香具師の身。.... 佐久間學

(06/3/21-06/4/10)

Blog Version


4月10日

WAGNER
Auszüge aus "Der Ring des Nibelungen"
Ben Heppner(Ten)
Peter Schneider/
Staatskapelle Dresden
DG/00289 477 6003


ベン・ヘップナーの声を初めて聴いたときのことは、今でも忘れません。それは、「ヴァルトビューネ1999」、毎年、ベルリン・フィルがシーズンの締めくくりとしてベルリン郊外の野外音楽堂に何万人というお客さんを集めて行われるコンサートでした。毎年様々な趣向を凝らして開催されるそのコンサート、ジェームズ・レヴァインの指揮による1999年のテーマは「リヒャルト・シュトラウスとワーグナー」、そこで、ワーグナーの作品からローエングリンやヴァルター・ フォン・シュトルツィンクのナンバーを歌っていたのが、ヘップナーだったのです。このような役を歌う歌手は力強くドラマティックな歌い方が要求され、特に「ヘルデン・テノール(英雄のテノール)」と呼ばれています(ちなみに、「メサイア」を歌うのは「ヘンデル・テノール」)。その当時、この呼び名にふさわしい歌手は殆どいなくなってしまっていた、というのが、私の抱いていた認識でした。ヴォルフガンク・ヴィントガッセンやジェームズ・キングはもはや過去の人、最も期待されていたルネ・コロも、すでに最盛期を過ぎた情けない声に変わってしまっていました。そこに現れたのが、このヘップナーです。大きな体からやすやすと発せられた輝きに満ちた声、待望久しい、真のヘルデン・テノールに出会えた事が実感できた瞬間でした。
ヘップナーは、1956年にカナダに生まれたといいますから、今年で50歳、歌手としてはまさに円熟の域を迎える年齢となっています。しかし、「トリスタン」や「マイスタージンガー」ではステージの経験もありDVDも出ているというのに、なぜか「リング」でのヘルデン・テノールのキャラ、ジークムントやジークフリートを演じた録音は今までありませんでした。そこへリリースされたのが、このワーグナーの「リング」からのハイライトです。まさに待望のアルバムと言えるでしょう。
ここでのヘップナーは、単にこの2つの役を演じ分けるだけの次元ではなく、その場に応じた的確な表現を見せるという、極めてクレバーな歌を聴かせてくれています。まず、「ヴァルキューレ」(もちろん、「リング」の中でも、「ラインの黄金」にはヘルデン・テノールの出番はありません)での、いかにも若く逞しい若者といったジークムントの姿はどうでしょう。彼の内に秘めた力強さが、ストレートに伝わってきます。そして、「リング」の中でも最も美しいナンバー「冬の嵐は去り」が、いささかの甘さもない毅然とした歌い方をされるのを聴く時、私達はこの歌の本質を知る事になるのです。このラブソングは、禁断の思いを実の妹に寄せる愛の歌、しかも、その愛が成就された末に生まれた子は、悲劇的な生涯をたどる事になるという、救いようのないものなのですから。
「ジークフリート」は、タイトル・ロールである「その子」の、言ってみれば成長の物語です。ミーメの許でノートゥンクを鍛えているのは、ただの乱暴者でしかない世間知らず、それが、ファフナーが姿を変えた大蛇を退治する事によって知恵を授かり、さらにブリュンヒルデに出会い愛に目覚めるという、まさに「変態」の課程が描かれていると言ってもいいでしょう。これをヘップナーは、粗野な音色と表現から始めて、次第に深みを加えていくという歌い方の変化によって、見事に表現しているのです。「神々の黄昏」での臨終のシーンも、息をのむ程の美しさです。
ヴェテラン、ペーター・シュナイダーが率いるドレスデン・シュターツカペレは、ヘップナーが演じきったこの壮大な悲劇を、まさに職人的な緻密さで支えています。その重心の低いサウンドは、華やかさを用心深く排斥し、深みを極める事に全てを捧げているかに見えます。

