腰、ちゃんと振って!.... 佐久間學

(08/2/22-08/3/11)

Blog Version


3月11日

MOZART
I Concerti per Flauto e Orchestra
Luisa Sello(Fl)
Romolo Gessi/
Orchestra Milano Classica
STRADIVARIUS/STR 33761


まるで、あのシャロン・ベザリーのように、床に寝そべっている女性フルーティストの写真が使われている、ちょっとギョッとするようなデザインのジャケットです。ベザリーの場合はとりあえず「美人」ですから許せますが(あ、ジャケットが、という意味ですよ)、このセッロという弦楽器みたいな名前(それは「セロ」、ってそんな言い方をするのは宮沢賢治だけですが)の方の場合ははっきり言って年をとりすぎ、別のアングルのものがケースの中にありますが、これなどはまるでたった今「ご臨終です」と告げられたばかりの人みたいで、ちょっとブキミですらあります。ご本人が、ただ寝っ転がっているだけでさまになる容姿と体型だと思っているのでしたら、これはかなり惨め。
でも、もしかしたらこんな醜悪なジャケットには、中身の音楽の美しさを敢えて隠すための意図が含まれているのかもしれません。だとしたら、それはかなりシュール。つまり、この悪趣味なジャケットと、聞こえてきた音楽とのあまりの隔たりに、一瞬言葉を失ってしまったというわけでして。
収録曲は、モーツァルトの2曲のフルート協奏曲と、「アンダンテ」です。最初に演奏されているのが有名な方のニ長調の協奏曲。このイントロが軽快に流れてきたときに真っ先に感じたのは、これは紛れもないイタリアの音楽であるということでした。そうなのですよ。確かにモーツァルトはドイツ・オーストリアの音楽家としてとらえられてはいますが、彼が求めていたのは何と言っても当時の先進地イタリアの音楽だったのです。特に、協奏曲のような形態はまさにイタリアが生んだものですから、そのような趣味になるのは当然のことでしょう。ところが、なぜかそのようなあまりに明るすぎるものは、世の中に受け入れられることがありません。そうではなく、もっと「ウィーン的」なものが、モーツァルトにとっては標準的なものであるとの認識が、広く蔓延しているのではないでしょうか。少なくともドイツ人、そしてドイツの音楽を盲目的に取り入れてきたこの国の人たちにとっては、こんなノーテンキなモーツァルトは受け入れがたいものに違いありません。
ガッツェローニなどに師事したイタリアのフルーティスト、ルイーザ・セッロは、そんなオーケストラの軽快さに乗って、とてつもなく明るい音色のフルートで、まさにイタリアの協奏曲の世界を繰り広げています。どこをとっても音楽の喜び、楽しさに満ちあふれた、それはまるで太陽が燦々と降り注ぐような光景を思い起こさせるものでした。真ん中のゆっくりとした楽章では、その楽しい思いはのびのびとした情感となります。ト長調の方の協奏曲でのその楽章は、バックのオーケストラの管楽器がオーボエからフルートに代わるというのが本来の姿なのでしょうが、ここではオーボエのまま、変な小細工よりもソリストを引き立てる方が大事だといわんばかりの、ある意味豪快な解釈です。
ここで彼女は、全てのカデンツァを自作のものを使って演奏しています。そのセンスは、変にロマンティックで技巧に走ったものでもなく、かといってバロック的な面を強調しようというアナクロなものでもありません。あくまでモダン・フルートの響きの美しさを最大限に発揮するような、愛らしい楽想のものばかりです。小難しいことを言う前に、まず楽しい音楽をやろうじゃないか、という演奏家の気持ちがそのまま音になったような、それはフルーティストにとっては魅力的なカデンツァたちです。
セッロおばさんの開き直りとも思えるようなジャケ写は、そんな彼女の音楽に潜むユーモラスな一面を現したものだったのかもしれませんね。外見では負けていても、音楽ではベザリーに勝ってます。

3月9日

GERSHWIN/Rhapsody in Blue
RAVEL/Concerto pour la main gauche
Pascal Roge()(Pf)
Bertrand de Billy/
Radio-Symphonieorchester Wien
OEHMS/OC 623


