女難ちっく。.... 佐久間學

(06/5/6-06/6/2)

Blog Version


6月2日

KODÁLY
Works for Mixed Choir Vol.2
Péter Erdei/
Debrecen Kodály Chorus
HUNGAROTON/HCD 32365


エルデイ指揮、デブレチェン・コダーイ合唱団というメンバーによってHUNGAROTONで進行中のコダーイ混声合唱全集の第2集です。年代順に作品を網羅していこうというこの全集、今回は1937年から1947年までの10年間、作曲家が55歳から65歳という、まさに円熟期の作品が収録されています。そして、この時代は、あの戦争が始まる時期とも重なっています。
前回、「第1集」を聴いた時には、それほど良い印象はありませんでした。しかし、今回のものを聴いてみて、そのあまりの違いには愕然とさせられてしまいました。まず、録音の状態がまったく違います。まるで素人が関わっているような、焦点のぼやけた前回のものとはまるで別物、声の「芯」がしっかり捉えられた今回の録音は、まさにプロの仕事と言えるクオリティを持っていたのです。なぜか、録音データがどこにも掲載されていないのででーたらめなことは言えないのですが、録音場所も、そしてエンジニアも変わっていなければ、これほどの違いは出るはずはありません。そして、なによりも、前回あれほど無気力な演奏しか聴かせてくれなかった合唱団が、まるで別の団体であるかのように表情豊かなものに変わっているのは、一体どういうわけなのでしょう。前の演奏がありますから全く期待しないで臨んだ私としては、これは嬉しすぎる誤算でした。
実際、録音の違いだけでは片づけられないこのハイレベルの演奏には、ちょっとすごいものがあります。なによりも、しっとりと落ち着いた「大人」の音楽を聴かせてくれる各パートの味がたまりません。そして、それが溶け合った時の一体感も見事としか言いようがありません。そんな魅力は、最初に入っている、ご存じ「孔雀」ですぐ味わうことができます。もちろん、この曲は本来は男声合唱のために作られたものですが、それを混声で歌ってもなんの違和感も与えられないほど、男声と女声の音色、そして表現は「同質性」を保っています。
同じように、男声版が良く聴かれる(本来は「同声」のためのもの)「夕べの歌」でも、この前聴いた乱暴な「男声版」の鬱憤が見事に晴れるようなとてもデリケートなハーモニーが味わえるのはなんとも嬉しいことです。
「嘆かないで」という、やはり最初は男声合唱のために作られた曲も、冒頭の男声だけによるオクターブ・ユニゾンを聴くだけで、その辺の男声合唱団よりも迫力も、そしてそこから生まれる訴えかける力も格段に勝っていることを感じることが出来るはずです。
ここに収められている曲が作られた時代、作曲家としてのコダーイも、第1集の時に比べてよりスキルアップしているのがまざまざと感じられます。同じ愛国心を歌い上げたものでも、ここでの「ハンガリー国民」で見られるのは、第1集にあった「忠誠の歌」のような力ずくのものとはひと味違った芸術作品としての完成度です。
そして、「戦争」の陰を色濃く落としているはずの1947年の作品「哀歌」に込められた透き通るような肌触りはどうでしょう。ちょっとびっくりするような不協和音は、それまでのコダーイの作品には見られなかったもの、それは、「ヴァイオリンは壊れ、歌は凍てつく」という歌詞が、見事に音楽として昇華されたものなのでしょう。そして、最後に響き渡るハ長調のハーモニーの、なんと美しいことでしょう。
この全集、あと1巻予定されています。それはいったいどんな演奏、そしてどんな録音になっているのでしょう。

5月31日

GRAYSTON IVES
Listen Sweet Dove
Bill Ives/
The Choir of Magdalen College, Oxford
HARMONIA MUNDI/HMU 907420


「キングズ・シンガーズ」という1968年に結成されたコーラスグループについては、ここでたびたび取り上げているのでお馴染みのことでしょう。代表作は「なみだの操」ですね(それは「殿様キングス」)。オリジナルのテナーのメンバーだったアラステア・トムソンの後を受けて1978年からこのグループに加わったのは、ビル・アイヴズという甘いマスクと声を持った小柄な人でした。彼は1985年まで在籍し、そのポストをこのグループの歴史上最悪のテナーだったボブ・チルコットに譲ることになるのです(ちなみに、彼もすでに脱退して、現在は4代目テナーのポール・フェニックスがメンバーとなっています)。私が彼らのステージを初めて聴いた時のテナーがこのアイヴズ、彼のソロは、とことん魅力的でした。
そのアイヴズが、何と、今では聖歌隊の指揮者としてこんなCDを出しているなんて、初めて知りました。しかも、これがこのレーベルへの3作目というのですから、本当に迂闊でした。しかし、キングズ・シンガーズ時代から20年以上経つと、こんなに変わってしまうものなのですね。これでは道で出会っても(あり得ませんが)絶対に分かりません。