4月7日

DVORAK
Complete Choruses & Duets
Stanislav Mistr/
Prague Singers
BRILLIANT/92883


ボヘミアのメロディメーカー、ドヴォルジャークの合唱曲を集めたボックスCDが出ました。彼の合唱曲といえば、ラテン語の歌詞による「スターバト・マーテル」や「レクイエム」といった、オーケストラの入った大規模な宗教曲が有名ですが、これはチェコ語による合唱、そして二重唱を全て集めたもの、世界初録音のものもたくさん含まれています。無伴奏、あるいはピアノ伴奏(中には四手のものも)だけという、本当にすぐ合唱団のレパートリーに出来るような可愛らしい曲たち、肩の力を抜いて楽しめるものばかりですよ。
3枚組のボックス、1枚目はデュエット集です。モラヴィア地方の伝承歌をテキストにした殆ど民謡そのものといっても良い素朴な歌、それらの内、まず「4つのデュエット」が、このプラハ・シンガーズという合唱団の団員であるクリツネロヴァーのソプラノと、この合唱団の指揮者であるミストルのテノールで聴くことが出来ます。この2人とも一応ソリストとしてのキャリアもある人達なのですが、いかにも「ソロ」といったオペラティックな歌い方には決してなってはいないので、お互いの声が非常に良く溶け合った響きが心地よく感じられます。続く「モラヴィアのデュエット」という14曲から成る曲集は、ソロではなく2部の女声合唱で歌われています。これも、素朴な発声によるピュアな響きが、チェコ語と見事にマッチして心を打ちます。そう、このボックスを通しての最大の魅力が、この歌い手の共感が込められた言葉から生まれる何とも言えないリズムとイントネーションなのです。
2枚目には、プラハ・シンガーズのフルメンバーによる無伴奏の混声合唱が並びます。有名な「自然の中に」などに混じって、これが世界初録音となる「ロシアの歌」という、これは合唱ではなく混声の重唱が聴けるのが、嬉しいところでしょう。全部で16曲の、ロシアの民謡をチェコ語に直して編曲した、というものです。10曲目の「白樺の木」などは、例の、チャイコフスキーが交響曲第4番のフィナーレに使っていた民謡ですね。
3枚目では、男声合唱と女声合唱が聴けます。2枚目でなかなか澄んだ響きを見せていたこの混声合唱団ですが、これが男声だけになるとちょっと物足りなさが出てきてしまうのでしょうか。内声を歌うには申し分のないこの軽いテナーの声は、男声だけになったときには力強さが不足しているのがありあり、なかなか難しいものですね。ですから、ここでの男声合唱は洗練された、言い換えればちょっと中性っぽい趣になっています。ちなみに「チェコ民謡の花束」という曲の中には、交響曲第8番によく似たテーマが現れます。一方の女声合唱は、これは申し分のない爽やかな響きが楽しめます。なかでも、アルトの力強さが、意外な魅力になっています。
そして、一番最後に入っているのが、「新世界交響曲」の第2楽章、あの「家路」のテーマに歌詞をつけて、混声合唱とソプラノとテノールソロという形で編曲(トゥッケルという人が行っています)したものです。この楽章の真ん中の部分をカットしていますが、最初と最後の金管のコラールも見事に合唱に置き換えるという、しゃれたアレンジ。もちろん、このような編曲は今までにいくらでもあったのでしょうが、ここでの魅力はやはり「チェコ語」です。あの哀愁に満ちたコール・アングレによるメロディは、チェコ語で歌われることによって、なんと豊かな表情を持つことでしょう。意味は分かりませんがね。もしかしたら「座ると痛いよー」とか言ってたりして(それは「疣痔」)。

4月5日

NANCARROW, LIGETI, DUTILLEUX
String Quartets
Arditti Quartet
WIGMORE HALL/WHLive0003