2004年にリリースされたロジェとド・ビリーによるガーシュウィンとラヴェルのピアノ協奏曲集(OC 601)は、このオーケストラのフットワークの良さが良く現れていたなかなか素敵なアルバムでした。まるで球をはじくような感じ(それは「ビリヤード」)、ロジェのピアノともども、ガーシュウィンの軽快なリズムがとても心地よく感じられたものですし、ラヴェルのコンチェルト(ト長調の方)も颯爽たるものでした。
今回はその続編、ガーシュウィンは「ラプソディ・イン・ブルー」と、「パリのアメリカ人」、ラヴェルは「左手のための協奏曲」というラインナップです。
この二人の作曲家を並べて演奏するというちょっと面白い企画、そこからは、特にガーシュウィンについて、確かに今まで感じられなかったような一面を発見することができるのではないでしょうか。ガーシュウィンといえば、あくまでミュージカルなどが本業の、いわばショービジネス界の作曲家としての評価が一般的なものです。そういう人が「クラシック」の曲を作ること自体が、ある種の「色目」のように感じられるはず、事実、彼のスキルはクラシックの作曲家としては決定的に欠けていて、オーケストレーションも他人の手を頼らざるを得ない状態でした。もちろん、ショービズ界ではそのような職人技は専門の人にゆだねるという分業制が確立していますから、なんの不自由もないのですが、クラシックの作曲家として認知されるためには、それも自分でやれるようにならないことには相手にはされません。そこで彼は、自前で指揮者とオーケストラを雇って、実際に自分のスコアを音にして、色々試してみるという涙ぐましい努力もすることになるのです。今だったら、Finaleで簡単にスコアを聴くことが出来るのでしょうがね。
そんな風に、彼のオーケストラのための作品には、ある意味コンプレックスのようなものが反映されている気がしてならないのですが、どうでしょう。ですから、ここで協奏曲のカップリングとして収録されている「パリのアメリカ人」という、自分の手でオーケストレーションまで仕上げた曲を聴くときには、いつも「クラシック」としてはちょっと物足りない、言ってみれば「セミ・クラシック」のようなおもむきを感じていたものです。しかし、ここでド・ビリーによって演奏されたその曲には、そんな先入観を払拭するような、紛れもない「クラシック」としての姿があったのです。例えば、中で聞こえてくる自動車のクラクションの音さえも、単なる効果音ではない、確かな「楽器」の音として聞こえてはこないでしょうか。ブルーノートを多用したトランペット・ソロからも、荒削りなジャズではなく、まさにラヴェルを始めとしたその当時の作曲家が引用していた「イディオムとしてジャズ」のテイストが感じられることでしょう。そう、これはまさに、ガーシュウィンその人が求めてやまなかった「クラシック」というか、もはや死語でしょうが「純音楽」としての「パリのアメリカ人」が、見事に再現された演奏に他ならないのではないでしょうか。
従って、「ラプソディ・イン・ブルー」からも、本来ジャズのビッグ・バンドがバックであったものを無理矢理シンフォニー・オーケストラに置き換えたところからくる居心地の悪さは全く解消されることになりました。ここではグローフェのスコアは、作曲者が教えを請いたいと願ったラヴェルのものと同じ次元のものとして鳴り響いているのです。もちろん、ロジェのピアノ・ソロも、新大陸の黒人音楽ではなく、あくまでヨーロッパの文化の帰結としてのエレガンスに満ちたものであったことが、その大きな要因であったことは間違いありません。彼の醸し出すスウィング感の、なんと優雅なことでしょう。
こういう演奏を聴いてしまうと、明らかにこの曲をパクった「篤姫」のテーマが、なんとも安っぽく聞こえてはきませんか?

3月7日

BRUCKNER
IV. Symphonie Es Dur
Enoch zu Guttenberg/
Orchester der KlangVerwaltung
FARAO/S 108051(hybrid SACD)


