クリスチャンと、祈るで。.... 佐久間學

(05/8/22-05/9/9)

Blog Version


9月9日

Nordic Spell
Sharon Bezaly(Fl)
va
BIS/CD-1499


「北欧の魔力」と題されたこのシャロン・ベザリーのアルバム、このレーベルの社長フォン・バール自らがエグゼキュティブ・プロデューサーをかってでたというぐらいですから、彼の熱意はハンパではありません。それはまさしくこのフルーティストの「魔力」に魅了されたフォン・バールの愛情の証なのでしょう。フィンランド、アイスランド、そしてスウェーデンを代表する現代作曲家によって献呈されたフルート協奏曲を、それぞれの作曲家の立ち会いの下に世界初録音を行う、こんな贅沢な、演奏家冥利に尽きる贈り物は、いくら卓越した実力を持つフルーティストだからといってそうそう手に入れられるものではありません。これは、マイナー・レーベルの雄として北欧諸国の作曲家を積極的に起用し、新しい作品の意欲的な録音を数多く手がけてきたBISの総帥だけがなし得るとびきりのプレゼント、この破格の「玉の輿」を手中にして、ベザリーはどこまで大きく羽ばたく事でしょう。
1949年生まれのフィンランドの作曲家アホ、もちろん、日本語と多くの共通点を持つと言われているフィンランド語でも、この固有名詞と同じ発音を持つ日本語の名詞との共通点は全くありません。最近ではかなりの知名度を得るようになったあのラウタヴァーラの弟子として、今では世界中で作品が演奏されているアホさん、ぜひ機会があればお試し下さい。もちろん、予約を取って(それは「アポ」)。この3楽章からなるフルート協奏曲は、普通のフルートとアルトフルートを持ち替えつつ、神秘的で瞑想的な場面と、ハイ・トーンの連続する技巧的な場面とが交替して現れる素敵な作品です。ところどころで、まるでシベリウスのような感触も味わう事が出来る事でしょう。バックはヴァンスカ指揮のラハティ交響楽団、このオーケストラの響きを前面に出したいというエンジニアの良心なのでしょうか、ソロフルートが一歩下がった音場なのは適切な配慮です。
アイスランドの作曲家トマソン(1960年生まれ)という人は、初めて聴きました。情緒に流されない、ある意味アヴァン・ギャルドな音の構築も、ベザリーの、全てのフレーズを自らのエンヴェロープで御しようという強靱な意志の下には、その真価が軽減されてしまうのもやむを得ない事でしょう。ベルンハルズル・ヴィルキンソンという人が指揮をしているアイスランド交響楽団の熱演には、しかし、それを補う真摯な力が込められています。
トロンボーンのヴィルトゥオーゾとして名高いスウェーデンのクリスチャン・リンドベリの「モントゥアグレッタの世界」は、それまでの2作とはかなり趣が異なる、聴きやすい音楽です。まるで1950年代の映画音楽のような懐かしい響きが突然現れて、なぜかホッとさせられる瞬間も。この作品での聴きどころは、細かい音符を息もつかせぬ早さで(実際、「循環呼吸」を使っているので、彼女は息をしていません)繰り出す名人芸が披露されるパッセージでしょう。ただ、それを、フルーティスト自身がライナーで「ジャジー」とカテゴライズしているものとして表現するためには、作曲家が自ら指揮をしているスウェーデン室内管弦楽団の持っているグルーヴを追い越すほどの余裕のない性急さは邪魔になるばかりでしょう。そう、完璧にコントロールされているかに見える彼女のテクニック、そこからは、それを通して何かを表現しようという強い意志が感じられない分、テクニックそのものが破綻した時の見返りは、悲惨なものがあります。

9月7日

BOKSAY
Liturgy of St. John Chrysostom for Male Choir
Tamás Bubnó/
St. Ephraim Byzantine Male Choir
HUNGAROTON/HCD 32315


