニの自筆稿。それ自体は珍しいものではありませんが、そこでプッチーニが使っている五線紙に、思わず目を見開いてしまったのです。それは、オーケストラ用の20段以上ある五線紙なのですが、その左端に最初からパートと音部記号(と言うんでしたよね。ト音記号とかハ音記号というやつ)が印刷されているのですよ。最上段が「piccolo」ではなく「ottavino」となっていますから、これはまさにイタリアの出版社の表記、これがわざわざプッチーニのために特注されたものであることが分かります。原稿用紙にこだわった小説家のように、五線紙にもこだわったプッチーニの姿が、そこから垣間見えた思いでした。
オリジナルのレーベルはRCASONYという、かつてはオペラの全曲のスタジオ録音ではさまざまな名盤を輩出したところです。現在、その二つのレーベルは同じ会社に統合されて、晴れてこのような高い水準の全曲ボックスを出すことが可能になりました。もはや新しいオペラの録音など出来なくなってしまったそのレコード会社の、これは精一杯の罪滅ぼしなのでしょうか。二度と実現出来ないほどの豪華なキャストによる録音は、確かにぜひ手元に置いておきたいアーカイヴとなっています。
そんな中で、最も新しくリリースされた「トゥーランドット」は、1998年に、なんと北京の紫禁城というとんでもないところで上演されたもののライブ録音です。なにしろトイレがないのですから(それは「失禁城」)。映画監督のチャン・イーモウが演出を担当し、軍隊までも動員してスペクタクルなイヴェントを実現したこのプロダクションは、制作過程が映画にもなって紹介されていたものですね。そんな、録音するには条件が良いとは言えない場所での公演がどのように収録されているか、なかなか興味のわくところではないでしょうか。
それは、思いの外クリアな録音でした。おそらく会場ではオーケストラや歌手の声は生音だけではなくPAによって聴衆に届いていたのでしょうが、そのあたりのバランスがうまく取れています。2幕の頭あたりの繊細なオーケストラの響きも、野外での演奏という大味のものでは決してありませんでした。ですから、例えばタイトルロールのジョヴァンナ・カゾッラあたりが、本当はもっと楽に歌っても十分に声が届いていたものが、相当に力んでいるのが分かってしまいます。
これは、ですからそんな、制約の多い場所でのドキュメンタリーとして聴くべきものなのかもしれません。それにしても、こういう場でのメータの盛り上げ方はさすがです。

おとといのおやぢに会える、か。


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