グッテンベルクの手兵として、ドイツ国内のメジャー・オーケストラから集まったメンバーによって1997年に作られたこのオーケストラの演奏は、主に声楽曲で何枚かのアルバムを聴いたことがありました。合唱団ともども、見事に指揮者の思いを音にしているという幸せな関係が築かれているという、なかなか聴き応えのあるものでしたね。モダン楽器を使っていますが、極力ピリオド・アプローチを試みているような印象も受けました。
そんなチームのブルックナーです。ウィーンのムジークフェライン・ザールでのコンサートのライブ録音ということで、ブックレットにはその時の写真が載っています。それを見ると、セカンド・ヴァイオリンが上手に来るという対向型で、コントラバスが後ろの正面に1列に並んでいるのですが、それが6本ですから、おそらくファースト・ヴァイオリンが14人の「14型」なのでしょう。「16型」もしくは「18型」がご推奨のブルックナー業界では、ちょっと少なめな弦楽器です。
確かに、オープニングの弦楽器のトレモロはあまりにも小さな音なので殆ど聞こえないほどでした。しかし、次第にこの指揮者の絶妙なバランス感覚が発揮されてきて、しかるべき時にはしっかりその音を主張するようになってきます。どうやら、ヴィブラートは付けないで演奏させているようですね。しかし、あのノリントンのように全ての音に完全に付けないというのではなく、特にヴァイオリンあたりには必要に応じて付けさせているようにも聞こえます。つまり、ヴィブラートの多寡をひとつの表現手段として使っているのでしょう。
そんな、ヴィブラートの使い分けがとりわけ効果的なのが、第2楽章です。チェロやヴィオラが延々とパートソロを繰り広げる部分では、まさにノリントンのようなノン・ヴィブラートが貫かれ、そこから生まれる独特の禁欲的なフレーズ感が言いようのない魅力となって現れています。弦楽器だけのコラール風のパッセージも、ハーモニーが見事に決まったピュアな響きを堪能できます。ですから、そんな中からほんの少しでもヴィブラートがかかったヴァイオリンなどが聞こえて来ようものなら、それはとびっきりのセクシーさを伴ったものとなるのです。
音楽の作り方は、まさに指揮者の思いがストレートに伝わってくるものでした。テンポの揺れなども自由自在、ちょっと気まぐれなところもありますが、それはしっかりと積み重ねられたリハーサルの結果であることが分かるだけの説得力に富むものです。そして、どんな目立たないフレーズでも全てのものにしっかり意味が込められていることが良く分かります。第2楽章に出てくるフルートのソロの「ソ・ソ・ミ・レ・ミ・ド」という高音の音型が2回続くところで、2回目を思い切り小さく吹く、などというところに、ハッとさせられる瞬間が潜んでいたりするのです。こんな刺激的なブルックナーは久しぶり、もちろんアーノンクールのような中身のないこけおどしとは全く次元の異なる世界の演奏ですから、十分に満足させて頂きましたよ。
ところで、ジャケットには「1887-1889 Dritte Fassung」と記載されていますが、これは完全な誤りです。この演奏はごく普通のノヴァーク版に従ったものです。ブックレットに「スコアはKalmusを使用」とありますから、もしかしたらハース版を指揮者の裁量で手直ししたものかもしれませんが、いずれにしてもフェルディナント・レーヴェによってあちこちにオーケストレーションの拡大やカットの手が加えられた「Dritte Fassung(第3稿)」でないことだけは、だれの耳にも明らかです。このレーヴェ、いやレーベルの代理店が小売店向けに作ったインフォ(それはネットで容易に見ることが出来ます)にも「近年再評価のきざしがみられるレーヴェ改訂版を採用」などという惹句が見られますが、1度でもこのアルバムを聴いていればそんなデタラメは書けないはずでしょうに。

3月5日

BARTÓK
Bluebeard's Castle
Andrea Meláth(MS)
Gustáv Belácek(Bas)
Marin Alsop/
Bournemouth Symphony Orchestra
NAXOS/8.660928


ペローなどの童話でおなじみの「青ひげ」の物語は、お金持ちと結婚した娘が、「決して開けてはならない」と言われている秘密の部屋を、募る好奇心のあまりに開けてしまったために、男の正体を知ってしまうというお話しでしたね。ペローの場合は、娘の機転で男は捕まってしまい、その男の財産は娘のものになるといういわばハッピー・エンド(?)ですが、もちろんこのような民話には多くのヴァリアントが存在しています。ベーラ・バラージュがハンガリー語で書いた舞台作品のための台本では、娘は男のモトカノたちと一緒に秘密の部屋に幽閉されてしまうという残忍な結末になっています。
そのバラージュの台本に音楽を付けたのが、バルトークです。出来上がったオペラは、そんな救いようのないプロットを反映して、華やかさとは無縁のとことん暗いものに仕上がりました。曲全体を支配するのは、まるで霧のかかった闇の奥でなにかがうごめいているような不安感。時折聞こえるスペクタクルなパッセージも、その暗さを際だたせるものに過ぎません。
そこでバルトークがテキストに与えた旋律は、ハンガリー語のイントネーションとリズムを、まるでそのまま音にしたような、殆ど語りに近いものでした。その結果、必然的にその言葉たちは、それが話されている地方の民謡そのもののようにならざるを得なくなったのです。
オールソップ(彼女はかつて、ブロードウェイのピットの中でヴァイオリンを弾いていたのですね。この前の「スウィーニー・トッド」のオリジナル・キャスト盤に、しっかりクレジットされていました)が、彼女のオーケストラでのコンサートで、ユーディットとしてハンガリー出身のメラートをキャスティングしたことは、この作曲者のプランからは理想的な展開となりました。彼女の歌は、オペラティックな叫びである前に、まさにハンガリー語としての的確な抑揚を伴った、しっかりとしたメッセージとなっていたのです。このメゾソプラノは、ネイティブ・スピーカーの特権を存分に発揮して、その言葉に確かな命を与えました。その淡々とした語りは、聴くものに間違いなくこの物語の本質を伝えることに成功していたはずです。
青ひげ役は、スロヴァーク出身のベラーチェク。この人も 大げさな身振りを極力抑えた表現に徹しているように見えます。例えば、第2の扉の場面でのハープの前奏に乗って現れる青ひげの歌は、おそらくこの作品の中で最も美しいメロディラインを持ったもののはずです。しかし、ここで彼は決して歌いすぎることはなく、あくまで語ることに専念しています。第6の扉を開けて湖が見えたときに彼が発する「könynyek(涙)」という言葉からも、他のバス歌手にありがちな誇張が全くないために、逆に静かな恐ろしさが自ずと伝わってきます。
ソリストたちがそのようなストイックな態度を貫いた分、この指揮者の作り出す音楽からはより豊かなリリシズムが発散されることになりました。この、重苦しく冷たいバルトークのスコアから、彼女は一抹の清涼感のようなものさえ導き出していたのです。第5の扉を開けて眼前に広大な領地が広がった瞬間に鳴り響く壮大なファンファーレは、単に威圧的な和音の連続ではなく、滑らかにつながるメロディアスなコラールとして耳に届いてはこないでしょうか。
オールソップという、童話作家のような名前(それは「イソップ」)の指揮者によってこの作品がそのような多少軽快な身振りを獲得したとき、そこには原作の童話の世界が広がります。そこから、好奇心のために身を滅ぼすのは、なにも女性に限ったことではないのかもしれない、という発想がもし生まれたとしたら、團伊玖磨の「夕鶴」の原作である民話の「鶴の恩返し」も、きっと「青ひげ」の一つのヴァリアントだと思えてくることでしょう。

