痒いぜ!.... 佐久間學

(07/2/26-07/3/26)

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3月26日

MOZART/WENT
Opera for Flute and String Trio
Mozart Ensemble of the Vienna Volksoper
NIMBUS/NI 5805


CDの創生期、世界中を数えてもCDを作ることが出来る場所は4、5ヵ所、しかも、そのうちの1つがドイツのハノーヴァーにあるポリグラム(今ではそんな名前もありません)だった以外は、全て日本のメーカーの工場だったという時代の1984年に、CDの可能性を信じて自らCD製造のための工場を造ってしまったレーベルがありました。それがイギリスのNIMBUSです。ここは、ヴィクトリア朝の素敵な古いお屋敷を改造したものを、録音スタジオとして持っていました。つまり、録音からCD製造まで全てを自らの手で行うことが出来たという、何ともこだわりの強いマイナー・レーベルだったのです。
しかし、2001年に、突然この会社の倒産のニュースが伝えられました。ここで働いていた父さんは失業してしまったのです。ちょうどアダム・フィッシャーの指揮によるハイドンの交響曲全集が進行していたところでしたから、その成り行きが注目されたのですが、結局あのBRILLIANTが権利を買い取って、格安の値段の「全集」がリリースされたのは、ご存じの方も多いことでしょう。

そんなNIMBUSが、いつの間にかまた新譜を出すようになっていました。「Wyastone Estate」という会社の一部門として再スタートしたようですね。パッケージのデザインも、そして音のポリシーも全く変わっていなかったのが、嬉しいところです。
さて、モーツァルトの時代には、オペラの序曲やアリアなどを管楽器の合奏に編曲した「ハルモニー・ムジーク」というものが多く作られていました。ウィーン宮廷の管楽合奏団でコール・アングレを吹いていたボヘミアの音楽家ヤン(ヨハン)・ヴェントという人は、モーツァルトのオペラだけではなく、他の作曲家のものも数多くそんな「管楽器バンド」のために編曲し、人気を博していました。著作権などという概念のなかった時代ですから、これは先に作ったものの勝ち、そんな状況はモーツァルトの1782年の手紙にも「早くオペラを管楽器のために編曲しないと、他の人に先を越されて、ぼくの代わりに儲けられてしまいます」と記されています。
その様なもっぱら屋外で演奏されるための編曲以外に、ヴェントはフルートと弦楽器3丁という「フルート四重奏」の編成でオペラを編曲していたことが、ごく最近分かりました。その楽譜を「発見」したウィーン・フォルクスオーパーのフルート奏者、ハンスゲオルク・シュマイザーが1996年にそれを演奏するために同僚達と「モーツァルト・アンサンブル」を結成、NIMBUSに録音すると同時に楽譜も出版したために、この、ちょっとエレガントなセンスの編曲が日の目を見ることになったのです。
その「倒産前」にリリースされた「第1集」には、「魔笛」、「ドン・ジョヴァンニ」、「後宮」が収録されていましたが、今回の新録音では「ティートの慈悲」、「コジ・ファン・トゥッテ」と「フィガロの結婚」が演奏されています。他の編曲ものでも滅多に登場しない「ティート」が含まれている、というあたりが、当時のこの作品の人気を示すところなのでしょうか。ただ、今のところ、出版楽譜には「ティート」が含まれていないのが、ちょっと気になります。
先ほどの「ハルモニー・ムジーク」には、基本的にフルートは含まれていないことでも分かるように、この楽器はそもそも屋外で演奏するようなものではありませんでした。ですから、この編成はもっぱら部屋の中でしっとりと味わうという状況を想定して作られたものなのでしょう。ここには「ハルモニー」にたまに見られるようなちょっと「粗野」な一面は全くありません。管楽器だけの場合は全く曲のキャラクターが変わってしまって、単なるBGMに成り下がっているという印象は拭いがたいものがあるのですが、この編成では単にサイズダウンしただけ、音楽そのものは何も変わっていない、という印象に変わります。やはりケルビーノの「Voi que sapete」にはピチカートが入らないことには。
フルートのシュマイザー、師匠のシュルツ譲りのちょっと低めの音程は気になるものの、強引にアンサンブルをリードせずに弦楽器と見事に溶け合う心地よさが聴きものです。何よりも、全てのメンバーが元のオペラをよく知っていることが良く分かる、歌い方、そして隠れ方が見事です。
「コジ」の「Un'aura amorosa」のような、ぜひ聴きたい曲が抜けているのはヴェントのせい?