この曲を作ったヤーノシュ・ボクシャイというハンガリー人の名前は、その引っ込み思案な性格(ぼ、ぼく、シャイなんです・・・)のため(ではないだろう)、おそらく知っている人は誰もいないことでしょう。もちろん、私も初めて聞きました。1874年に、現在ではウクライナ領となっているフストという町の敬虔な正教徒の家に生まれたボクシャイさん、長じて教会での司祭や聖歌隊の指揮者を務めるようになった、いわば聖職者でした。そして、正教の典礼音楽として、以前ラフマニノフのものをご紹介した事のある「聖クリソストムの礼拝」を10曲も作ったという作曲家でもありました。そのうちの4曲が現在まで残っているそうなのですが、その中の男声合唱のために1921年に作られたものが、今回自筆稿を用いて2004年5月に録音されました。もちろんこれが「World Premiere Recording」となります。
この曲で特徴的なのは、男声パートだけの男声合唱で歌われるという事です。変な言い方ですが、さっきのラフマニノフの場合には、パートとしての「女声」はあるのですが、典礼の際に女性が歌う事が許されないという制約のため、そのパートは少年によって、つまり、全員男声によって歌われていました。しかし、このボクシャイの場合は最高音域がテナーという、本来の意味での「男声合唱」、かなり禁欲的な響きがもたらされるものとなっています。
例によって、中心となるのは「Litany」と呼ばれる司祭と合唱の掛け合いです。その司祭、いわばソリストを、ここでは指揮者のブブノーが努めています。というより、ボクシャイ自身がそうであったように、「司祭」と「(合唱の)指揮者」というのは同じ人が努めるのが、一つの習慣だったのでしょう。そのブブノーのソロ、もちろんベル・カントというわけにはいきませんが、かなり垢抜けたものであったのは、この手の曲ではラフマニノフのものしか知らないものとしては、ちょっと意外な驚きでした。それは、おそらく曲の作られ方にも関係しているのでしょう。いわゆるビザンチンの典礼音楽といったものよりは、ごく普通のヨーロッパの中心で綿々と続いている「古典音楽」のテイストが、この曲には非常に色濃く反映されているのです。ちょうど真ん中辺で聴かれる「The Creed」などが、そんな軽やかな「合唱曲」の典型的なものでしょう。
そのような、ある種爽やかな印象を持ったのは、ここで演奏している合唱団から、いわゆる「スラヴ的」な泥臭い響きではなく、かなり洗練されたものを求めているであろう姿勢を感じたからなのでしょう。ブダペストで2002年に創設されたという総勢13人の聖エフレム・ビザンチン男声合唱団からは、地を這うような超低音のベースや、叫びに近いテナーが聴かれる事は決してありません。そこにあるのはまるで日本の大学の男声合唱団のようなごく素直な発声から生まれる良く溶け合った響きです。その方面の音楽が好きな方には、喜ばれるものかもしれません。ただ、一応プロフェッショナルな団体とは言っていますが、しばしばテナー系の生の声が聞こえたり、アンサンブルの点で必ずしも充分なトレーニングがなされていないと感じられたのが、少し残念です。

9月5日

BRUCKNER
Symphony No.3(1873 version)
Roger Norrington/
London Classical Players
VIRGIN/482091 2


前にご紹介したワーグナーの前奏曲集と同じジャケット、同じ品番、元々は別のアルバムだったものを一緒にしただけですから、一つのアイテムから2度レビューが書けるという、おいしさです。
ワーグナーの方は、昨年国内盤で再発されたのでそれほど珍しいものではなかったのですが、このブルックナーは初出のEMI盤はすでに廃盤、長らくリイシューが待たれていたものです。花粉症には必需品(それは「ティシュー」)。何よりも、このアルバムにはレアな魅力が2つもあります。まず、オリジナル楽器で演奏しているという事、そして「第1稿」である1873年版を使用しているという事です。
ノリントン自身、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズというオリジナル楽器のオーケストラとの一連の録音の最後の到達点として、このブルックナーを捉えていたのではないでしょうか。現在までに世に出た全ての交響曲の録音を網羅したディスコグラフィーを見てみても、オリジナル楽器で演奏されたものは、ヘレヴェッヘによる「7番」と、このアルバムしかないのですから、いかに貴重なものかが分かるはずです。この録音が行われた1995年には、オリジナル楽器はすでに単なるこけおどしではなく、新しい表現の地平をひらくものとして認知されるようになっていました。モーツァルトから始まったそのムーブメントは、ベートーヴェンという既存の権威の塊すらも根本から揺るがすほどの力を持っていたのでした。その「力」は、19世紀後半の音楽にも通用するはずだ、と考えたのがノリントン、しかしその結果は・・・。
確かに、ガット弦による弦楽器の暖かい響きや、ビブラートを廃したことによって生まれた木管の純正のハーモニーなどは、今までのブルックナー演奏では見られなかった美点ではありますが、やはり重量感が決定的に不足していた事は、このテーゼを受容する上での大きな障害となったのでしょう。いかに本来使われていた楽器だといっても、その重量感が出せない事には、現代のブルックナー市場で通用するには大きな困難が伴ったのです。彼の後継者は、その「響き」をとことん前面に押し出した2004年のヘレヴェッヘ1人だったという事実が、その事を端的に物語っています。そして、ノリントン自身もモダンオーケストラによるオリジナル楽器的表現へのアプローチという新たな道を歩み出す事となるのです。
もう1点、「第1稿」については、前者とは違った積極的な意味を見出す事が出来るでしょう。1970年代にレオポルド・ノヴァークによって完璧に整備されたブルックナーの異稿の世界、しかし、録音に関してはいまだに初稿が陰の存在である事に変わりはありません。このアルバムが出た時点で「第1稿」による録音は、普通に流通しているものに限れば1982年のインバル盤しかなかったのですから。例えば、通常演奏される「第3稿」との違いがもっとも際だっている第4楽章でのちょっと荒削りなパッセージの扱いなどは、「ブルックナーはこんな面白い事をやっているんだよ」と得意げになっているノリントンの姿が目に映るような生き生きとしたものです。第3楽章のスケルツォのトランペットの合いの手は、この稿だけで聴ける細かいリズムのパターンなのですが、それもことさらに現行版とは違う事を強調するわかりやすさがたまりません。最近ではナガノやノットによる演奏も出揃い、このノリントン盤もやっと「第1稿」の中での位置づけをきちんと語る事が出来るほどの時代とはなったのです。