3月3日

An Organ Treasure
The Munich Odeon Organ
Andreas Götz(Org)
OEHMS/OC 622(hybrid SACD)


オルガン(もちろん、パイプオルガン)という楽器は、そもそもは教会の中で演奏するために作られたものでした。しかし、時代が進むに従って、このオルガンはひとつの独立した楽器として、コンサートホールの中に進出していくことになります。時には、オーケストラの中のひとつのパートとして演奏されることすら現実のものとなっていくのです。サン・サーンス、プーランク、リヒャルト・シュトラウス、そしてマーラーなどの作曲家は、彼らのオーケストレーションの仕上げを、この楽器の壮大で輝かしい響きに託したのでした。
そんな、教会の中にあった時とは自ずと音色や音量も変わらざるを得なくなってしまった時代のオルガンの響きを聴いてもらおう、というのが、このアルバムのコンセプトなのでしょう。ただ、実際にここで登場する、かつてミュンヘンのコンサートホールに設置してあったオルガンは、現在では決してその頃と同じ音色を保っているわけではありません。1887年にメルツというビール好きの(それは「モルツ」)ビルダーによって制作されたこの楽器は、ホールへの新しい楽器の設置によって1907年には同じ市内にある聖ルペルト教会へ移設されてしまうのです。その際にメルツ自身の手によってパイプを増やすなどの手を加えられただけでなく、それから今日に至るまで、このオルガンは幾度となく改修を施されて、殆ど原形をとどめないほどになっています。このジャケットの写真が現在の楽器のファサードですが、それは教会に移設された当初のファサード(ケースの中に、その図面があります)とは似ても似つかないものなのです。
そんな、作られた当初はどんな音がしていたかなどということはもはや知るよしもないこのオルガンですから、そのような歴史的な価値を云々することにはなんの意味もないのは明らかです。ここではあくまでも、肥大の一途をたどったひとつのオルガンの今の姿を謙虚に味わうべきなのでしょう。
このオルガンにとって幸せだったのは、この教会のアコースティックスがとてつもなく豊かだったことでしょう。なにしろ、その残響たるやとても単なる「残響」とは言えないもので、音を出すのをやめても新たに音がわき出てくるといった感じがするほどたっぷりとしたものです。「残響時間」は優に10秒以上はあることでしょう。そこでは、もともと多彩だったオルガンの音はさらに混濁の度を加え、えもいわれぬ厚ぼったい音のかたまりとなって迫ってきます。
確かに、ここで演奏されている19世紀のマスターピースにおいてこそ、この特異な音響はその存在価値を発揮することでしょう。ブルックナーの「前奏曲とフーガハ短調」での分厚い響き、リストの「『泣き、悲しみ、悩み、おののき』の主題による変奏曲」での甘美な叙情性、ラインベルガーの「オルガン・ソナタ第9番」での旋律の美しさ、そして、バッハのカンタータ140番の有名なテーマが現れるレーガーの「『目覚めよと呼ぶ声あり』による幻想曲」での重厚さなどが、見事にこのオルガンによって表現されています。
しかし、この中で唯一20世紀の作品であるヴィンツェンツ・ゴラーの「祝祭前奏曲」こそは、この楽器の特性を最大限に発揮したものであるとは言えないでしょうか。この曲の初演の場は、1937年にドイツの英霊が祀られている「ヴァルハラ」にブルックナーの胸像が移設されるという第三帝国の権威を象徴するようなイベントの際に、ヒットラーやゲッペルスも臨席して開催されたコンサートでした。そこで、ブルックナーの交響曲第5番とともに演奏されたこのオマージュ作品、その中で高らかに響き渡る、その交響曲の第4楽章のコラールの応酬は、分厚いストップと歯止めのきかない残響とによって、まるで右翼の街頭宣伝のような有無を言わせぬ力を放っています。先日のDVDではありませんが、これほど「洗脳集会」にふさわしい音楽もありません。サラウンドで聴いたとしたら、その力はさらに絶大に感じられることでしょう。