最近は普通のレコード会社ではなく、演奏家サイドがレーベルを立ち上げてCDをリリースするというようなことが一般に行われるようになってきました。特に、経費のかかるオーケストラの録音はメーカーからは敬遠されてきていますから、ライブ録音を自己レーベルで発売するという道は、彼らの生き残りをかけた選択肢であったのかも知れません。最初はネットなどで細々と開いていた販路も、一般メーカーと同じルートに乗ることが出来るようになれば、例えばロンドン交響楽団の「LSO」レーベルのように、もはや大手を振って業界に君臨できるほどのものに成長することも可能になってくるわけです。
そんな業界に、コンサートホールが作ったレーベルが参入してきました。それはロンドンにある「ウィグモア・ホール」という、座席数が550という小さなホール。ここでは、年間400以上のコンサートが開催されている(ということは、年間休みなく、しかも、その内の40日は1日2回のコンサートという、ものすごい「充足率」ですね)上に、かなりのものがBBCを通じてネット配信されていると言いますから、それこそ音源には事欠きません。リートや室内楽のリサイタルを中心に、すでに8アイテムほどがリリースされています。
その中で目に付いたのが、アーディッティ弦楽四重奏団が演奏したナンカーロー、リゲティ、デュティーユという現代の作品を集めた2005年4月のリサイタルの録音です。現代の音楽を専門に演奏するために1974年に結成されたアーディッティ弦楽四重奏団は、何度かのメンバーチェンジを繰り返しながら(オリジナルメンバーは、リーダーである第1ヴァイオリンのアーヴィン・アーディッティと、チェロのロアン・デ・サラム2人だけになってしまいました)一貫して「現代音楽」のスペシャリストであり続けています。
従って、ここで演奏しているリゲティの弦楽四重奏曲第2番も、私の知る限り1978年(WERGO)と1994年(SONY)にそれぞれ別のメンバーで録音を行っていました。その15年前に作られたのどかさえ漂う「第1番」とは全く異なるテイストを持つに至った、まさにリゲティ独自の語法に満ちた刺激的な曲、それを、この3通りもの演奏で比較できる機会が出来たなんて、この上ない幸せです。今回のものは、ホールの豊かなアコースティックのせいもあるのでしょうが、以前のものにはなかった「しなやかさ」のようなものが感じられます。まさに、一つの作品が時間とともに成長する過程をまざまざと見せつけられる思いです。
ピアノロール(昔、そんな自動演奏用のピアノがあったのですよ)のための曲などという、とても人間技では演奏がかなわない曲で知られているコンロン・ナンカーローという、中華料理のような名前(それは「ホイコーロー」)の作曲家の弦楽四重奏曲第3番は、作曲の段階からアーディッティたちとディスカッションを行って出来上がった曲です。全てがカノンで作られている曲なのですが、そのテーマが低音楽器から高音楽器へ移るごとに、その早さを3:4:5:6という割合で早めていく、という、やはり人間技とは思えないような構造を持っています。一見ただの音の遊びのようにも感じられなくもありませんが、「セリー・アンテグラル」のような、人間の知覚を無視したものよりははるかに分かりやすい、そして楽しめる曲です。
Ainsi la nuit(夜はこんな風に)」というタイトルを持つデュティーユの弦楽四重奏曲は、この2曲とは全く異なる、例えばラヴェルやバルトークなどの伝統をしっかり受け継いだ語法によって作られています。いかに時代が変わってもその底に流れる情感には一貫したものがあるのだな、としみじみ思わせられるような「雰囲気」を持っているしっとりとした曲。正直、疲れている時にはリゲティやナンカーローよりはこちらの方が聴きたくなるのかもしれません。

4月3日

田三郎/心の四季
多田武彦/雪明りの路

田三郎、福永陽一郎、畑中良輔/
大久保混声合唱団、日本アカデミー合唱団
慶應義塾ワグネル・ソサイエティー男声合唱団
関西学院グリークラブ
日本伝統文化振興財団
/VZCC 62/63

半年ほど前に、今まで「ビクター」から出ていた日本人の合唱作品のカタログが、いきなり1枚1500円という廉価でリイシューされたことがありました。なんでも、新たに財団が設立されて、その活動の一環としてその様な過去の録音を初出レーベルを超えて発売することになったのだそうなのです。
今から数十年前には、この「ビクター」と、そしてもう一つ「東芝」というレコード会社が、精力的にこのような作品を録音し、発売していたという、今から思えば夢のようなシーンがありました。今回は「ベストカップリングシリーズ」と銘打って、その「東芝」のカタログを存分に使って、同じ曲を別の演奏家が録音したものとカップリングする、という、素晴らしいことをやってくれました。録音データや初出のライナーなども極力再現したという、仕事自体は非常に良心的なものです。
その中で、最近耳にする機会が多かった「心の四季」と、「雪明りの路」を聴いてみましょう。
まず、作曲者の田三郎(「たかだ」ではなく「たかた」、しかも「高」の字は傘の下がつながった「」だというのは、知ってました?たかが名前ですが)自身が指揮をしている「心の四季」(ビクター)です。これはもちろん、作曲者による解釈を味わう上では、最高のものといえるでしょう。合唱も、先頃なくなった辻正行さんが下振りをした名門、大久保混声合唱団、この曲のスタンダードとして、永遠の命を持つものです。ただ、おそらく「自演」であるためにある種の冒険が許されない分、鑑賞の対象としては物足りなさが残るのは事実です。
一方の東芝版、福永陽一郎による演奏は、とことん指揮者の趣味が生かされた仕上がりになっていて、この曲からしっかりとしたメッセージを受け取るためには格好なものとなっています。不自然なほど遅いテンポから、一つ一つの言葉をかみしめるようにその思いの丈を伝えられれば、そこにもしかしたらこの曲が求めている以上の世界が広がっていようとも、黙って受け入れる他はありません。3曲目の「流れ」で、最後に女声にテーマが戻ってくる部分での、全く思いがけないテンポ設定、これこそが演奏家が独自の感性で繰り広げる「表現」の極地でしょう。ここでの合唱団「日本アカデミー合唱団」というのは、この録音のためだけに結成された(母体となった団体はありますが)合唱団、まさに福永陽一郎の音楽を実践するために生まれてきたようなものなのでしょう。ちなみに、これが録音されたのが1970年なのですが、今の楽譜にはきちんと書き込まれていて、1981年に録音されたビクター版では守られている「無声音」の指示が、全く無視されています。おそらく、最初の楽譜にはなかった指示を、後に作曲者が加えたのでしょうね。そんな「歴史」までも、ここから聴き取ることが出来ます。
「雪明りの路」でも、ビクター版、畑中良輔の端正な、しっとりとした味わいのある演奏を聴き慣れた耳には、東芝版の福永陽一郎の恣意的な表現がとても新鮮に味わえます。特に5曲目の「夜まわり」での粘着質の解釈には、圧倒されてしまいます。データが完備しているので、これが吉田保さんによる録音だということまで知ることが出来ます。かつて「Jポップ」で数々の名盤を生み出した名エンジニア、こんな仕事もしていたのですね。
この企画、このような形で並べて聴くことによって、初出の時に別々に聴いた時には感じられなかったような発見が数多くありました。そして、ある種の懐かしさと、虚無感も。それは、過去にこれだけのものを作り得ていたレコード会社には、今となってはとてもそんな挑戦は望むべくもない、という絶望感がもたらす虚無感なのです。