3月23日

BACH
Mass in B Minor
Dorothee Mields, Jonette Zomer(Sop)
Matthew White(Alt)
Charles Daniels(Ten), Peter Harvey(Bas)
Jos van Veldhoven/
The Netherlands Bach Society
CHANNEL/CCS SA 25007(hybrid SACD)


このジャケ写、真ん中の赤い部分は「タスキ」、紙のテープが巻いてあります。本体はしっかりとしたボックスセットになっていて、厚さは3センチほど、まるでバレンタインデイにどっさりもらった可愛らしいチョコレートの箱のように見える立派な物です。その中にはCD2枚組のデジパックに加えてなんと192ページに及ぶという堂々たるハードカバーのブックレットが収まっていました。同じ内容が英語、オランダ語、ドイツ語、フランス語と4ヶ国語で書いてあるのでテキストが多い事もありますが、それだけではなくここにはユトレヒトにある「カタリーネコンフェント」という往年の歌手のような名前の(それは「カテリーナ・ヴァレンテ」・・・似てねえ!)博物館のコレクションの写真がたくさん載っていて、ちょっとした美術書のような体裁になっています。つまり、このCDは、その博物館とのコラボレーションの結果生まれたもの、多少値段が高くなっていますが、それに見合うだけの付加価値はある商品なのです。フェルトホーフェンとオランダ・バッハ協会のこの超豪華装丁のシリーズ、他にも「クリスマス・オラトリオ」と「ヨハネ受難曲」がリリースされています。
最近もリリンクの新しい演奏を聴いたばかりの「ロ短調」ですが、この曲の場合単にモダン楽器とオリジナル楽器という違いだけではなく、様々なアプローチが試みられていますから、それぞれに個性的な味わいを楽しむ事が出来ます。その中でも、ポイントは合唱の人数の設定ではないでしょうか。ソロも含めて全てのパートを一人だけというものから、大人数の合唱、ソロも同じパートでも曲によって別の人が歌うというものまで、多種多様なセッティングのものが発表されています。そんな中で、フェルトホーフェンがとったのは、基本的に1パート一人ですが、リピエーノとしてもう2人ずつ用意して、適宜加わってもらう、というやり方でした。
これによって、曲の持つキャラクターがとても立体的に表現されているのを感じるはずです。ここで参加しているソリスト達は、それぞれアンサンブルも非常にうまい人たちですので、それだけの合唱でも見事なフォルムを形づくっています。特に「Cum Sancto Spiritu」のような複雑なメリスマなどは胸のすくような鮮やかさです。かと思うと、「Crucifixus」では、一人一人の細かい表情がストレートに現れてきて、直接的に胸に刺さるような精密な表現が可能になっています。そして、そこにある部分だけさらに人が加わる事によって、音色も肌触りも全く異なる新たな風景が広がります。ちょうどオルガンでストップを変えるように、瞬時に編成が変わる事によってもたらされる効果は、絶大なものがありました。
ソリストの中で最も感銘を受けたのはアルトパートを歌っているカウンターテナーのホワイトです。バロック・オペラの世界でも、かつてカストラートによって歌われていたパートを歌って活躍している人ですが、ファルセット特有の弱々しさの全くない、強靱な力はとてつもない魅力を放っています。ほんの少しビブラートがかかる時の何とも言えないニュアンスには、思わず惹き付けられてしまいます。彼のアリア「Agnus Dei」は、「古楽系」の演奏の一つの到達点なのではないでしょうか。
ソリストたちの完璧さに比べると、オーケストラも、そしてリピエーノの合唱も、さらにフェルトホーフェンの指揮ぶりも、ちょっとした「拙さ」が顔をのぞかせるのが、妙に暖かい印象を与えてくれています。へたに隙のない演奏よりも、この方がとても音楽として満たされたものを感じるのが不思議なところ、もし、最初からそれねらっていたのなら、それはそれでまた驚異的な事です。

3月15日

BRAHMS
Ein Deutsches Requiem
Drothea Röschmann(Sop)
Thomas Quasthoff(Bar)
Simon Rattle/
Rundfunkchor Berlin
Berliner Philharmoniker
EMI/365393 2