3月1日

PENDERECKI
Symphony No.8
Soloists
Antoni Wit/
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.570450


ペンデレツキの「7つ目」の交響曲である、「交響曲第8番」の、世界初録音です。なぜひとつ抜けているかというと、「第6番」がまだ完成していないからなのです。その曲を委嘱したところは、さぞややきもきしていることでしょう。ペンデレツキ自身も、亡くなるまでには完成しないことには、あのモーツァルトの二の舞になってしまいます。その時ジュスマイヤーのように代筆をかってでるのは、果たして誰なのでしょう。
このレーベルは、輸入盤でありながら国内の代理店が殆ど国内盤のノリでリリースしてくれていますから、普段はそれを買っているのですが、たまたま検索で並行輸入しているところを見つけ、即ゲットです(へえ、こんなに早く出てたんだ)。前作、第7番の場合は、およそ「交響曲」という概念からは遠いところにある外観を持っていました。主役はオーケストラよりも声楽のソリストや合唱、殆ど「オラトリオ」と言えるような体裁だったのです。その路線はこの8番でさらに顕著になります。2005年にルクセンブルクで初めて聴衆の前に現れた最新の交響曲が、こんなに早くCDとして入手できたため、全部で12の楽章から成るこの「交響曲」は、殆ど「オーケストラ伴奏付きの歌曲集」といった趣であることを知るのです。副題が「はかなさの歌Lieder der Vergänglichkeit」、それはアイヒェンドルフ、リルケ、ゲーテ、そしてヘルマン・ヘッセといった「あの時代」の詩人たちのテキストを持ったものでした。
確かに、そんな形の「交響曲」が今までなかったわけではありません。マーラーの本来ならば9番目の「交響曲」は、まさにそんな限りなく「歌曲集」に近いものでした。ペンデレツキがその事を意識していたのかどうかは知るよしもありませんが、この交響曲がまるでその「大地の歌」に酷似した音楽として聞こえてきたことには、殆どの人が驚きを隠すことは出来ないことでしょう。いや、何も聞かされないで初めてこの曲を聴いたとしたら、間違いなく「これ、マーラーの曲だよね」とつぶやくに違いありません。メロディ・ライン、オーケストレーション、歌とオーケストラとのからみ具合、そしてほんのちょっとしたきっかけにまで、紛う方なきあのマーラーの語法で満ちあふれているのですからね。その歌を一緒に口ずさんでみてごらんなさい。間違いなく次の音が予想できる展開に、唖然とすることでしょう。
これは一体何のつもりなのでしょう。もしかしたら、マーラーのパロディ?あるいは、最近は「ネオ・ロマンティシズム」という方向で自らの芸術を磨き上げていた作曲家が最後にたどり着いたのがマーラーの世界だったのだ、とか。その答えは、唯一マーラーに由来していない曲全体のエンディングで明かされているのかもしれません。合唱がグリッサンドで果てしなく上昇していった先にあるもの、それは果たして・・・・。
カップリングの「ダヴィデの詩篇から」という、合唱と打楽器やピアノのアンサンブルの曲は、1958年という、彼の最初期の作品です。これも、別な意味での驚きを招くものでした。これを聴いてみると、彼は実にしっかりした合唱の扱いを先人から学び取っていたことが良く分かります。もう少し後の彼に比べると、なんと整然とした音楽なのでしょう。例えば3曲目の詩篇43などは、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」のシンコペーションと変拍子をそのまま受け継いだような仕上がりになっていることにも気づくはずです。そして、もしかしたら彼の「正体」はこのあたりに潜んでいたのではないか、という思いにも駆られるかもしれません。
従って、このアルバムの中で最も「ペンデレツキ風」であるべき「怒りの日」を聴くとき、なんとも居心地の悪い感触が漂うのはある意味当然の成り行きなのかもしれません。「おまえはいったい何だったんだ!」と叫びたくなるような、この見事なラインナップに盛大な拍手を。

2月28日

The Reichsorchester
The Berlin Philharmonic and the Third Reich
Enrique Sánches Lansch(Dir)
ARTHAUS/101 453(DVD)