9月2日

MOOG
A Documentary Film by Hans Fjellestad
ナウオンメディア/NODD-00023(DVD)

今年の春先、東京でこのロバート・アーサー・モーグのドキュメンタリー・フィルムが公開されているという事を知った時、どんなにか見に行きたいと願った事でしょう。なにしろ、映画が始まる前に「テルミン」の生演奏まであるというのですからね。しかし、その映画は単館上映という上に、さらに、上映時間は夜中の9時過ぎだけという、超マイナーというかマニアックなものでした。とても日帰りで○○から出かけていくのは無理だと、涙を飲んだものでした。そんなコアなものが、なぜか連日満員御礼、ついにはこうしてDVDまで出てしまうのですから、すごい世の中です。
ロバート・モーグといえば、「シンセサイザー」という「楽器」の発明者として、おそらく後世の音楽史には必ず登場するに違いない人です。この映画では、彼自身がナレーターとして出演、まずは彼の最新の仕事が紹介されます。彼が作った「楽器」は、まさに音楽のあり方まで変えてしまうほどのすごいものだったわけですが、現在では何と言っても「デジタル・シンセサイザー」が主流、彼の「アナログ・シンセサイザー」などもはや誰も見向きもしない・・・と思っていました。しかし、彼は今でもこの「アナログ」にこだわって、名器「ミニモーグ」の改良型である「ミニモーグ・ヴォイジャー」を、本当に小さな工場(「工房」といった方がいいかも)で作り続けているのですね。そこで「回路」とか「基板」について語っている姿は、殆ど「楽器職人」といった印象がふさわしく思えます。彼の自宅の菜園なども紹介されますが、そこで語られる「オーガニック」指向と彼の楽器との結びつきも興味深いものです。
それに続くのが、この「楽器」を開発する際の協力者であったハーブ・ドイチとの対談に始まる、「モーグ」を世に広めたさまざまな音楽家たちとの対話です。中でも興味深いのが、リック・ウェイクマンとの話。彼は「モーグからは100%魅力を引き出す事が出来るが、デジタル・シンセでは10%程度の機能しか使っていない」と語っています(その後に、「それは女房と同じ事」と言いだして、ちょっと下ネタになるのですが)。単音しか出せない上に、いくつもある「ツマミ」を細かく調整して、やっと自分の求める音が出せるといった不自由さ、しかし、そこにはしっかり演奏者との暖かいつながりが存在しているのでしょうね。ただ、この楽器が世に出るきっかけとなった「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムを作ったウェンディ(ワルター)・カーロスからの協力が一切得られなかったため、彼女(彼)に関する映像が使用できなかったというのは、残念です。
後半では、やはり彼が、実はシンセサイザー以前から関わっていた「テルミン」が紹介されます。こちらでも述べられているように、最近になって日本でもブームを巻き起こしているこの不思議な楽器は、モーグなくしては今日まで生き延びる事は出来なかったものです。この楽器の演奏家の最先端、何とウォーキング・ベースそっくりの音までも出してしまうというパメリア・カースティンとの対談が見物です。
DVDだけの特典映像の中で、モーグは日本向けに、彼の会社の最新の製品を紹介してくれています。先ほどの「ヴォイジャー」や「テルミン」の最新モデル「テルミン・プロ」、いとおしげに自分の楽器を売り込むとともに、「まだまだ計画中のものがある」と語っていたボブ・モーグは、このDVDが日本でリリースされた直後の8月21日、脳腫瘍のため71歳で帰らぬ人となりました。もうぐ(喪服)を着て、ご冥福をお祈りします。