さらに、サプライズは続きます。このアルバムは、彼が指揮をしているオクスフォード・モードレン・カレッジ聖歌隊が、「グレイストン・アイヴス」という人の作品を演奏しているというものなのですが、この「グレイストン」というのは、ビルが曲を作る時に使うペンネーム、つまり、これは彼の自作自演盤だったのです。そこで、改めて彼の経歴を調べてみると、学生時代にはリチャード・ロドニー・ベネットに師事していたり、教会のオルガニストを務めていたということも分かりました。ここに収められた彼の作品は1973年から2000年までのもの、キングズ・シンガーズをやっている間も、彼はすでに「作曲家」だったのですね。
というのは、ただの「ゴシップ」に過ぎません。ここで私達が聴くことが出来るのは、卓越した指揮者によって非常にハイレベルの訓練を受けた合唱団が、心の琴線に触れるすべを心得た優れた作曲家の作品を見事に演奏している姿以外の何者でもありません。
この聖歌隊は、ソプラノパートだけが少年によるもので、アルトは成人男声が受け持っています。従って、この手の合唱団にありがちな不安定さが殆ど感じられないというのが特色です。「Ego sum panis vivus」と「In pace」という2曲が、アルトも含む「男声」だけのための曲ですが、その済みきった響きは素晴らしいもの、そんな男声に支えられてトレブルパートが加わった時、そこには信じがたいほどの純粋な世界が広がります。
アイヴズの作品はまさに中庸を心得たオーソドックスなたたずまいを持ったものです。1973年のタイトル曲「Listen Sweet Dove」に見られるキャッチーでシンプルな持ち味が、おそらく彼の作品の原点なのでしょう。しかし、その後の作品の中にはさらに魅力的な要素がふんだんに盛り込まれているのを感じることが出来るはずです。この中でもっとも大規模な作品が、エドワード・ヒギンボトムから委嘱を受けた「ミサ・ブレヴィス」ですが、そこにはあのデュリュフレをも思わせるような猥雑さが漂うほどの魂が見え隠れはしていないでしょうか。「Lord, is it I?」という、今をときめくダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をモティーフにした曲での行き詰まるほどの緊迫感はどうでしょう。「A Song of Divine Love」では、8つの声部から成る精緻なハーモニーが、まるでメシアンのような趣をたたえています。かと思うと、「Nos autem gloriari oportet」などは、作曲者自身も述べているように、まさにブルックナーのモテットが持つ振幅の大きな世界です。

5月29日

日本一の無責任大作戦
クレイジーキャッツ
東芝
EMI/TOCT-26009/10

「ハナ肇とクレイジーキャッツ」が世の中に与えたインパクトを身をもって体験している人など、もはやほとんどいなくなってしまったと思えるほど、この偉大なコミックバンドの歴史は長いものになっています。実際には、昨年2005年が、「創立50周年」というけっして短くはない歳月の積み重ねの節目となっていた事を知って、愕然としているところです。これがどれほどの重さをもつのかは、7人のメンバーのうちの3人までがすでに他界しているという事実からも推し量る事ができるはずです。このジャケットの集合写真、「真ん中にいる人は早く死ぬ」とよく言われますが、なぜか最も端の安田伸(左上)、石橋エータロー(右上)、そしてリーダーのハナ肇(右下)が先に鬼籍に入ったのは、常に常識に逆らってきた彼ららしいと言えないこともありません。
彼らのシングルをほぼ網羅したアンソロジーは、その2005年に2枚組みCD2セットという形でリリースされていましたが、今回のものはごく最近松任谷由美とのコラボレーションとして発表されたシングルも含め、かつて、同じように他のアーティストと共演した作品をカップリングした2枚組みのベスト盤となっています。当然、曲目は2005年のものよりは少なくなりますが、クレイジーを語る上で欠かす事の出来ないアイテムは全て揃っていますので、ご安心を。
ところで、クレイジーのベストといって私たちが思い出すのは、今から20年前、1986年に大瀧詠一のプロデュースによって作られたこのアルバムです。