3月31日

BACH
Matthäus Passion
C.Samuelis(Sop), B.Bartosz(Alt)
J.Dürmüller, P.Agnew(Ten)
E.Abele, K.Mertens(Bas)
Ton Koopman/
The Amsterdam Baroque Orchestra & Choir
CHALLENGE/CC 72232


バッハの「マタイ」は、普通はCD3枚でなければ収まりきらない長さを持っています。どんなに速いテンポで演奏しても2時間40分はかかるでしょうから、2枚に納めようとすると1枚あたり80分、曲の切れ目を考えると、これはちょっと難しい数字です。現に、コープマンの1992年に行われた同じ曲の録音では、演奏時間は2時間4159秒、もちろん3枚組でした。ところが、今回のコープマンの演奏は2時間34分7秒しかかかっていないのです。これでしたら楽々2枚に入ります。こんな速い演奏は他にはないだろうと思ったのですが、実は以前取り上げたロイシンク盤がやはり2枚組、しかも演奏時間は2時間3339秒、もっと速いのがありました。ロイシンクもコープマンもオランダの指揮者、そういう土壌がこの国にはあるのでしょうか。
そんな演奏時間にも現れているように、この「マタイ」は非常にサラサラ流れていくような印象を与えています。合唱が受け持つ情景描写の部分が、ことさらの思い入れもなくあっさり過ぎていくのを見ていると、コープマンはこの曲の中のドラマ性を、ことさら強調しないというスタンスで演奏しているのでは、という思いが強まります。例えば、ピラトがキリストとバラバのどちらを十字架につけるかを民衆に問う場面での民衆の答え、「バラバを!」という減七の和音が、いともあっさり歌われたのには、正直拍子抜けしてしまいました。そこは、必要以上の感情は込めず、あくまで音楽として聴いてもらいたいというコープマンのピュアな心が、もっとも象徴的に現れた部分だったのかも知れません。もちろん、コラールなども、くどいほどの思い入れをその中に込める指揮者の多い中、これだけあっさり歌われると逆の意味での感動を呼ぶことでしょう。
そんな流れの中で、テノールのアグニューだけは、果敢に主張のこもった緊張感のあるアリアを披露してくれています。第二部の「Gedult!」など、その真に迫った表現は、まわりが醒めている分、非常に際立って聞こえてきます。反対に、そのサラッとした流れに埋没してしまうだけでなく、さらにテンションを下げることに貢献しているのが、アルトのバルトシュです。アルトのアリアといえば、この曲のまさに「聴きどころ」といっても構わない珠玉の名曲ばかり、それがことごとく暗く、なんのファンタジーも感じられない無惨な姿に変わってしまっているのは、聴いていて辛いものがあります。特に、第2部の冒頭を飾る「Ach! nun ist mein Jesu hin!」は、ヴァイオリンのオブリガートも平板そのもの、バルトシュの稚拙な歌と相まって、言いようのない失望感を味わわされます。
トラヴェルソの名手、ハーツェルツェットにも、何か勢いが感じられないのが残念です。新全集(ベーレンライター版)での6番「Buss und Reu」のオブリガートでは、完全に2番のモーネンに喰われてしまっていますし、49番「Aus Liebe」の長大なオブリガートも、装飾に頼った、力のないものでした。
ちなみに、このCDと同じ内容のものが、DVDでもリリースされています。こういうのも最近の新しい売り方なのでしょう。見ないようにと思っても、きっとあのコープマンのやんちゃ坊主のような顔が飛び込んでくるはず、これを見ながら聴いたら、あるいは音楽の印象も異なって感じられるのかも知れませんね。