クラシック音楽のタイトルは、親しみを込めて短縮形の「ガクタイ用語」で呼び称されていることが多いものです。「レクイエム」関係ですと、後半に「レク」と付ければ、大概のものは通用することになっています。例えば、モーツァルトの場合は「モツレク」という、なにやら体が温まりそうな料理(それは「モツ鍋」)のような呼び方をされているのは、お馴染みのことでしょう。フォーレの場合だと「フォーレク」ですね。しかし、ヴェルディでは「ヴェルレク」ですが、ベルリオーズも「ベルレク」でしょうから、日本人が発音した場合には区別が付きません。くれぐれもお間違えのないように。もっとも、いくら「V」と「B」を区別したところで、そもそも外国の人に対してはこんな言い方は絶対通用しないはずですから、それは無駄な努力以外の何者でもありませんが。
このように、普通は「作曲家名の断片」+「レク」が、この短縮形のパターンなのですが、ブラームスが作った「ドイツ・レクイエム」の場合は、なぜか「ブラレク」と呼ばれることはなく、「ドツレク」と言うのが正しい作法だと世のクラシック達人は説いています。そんなものに「正しい」もなにもないのでしょうが、それが、この世界の「掟」なのです。しかし、この曲であえて「ドツ」、つまり「ドイツ」を前面に押し出したというのには、それなりの必然性は感じられるはずです。この曲が他のレクイエムと決定的に異なっているのは、テキストとしてラテン語の典礼文ではなく、ドイツ語訳の聖書からブラームス自身が編集したものが使われている点です。そのコンセプトをこの言い方は端的に現しています。何かと顰蹙ものの「短縮形」ですが、たまにはこんな隅に置けないものもあるのですね。「ドツレク」という、大阪弁のような語感の悪さはさておいて。
さて、この曲の最新のアルバムが、ラトルとベルリン・フィルという最強のメンバーによって録音されました。ここで注目すべきは合唱で参加しているベルリン放送合唱団です。以前、なかなか凝った構成のアルバムをご紹介したことがありますが、そこでは2001年にラトルと共にバーミンガムからベルリンへ移ってきたサイモン・ハルジーによって、この合唱団が格段のスケール・アップを果たしたことをまざまざと見せつけられたものでした。最近ではCOVIELLOというレーベルからドイツの現代作曲家の「合唱オペラ」(60609)や、イギリスとアメリカの作曲家のアルバム(40611)などを立て続けにリリースして、その柔軟なスタイルを知らしめてくれたばかりです。
COV 60609 COV 40611
それだけの多様性を持つ合唱団が、ここでは渋くブラームスに徹しているというあたりが、素晴らしいところです。特に女声が、およそ色気に乏しい暗めの音色で全体の雰囲気を支配していますから、ラトルのオーケストラが多少羽目を外してセクシーに迫ってもブラームスの「暗さ」が損なわれることはありません。そう、ここでのラトルは、そんな安定した合唱団に全幅の信頼を置いているかのように、オーケストラの方でさまざまなちょっと「あぶない」ことを楽しんでいるように見えます。1曲目のイントロでのビブラートたっぷりの弦楽器の艶めかしさといったらどうでしょう。暗めのフルート(ブラウでしょうね)はともかく、その他の木管、特にオーボエの煌びやかなこと。ラトルは合唱とオーケストラを、まるで2つのレイヤーのように互いに独立させながらも、巧みに前面に現れる割合をコントロールしてさまざまな景色を見せてくれました。
大オーケストラの中の合唱といえば、とかく大味になりがちですが、ここではブラームスが丁寧に作り上げた合唱パートがしっかりとした存在感をもって迫ってきています。普通のレクイエムでは「Dies irae」に相当する第6楽章での迫力は、まさにこの合唱団の今の力をフルに発揮してくれたものでしょう。もし、次の第7楽章に入った瞬間に聞こえてくる女声に、「力」ではなく「透明性」のようなものが宿っていたならば、とても忘れ得ぬ演奏になったことでしょう。あまりに深刻すぎるクヴァストホフともども、残念なところです。
録音がこんな平板なものではなく、もっと質感を再現してくれていれば、そんな不満も目立たなかったことでしょうに。

3月13日

BACH
Mass in B Minor
Petersen, Doufexis(Sop), Vondung(Alt)
Odinius(Ten), Gerhaher, Selig(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/SACD 98.274(hybrid SACD)


70年代、80年代、90年代にそれぞれこの曲を録音してきたリリンクは、21世紀になってもお約束のように「ロ短調ミサ」の新録音をお誕生させてくれました(もう一つ、80年代の映像がDVDで出ています)。しかも、2005年録音の今回のものはSACDとなっています。もっとも、レーベル面にはCDのロゴしかなかったり、「DSD」の表示もないので、ちょっと心配になってしまいますが。そういえば、ブックレットでもオーケストラのメンバー表からはホルン奏者の名前が抜けていました。
とりあえず手元には1977年録音のSONY盤と、1999年録音のHÄNSSLER盤があります。だいぶ前に1999年盤を聴いた時には、その前のものに比べてテンポが大きく変わって、全く別の表現となっていたのに驚いたものですが、今回はその時のような衝撃はありませんでした。もはや99年の時点でのスタイルがリリンクの中には確固としたものとなって築きあげられているのでしょう。それは、オリジナル楽器の演奏家たちのスタイルを、可能な限り彼の中に取り込もうという姿勢の現れだったのかもしれません。それが今回は、さらに説得力のともなったより自然な表現になっていることは誰しも感じられることではないでしょうか。70歳を超えて、彼はモダン楽器によるバッハ表現の、彼なりの結論に達したのかもしれません。
そんなリリンクの哲学を、例えばフルート・ソロとしてバッハ・コレギウム・シュトゥットガルトに参加しているヘンリク・ヴィーゼの演奏の中に見いだすことも、難しいことではありません。それはテノールのアリア「Benedictus」のオブリガートで聴くことが出来ます。モダン楽器の幅広い表現力は生かしながら、そこからトラヴェルソの持つ素朴なテイストとバロックのスタイルを極力引き出そうとしている姿勢は、彼の卓越した音色とテクニックをもって、見事に開花しています。
ただ、そこでアリアを歌っているオディニウスには、そこまでの志とスキルが伴っていなかったのが、惜しまれます。ヴィーゼのフルートに拮抗するためには、彼の声はあまりにも弱々しすぎました。
そんなちょっとした齟齬が、特に男声ソリストに対して感じられたのはなぜでしょう。リリンクは、どの録音でも楽譜では一人のソリストが歌うことになっているバスの2曲のアリアを、キャラクターによって別のソリストに歌わせていました。ここでも「Groria」の最後から2番目、ホルンのオブリガートが付く「Quoniam tu solus sanctus」では深い声のゼーリッヒを、「Credo」の中の「Et in Spiritum Sanctum」では明るめのゲルハーエルを起用しています。しかし、ゼーリッヒはその深さがただの重々しさにしか感じられませんし、ゲルハーエルに至っては全くリリンクの音楽にそぐわない様式感で、完全に浮いてしまっています。ほんと、この明るさはまるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」の世界です。
しかし、女声のソロに関しては、そんな居心地の悪さは全く感じられません。特にアルトのフォンドゥンクの、格調高い存在感は聴きものです。決して威圧するのではない、静かな訴えかけが素敵です。
合唱に関しては、確かに表現は一段と精度の高いものになってはいます。しかし、合唱団としての能力は明らかに前回よりも劣っているのではないでしょうか。もっとも、高い能力が維持できないというのはこの合唱団の宿命のようなものなのかもしれません。カンタータ全集を録音し始めた頃の惨めな姿に比べれば、これでも十分高いレベルなのでしょう。