 東芝EMI/CA32-1276

まさに「クレイジーおたく」であった大瀧による選曲と、克明なデータを伴ったライナーによって、このアルバムはその時点で完璧な価値をもつ資料となりえていました。ただ、音源としては、過激な歌詞が災いしてオリジナルとは微妙に違った形でしかリリースできなかった名残がまだ解消できていなかったというところが、悔やまれるところではありました。具体的には、「シビレ節」の「じいさんは中気で〜」という部分が「ピー」、そして、「五万節」が、「犯罪を助長しかねない」3番と6番の歌詞を差し替えて新たに録音されたテイクが使われているという2点です。「五万節」に関しては、オリジナルバージョンが放送禁止になったということで、急遽新録音を行い、リリースから1ヶ月後に品番を変えずにニューバージョンを発売するということが行われた結果、オリジナルバージョンはとてつもないレア・アイテムとなりました。そして、86年の時点ではマスターテープも処分されたと信じられており、世の中には板起こしのカセットしか存在していなかったという状況だったのです。
しかし、作品を、作られたままのオリジナルの形で味わえるようになるという時代は、何もクラシックに限って訪れたものではありませんでした。今回のベスト盤では、晴れて何の手も加えられていない「シビレ節」や「五万節」を聴くことが出来ます。もちろん、私がCDでオリジナルバージョンの「五万節」を聴くのは初めてのこと、感慨もひとしおです。
彼らの1961年のデビューシングル「スーダラ節」を改めて聴いてみる時、青島幸男の歌詞、萩原哲晶の曲とオーケストレーション、そして植木等のボーカルに込められたとてつもない脱力感には、言葉を失います。ある意味「モーツァルト」とも肩を並べるだけの力を持つその世界観は、250年後でもその価値を失うことはないはずです。同じ曲の宮川泰のアレンジによる1979年のバージョンともども、「Still Crazy for You」という、「クレイジー」としての魅力が何もない駄作は、もちろんその前にとっくに記憶から洗い流されているに違いありませんが(「クレンザー」で)。

5月25日

PERGOLESI
Stabat Mater
Emma Kirkby(Sop)
Catherine Denley(Alt)
Simon Johnson/
St Albans Abby Girls Choir
London Baroque
LAMMAS/LAMM 184D


アルバムのメインはペルゴレージの「スターバト・マーテル」ですが、「銀河鉄道999」は入っていません(それは「マツモトレージ」)。録音されたのは2005年、そして、メインのアーティストは、今年創立10周年を迎えるという、7歳から15歳までの少女25人から成る合唱団です。もちろん、私としてはソリストとして参加しているカークビーがお目当てなのは、言うまでもありません。1988L'OISEAU-LYREに録音されたこの曲の精緻な演奏が忘れられないものとしては、それから20年近く経ってカークビーがどのように変化を遂げているかも興味があるところです。しかも、このアルバムの最初と最後には、私が最初に彼女と出会った曲、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの「O Euchari」と、モンテヴェルディの「Confitebor tibi」までもが入っているではありませんか。こちらはもう20年以上前のこと、出来たばかりのマイナー・レーベルHYPERIONの、これも出来たばかりのコンパクト・ディスク(CD、ですね)から聞こえてきたカークビーの声を聴いた時の衝撃は、今でも忘れることが出来ません。クラシックの女声歌手といえば、ベル・カントでビブラートたっぷりに歌うのが当たり前、と思っていたところに現れたこの声、無理に張り上げなくても、ビブラートを付けなくても、こんな美しい声を出すことが出来るのだと、まさに目から鱗が落ちる思いでした。それは、この時代の音楽になんとよくマッチしていたことでしょう。
L'OISEAU-LYRE/425 692-2
HYPERION/CDA66039(1981)
HYPERION/CDA66021(1981)