8月31日

MacMILLAN
Seven Last Words from the Cross
Stephen Layton/
Polyphony
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA 67460


1959年生まれのイギリス、というかスコットランドの作曲家、ジェームズ・マクミランの合唱曲集、1993年に作られたタイトル曲の他に、これが初録音となる「聖母マリアのお告げ」(1997)と、「テ・デウム」(2001)が収録されています。
この世代で多くの宗教曲を作っている作曲家では、ジョン・タヴナーやもう少し上ではアルヴォ・ペルトが有名ですね。しかし、殆どヒーリングと変わらないほどの穏やかな風景の表出に終始している彼らに対して、マクミランの場合は、そのようないわゆる「聖なるミニマリスト」とは一線を画した、もっと厳しい作風を見ることが出来るはずです。彼にとって、「ミニマリスト」たちが築き上げた「安定した」技法は、数多くの表現手段の一つに過ぎません。そこにさまざまの技法を組み合わせることによって、ただの綺麗事ではない、彼が言うところの「喜びから悲劇までが存在する人間の日常生活」の諸相を、宗教音楽に於いても表現しているのです。
「十字架上の七つの言葉」の第1曲目で、そのようなマクミランの語法が明らかになります。ひっそりとした静寂の中から立ち上るかすかな弦楽合奏に伴われて、まさにイノセントそのものの女声合唱が聞こえてきますが、これは、まさにペルトあたりが用意する典型的な風景。しかし、しばらくしてその平穏なたたずまいは、リズミカルで攻撃的という全く異質のテイストを持つ合唱によって一変します。オーケストラ(弦楽合奏)が奏でるのも、また別の音楽、ここでは、相容れることのない3つの要素が独立してそれぞれの存在を主張するという、実にスリリングな光景を味わうことが出来るのです。
2曲目では、冒頭ア・カペラの合唱のとてつもない迫力にビックリさせられることになります。同じ歌詞で繰り返される短いモティーフが繰り返されるたびに微妙に味わいを変えるのが、とても魅力的です。それにしても、前の曲の全くキャラクターの異なるパートの歌い分けと言い、この曲での度肝を抜くような殆ど「叫び」に近い、それでいて完璧なハーモニーを持つ歌い方といい、この合唱団の表現力の幅の広さには驚かされます。時折見られる、スコットランドに固有の旋法(まるで、中世の音楽のような雰囲気を持っています)も、この合唱団の手にかかると見事にその土着性が失われずに新たな主張が生まれます。
オーケストラも、時には合唱に寄り添い、時にはことさら異質の要素として振る舞うという縦横無尽の活躍、殆ど「クラスター」に近いものでも、この音楽の中では確かな存在を見せています。そして迎えるエンディング、高音にシフトした繊細な弦楽器たちは、さまざまな過程を経て一度は終止形を迎えますが、それは音楽の終わりではありませんでした。その後に続く解決の出来ないアコード、そう、それはあたかもキリスト自身のため息でもあるかのように、永遠に終わることはないのかもしれないと思わせられるほど、延々と繰り返されるのです。
2002年の「ゴールデン・ジュビリー」のために作られた、オルガンと合唱のための「テ・デウム」では、まるでギリシャ正教のような(これは、タヴナーのツール)輪郭のはっきりした要素が加わります。この曲でも、オルガンによるエンディングには、ちょっと期待を裏切られるような新鮮な驚きが潜んでいます。このベジタリアンの作曲家(それは「ニクイラン」)、レイトン指揮のポリフォニーという最高の演奏を得て、確かに私の琴線に触れるものとなりました。