3月29日

BEETHOVEN
Abertura Coriolano, Sinfonias 1,4
John Neschling/
Orquestra Sinfônica do Estado de São Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 210


長いことCDと付き合ってきましたが、クラシックでブラジル製のCDなんて、初めて見ましたよ。ジャケットはポルトガル語表記、「ベートーヴェン」はもちろん分かるのですが、「Abertura Coriolano」とはいったい何なのでしょう。そもそも、オーケストラの名前からして分かりません。どこかの都市にあるオーケストラのようですが、「サオ・パウロ」なんてところ、ありましたっけ(「棹、入ろ」なんちゃって・・・あぶない、あぶない)? 慌ててブラジルの地図を出してみたら、それは「サン・パウロ」のことでした。そうか、「Ã」の上のヒゲがポイントだったのですね。そう言えば、ブラジルの作曲家ヴィラ・ロボスの作品に、「サン・セバスティアンのミサMissa São Sebastião」というのがありましたね。その「サン」だったのですよ。
その、サン・パウロ交響楽団の演奏で「Abertura Coriolano」が始まった時、それは「コリオラン序曲」であることが分かりました。しかし、その演奏は、そんなベートーヴェンの曲名よりは、ポルトガル語で表記されてあったものの方がはるかにふさわしく思えるほど、「ブラジル風」のものだったのには、驚いてしまいました。なんといっても最初のアコードの決めからして、まるでラテン・オルケスタでもあるかのような明るく軽やかな響きが聞こえてきたのですからね。そのあとに続くちょっと憂いを秘めたテーマ、これは小気味よいリズムの刻みにのって、まるでけだるいボサノヴァのよう。そう、これはまさにブラジル人によるブラジル人のためのベートーヴェンだったのです。この序曲は、そんな彼らのスタンスをたちどころに聴く人に伝える格好の「ツカミ」となっています。ここで彼らのブラジル・ワールドへ引き込まれたが最後、もはやどっぷりサンバの国のベートーヴェンを堪能しなければいけないカラダになってしまいますよ。
交響曲の1番と4番という、ある種軽めの選曲も、そんな彼らのアプローチには相応しいものだったのでしょう。早めのテンポでグイグイ引っ張っていく1番のフィナーレなど、まるでリオのカーニバルのようなにぎやかさが醸し出されています。
4番の場合ですと、随所に現れるシンコペーションに、いかにもラテンの趣が感じられます。それは、ベートーヴェンが緊張感を高めようと用いたシンコペーションとはちょっと肌合いの異なる、もっと「ダンス」の要素が勝ったもの、思わず踊り出したくなるようなそのリズムは、ヨーロッパのオーケストラでは絶対に出せないものに違いありません。第2楽章のようなしっとりしたところでも、合いの手に入る楽器のなんと積極的でリズミカルなことでしょう。ほんと、「チャッチャ、チャッチャ」という刻みがこれほど生命力を持って聞こえてきたことなど、初めての体験です。
このところのベートーヴェン演奏のシーンは、やれオリジナル楽器だ、やれ原典版だ(ブライトコプフ新版というのが、そろそろ出始めていますね)と、より「オーセンティック」な方向を求めることが主流となっています。そこへ現れた、ひたすらマイペースのこのサン・パウロ交響楽団、演奏者一人一人が肩の力を抜いて楽しんでいる顔が目に浮かぶようです。こんな音楽が聴けるのなら、もう少し生きていても良いな、そんな「勇気」すらも与えてくれたCDでした。