「ベルリン・フィルと子どもたちRhythm is it!」というドキュメンタリー映画を作ったエンリケ・サンチェス・ランチ監督による、同じベルリン・フィルを扱った記録映画です。あちらはラトルの指揮による最近の演奏が収録されたものですが、こちらの方は「第三帝国」、つまりヒットラーによって支配されていた時代のベルリン・フィルの演奏が中心になっとらー。その頃ですと、なんと言ってもメインはフルトヴェングラー、そしてクナッパーツブッシュやチェリビダッケの貴重な映像を見ることが出来ます。
しかし、あいにくなことに、これは演奏を楽しむためのDVDでは決してないことは、強調しておかなければなりません。要するに、このフィルムは、そんなナチスの時代にベルリン・フィルというオーケストラはどういう状況に置かれていたのかということを、その時にそのオーケストラの団員だった人や、団員の遺族などのインタビューによって明らかにする、というものなのです。そして、その間に「貴重な」当時の映像が挿入されるだけ、もちろん、それらの映像はきちんと全曲をまとめて聴けるようなものではなく、場合によってはインタビューの都合に合わせて全く無関係なものが使われていることもありますから、あくまで添え物としてとらえるべきものです。
ここから浮き出てくるオーケストラの姿は、なんとも言い難いものでした。つい先日のニューヨーク・フィルの「オーケストラ外交」ではありませんが、ヒットラーは徹底的にこのオーケストラを政治目的に使い切っていたことが良く分かります。もちろん、そのためにはレパートリーからはユダヤ人の作曲家の作品は排除され、ユダヤ人の団員がオーケストラにとどまることも許されないのは当然のことでしょう。そのような「ナチ化」されたオーケストラは、そこで信じられないほどの優遇措置を与えられることになりました。唯一このオーケストラだけが団員の兵役を免除され、戦時中でもしっかりコンサートの場を提供されていました。もちろん、外国への演奏旅行も敢行されます。それらは全て、ドイツ帝国(Deutsches Reich)のオーケストラが奏でるドイツ帝国の音楽の素晴らしさもって、ドイツ帝国そのものの偉大さを世界に知らしめるという、明確なプロパガンダに他なりませんでした。
歴史的に動かしがたいそのような事実に対して、元団員たちのあまりにあっけらかんとしたコメントは感動的ですらあります。「私たちは、あくまで良い音楽を演奏したかっただけだ」、「ベルリン・フィルがナチのオーケストラであったことは一度もない」など、全く罪のないコメントが延々と続きます。その合間に流れるのは、ゲッペルスの扇情的な演説に導かれて、ハーケンクロイツが立ち並ぶ会場で演奏している団員たちと、陶酔した面持ちでそれに聴き入っている聴衆たちの姿です。これを見てコンサートだなどと思う人がいるでしょうか。それはまさにひとつの思想を大衆に植えつけようとしている洗脳集会に他なりません。
そんな、あまりにも世間知らずな音楽バカを描いた退屈な映画が、終わり近くでどんでん返しを迎えます。それは、この中で最も長い時間インタビューが紹介されていた元コンサートマスター、ハンス・バスティアーン(インタビュー当時は93歳)の言葉です。「敗戦間近、傷病兵たちの前で行った演奏会で突然『私たちは、今まで何をやってきたのだろう』という恥ずかしさがこみ上げてきました」。
見事という他はありません。この瞬間にこの映画は人間の良心を見事に描ききっていました。その言葉に呼応するかのように、最後で流れるベートーヴェンの第5交響曲は、第3楽章のクライマックスでピタリと止むのです。それに続く勝利のファンファーレは、決して鳴ることはありませんでした。