今回のCDは、教会の中で録音されたもの、少女の合唱も、彼女のソロもとても雰囲気のあるソフトな音で収録されています。しかし、その様な素晴らしい録音だからこそ、彼女の声がすっかり変わってしまったことがはっきり分かってしまうという残酷な体験にも遭わざるを得なかったとは。最初のトラックのヒルデガルトでは、HYPERION盤で長らく親しんできたピュアなイノセンスは全く失われ、そこからはどこにでもいるただの歌手の声しか聞こえてはこなかったのです。以前の彼女には、声自体にしっかりとした存在感がありました。しかし、今ではそれが希薄になってしまった分、いたずらに策を弄している姿だけがありありと伝わってくるのです。言ってみれば、何も手を加えなくてもそれだけでおいしい新鮮な食材と、香辛料やソースでごまかさなければ食べることの出来ない食材との違いのようなものでしょうか。
ペルゴレージでも、その辺の感触は同じです。今回はL'OISEAU-LYRE盤のようなソリスト2人だけで演奏されたものではなく、一部の曲が合唱に置き換えられています。その合唱については何も語らないことにして、ここでのカークビーも全く別の人ではないかと思えるほどの変わりようであったのには、失望させられてしまいました。彼女は6曲目の「愛しい御子が苦悶の中に息絶えるのを見られた」という意味のテキストのソロ「Vidit suum dulcem natum」で、88年には後半にとてつもないピアニシモを聴かせてくれていました。それは、まさに聖母の哀しみが痛いほど伝わってくる、殆ど聞こえるか聞こえないような、それでいて確かな力を伴ったものでした。今回も、彼女はそれと非常に「似た」ことをやっています。しかし、そこからは、あの背筋の凍り付くような表現とは全く異なる、単なる作為のようなものしか感じらなかったのはなぜなのでしょう。
かつて私を感動させた彼女の声は、彼女以外の誰にも出すことの出来ないものでした。しかもそれは同時に、ある時期の彼女以外には、決して出すことが出来ないという、何とももろくはかないものだったのです。

5月22日

STRAVINSKY
Le Sacre du Printemps*, Mavra
Soloists
Péter Eötvös/
Junge Deutsce Philharmonie*
Göteborgs Symfoniker
BMC/BMC CD 118


ストラヴィンスキーの「春の祭典」と「マヴラ」をカップリングしたという、いかにもエトヴェシュらしいアルバムです。特に「マヴラ」などという作品、私にとっては初めて聴くもので、なかなか興味を惹かれるものでした。眠たくなることもありませんでしたし(「マクラ」、ですね)。
まず、「春の祭典」。もはやオーケストラのレパートリーとして「古典」ともなってしまったこの作品、まさに「名曲」として、さまざまな演奏家がさまざまなアプローチを試みたものが、山のように出回っています。そんな中にあってこのエトヴェシュの演奏は、作品から一定の距離を置いてあまり深い思い入れは込めず、スコアから音楽としてのメッセージを出来る限り伝えようとしているように思えます。このような姿勢の演奏、かつてブーレーズが1963年にフランス国立放送管弦楽団と行った時にはセンセーショナルなほどの物議をかもしたものですが、今となっては数多くのスタイルの一つに過ぎなくなっています。
エトヴェシュの場合、若いメンバーで構成されたオーケストラということもあって、その直截さは際立っています。冒頭のファゴットソロのなんの屈託もない明るさを聴くだけで、それは分かることでしょう。各楽器の鮮明な聞こえ方は、それこそブーレーズの比ではありません。普通はまず聞こえてくることのないアルトフルートが、こんなにはっきり聞こえる演奏など、初めてです。余計な思い入れが皆無なのは、「若い娘たちの踊り」のシンコペーションのパルスが、いともあっさり演奏されていることでも分かります。このエネルギッシュな部分をこんな風に演奏されると、エトヴェシュがこの曲から引き出そうとしたものは、粗野な力ではなく、もっと洗練された美しさなのではないかという思いが浮かんでくるほど、そしてそれは、第2部の冒頭を支配している透明な情景を味わう時、さらに現実味を帯びてくるのです。
1922年に初演された「マヴラ」は、作曲者が「新古典主義」の時代に入った時期の作品とされています。これは、彼の作った数少ない「オペラ」のひとつ。そもそもこの曲は1921年に聴いたチャイコフスキーの「眠りの森の美女」のロンドン初演に触発されて作られたと言いますから、その中にはベタなロシア民謡がふんだんに盛り込まれています。その上で、チャイコフスキーやグリンカのロシアオペラ、そして、もっと昔のイタリアのオペラ・ブッファのパロディという体裁を取っているという、何ともハチャメチャな作品です。台本にしても、そもそもタイトルの「マヴラ」というのが、登場人物の若い兵士が、恋仲の娘に頼まれて女装した時の名前なのですからね。前にこの家にいた料理人が死んでしまったので、その代わりということで召使いの振りをしてやってきた「マヴラ」、しかし、家の中に誰もいないと思って髭を剃り始めたら、母親が帰ってきたので彼女(彼)は窓から飛び降りる、という、どこかで聞いたことのあるようなストーリーです。あいにくライナーにはあらすじだけで対訳は載っていないため、細かい状況までは分かりませんが、歌手たちの大げさな歌い方の陰に潜むアイロニーは十分に伝わってきます。それを可能にしたのは、何と言っても手兵イェテボリ交響楽団の管楽器メンバーから軽妙な洒脱さと、シニカルなまでの冷徹さを引きだしたエトヴェシュの力でしょう。