8月29日

The Phantom of the Opera
STYLEJAM/ZMBY-2301(DVD)

先日公開されたばかりの映画が、もうDVDになりました。すでにサウンドトラック盤はご紹介済み、もちろん、音楽的な内容はその時のものと変わる事はありません。あの時に、オペラの「ハイライト盤」と「全曲盤」について書きましたが、今回は言ってみれば映像も付いたオペラのDVDのようなものでしょうか。
ミュージカルとしての「オペラ座の怪人」は、もちろん音楽として非常に完成度の高いものです。これでもかというほどに贅沢に登場する極上のメロディ、それらが有機的に絡み合って、実際、下手なオペラをしのぐほどの感動を与えてくれるものです。しかし、ここで描かれているファントム、クリスティーヌ、そしてラウルを巡る愛という、ある意味完結した世界は、ガストン・ルルーの原作が持つ暗く猥雑な世界からは少し距離を置いたものでした。
この映画で監督のシュマッカーが最もこだわったのは、その原作の持つ世界観を取り戻す事だったのではないでしょうか。ミュージカルでは舞台作品という制約上、ある程度部分的に切り取った形でしか再現できなかったものを、映画の特性を最大限に使い切って、その細々とした設定をしっかり見せてくれている、というのが、今回の映画化の最大の功績だと思えるのです。それが最も良く現れているのが、オーバチュアの部分。ミュージカルでは、シャンデリアが上がっていく間に薄汚れたオークションの会場が豪華なオペラハウスに変わる、という、もちろんかなりインパクトのある場面転換があるのですが、この映画では、その上に、多くの人々でごった返す舞台裏の喧噪を事細かに描写してくれています。そこで私達が目にするのは、観客の目に触れないところで広がっている、まるで一つの独立した「町」ででもあるかのようなオペラ座の裏方。その入り組んだ迷路のような空間は、確かにファントムが誰の目に触れる事もなく出没できるという原作の描写が納得できるものになっています。
この作品、もちろんすでに劇場で何度も体験したものですから、今回、映像はパソコンのディスプレイで見、音はヘッドフォンで聴く、という究極のパーソナルな味わい方を試みてみました。そうすると、大画面とはまた違った魅力を発見する事になりました。最大の収穫は、映像のディーテイルが、劇場よりも鮮明に理解できたことです。意外かもしれませんが、劇場では時としてスクリーンの全体ではなく、ごく一部分しか見ていなかった事がはっきりしてしまったのです。今回は全体を見据えた上での細部という見方が出来、先ほどのような感想も生まれたのでしょう。
もう1点、音の面で、劇場のスピーカーは、特にサラウンド用のサブスピーカーのクオリティが意外に低い事がよく分かりました。ヘッドフォンで初めて聴けた生々しいSE、例えばファントムがバラの花びらをバラバラとちぎる音に込められた怨念などは、劇場のスピーカーからは決して聞き取る事が出来なかったものでした。
こんなすごい体験がご家庭で味わえるなんて、これは絶対お買い得。

8月28日

HASSE
Requiem
Hans-Christoph Rademann/
Dresdner Kammerchor
Dresdner Barockorchester
CARUS/83.175