2月26日

BACH
Goldberg Variations
西山まりえ(Cem)
ANTHONELLO MODE/AMOE-10003


まるで、新手のアイドル・ピアニストを大々的に宣伝しているような安っぽいジャケットですね。このアーティストのことを知らなければ、心あるリスナーは間違いなくスルーしてしまうことでしょう。今月号の「レコード芸術」でも、大々的に紹介されている西山さん。彼女のバッハに対するアプローチにはかなり興味が湧いていたところですから、ちょっと前にリリースされた「ゴルトベルク」を聴いてみました。
常々、バッハの演奏に関してはさまざまなスタイルのものを聴いていましたからある程度のことでは驚かないようにはなっていたのですが、この演奏には本当にびっくりしてしまいました。西洋音楽の基本であるはずの「きちんと揃える」とか「テンポはしっかり守る」などという約束事は、ことごとく破られているのですから。最初の「アリア」にしてからが、右手と左手は全く「揃う」ことはありません。まるで楽器を始めたばかりの初心者が手探り状態でやっと両手で弾いている、といった感じなのですよ。しかし、そこからはそんな拙さなどは全く感じることはできず、右手と左下が繰り広げるたくさんの声部が、それぞれ自由に自分の「歌」を歌っているように聞こえてきたのです。
そういえば、この曲の楽譜って、見たことがありますか?実はライナーにも初期の印刷譜が載っていますし(↑)、現代の印刷譜でも十分分かることなのですが、バッハはとにかくたくさんの声部をその中に書き込んでいます。「アリア」の出だしの左手は、「ソシレ」という分散和音なのですが、それは「ソ−シ−レ」というメロディではなく、「ソ」、「シ」、「レ」という3つの音がそれぞれ別の声部として登場するようになっているのです。そんな感じが、彼女のこの演奏だとすごくよく分かってきます。それぞれのキャラが、全く違うのですよ。
テンポだって、きっちり拍を均等に、などということは全く考えていないように聞こえます。十六分音符は四分音符の中に4つ入るといったような数学的な扱いではなく、楽譜の形を見て早く感じるところは早く弾く、みたいなところがたびたび出てくるのです。ある意味、イマジネーションというか直感のようなものを大切にして、「楽譜」ではなく「音」として聴いてもらいたいという、クラシックではなくポップスのミュージシャンのようなセンスを感じてしまうのです。そういえば、彼女が活躍していたフィールドはバッハよりずっと前の、中世あたりまでさかのぼった時期の音楽だったはず、その頃はまだ楽譜に縛られない生き生きとした音楽は健在だったのでした。そんなセンスが全開なのが、第10変奏の「フゲッタ」です。フーガ主題のそれぞれのパーツが、本当に生きているようにさまざまな主張を行っているのが、見事に伝わってきます。
ここで彼女が弾いているチェンバロは、18世紀のフランスの楽器のコピーのようですが、その音にもちょっとびっくりさせられてしまいました。そんなヒストリカル楽器のイメージからははるかに遠いところにある、極めて強靱な音が聞こえてきたからです。しかし、聴き進うちに、そこにはとてつもない繊細さが宿っていることに気づかされます。しかも、その表情の多彩なこと。フレーズの最後が高い音で終わるときにも、その音は無神経に目立つことはなく、音色までも柔らかくなって見事にフレーズが収まっているように聞こえてくるのです。これが楽器のせいなのか、彼女の奏法によるものなのかは分かりませんが(おそらく、双方の要因がからんでいるのでしょう)これはちょっとすごいことですよ。
こんな素晴らしいアルバムなのに、このジャケットのせいで目もくれないでしまう本当のクラシック・ファンがいるのではないかと、心配になってしまいます。まっとうな演奏家にさそうあきらは完璧に似合いません。裏ジャケの時間表示にもミスがありますし。

2月24日

WAGNER
Tristan und Isolde(The Duet Scenes)
Deborah Polaski(Sop)
Johan Botha(Ten)
Bertrand de Billy/
Radio-Symphonieorchester Wien
OEHMS/OC 626(hybrid SACD)


「トリスタンとイゾルデ」から、タイトルロールのデュエット部分だけを抜き出して集めたという、ちょっと変わったアルバムです。ライブ録音ではなく、おそらく放送用にスタジオで録音されたものなのでしょう。実は、このアルバムは「デュエット集」とは言っても、時折ブランゲーネやクルヴェナールもしっかり登場していますから、もともとは全曲を録音していたのではないでしょうか。そういえば、以前にイゾルデ役のポラスキのソロアルバムという形で、別のハイライト盤がリリース(OC 602)されていたこともありました。
ここでのオーケストラはウィーン放送交響楽団。かつては「オーストリア放送交響楽団」と言っていた、オーストリア放送協会所属のオーケストラです。今ではド・ビリーの指揮の下でこのOEHMSレーベルを中心に活発にアルバムを制作しています。とは言っても、ウィーンにある他のオーケストラ、ウィーン・フィルやウィーン交響楽団に比べれば、まだまだ知名度が低いのは、否めない事実でしょう。
実は、このアルバムを聴く前に、ガーシュインとラヴェルのピアノ協奏曲をカップリングしたものを聴いていたのですが、その時に感じたこのオーケストラの印象は、他のウィーンの団体が持っている「伝統」のようなものとはちょっと異なる、いかにも放送オケらしい軽快なフットワークでした。特にそのリズム感の良さはガーシュインなどにはうってつけ、音色も華やかで軽やかなものでした。
ですから、この「トリスタン」に欠かすことのできないドロドロとした情念のバックグラウンドとしての音楽を果たしてこのオーケストラが作り出すことができるのか、一抹の不安がありました。そして、その不安は現実のものとなったのです。あまりに明るいそのオーケストラのサウンドは、この不倫劇にはかなり違和感のあるものでした。それは、同じ不倫でも名古屋の放送局あたりが昼間に放送しているドラマのような、どこか嘘くさく、張りぼてのような感触を持ったもの、やはりここは横溝正史や江戸川乱歩のようなおどろおどろしいテイストが欲しいところです。カラメルソースも必要でしょう(それは「プリン」)。第1幕の最後で、二人が媚薬を飲みほした瞬間の沈黙の間に流れる前奏曲の回想の、なんと屈託のないことでしょう。
しかし、その屈託の無さの中に、トリスタン役のボータの声とはなにか共通するような方向性を感じたのは意外な発見でした。輝かしく力強い、まさに理想的なヘルデン・テノールでありながら、彼の声にはある種の軽やかさもあります。それは、決して歌手の都合でテンポを伸ばしたりリズムをごまかしたりするということのない、極めてクレバーな特質です。さらに、いともあっさりと難しい高音をクリアしてしまうスキルは、正確な音程とも相まって、一抹の清涼感すらも与えてくれています。
ところが、イゾルデ役のポラスキが、この、とりあえず調和の取れた世界を乱しにかかります。彼女はまさに伝統的なソプラノ・ドラマティコ、いわゆるワーグナー・ソプラノとして、このチームに加わっていました。良く響く声、そしてそれをさらに煌びやかに飾る壮大なビブラート、時には音程さえも犠牲にしかねないまさに「ドラマティック」な表現、それらのものはあるいは一昔前のバイロイトあたりではさぞや聴き映えのするものだったことでしょう。しかし、この、ド・ビリーとそのオーケストラによって用意された音響空間では、それはいたずらに居心地の悪さを誘うものでしかありませんでした。
第2幕第2場の後半で登場するブランゲーネ役のハイディ・ブルンナーの声の方がこの場のイゾルデとしてはより相応しいと思えた時点で、このアルバムのキャスティングは間違っていたことが明らかになったのです。