5月17日

GOUNOD
Ave Maria & Messen
Martin Schmending(Org)
Toralf Hildebrandt/
Jugendkantorei Hösel
ARS/ARS 38 014(hybrid SACD)


グノーと言われて頭に浮かぶのは、やはり「アヴェ・マリア」でしょうか。あのバッハの「平均律クラヴィーア曲集」の最初のハ長調のプレリュードをそのまま伴奏に使って流麗なメロディーを作り上げたという、誰でもご存じの名曲です。ただ、この曲があまりにも有名になってしまったために、作曲家としてのグノーは今では殆ど「一発屋」と愚弄されているのではないでしょうか。
宗教音楽の作曲家としては、21曲ものミサ曲を残していることが知られています。それらは、オペラ作り(「ファウスト」が有名ですね)に忙殺されていた壮年時代には完全に中断されていて、青年期の1839年から1855年までと、晩年の1870年から1893年の間に作られています。これらのミサ曲、1855年に作られた「聖セシリアミサ」だけは比較的有名で録音も数多く存在しますが、その他のものはかなり限られた仲間内でのポピュラリティしか獲得できていないのではないでしょうか。そんな中、たまたまCDショップの店頭で目に付いたのがこのアルバムです。ジャケットを見る限りでは、演奏しているのはどうやら「若い」人たち、ただ、タイトルの冒頭にあの「アヴェ・マリア」とあるのが、ちょっと気にはなります。
実際に詳細なライナーノーツを読んでみると、歌っているのはドイツ、デュッセルドルフの近くにあるラティンゲン・ヘーゼルという街にある学校の生徒による合唱団でした。「4年生から13年生」ということ、日本ではどの辺の学年に対応するのかは分かりませんが、写真で見る限り小学生の低学年から高校生ぐらいまでのメンバー、そして「女の子」も入っています。ただ、レベル的にはこの合唱団はかなりお粗末、とりあえずきれいなハーモニーが聞こえる瞬間はありますが、それが美しさとなって聴き手の耳に届くにはまだまだやるべきことが残っている、という感じです。なによりも男声パートがあまりにも貧弱、パートソロが出てくるところはとりあえず聴かなかったことにしておきましょう。
グノーのミサには、色々な編成のものがあるのですが、ここではこのメンバーに合わせて混声4部にオルガンの伴奏が付くという形で、ゲルハルト・ラーベという人が編曲したものが演奏されています。先ほどちょっと嫌な予感がした通り、これはどうやら「アヴェ・マリア」を含めて、オルガンを伴った教会での合唱の響きをSACDで味わってもらいたいという、かなり「軽め」のコンセプトを持ったアルバムだったのですね。
そんな、ひたすら締まりのない演奏で、1890年に作られた「ミサ・ブレヴェ第7番」と、1855年の「ミサ・ブレヴェ」が続きます。均整のとれたフォルムと、ほどよい甘さを持った魅力的な曲であるのは分かりますが、もっときちんと訓練された団体が歌えば、さらに美しいのだろうな、などと考えながら、1846年という最も早い時期に作られた「ミサ曲第2番」が聞こえてきた時、何か懐かしい思いに駆られるものがありました。「Gloria」の途中で短調になった部分など確かに聴いたことがあります。というより、実際に歌ったことがあるような気がしてきました。それもそのはず、この曲は本来男声合唱とアド・リビトゥムのオルガン伴奏のために作られた曲、男声合唱には珍しいミサ曲として、しっかりレパートリーに定着しているあの曲ではありませんか。懐かしさが手伝えば、どんないい加減な演奏でも思いは残ります。非常に個人的な感慨のみで、このアルバムは存在価値を持つことになりました。
もちろん、なんの因縁も持たない人にこれを勧めることは決してありません。「目玉」であるはずの「アヴェ・マリア」のお粗末な編曲と、ソロを担当しているハルトムート・ロスくんの情けない声は、まさに爆笑ものなのですから。

5月15日

BACH
St Matthew Passion
Van der Meel, Schöfer(Ten)
Nolte, Chun, Müller-Brachmann(Bas)
Couwenbergh(Sop), Kielland(Alt)
Helmut Müller-Brühl/
Dresden Chamber Choir, Cologne Cathedral Boy's Choir
Cologne Chamber Orchestra
NAXOS/8.557617-9