3月27日

XENAKIS
Complete Works for Solo Piano
高橋アキ(Pf)
MODE/MODE 80


「ピアノ曲全集」というこのタイトルは、CD本体に印刷されている言い方、ジャケットの方では単に「Works for Piano」と書かれているだけです。実はこのアルバム、1999年にリリースされたこのレーベルの「クセナキス・エディション」の第4巻だったのですが(確か、現在は第6巻までが出ていたはず)、その直後、2000年に出版されたクセナキスの1950年頃のいわば「習作」を加えて、晴れて「Complete」として2006年にリイシューされたものなのです。確かに、新録音の曲目の表記は追加されていますが、ジャケットも全く同じ、そしてなによりもコンテンツが変わっているのに品番が一緒というのが、理解に苦しむところです。1999年盤を買った人には、無償で交換に応じるというのでしょうか。なんでも今回は新たにハイ・デフィニッションでリマスタリングされているとか、それなりの付加価値を付けたのは分かりますが、品番が同じというのはねえ。
あいにく、と言うか、幸い、というか、前のCDを買ってない私としては、例えば「Herma」での、聴き慣れた高橋悠治とは全く異なるアプローチに、かつてないほどの新鮮な味わいを見出すことになります。いわば、テクニックの極地をかけて、演奏不可能なものに挑んでいるという悲壮感すら漂うほどの悠治に比べて、アキの方はしっかり一つ一つの音をいとおしんでいるかのような演奏。もしかしたら、その中に叙情性さえも感じられるほどの、みずみずしい「Herma」でした。
打楽器を含む小アンサンブルとピアノとの共演という形の「Palimpsest」なども、例えば似たような編成の「Eonta」(「全集」と言いながら、この曲が入っていなかったのはなぜでしょう)あたりに見られたおどろおどろしい情念が見事に払拭された、見晴らしの良いものに聞こえてきたのも、ピアニストの違いが大きく影響していることは間違いないでしょう。このドラムのノリの良さは、ちょっとした聞きものです。
そして、その、今回が世界初録音となった「ピアノのための6つのシャンソン」は、ごく最近までその存在すらも知られていなかった作品です。これは彼がまだ学生として、パリでダリウス・ミヨーやオリヴィエ・メシアンに師事していた時期のもの。私も含めて、彼の作風は1954年のいわばデビュー作「メタスタシス」から一貫して変わらないものだったという認識を持っていた人達にとっては、これを聴くことはまさに衝撃的な体験以外の何者でもありませんでした。ギリシャのフォーク・ミュージックを素材とした、例えばバルトークの多くのチャーミングなピアノ曲に共通するセンスを持つ、言ってみれば「フツーの」曲たち、その、きちんとした和声と終止形を持つ音楽を聴くことによって、複雑な思いを抱いてしまうのは、私だけではないはずです。4曲目の「3人のクレタの修道士」などは、殆どヒーリング・ミュージックと言っても通用しそうな面持ちですからね。たしか、リゲティあたりも、スタート時には同じようなスタイルを持っていたはず、しかし、それから徐々に作風を変えていったリゲティとは異なり、クセナキスの場合、その変化の度合いはあまりにも急激です。わずか4年でここまで変われるなんて。
そんな、クセナキスの全貌を知る上で欠かすことの出来ないこんな珍しい曲の「初録音」だというのに、このリリースの扱いはどう考えても不可解です。

3月26日

Ich war ein Berliner
James Galway(Fl)
Herbert von Karajan, Karl Böhm/
Berliner Philharmoniker
DG/00289 477 6077


RCA(つまり、SONY BMG)から、鳴り物入りでDGへ移籍したゴールウェイですが、新天地でリリースされたアルバムはヒーリングっぽい名曲集1枚だけというのは、何だか寂しい感じでした。そこへ、やっと届いたニューアルバムが、なんと過去のベルリン・フィルの録音の中で、ゴールウェイが参加しているものを集めたコンピレーションだというのですから、寂しさを通り越して怒りさえおぼえてきたものです。このレーベルは、この不世出のフルーティストを飼い殺しにしようとしているのでしょうか。お彼岸は終わったというのに(それは「半殺し」)。
しかし、見方を変えれば、オーケストラのメンバー一人をクローズアップしたアルバムなど、極めて異例な企画なわけですから、そこに価値を見出すことも出来るのかも知れません。最近でこそ演奏しているメンバーを全てライナーに掲載しているものもほんの少しは見かけるようになってきましたが、ゴールウェイがベルリン・フィルに在籍していた1970年代前半にはそんなものはありませんでした。いかに卓越したプレーヤーであっても、特別なソロを任される時以外には、その名前がクレジットされることはなく、ひたすら「オーケストラの一員」という匿名性に甘んじていたのです。ゴールウェイだからこそなし得たコンピ、多少お手軽な感は否めませんが、彼の「凄さ」が反映したものとして、とりあえず素直に喜んでみることにしましょう。
ジャケットの写真が、あのDGお抱え、カラヤンを始めとする多くのこのレーベルのアーティストを撮ってきたラウターヴァッサーによるものだというのは、注目に値します。白ネクタイの燕尾服姿のゴールウェイの写真など、極めて貴重なものでしょう。しかし、もっと貴重なのは、ブックレットの裏表紙の、この写真です。
アルバムの中で木管五重奏を演奏しているメンバーの写真なのですが、手に楽器を持っていなければ、この、まるでカーネル・サンダースのようなおじさんがゴールウェイその人だとは、にわかには信じがたいことでしょう。「DG時代」というのは、こういうことなのです。
曲目を見ると、その木管五重奏のテイクがかなりの量を占めているのが分かります。これはすでにアルバムがCD化されているのでそちらをきちんとカタログに確保しておけば済むことなのですが、もう廃盤になってしまっているのでしょうか。あるいは、これを使わないことには、アルバム1枚分のコンテンツには満たないと判断したためなのでしょうか。そうなのです。ゴールウェイがベルリン・フィルに在籍していた5年間に彼がDGに残した録音の中には、本当にオーケストラの中のソロ・フルーティストとして聴きたいと思える曲目は、実はあまりなかったのです(この時期、カラヤンはEMIにも録音を行っていました)。その辺の詳細はこちらのリストをご覧になって頂ければ分かりますが、例えば、このアルバムに収録されているビゼーにしても、「アルルの女」のメヌエットは入れていますが、「カルメン」の間奏曲は入れてはいないのです。さらに、誰でも絶対に聴きたいと思うはずのドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」だって、公式の録音はおろか、海賊盤やエア・チェックのテープすら存在しないのですからね。クーベリックとドヴォルジャークの交響曲全集を作った時も、最もフルートが活躍する「8番」だけは、なぜかゴールウェイは吹いていないのです(実は、入団前)。
アルバムタイトルが「過去形」であることが、なぜか気になってしまうのは、私だけでしょうか。