3月10日

Duets
Anna Netrebko(Sop)
Rolando Villazón(Ten)
Nicola Luisotti/
Staatskapelle Dresden
DG/00289 477 6457
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1348(国内盤4月25日発売予定)

2005年のザルツブルク音楽祭での「椿姫」の、異常とも言える盛り上がりの立役者は、もちろんネトレプコでしたが、その相手役を演じたヴィリャソン(かつては「ヴィラゾン」と表記されていました)もこれを機会に一躍脚光を浴びることになってしまいました。何と言っても最大の魅力はその情熱的なルックスでしょうか。世の「オペラおばさま」にとって、これほどインパクトのあるテノールもいないことでしょう。もちろん、ネトレプコの相手役を務めるのですから歌だってきちんと歌えるはずですし。
その「椿姫」の映像は、衛星放送で流されることはあっても、DVDになることはないと、当初は言われていました。この2人が契約しているレーベルが異なっていたことがその最大の原因だとか。しかし、ヴィリャソンはいつの間にかレーベルを変わっていました。めでたく件のDVDはリリース、その勢いでこんな夢のようなアルバムまで作られることになってしまいましたよ。
ガーディアン祇によって「ゴールデン・カップル」と命名された(そういうグループサウンズがありましたね・・・「ゴールデン・カップス」、ですか?)この王子様と王女様のようなコンビが録音を行ったのは去年、2006年の8月のことでした。録音会場はドレスデンのルカ教会、かつてこの都市がある国が「東ドイツ」と呼ばれていた時に、その国のレコード会社が数々の名録音を産み出したことで有名な場所です。この都市のオペラハウスのオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンのまさに「いぶし銀」のサウンドは、ここでの録音によって世界中に知れ渡ることになりました。今回のアルバムでバックを務めているのが、まさにこのオーケストラ、これは素晴らしい結果をもたらしました。指揮をしているのがニコラ・ルイゾッティという、全く知らない人なのですが、その完璧なアンサンブルと磨き抜かれた音色で、見事にこのカップルの魅力を引き立てています。
ネトレプコと言えば、この年もザルツブルク音楽祭に出演していました。モーツァルトの全てのオペラを上演するという途方もないプロジェクトの、最大の目玉とも言われた「フィガロの結婚」のスザンナを、7月末まで演じていたのです。そして、数日後にドレスデンでこの録音セッションですから、これはかなりのハードスケジュールだったことでしょう。
しかし、ここではあのヘヴィーな「フィガロ」の疲れも見せぬ、ネトレプコの素晴らしい歌が堪能できます。彼女の最大の魅力は、何と言ってもあのレーザー光のようなフォーカスの合った輝かしい声でしょう。それが、ドニゼッティの「ルチア」の中のあの有名な旋律を奏でる時、言いようのない戦慄のようなものが(これはおやぢではありません)聴き手の体に走るのを感じるはずです。それは、声そのものの中にすでに濃密な表現が含まれていることを感じた驚きに由来しているに違いありません。ことさら歌い廻しを操作しなくても、声が出た瞬間からそこには確かな意志が込められているのです。ちょっとした素振りだけで、そこからは無限の表現が生まれることでしょう。
ですから、そのデュエットで全く同じ旋律をヴィリャソンが歌った時に、ネトレプコとはあまりに隔たったものが現れたことに驚かされることになります。声自体はあのドミンゴを彷彿とさせる伸びのあるものなのですが、表現があまりにも暑苦しいのですね。このジャケットに見られる濃すぎる眉毛のように、それはいかにもうざったいものでした。ネトレプコが、内部から自然に生まれてきたものにほんのちょっと手を加えて豊かな表現を産んでいたのとは対照的に、このテノールはベタベタと外側をいじくりまわさないことには、表現など到底生まれないと考えているのでしょうか。
彼の持ち味は、ほとんど誰も知らないようなお国もののサルスエラ、トローバの「ルイーサ・フェルナンダ」あたりでしょうか。いかにネトレプコでも、ここに入り込むのはかなり大変だったことでしょうね。