「ダ・ヴィンチ・コード」の映画がいよいよ公開されますね。この世界的なベストセラーの原作の中に盛り込まれた新しいキリスト教の姿も、今まで以上に大きな話題となっていくことでしょう。もちろん、これはこのアクション小説(そう、これは決して「ミステリー」などではありません)を彩る単なる飾りであって、物語の本質とはそれほど強い関わり合いがあるわけではないのですが、センセーショナルな報道攻勢の前には、そんな正論の声は弱まりがちになります。
しかし、いかに「飾り」とは言っても、これだけの露出を誇る書物の中で扱われれば、そんな、「今まで誰も知らなかった」とされるトリビアに興味を惹かれる人は多くなってくることでしょう。しかも、その内容が非常に面白いとくれば、それだけで今までキリスト教などにはなんの関心もなかった人にまで、この「人間的」な「真実」は受け入れられていくに違いありません。
バッハが「マタイ」を作った時には、聖書の中身を疑うような不埒なことがあったはずもありませんから、もちろんこの曲の中には長いこと受け継がれてきた物語が息づいています。しかし、今、様々な見方があることを知ってしまった私達がこの曲を聴いたり、あるいは演奏する時に、バッハの時代とは少し異なったスタンスを取りたくなってくることだったら、もしかしたらあるのかも知れませんね。
2005年5月という、恐らく現時点では最も新しい録音のこの「マタイ」には、ひょっとしたらそんな考えが反映されているのではないか、などと根拠のない憶測を働かせてしまうほど、この演奏は爽やかな風を運んでくれるものでした。それを象徴しているのが、イエス役のノルテの「軽さ」でしょうか。いかにも犯しがたい存在のように、重く深刻な歌い方をする人の多い中で、この人は実にはかなげなイエスを演じてくれています。これだったら、マグダラのマリアとも温かい家庭を築けるのでは、という感慨もわいてこようというほどの、それは庶民的に感じられるイエスです。
もう一人のバス歌手、ミューラー・ブラッハマンのアリア「Komm süßes Kreuz」でのオブリガートにも、深刻なヴィオラ・ダ・ガンバではなく、ほどよい軽さを持ったリュートが使われているのが、非常に印象的です。ガンバだとどうしても「頑張らなくっちゃ」って気になりますものね。エヴァンゲリストのファン・デア・メールも、やはり深刻な表現とは無縁。直球勝負の潔さが光ります。
女声は、ちょっと力不足でしょうか。ソプラノのコウヴェンベルクの声は、いくらなんでも軽すぎ、ちょっと大きなアリアではテンションが持続していません。アルトのシエランは、声には深いものがありますが、ちょっと表現がワンパターンなのが耳に付きます。
しかし、なによりも、合唱がとても素晴らしいために、そんな傷は殆ど気にはなりません。ハンス・クリストフ・ラーデマンの下振りによるドレスデン室内合唱団という、あの数々の合唱の名盤で知られるCARUSレーベルにも登場している団体は、信じがたいほどよく溶け合った響きを駆使して、ある種手垢だらけのこの曲の姿を、それこそ修復されたダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のようなすがすがしいものに変えてくれました。大詰めの「Wir setzen uns」が異様なほど速いテンポであっさり歌われたとしても、彼らの完璧なハーモニーの積み重ねが繰りかえされれば、それは重苦しさとは別の、軽いけれどもしっかり深みは伴っているという、スマートな感動を与えてくれるのです。

5月12日

MAHLER
Symphonie No.2
Christine Schäfer(Sop)
Michelle DeYoung(MS)
Pierre Boulez/
Wiener Singverein, Wiener Philharmoniker
DG/00289 477 6004
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1292(国内盤)