3月24日

Vienna State Opera Gala
Baltsa, Gruberova, Kirchschlager,
Domingo, Hampson, Terfel, Botha and more
Ozawa, Mehta, Thielemann, Gatti, Welser-Möst/
Chorus and Orchestra of the Vienna State Opera
EUROARTS/2054928(DVD)


昨年2005年は、戦災にあったウィーン国立歌劇場が再建され、オペラの上演が再開されてから50年が経ったという記念すべき年だったのだそうです。そこで、それを祝ってガラ・コンサートが開かれることになりました。もちろん、会場は満席、「ガラガラ」になることはありませんでした。11月の5日に開催されたそのコンサートの模様が完全収録されたのが、このDVDです。3時間に及ぶその豪華な催しを、存分にお楽しみ下さい。残念なのは、これがNTSCという普通のテレビの規格だということです。もっとも、現在国内で出ているDVDは全てこの方式によるものなのですが、元々のソースの制作はオーストリア放送協会とNHKが共同で行ったもので、しっかりハイビジョンで収録されています。そして、これは先日NHKBSのハイビジョンチャンネルで放送されましたから、それなりの装置を持っている人であれば無料で(もちろん、システムに費やした資金は無視します)見ることが出来るだけでなく、HDに保存しておけば、将来市場に出回るであろう次世代ヴィデオディスクとして残すことも可能なわけです。ですから、それよりもはるかに画質の劣る(あくまでも、それなりの装置を持っている人に限りますが)ディスクをわざわざお金を出して買うことにどれほどの意味があるのか、という点については納得のいかない部分が残りますが。
しかし、この夢のようなステージを眼前にしては、そんな些細なことはどこかへ吹っ飛んでしまうはずです。指揮者だけで、現音楽監督の小澤征爾を始めとしてメータ、ティーレマン、ガッティ、ウェルザー=メストという超豪華メンバーが5人、歌手に至ってはドミンゴ、ターフェル、バルツァ、グルベローヴァ、ハンプソン等々、数えきれないほどの人達が出演しているのですからね。
コンサートの流れとしては、この歌劇場が再開された時に上演された6つの演目の一部を、5人の指揮者にそれぞれ指揮をさせる、というものです。ただ、小澤だけは特別扱い、まずオープニングで「序曲レオノーレ第3番」を演奏したあと、大トリとして「フィデリオ」の大詰めを指揮する、という、まさに「ホスト」の貫禄です。2番手のメータは「ドン・ジョヴァンニ」、ティーレマンだけ2曲で「薔薇の騎士」と「マイスタージンガー」、ガッティは「アイーダ」、ウェルザー=メストは「影のない女」という演目があてがわれています。
演奏はもちろんこの歌劇場のオーケストラ、別の場所では「ウィーン・フィル」と呼ばれている団体です。このようなトップクラスのオーケストラと歌手が一堂に会した場で最も重要になってくるのは指揮者の手腕でしょう。私が最も素晴らしいと思ったのは、映像を見るのはこれが初めてのガッティでした。担当の「アイーダ」で、オーケストラにも、そして歌手にも十分の自由さを与え、それでなおかつ全体を自分の音楽でまとめ上げるという力は凄いものです。自分の主張が空回りしていたティーレマンとは、まさに好対照でした。われらが小澤も、全体のまとまりにまでは気が回らないのがありあり、このつまらないオペラに聴き手の耳をそばだてさせられることは、ついに叶いませんでした。
歌手陣での最大の収穫はヨハン・ボータです。風貌に似合わぬ繊細この上ない歌唱は、まさに絶品でした。オクタヴィアンを歌ったキルヒシュラーガーの、ボーイッシュなのにセクシーというファッションも素敵ですね。
ステージの上には、それこそ1955年の舞台を踏んだ歌手たちが、「来賓」として座っていました。そんな殆ど伝説上の人達、誰も知っているわけはないと思っていたら、一人だけ、上手の出入り口のすぐ前に座って、出演者たちとオーバーアクションで握手を交わしているクリスタ・ルートヴィヒの姿が目に付きました。バーンスタインの指揮で、このオペラハウスでマルシャリンを歌っていたのはついこの間だと思っていたのに、彼女はもう引退していたのですね。