石井宏さんの快著「反音楽史」によれば、ヨハン・アドルフ・ハッセは「ドイツ人によって音楽史から抹殺されてしまった作曲家」の代表ということになります。ドイツ人による「偏った」音楽史では、生涯に74曲ものイタリア・オペラを作った作曲家は、ドイツ人であっても正当に評価されることはない、というのが、石井さんの見解なのでしょう。そりゃあ、半纏みたいなものを着てれば、そうも思いたくなるでしょう(それは「ハッピ」)。そのハッセが作った「レクイエム変ホ長調」の世界初録音盤です。
1699年、北ドイツ、ハンブルク近郊のベルゲドルフという町に生まれたハッセは、もともとはテノール歌手としてハンブルクの歌劇場で活躍していたのですが、次第に作曲にも手を染めるようになり、本格的にイタリア・オペラを学ぶために、1723年にイタリアへ留学します。1724年にナポリでアレッサンドロ・スカルラッティに師事しますが、そこでたちまち頭角を現し、師匠をもしのぐ超人気オペラ作曲家として大成功をおさめるのです。1730年にはヴェネツィアへ移り、ファウスティーナ・ボルドーニというイタリア人のプリマ・ドンナと結婚し、文字通り「イタリアの血」を獲得します。
1733年にハッセは故郷のドイツへ戻り、ドレスデンの宮廷楽長に就任します(ここは、現在のドレスデン・シュターツカペレ。実は彼が就任する200年近く前から存在していた「楽団」なのですから、その歴史はすごいものがあります)。ハッセはここで、1763年に庇護者であったザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト二世が亡くなるまで、宮廷楽長を務めました。そのアウグスト二世の葬儀のために作られたのが「レクイエムハ長調」、こちらはすでにいくつかの録音が出ています。今回の「変ホ長調」は、アウグスト二世の後を継いだフリードリッヒ・クリスティアンが突然亡くなってしまったために、1764年に作られたものです。ただ、「Sanctus」と「Agnus Dei」は、以前に作られていた「変ロ長調」のレクイエムのものが使われています。そちらも聴いてみたいものです(オペラ同様、ハッセは宗教曲もたくさん作っていて、ミサとレクイエムを合わせると、全部で25曲もあるそうです)。
曲は40分程度の長さを持ち、合唱とソロ、あるいはアンサンブルが交替して現れるというものです。「Requiem」の中間部「Te decet hymnus」と、「Agnus Dei」の後半「Lux aeterna」で、男声だけでグレゴリア聖歌を歌っているというのが、ちょっと珍しいところでしょうか。「Dies irae」以外の合唱はあまり印象に残らない軽い作風、その分、ソロには力が入っていて、長年オペラで培われたリリシズムが、非常に魅力的です。中でも、アルトソロ(本来はカストラート)によって歌われる「Lacrimosa」は、深い叙情をたたえた名曲です。先日のミヒャエル・ハイドンの「ガセビア」ではありませんが、これはあのモーツァルトも聴いていた可能性はあり、彼の作品に影響を与えたかもしれないと思えるほどの類似性が認められますよ(そう思うのは私だけかもしれませんが)。
このレーベルの常連ラーデマンが、20年前、まだ学生の頃作ったというドレスデン室内合唱団は、特に男声を中心にまとまりのある柔らかい響きを聴かせてくれています。曲の性格によるものかもしれませんが、表現を強く前に出すというよりは、響きの美しさを重視しているような爽やかな印象を与えてくれています。ただ、肝心のソリストたちは今一歩。中でもアルトはもう少しランクの高い人に歌って欲しかった、という思いは残ります。

8月26日

MENDELSSOHN
Symphonies No.3 & No.4
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.133


ノリントンのメンデルスゾーンの交響曲選集のうちの3、4番、実は先日ご紹介した1、5番と同じ時期に発売になったのですが、何でも不良品が混ざっていることが発覚したために店頭に出て3時間後に全品回収、再プレスを行って、やっと良品が出回るようになったということです。急行でやったのでしょうか(それは「エクスプレス」)。このジャケット、指揮者の顔の半分だけがデザインされたものですが、それぞれ同じネガ(ではなく、最近ではデータでしょうか)の右と左を使ったもので、2枚並べるとちゃんとした顔が現れるようになっています。実際、そんな風にディスプレイしているところもあったというのに、とんだケチが付いてしまったものです。
今回、もっとも楽しみにしていたのは「4番(イタリア)」でした。この曲の持つ明るさと軽さが、まさにノリントンの芸風とピッタリ、さぞや軽快な「イタリア」が聴けるのではないかと思ったのです。しかし、第1楽章のテンポ設定はちょっと意外でした。全く当たり前のテンポ、これよりももっと軽やかに演奏している人はいくらでもいるのに、という当惑感を抱いてしまいました。ところが、この楽章の最後になって、ノリントンはとびっきりのサプライズを提供してくれました。475小節目の「Più animato poco a poco(少しずつ、より生き生きと)」という指示のある部分で、いきなりテンポを上げ、そのままエンディングになだれ込むということをやっているのです。今までのテンポは、ここを強調するための伏線だったのですね。厳密に言えば、「poco a poco」ですからこの解釈は楽譜に忠実な演奏とは言えませんが、ここで生まれるインパクトには、ちょっと凄いものがあります。これがあるうちは、ノリントンから目を離すことは出来ないでしょう。
しかし、そうは言っても、やはり彼の最近のアプローチには少し納得できないようなところもあるのは事実。前にも書いたように、ここでノリントンは弦楽器の人数を楽章によって増減させています。具体的には、3番では第3楽章、4番では第2楽章という、「ゆっくりした」楽章で、半分近くに減らす、ということをやっているのです。もちろん、これはノリントンの信念に基づき、「当時の習慣」を反映させたものなのでしょうが、前のアルバムと一緒に聴いてくると、どうもこれがあまりうまく機能していないように思えてなりません。今回は4番ではそこそこ室内楽的な透明な響きが出てはいるのですが、3番のような息の長いフレーズが続く場合が問題。演奏時間は1989年にオリジナル楽器のロンドン・クラシカル・プレイヤーズと録音した時より1分以上遅くなっていますので、モダン楽器を信じてたっぷり歌わせているのでしょうが、やはりこの人数の弦楽器がノンビブラートで演奏しているのでは、「しょぼさ」を隠すことは出来ません。説を曲げて、せめて人数を他の楽章と同じだけ確保しておけば、こんな情けないサウンドにはならないのに、と思ってしまうのですが、どうでしょう。
管のアンサンブルが非常に高いレベルにあるのはいつものこと、常にパートとして一体化したサウンドと表現が聴けるのは、このコンビが築き上げた最大の成果でしょう。しかし、前にも書いたように、時としてトゥッティの部分でもソリスティックな響きが顔を出し、必ずしも「ピュア」ではなくなっているのが、ちょっと気になるところです。今回は、なぜか金管のノリが悪い部分も多くみられますし。