ブーレーズとウィーン・フィルが共演した衝撃的な映像を見たのは、一体何年前になるのでしょう。その時の曲目はバルトークの「マンダリン」、あまりこういう曲には馴染みのないオーケストラのメンバーが、ブーレーズの指揮に必死になって食らいついているという感じがヒシヒシと伝わってくる、まさに指揮者とオケとの「対決」といった様相を呈していたスリリングなものでした。おっとりした馬に、がむしゃらに鞭を当てている騎手、といった趣でしたね。
そんなブーレーズも、いつの間にか齢80を超えてしまい、紛れもない老境へと入ってきていました。このジャケットの写真を見ると、そんな感慨がとみに湧いてくることを抑えるわけにはいきません。かつてのあの鋭い眼光は一体どこへ行ってしまったのか、そのうつろな瞳の中には、もはや他人を威圧するような輝きはありません。その様な印象が、今回演奏されているマーラーの2番でもしっかり「音」となって感じることが出来てしまうのですから、人間、外見ほど重要なものはありません(外見といえば、昔の写真を見ると彼は禿頭を隠そうとしていませんでした。しかし、いつの頃からか頭頂はたわわな髪に覆われるようになっており、それが今では見事な白髪に、一体何があったというのでしょう)。
第1楽章の冒頭を飾り、その後も何度となく繰りかえされる嵐のようなモティーフの、なんと「ドラマティック」なことでしょう。しかし、それはうわべだけのよそよそしいもの、その中には真の「激しさ」が決定的に欠けていることを感じることは出来ないでしょうか。そこには、自らの意志でオーケストラを鼓舞している姿は全く見られません。そのあとに続く対照的に穏やかな部分が、何ともソフトでメロウなのも、ただウィーン・フィルのいつもの歌い方をなすがままにさらけ出しているというだけのこと、それは、なんのテンションも感じられない、ただ美しいだけの弱々しいものでしかないのです。このセッションでの乗り番のソロフルートはシュルツ、もはやかつての輝きを失ったその暗めの音程は、そんな演奏を象徴しているかのように聞こえます。
「原光」でデヤングが歌い始めると、そんな慎ましやかな風景が一転して華やかなものに変わります。湯気を上げるヤキソバのよう(それは「ペヤング」)。この場ではもう少し抑制して欲しいと思わずにはいられないその奔放な(というより、音程の定まらない)メゾソプラノの毒気にあてられたように、心細げに寄り添うオーケストラの情けなさったら。
しかし、ソプラノ(シェーファーは、逆におとなし過ぎ)や合唱が参加し、様々な場面が交錯する最後の楽章になると、この老人は天性のバランス感覚を駆使して、かなり雄弁なドラマを作り上げてくれました。バンダの金管との絶妙のからみなど、見事としかいいようがありませんし、特に後半の合唱が加わってからの集中力には感嘆せずにはいられません。もちろん、信じがたいほどのピュアな響きを提供してそれをなし得た合唱の力量も称賛に値します。「熱狂」とか「迫力」といった言葉とはついぞ無縁のままエンディングを迎えても、青白い醒めた高揚感が心に残るという、希有な体験を味わわせてくれたブーレーズ、やはりただの老人ではありません。

5月8日

VAUGHAN WILLIAMS
Mass in G Minor etc.
Norman Mackenzie/
Atlanta Symphony Orchestra Chamber Chorus
TELARC/CD 80654


1970年にロバート・ショウが作ったアトランタ交響楽団合唱団は、ショウの指揮の下、多くの録音をTELARCなどに残していました。1999年に彼が亡くなってからは、その去就が注目されていたのですが、その後にリリースされた、例えば「カルミナ・ブラーナ」とか「モーツァルトのレクイエム」では、ノーマン・マッケンジーという人が合唱指揮者としてクレジットされていましたから、恐らくこの人がショウの後を継いだのでしょう。バナナが好きなんですね(それは「チンパンジー」)。今回初めて、そのマッケンジーの指揮によるア・カペラのアルバムがリリースされました。果たして、このコンビはショウ時代の遺産を受け継ぐことは出来ているのでしょうか。
正確には、今回の合唱団は「アトランタ交響楽団『室内』合唱団」というクレジットになっています。『室内』が付かない合唱団は、200人規模の大編成で大きなオーケストラと共演する時のものなのですが、その中から40人からせいぜい60人程度までの編成になったものが、この「室内合唱団」と呼ばれる団体なのだそうです。あくまで比較の問題、確かに200人に比べれば60人でも「小編成」にはなりますね。
曲目はタリスからタヴナーまで多岐にわたっていますが、私にはヴォーン・ウィリアムスの「ミサ曲ト短調」が入っているのが、注目されます。古風な佇まいを持つポリフォニーの世界と、フランス風の響きさえ感じられるホモフォニーの世界が何の違和感もなく調和した非常にハイセンスな作品、そこにはどんな人をも魅了する簡素な音楽のエッセンスがふんだんに盛り込まれています。私にとって初めてこの曲と出会ったのがこのNIMBUS盤。その、全く無理のない発声から生まれる自然な流れは、この曲の魅力を最大限に発揮したものとして、私の愛聴盤となっています。