3月21日

OHKI
Symphony No.5 "HIROSHIMA"
湯浅卓雄/
新日本フィルハーモニー交響楽団
NAXOS/8.557839J


かつて、「大木正興(おおき まさおき)」という有名な音楽評論家がいました。テレビやラジオでクラシック番組の解説をしていた非常に特徴のある顔としゃべり方をした方ですが、いかにも親しみやすい語り口の裏に姿をのぞかせていた陳腐な知識のひけらかしには、鼻持ちならないものをおぼえた記憶があります。もちろん、その様な人の業績が今日まで伝えられることは決してなく、今では誰も知る人もいない過去の人になってしまっています。
今回の「大木正夫」は、発音こそ似ていますが全くの別人、常に確固たる主張を持って生きていた、本物の音楽家です。1901年生まれ、という事は、「椰子の実」の大中寅二(1896年生まれ)や「春の海」の宮城道雄(1894年生まれ)などといったまさに日本の作曲界の創生期を担った人たちに限りなく近い位置を占めていたということになります。
おそらく、知名度としては、生前はそれこそ大木正興と間違えられてしまうほどで、決して高いものではありませんでした。というのも、彼が活躍していた場が例えば「労音」といった、左翼的な基盤を持ったところが中心だったせいなのかも知れません。やはり現金払いでなければ(それは「ローン」)。彼の代表作であるカンタータ「人間をかえせ」にしても、演奏されていたのは「コンサート」ではなく、「集会」のような趣を持ったものだったのではなかったのでしょうか。ある種プロバガンダのような性格をその中に見つけ出してしまわれれば、まっとうな音楽作品としての評価を得ることは極めて難しくなるのは、この国でのいわば「掟」です。
その様な作曲家の姿勢の、まさに先鞭を付けたものと位置づけられているこの交響曲第5番「ヒロシマ」、しかし、そこにあったものは、単に原爆の惨状を訴えるという表面的なメッセージにとどまらない、まさに「音楽」としての確かな訴えかけを持った極めて完成度の高い作品としての姿だったのです。特に、その独特のオーケストレーションの妙味は、作られた時代を考えると驚異的ですらあります。バルトークやストラヴィンスキーといった当時の「最先端」の音楽からの技法を取り入れただけではなく、弦楽器のハーモニックスを、まるでクラスターのように重ねると言った、まさに時代を超えた技法までものにしているのですから。ただ、そこで重要になってくるのが、本当に伝えたいものは古典的な手法に頼るという基本姿勢です。彼が敬愛したというベートーヴェンにも通じるようなテーマの設定によって、そこからは、誰でも一義的なメッセージは読み取ることが出来る程の明快さが生まれます。それと同時に、それらを覆う前衛的な仕掛けによって、それは単なる社会的な訴えかけを超えた「音楽」あるいは「芸術」といった次元にまで昇華しているのです。
そんな巧妙な二面性は、もしかしたら、作られて50年以上経った今だからこそ、その中に見出すことが出来たのかも知れません。今回が初録音となった湯浅卓雄の、実にキレの良いスマートな演奏も、1950年代では決してなし得なかったものであったに違いありません。
もう1曲、戦前の「日本狂詩曲」という作品は、うってかわって、いわば「右寄り」の趣さえ持とうかという、ナショナリズム礼讃の脳天気な曲です。しかし、この当時の作曲家としては、外国に負けないだけの自国の資産を信じて疑わなかったことは事実です。その様な、どんな状況にあっても強固な信念に基づいて音楽を作った大木正夫、その真摯な態度に、心を打たれないわけがありません。

おとといのおやぢに会える、か。


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