8月24日

SCHOENBERG
Choral Works
Laurence Equilbey/
Choeur de Chambre Accentus
Jonathan Nott/
Ensemble Intercontemporain
NAÏVE/V 5008


以前も「トランスクリプションズ」という、意欲的な企画のアルバムを出したアクサントゥス、そのテンションが編曲や演奏に反映されていなかったのが惜しいところですが、今回は全編シェーンベルクという、やはり濃いところを衝いたものを出してくれました。しかも、共演がリゲティなどの演奏でお馴染みのジョナサン・ノットですから、これは聞き逃せません。しかし、シェーンベルクって、アルバム1枚が出来るほどたくさんの合唱曲を書いていましたっけ?サントラはあるでしょうが(それは「シェルブール」)。私自身は、「地には平和を」という、かなりロマンティックな曲しか、聞いたことはありませんから、この、正直私には取っつきにくい作曲家を、合唱作品から攻めてみる、という格好の機会を与えられたことになるのではないでしょうか。
しかし、実際にアルバムを手にして分かったのは、これは合唱曲だけのものではないということでした。全体の三分の一を占めるのは、「室内交響曲」というインスト曲、これは別に無くても構わないものでした。ノットも、ここで指揮をしているだけ、彼は合唱には全くタッチしていなかった、というのも、やはり買ってみなければ分からなかったことです。
その代わり、と言ってはなんですが、ここでは、有名な「地には平和を」のオリジナル・ア・カペラ・バージョンと、オーケストラによる伴奏の付いたバージョンを並べて聴くことが出来ます。そのオケ伴、「コラ・パルテ」ですから合唱パートと同じことを楽器でやって重ねているだけなのですが、まるで全く新しい声部が加わったようなスリリングな体験が味わえます。埋もれて聞こえにくいパートが、オーケストラを重ねることによってはっきり前面に出てきて、その結果、全てのパートが明瞭に聞こえるようになったということなのでしょう。さらにもう一つ、「色彩」という、「5つの管弦楽曲op.16」の第3曲目(もちろん、オーケストラのための曲)を合唱のために編曲したものが入っているのですが、こちらもそれに輪をかけてスリリング。フランク・クラフチクという、「トランスクリプションズ」でも作品を寄せていた人が2002年に行った編曲、これは、ある意味原曲を超えているかもしれないほどのインパクトを与えられるものでした。ヴォカリーズで歌われる絶妙なハーモニーの流れの中に配された、まるで喘いでいるかような悩ましいため息は、原曲では確か木管やハープやチェレスタの一撃だったはず。このような型破りな「置き換え」を施されたことにより、この曲は本来の「後期ロマン派」のカテゴリーには収まりきれない、まさに「21世紀」の響きを獲得することが出来ました。そして、このアルバムのなによりも素晴らしいところは、最後に、シェーンベルク自身の最晩年の作品「深き淵より」(1950)を配置したことです。この中で聴ける無調っぽいたたずまいや、当時としては最先端の表現ツールであった「シュプレッヒ・ゲザンク」が、このクラフチクの編曲のあとで聴かれると何と間の抜けた陳腐なものに感じられてしまうことでしょう。彼が創設し、「最先端」と信じて疑わなかった技法が馬脚を現すには、半世紀という時間で充分だったということが、この2曲を同じアルバムに収録することによって、見事に明らかになっているのです。
前作と同じく、得難い体験を味わえたこの企画、これで合唱団の女声がもっと余裕のある声を聞かせてくれ、男声が自信たっぷりの音程で歌ってくれていれば、何も言うことはないのですが。