   NI 5083
この、慣れ親しんだ曲を、マッケンジーたちが全く別の側面からのアプローチで聴かせてくれた時には、ある種のとまどいを禁じ得ませんでした。そこからは、先ほどのイギリスの聖歌隊が持っていた素朴なまでの純粋な響きは殆ど聴き取ることは出来ず、高度なテクニックを駆使しての、力任せの強引さしか感じられなかったのです。確かに各々のメンバーの技術がかなり高いものであることは、そのメンバーがソロを務めている場面で嫌と言うほど感じることは出来ますが、それが全体として響きが溶け合って、一つの方向にまとまったメッセージを発するということが、まるで伝わってこないのです。フレーズの最後が、何の余韻も感じられない即物的なものであるのも、物足りません。これは、最初に収録されているメシアンの「おお、聖餐よ」で、悲しいほどに実感できてしまいます。各パートの音は、他のパートと溶け合うことは決して無く、メシアンが築き上げた宝石のような和声はついぞ姿を見せることはありませんでした。デュリュフレの「4つのグレゴリアン・モテット」も、この曲がどれほどの繊細な取り扱いを必要とされているかが如実に分かってしまう演奏だ、としか言いようがありません。
従って、彼らの資質は、エーロン・コープランドの「4つのモテット」という、リズミカルな処理が要求される曲で、最大限に発揮されることになります。ここで聴かれる統制のとれた生き生きとした音楽こそが、彼らの最大の魅力なのでしょう。
このレーベルの合唱に対する録音のポリシーには失望されることが多かったものですが、ここでもそのひどさは際立っています。いたずらにホールトーンだけを拾って、声の持つ「芯」が完璧に抜けているこの劣悪な録音によって、この合唱団の欠点はさらに助長されることになりました。

5月6日

BRUCKNER
Symphony No.4
Philippe Herreweghe/
Orchestre des Champs-Élysées
HARMONIA MUNDI/HMC 901921


ブルックナーの交響曲の中では最も人気があり、演奏頻度も高い「ロマンティック」ですが、そのカタログに初めてオリジナル楽器によって演奏されたものが加わりました。ヘレヴェッヘ率いるシャンゼリゼ管弦楽団という、「7番」でも同じ試みで大成功を収めたコンビ、ここではどのようなものを披露してくれているのでしょう。
使用した楽譜は、残念ながら「オリジナル」である1874年の第1稿ではありませんでした。ここでヘレヴェッヘが用いたのは最も一般的な1878年(第1〜第3楽章)と1880年(第4楽章)のいわゆる「第2稿」の中でもさらに一般的な「ノヴァーク版」です。同じように、オリジナル楽器でブルックナー(3番)を演奏していたノリントンがあくまで「第1稿」にこだわったのとは対照的、ヘレヴェッヘの場合はより洗練された形になった物の中から美しさを引き出そうという姿勢なのかも知れません。
そんな「美しさ」を極めようとする意志は、第1楽章の冒頭のホルンソロからすでに感じることが出来ます。弦楽器のトレモロに乗って現れるそのホルンの音色は、よくある威圧的な雰囲気など全く感じられない、まるで雲の間から差し込む一条の光のような柔らかな輝きを持っていたのです。それに続く木管のユニゾンも、特にフルートの素朴な音色に支配されて、とてもまろやかな響きを醸し出していました。もしかしたら、それは微妙なピッチのズレによってもたらされたある種の曖昧さに由来するものだったのかも知れませんが。
そんな、金管と木管とでは微妙に求めているものが異なるアンバランス感の中で、音楽は進んでいきます。金管のトゥッティでも、決して「咆哮」にはならない爽やかさが、耳に心地よく響きます。鼻にも心地よいことでしょう(それは「芳香剤」)。それは、あるいは高音成分の多いガット弦の音色がブレンドされることによって実現した響きなのかも知れません。
弦楽器がパートソロを披露する場面が多く現れる第2楽章になると、1212、9、8、6という少なめの編成とも相まって、大編成のモダン楽器を聴き慣れた耳には若干の違和感が伴うかもしれません。正直、最初のチェロパートのテーマには、深みというものが全く欠けているという印象を誰しもが持ってしまうはずです。このような表現を認めるか否かというところが、ある意味素朴すぎるオリジナル楽器での演奏が一般的になるかどうかの決め手になることでしょう。中程で出てくるヴィオラのパートソロも事情は同じなのですが、そこでは響きの貧しさを補ってあまりある程の繊細な表情を見せることに成功しているのを思えば、ヘレヴェッヘのアプローチにはまだまだ捨てがたいものがあることも分かるはずです。
第3楽章になると、その様な小さな編成はフットワークの良さに変わり、わくわくするような躍動感が生まれています。「狩りのテーマ」があちこちから聞こえてくるシーンでは、そのやりとりの間に生まれるちょっとスリリングな「ズレ」が、作り込まれたものではない、即興的な味を出しています。
そしてフィナーレも、押しつけがましいところなど全く見せずに、進んでいきます。そこからは、ブルックナーの持つ「くどさ」に辟易している人にも受け入れられるような、確かな「美しさ」が伝わってくることでしょう。

さきおとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17