3月7日

Die Neue Domäne für Oboe
Heinz Holliger(Ob)
Camerata Bern
DENON/COCO-70863


今でこそ主流となった「デジタル録音」ですが、開発当初はひどいものだったそうですね(「デタラメ録音」)。そんな「デジタル録音」の先駆者として質、量ともに高いレベルにある数々の国内録音を行ってきたレコード会社コロムビアの「クレスト1000」シリーズは、そのアーカイヴが、オリジナルジャケットで、しかも安価に入手できるのですから、なんとも素晴らしい企画なのではないでしょうか。
今回取り上げたのは、その会社のデジタル録音の最初期のものであることがジャケットデザインからすぐ分かる、何とも懐かしいアイテムです。この、天才オーボエ奏者ハインツ・ホリガーのソロアルバムが日本で録音されたのは1974年、この時代のものがデジタルで残っていたということ自体が、殆ど奇跡です。そういえば、このジャケットのホリガーの写真もかなり奇跡。当時はまだ30代だったはずなのに、この九一分けはどうでしょう。
「オーボエのための新しい領域」というタイトルのこのアルバム、もちろん「新しい」というのは録音「当時」、1970年代での話です。その頃このオリジナルのLPを手にした時の「現代的」なものに対する、ある種衝撃的な印象は、今の時点の「現代」からはただの「思い出」にしか過ぎないものになっています。その間の音楽の世界で「歴史」のふるいにかけられたものは、ほとんど「懐かしさ」を伴うものに変わっていました。
1961年に作られたヴェレシュの「パッサカリア・コンチェルタンテ」などは、今聴き直してみるととても居心地のよいものに感じられます。主題こそ、「12音」を駆使した近寄りがたい佇まいですが、それに続く変奏は、この作曲家がバルトークの正当な後継者であることを如実に感じさせてくれるものです。ホリガーとカメラータ・ベルンの弦楽合奏が、その生き生きとしたリズムと、メランコリックな叙情性を、共に的確に表現していることが、その様に感じられた大きな要因であるに違いありません。
ペンデレツキの「カプリッチョ」は、語法的には「前衛」としてのこの作曲家の姿を今に伝えるものになっています。オーボエソロのとてつもない超絶技巧は、まさに目を見張るものがあります。しかし、ホリガー自身のライナーノーツ、そしてそれを訳した武田明倫の「注釈」によると、ホリガーがこの作曲家に寄せた思いにはかなり懐疑的なものがあることが分かります。先ほどのヴェレシュや、あのブーレーズの弟子としてセリエル音楽を極めたホリガーとしてはそれは当然の感慨、その技巧的な書法を単なる「効果」と決めつける姿勢は納得の出来るものです。おそらく、「当時」としては「人気作曲家」であった(もちろん、今でも別な意味での人気は衰えてはいません)ペンデレツキの作風をそこまで言い切るのは、かなり勇気のある行動だったはずです。「現代」の時点でのホリガーのペンデレツキ観を、もう一度聞いてみたいような気もしませんか?
後半には、オーボエ1本だけの曲が並びます。いずれもこの楽器の可能性をとことんひきだした画期的な作品ばかりですが、その中でも注目したいのはホリガー自身による作品です。「オーボエのための『多重音のためのスタディ』」というタイトル通り、一度に複数の音程の音を出すという特殊奏法を駆使した作品ですが、そこからは作曲者(=演奏者)が意図したものとは全く異なるものが聞こえてきたのには、何とも愉快な気持ちにさせられました。複雑な運指によって、思いもよらなかったような倍音を出し、それを基音と同時に鳴らすというこの奏法によって、数多くのオーボエの音が同時に1本の楽器から鳴り出した時、それはあたかもディストーションを加えられたギターの音の様に聞こえたのです。当時でしたらジミ・ヘンドリックスとか、今では「ヘヴィー・メタル」と呼ばれているロック・ギタリストが奏でる「ギンギン」のサウンドが、この「正統的」な作曲の教育も受けた九一分けのオーボエ奏者の手によって鳴り響いたのですよ。
30年以上前の録音を聴き直す時に感じた、「当時」とは全く異なる思い、これこそが「歴史」の重みなのでしょう。

3月5日

MOZART
Lucio Silla
Roberto Saccá(Lucio Silla)
Annick Massis(Giunia)
Monica Bacelli(Cecilio)
Veronica Cangemi(Cinna)
Julia Kleiter(Celia)
Stefano Ferrari(Aufidio)
Jürgen Flimm(Dir)
Tomás Netopil/
Orchestra e Coro del Teatro La Fenice
DG/00440 073 4226(DVD)