2月22日

MOZART
Così fan tutte Messe
Siri Thornhill(Sop), Ursula Eittinger(MS)
Hubert Nettinger(Ten), Stefan Geyer(Bas)
Franz Raml/
German Mozaart Orchestra
OEHMS/OC 916


これは、指揮者も、オーケストラも、そして演奏されている「『コシ・ファン・トゥッテ・ミサ』」という曲の名前も、全く聞いたことはないという珍しいアルバムです。それもそのはず、録音されたのは2006年なのですが、このオーケストラはその年にこのラムルという韓国の和え物(それは「ナムル」)のような名前の指揮者によって設立されたものなのです。彼自身も、それまではもっぱらオルガンやチェンバロの演奏家として活躍していたそうですし。そしてその曲というのも、モーツァルトが作ったものではなく、彼のオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の中で歌われるアリアやデュエットなどに、彼と同じ時代の作曲家(名前は分かっていません)がミサの典礼文を乗せてミサ曲にでっち上げたというものなのです。曲自体は、ケッヘルの目録に「追加Anhang」として記載されていますからマニアであれば知っているのでしょうが、それが実際の音になるなどというのは、極めて希なことには違いありません。
そのミサ曲の前に、K408K6では383F)の行進曲が演奏されています。どうやらこの録音は、その年に行われた彼らの旗揚げツアーのライブ録音のようで、会場のノイズが盛大に聞こえてきます。ですから、録音の状態もあまり良いものではなかったようで、変に低音が強調されたり余計な残響で音の明晰さが失われているものです。そんなコンディションで聴いたせいなのでしょうか、このオリジナル楽器によるオーケストラからは、いかにも洗練されていない、投げやりな音楽しか聞こえては来ませんでした。特にコントラバス奏者の全くあたりの空気が読めていない無神経な演奏は、ひときわ目立つものです。
そして、お目当てのミサ曲となります。ここには合唱は入ってはおらず、4人の独唱者が入れ替わり立ち替わりソロやアンサンブルで参加するという形を取っています。確かに、これはあの愛らしいオペラからのナンバーが素材として使われているものでした。そして、そこはこの曲を作った(あるいはでっち上げた)作曲家の裁量ということになるのでしょうが、元の形をそのまま使っているものもあれば、例えば「Gloria」や「Credo」のように、まさにメドレーのようにあちこちからのパーツをつぎはぎして出来上がっているものもあるというものです。もちろん、こういう「パロディ」は昔からいろいろ行われてきており、バッハなどでも世俗曲をそのまま宗教曲に使い回すということは頻繁にやっていたわけですから、それなりに興味をひかれる部分はあります。しかし、なんといってもこれだけ見慣れたオペラであれば、それぞれのナンバーの情景は頭に焼き付いてしまっています。ありがたいお祈りの言葉の間に、ターバンを巻いて異国の人に変装した兵士が、うぶな姉妹を口説くという情景がつい浮かんでしまうというのは、ちょっと困ったことです。
もっと困ったことに、ここでもオーケストラの演奏はいい加減なのに加えて、ソリストたちの出来があまりにもひどいのです。ソプラノの人などは殆ど素人ではないかと思えるほどの下手さ加減、この曲の中で1曲だけ「コシ」ではなく「ティートの慈悲」からのパクリがあるのですが、そのヴィッテリアのアリアのコロラトゥーラの悲惨さといったら。
これだけではCD1枚には足らないと思ったのでしょうか、そのあとにはなんとモーツァルトの最後の交響曲「ジュピター」が全曲収録されているのです。こんなものを聴かされたのでは、いやでもこのオーケストラの基本的な技術レベルの低さと、それを全く束ねることのできない指揮者の無能さが露呈されてしまうではありませんか。なんでも、指揮者のラムルは、あのコープマンに師事していたのだとか。彼が学んだものは、師の気まぐれさだけだったのかもしれません。

おとといのおやぢに会える、か。


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