8月22日

WAGNER
Tristan und Isolde
Wolfgang Millgram(Ten)
Hedwig Fassbender(Sop)
Leif Segerstam/
Royal Swedish Opera Male Chorus
Royal Swedish Opera Orchestra
NAXOS/8.660152-54


この「おやぢの部屋2」の最初のアイテムが、レイフ・セーゲルスタムが指揮したスウェーデン王立歌劇場のメンバーによるワーグナーのオペラ合唱曲集でした。この、男の風上にも置けないようなファースト・ネームを持つ(それは「レイプ」)フィンランドの指揮者によるワーグナー、ちょっと今までにない風通しの良さを感じたので、この「トリスタン」の新録音も聴いてみる気になりました。
最近のオペラCDは、いろいろ複雑な状況の中にあるようです。何よりも、DVDの価格が下がってきたことにより、CDと変わらない、場合によってははるかに安い価格で、音だけではなく、映像も見ることが出来るようになったのは、オペラファンにとってはうれしいことです。正直、小さな文字のリブレットを見ながら(CDサイズになって、オペラの対訳は本当に読みづらくなりました)音だけで話を追うのは、かなり辛いものがあります。それが、音楽とドラマを同時に味わうという、本来オペラを鑑賞する時のあるべき姿が簡単に実現できるようになったのですから、まさにCDの存在価値自体が問われる事態となっているのです。
そうは言っても、全ての演奏に映像が付くわけではないのですから、これからも「音だけ」のオペラが無くなることはありません。要は、DVDなりでその作品の芝居の流れとセリフを頭に入れておきさえすれば、CDを聴いた時にはリブレットに頼らなくても言葉は分かりますし、それこそ、一つの固定された演出ではなく、自分の好きなような画面を想像することだって出来るようになるのですからね。正直、声は素晴らしいのに体格があまりに立派すぎたり、容貌が水準に達していない歌手などは、アップで見たくはありませんし。
そんなわけで、このスウェーデンのオペラハウスのプロダクション、演目は「トリスタン」、内容はすっかり頭に入っているものですから、「音だけ」で楽しむことにしましょう。まず、注目したいのは、第1幕で登場する合唱です。前のアルバムでもここの合唱団のレベルの高さは証明済みですが、ここで聴くことの出来る男声合唱も、とことん存在感のあるものでした。単にきれいにハモるという次元を超越した、その役(この場合は水夫たち)になりきるという、オペラの合唱のまさにあるべき姿です。
ひとつ、この演奏で特徴的なのが、第2幕が非常に短いということです。普通70分以上かかるものが、61分しかありません。これは、流れを最大限に重視するセーゲルスタムの音楽の作り方によるものなのでしょう。事実、前奏曲から続く、狩の角笛を描写した三連符の速いこと。これはまるで、少しでも早く邪魔者には遠くへ行ってもらいたいと願うイゾルデの、はやる気持ちを表しているかのように聞こえます。そして、さんざん待ちこがれたトリスタンが現れてからの段取りの良いこと。まさに、余計な手順は省いて、すぐにでもベッドへ直行したいという、若い恋人たちのノリです。そう、トリスタンのミルグラムこそ、ちょっとくたびれ気味の木偶の坊ですが、イゾルデ役のファスベンダーは、とてもしなやかでキビキビした、若さあふれるソプラノです(音だけだからこそ、そのような印象が際だつのかもしれません)。ですから、彼女が歌う「愛の死」は、重くドロドロしたものが一切感じられない、極めてピュアな輝きをもって迫ってきます。ありがちな年増の「王女」ではない、もっとピチピチしたイゾルデの姿が、そこにはありました。
オーケストラが、特に弦楽器に艶やかさが不足していると感じられたのは、あるいは、意識してアクの強さを押さえようとしたセーゲルスタムの配慮なのかもしれません。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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