「ルーチョ・シッラ」は、モーツァルトが16歳の時にミラノで作られたオペラです。もちろん、イタリアで「オペラ」といえば「オペラ・セリア」のことですから、ここではバロック期から綿々と続くその様式で作られています。「神様」や「王様」をメインキャラとする真面目なお話というのが、その「様式」のウリですから、この台本も、ローマの独裁者シッラをタイトル・ロールに立てたもの、そもそもはちょっとあり得ないようなプロットが繰り広げられています。シッラはジューニアという人妻にちょっかいを出したいためだけに、その夫チェチーリオを追放してしまいますが、シッラをいつかは殺したいと思っている貴族のチンナの手引きで、チェチーリオは密かにローマに戻ってきます。シッラは妹のチェリアを使ってジューニアをなびかせようとしますが彼女は拒み続けます。そこに現れたのはチェチーリオ、夫婦の再会を喜んだのも束の間、シッラに投獄されてしまいます。ところが、次のシーンになると、多くの民衆の前でシーラは、この夫婦を許しただけではなく、自分を殺そうとしていたチンナとチェリアの結婚も認めてしまうのです。そんな心に広い人なんて、ほんとにいるのかしっら
もちろん、今回の演出を担当した鬼才ユルゲン・フリムは、そんなナンセンスは結末をそのままにしておくはずはありません。そもそもオリジナルの筋書きは、注文主に対するある種のおべっかが含まれたものなのですが、現代ではそんな機微は何の意味も持たないのは明らかです。したがって、彼は最後の最後にどんでん返しを見せることになります。というか、実はその方がまっとうなエンディングなのでしょうが、シッラがみんなを許すのはチンナが喉元にナイフを突きつけて強制したからだ、という設定に変えてしまったのです。そして、そのナイフを受け取った家臣のアウフィディオの手によって刺し殺されてしまう、とも。もちろん、そこに至るまでの伏線も抜かりはありません。ジューニアの衣服をはぎ取り(太股があらわに!)、力ずくでことを成し遂げようとするシッラはまるでけだもの、殺されて当然のように思えてしまいます。
モーツァルトの時代にも、バロック・オペラに登場したカストラートは存在していました。ここでもチェチーリオとチンナは本来はカストラートのための役を、メゾ・ソプラノが演じて華麗なコロラトゥーラを披露してくれています。中でもチンナ役のカンジェミは、その姿もりりしくて魅了されてしまいます。それも、ブロンドの髪を長く伸ばした、中性的な妖しい魅力、これはへたにショートカットで男っぽく迫るより数段美しいものでした。オペラ・セリアというのは、言ってみればそんな技巧の粋を尽くしたコロラトゥーラを堪能するもの、そういう意味でこの公演の女声たちは全員揃って素晴らしいものを聴かせてくれていました。男声でもアウフィディオ役のフェラーリが、力はないもののコロラトゥーラの処理は見事なものがありました。ただ、肝心のサッカが、何とも重たい声で精彩に欠けています。あるいは、こんなキャラだから、敢えてこのような結末をもってきたのかと勘ぐりたくなるほどの、冴えないものでした。
これはヴェネツィアのフェニーチェ劇場との共同プロダクションで、オケと合唱はフェニーチェから参加しています。そして、指揮が全くの新人、フィンランド人のネトピルです。とてもキレのよい指揮ぶりで、ピリオド・アプローチも取り入れているのでしょう、決して甘くならない表現が、見事にバロック・オペラとしての様式感を出しています。
フェルゼンライトシューレの広い空間を、ダンサーが踊りまわったり、合唱のメンバーが意味ありげに動き回るのが、ちょっと理解できないところがありますが、その全く時代を超えたファッションは不思議な魅力を振りまいているものでした。

3月2日

MOZART
Ascanio in Alba
Iris Kupke(Venere)
Sonia Prina(Ascanio)
Marie-Bell Sandis(Silvia)
Charles Reid(Aceste)
Diana Damrau(Fauno)
David Hermann(Dir)
Adam Fischer/
Chor und Orchester des Nationaltheaters Mannheim
DG/00440 073 4229(DVD)


モーツァルトが15歳の時にミラノで作った「Festa Teatrale(祝典劇)」という表題の付いた作品です。厳密に言えば「オペラ」ではなく、ある種の「ショー」のようなものなのでしょー
当時のミラノは、オーストリアの支配下にあり、そこを治めていた総督はウィーン宮廷のマリア・テレジアの三男、フェルディナント大公でした。その大公が結婚することになったので、結婚セレモニー用の曲を作るようにマリア・テレジアに依頼されて出来たものが、この「アルバのアスカーニョ」だったのです。ですから、お話の内容もヴェーネレ(ヴィーナス)の息子のアスカーニョが、まだ見ぬ花嫁であるヘラクレスの血縁にあたる妖精シルヴィアを探しに旅に出る、という他愛もないものです。それを賑やかな合唱や華やかなダンスで彩って、大いにお祝いモードを盛り上げようというものでした。
しかし、2006年という「現代」にこの曲をきちんと「作品」として上演するにあたって、弱冠28歳の演出家デイヴィッド・ヘルマンはそんな成り立ちとはきっぱり縁を切った、いさぎよい手を施しました。まず、物語としての流れをきちんと観客に伝えるために、いわば進行役としての語りのキャストを2人用意します。形式的には「オペラ・セリア」であるこのイタリア語の作品の中で、「旅人」と呼ばれるその2人はレシタティーヴォ・セッコの部分をドイツ語で語ってくれます。つまり、歌手の動きに合わせてセリフを読み上げるわけです。それだけではなく、もちろんイタリア語で歌われるアリアやレシタティーヴォ・アッコンパニャートの概要を、やはりドイツ語で解説してくれるのです。
さらに、その演出プランはおよそ「祝典」とはほど遠い、有り体に言えば美しくない仕上がりになっています。主人公のアスカーニョは、前頭部の禿げ上がったどう見ても「花婿」にはふさわしくない風貌、シルヴィアに「あなたは醜い」とまで言われてしまいますし。そのシルヴィアにしても東洋系の顔立ちのキャストのせいかもしれませんがただの田舎娘にしか見えない容姿が、なまじ妖精っぽいコスチュームに包まれているために、何とも下品な印象しか与えられません。
そして、男女とも同じカツラとパンダのようなメークの合唱の醜さが、そこに花を添えます。フェンシングのユニフォームみたいなものを着た彼らの「ダンス」は、まるでラジオ体操のよう、そのうち体を震わせて痙攣を起こしたようになってしまうのですから、いかに「祝典」からかけ離れたものであるかが分かります。
3Dメガネをかけると、床に描かれた図形が立体的に見える、という仕掛けも施されています。夢の中にさまよい込んだアスカーニョやシルヴィア、といった趣なのでしょうか。確かに現代でなければなし得ないアイディアには違いありません。だからどうだ、という気はしますが。
そんな正直意味不明のステージ、救いはアダム・フィッシャーの指揮がもたらす小気味よい音楽でしょうか。マンハイム国民劇場のオーケストラ、基本的にモダン楽器を使っていますが、ナチュラルホルンや皮製のティンパニなどが醸し出す粗野な音色は、的確な様式感となって現れています。
歌手たちはいずれも粒の小さい印象は免れません。主人公の2人のコロラトゥーラは悲惨なものですし、本来は僧侶、ここではなにやら猟師のような格好で登場するアチェステの人などは、終始オケとずれまくっています。そんな中で2度ばかり登場してアスカーニョに助言するという役回りのファウノ(牧神)を演じたダムラウだけは、相変わらずの存在感を見せつけてくれていました。

2月28日

Sounds of Sund
Robert Sund/
Orphei Drängar
BIS/BIS-NL-CD-5030


スウェーデン王立男声合唱団、いわゆる「オルフェイ・ドレンガー」は、1853年に創設されたという、気の遠くなるような歴史を持った合唱団です。ちなみに「オルフェイ・ドレンガー」という正式名称は、この合唱団が出来た時に最初に歌った曲が「オルフェイ・ドレンガー(オルフェウスのしもべ)の歌を聴け!」という歌詞で始まる「オルフェイ・ドレンガー賛歌」に由来しているのだとか、この曲は現在でもこの団体のテーマソングとして、コンサートの最初に演奏されています。200510月に東京で行われたコンサートも、この曲で幕を開けました。そう、このコンサートこそ、この世界最高の男声合唱団が実に21年ぶりに日本の聴衆の前に立ったという、まさに歴史的なものだったのです。その模様はテレビでも幾度となく放映されましたから、間接的にこのコンサートを体験された方も多かったはずです。それはまさに「世界一」の名に恥じない、素晴らしいものでした。80人以上の大編成が繰り出す迫力はとてつもないもの、かといってフットワークは軽やか、繊細なしなやかさが損なわれることは決してありませんでした。アンコールで演奏された武満徹の編曲による「さくら」で見せたまるでガラスのように煌びやかな色彩を持つ透明感は、男声合唱という次元をはるかに超えたものとして印象に残っています。
その時に指揮をしていたのは、40年にわたって指揮者を務めていたあのエリック・エリクソンの後を引き継いだローベルト・スンドでした。彼自身もかつてはこの合唱団の団員だったというスンドは、合唱指揮者であると同時に作曲家であり編曲者、彼の編曲作品はスウェーデン国内の合唱団の人であれば一度は歌ったことがあるというほどの、人気のあるものなのです。2006年の秋に録音されたこの最新のCDには、タイトル通りスンドがこの合唱団のために書き下ろした編曲が、たっぷり収録されています。
若い頃はジャズピアニストとしての経験もあったというスンドですから、ジャンルにとらわれない選曲と、その編曲のセンスにはひと味違ったものがあります。マンハッタン・トランスファーも歌っていた「A Nightingale Sang in Berkeley Square」では、ジャズ・トリオとの共演でノリのよいところを聴かせてくれています。信じられますか? 80人の男声合唱が、軽やかにスイングしているのですよ。エリントンの「Sophisticated Lady」のダルな感じといったら、どうでしょう。
ピアソラの「La Muerte del Angel」でのタンゴのリズム感も素敵、メキシコ民謡の「La Cucaracha」(これは、日本のコンサートのアンコールでも歌っていました)では、なんとヴォイス・パーカッションまで取り入れています。もちろん、しっとり聴かせる「Londonderry Air」でのピュアな高音の美しさは、筆舌に尽くせません。
スンド自身が作った「男声合唱のための4つの歌」という曲も聴くことが出来ます。民謡的な素材にモダンなハーモニーを付けた、ちょっとおしゃれな曲です。
ゲストのソリストも充実しています。中でもエディット・ピアフの「La vie en rose」などで参加しているソプラノのジネッテ・ケーンの、しなやかな男声にしっかり溶け込んだ声は絶品です。ステファン・パークマンなどという合唱指揮界の重鎮(ベルリン放送合唱団とのCDがありました)の澄んだテノールも聴けますよ。
「夏至祭」(NHKの「今日の料理」のテーマに酷似)で有名な作曲家フーゴー・アルヴェーンによって「声のオーケストラ」とも呼ばれるほどの力を付けた後、エリクソンによって徹底的に磨き上げられたこの合唱団は、スンドの時代になってさらに幅広い視野を獲得しようとしています。その事を実感させてくれるのが、この素晴らしいアルバムです。これを聴かなければ後悔すんど

2月26日

MOZART/Zaide
CZERNOWIN/Adama
Mojca Erdmann(Zaide), Topi Lehtipuu(Gomatz)
Johan Reuter(Allazim), Renato Girolami(Osmin)
John Mark Ainsley(Sultan Soliman)
Basler Madrigalisten
Claus Guth(Dir)
Ivor Bolton/Mozarteum Orchester Salzburg
Johannes Kalitzke/
Österreichisches Ensemble für Neue Musik
DG/00440 073 4252(DVD)


モーツァルトが24歳の時のオペラ「ツァイーデ」は、未完の作品です。実はタイトルすらも付けられてはおらず、「ツァイーデ」というのは単に主人公の名前を持ってきただけの話、かつては「後宮」などというタイトルもありました。そう、これは、その2年後に作られることになる「後宮からの誘拐」の、プロトタイプのような出自を持ったものなのでしょう。一応ドイツ語のテキストによるジンクシュピールとして作られてはいますが、序曲すら残されてはおらず、あるのは15曲のアリアや重唱という断片だけ、物語を進めていくセリフもありませんから、正確なプロットも分かりません。とりあえず、後宮に奴隷として捕らえられているゴーマッツが、皇帝ゾリマンの寵愛を受けているツァイーデと恋に落ち、家臣アラツィムの助けを借りて逃げ出そうとしますが、あえなくゾリマンに捕まり死刑を宣告される、というのが大まかなあらすじだと分かる程度のものです。
したがって、これを上演なり録音する時には、何らかの方法で足らない部分を補う必要が出てくるのは当然のことです。例えば2001年に録音されたコープマンのCD(BRILLIANT)では、ナレーターがアリアの間に物語を解説する、という方法をとっていました。今回のザルツブルク音楽祭でのオペラ全作品の上演という特別な機会にあたって、その様な断片をつなぎ合わせて一つのきちんとした物語にするように委嘱を受けたのは、1957年生まれのイスラエルの作曲家ハヤ・チェルノヴィンでした。もちろん、彼女の作風を考えれば、それが単なる「つなぎ合わせ」だけの作業に終わるはずはありません。彼女が作った部分は新たに「アダマ」というタイトルを持つ全く別個の作品として成立するものになっていました。このタイトル、ジャケットでも分かるように大きなあだま(頭)のかぶりものが登場するから付けられたものでは決してなく、ヘブライ語で「地球」を意味する言葉なのだそうです。
会場のランデステアターのオケピットには、ボルトンの指揮するモーツアルテウム管弦楽団が入っていますが、これは「ツァイーデ」の音楽だけを演奏します。「アダマ」を担当するのはステージの上、扉の陰に位置しているカリツケの指揮するオーストリア現代音楽アンサンブル、歌手もそれぞれの曲に別の人が割り振られています。最初に始まるのは「アダマ」のパート、電子音が加わり、PAの施されたほとんどSEのようなサウンドが繰り出される間には、ステージ上にプロジェクターでなにやら凄惨な映像が映し出されます。そこで歌われる歌は、テキストのシラブルだけを抜き出したような鋭角的な言葉に、かなり偶然性の高い要素が加わったほとんど「叫び」のようなもの、そこにはそれに続いて演奏されるモーツァルトの音楽との共通点はなにも見いだせません。
「ツァイーデ」のパートも、「アダマ」とオーバーラップするような形で進行します。それはもちろんモーツァルトが作ったものがそのまま演奏されているのですが、そこで展開されているストーリーは「アダマ」の雰囲気をそのまま引きずったようなとことん暗いもので、「後宮からの誘拐」で描かれるハッピーエンドの要素など、気配すら感じられません。終始体を震わせながらおびえまくっているゴーマッツ、ヒステリックに叫び続けるツァイーデ、まるでロボットのような仕草で無意味に動き回るアラツィム、そして仕上げは、最初は「頭」をかぶって「アダマ」パートとして登場するゾリマンでしょう。自ら血糊を塗りたくり、ひたすら「死」を叫び続ける様は凄惨そのものです。ちなみに、この役を演じているエインズレーは、この「M22」の「女庭師」のベルフィオーレ役でも、食虫植物に喰われて血まみれになるという設定、ザルツブルクは彼に何という因縁を与えたのでしょう。
時間にして4割を占める「アダマ」、そのインパクトと強烈なメッセージで、本家の「ツァイーデ」の音楽があたかも「サンプリング」されたものが挿入されているような印象を受けてしまいます。そして、おそらくそれは制作者の目論見通りの成果だったに違いありません。カーテンコールでチェルノヴィンが登場した時に彼女へ向けられたブーイングは、フツーにモーツァルトを味わいたいと思っていた聴衆の、切なる思いの現れだったのでしょう。

おとといのおやぢに会える、か。


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