威張る、爺(じい)。.... 佐久間學

(07/1/11-07/2/1)

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2月1日

BEETHOVEN
Sinfonias 5,7
John Neschling/
Orquestra Sinfônica do Estado de São Paulo
BISCOITO CLASSICO/BC 219


以前聴いた同じメンバーによるベートーヴェンの1番と4番があんまり楽しかったので、その時一緒に店頭にあったこちらの5番と7番の方も聴いてみたいと思っていたら、いつの間にかすっかりなくなっていました。しばらくして新たに新譜扱いで出回るようになったので、やっと入手できたというわけです。
しかし、いかにもラテンのノリの軽やかな演奏だった前のものに比べて、こちらはまるで別の人のものではないかと思えるほどの重厚な演奏、これにはちょっととまどってしまいました。実は、録音されたのがあちらは2000年の4月ですがこちらは2005年の9月、そのぐらいの時間があれば、オーケストラのキャラクターが変わってしまうことだってあり得るのかもしれません。
5番は、いともまっとうな重々しい面持ちで始まります。「ピリオド・アプローチ」を聴き慣れた耳には、いかにも古くさいスタイルのように聞こえます。しかし、遅めのテンポであっても一定のビートが貫かれているいるために、ある種の颯爽感は伴います。このあたりは、やはりラテンの血がなせる業、彼らの生き生きとしたリズム感だけは健在でした。第2楽章も幾分ゆったりとしていますが、その分、金管が入ってくるあたりはトランペットの音色の明るさも手伝って、まるで賑やかなマーチのような雰囲気が漂うところが垣間見られます。
3楽章も前向きのドライヴ感のようなものは殆どありません。それどころかホルンの「タタタ、ター」というテーマがもろベタ吹き、これは同じラテンでも踊り出したくなるようなリズムではなく、もっとねっとりとした情熱的なチークダンスの趣でしょうか。ただ、フィナーレではそれまでのもたつきを晴らすかのような、なにか吹っ切れた勢いが戻ってきます。それがただの「押せ押せ」では終わらずに、きっちりとしたコントロールのあとが見えてしまうというのが、このオーケストラの「変化」の跡なのでしょうか。
7番の方は、最近1週間ごとにいやでも聴かされたテーマミュージック(そういえば、ドラマが終わってしまうととんと盛り上がるものがなくなったのは気のせいでしょうか。この地方では、あいにくアニメが放送されることはあにめせんし)が耳に残っているせいか、この演奏はかなり重たいものに感じられてしまいます。なにしろリズムが命のこの曲ですから、このオーケストラには大いに期待をしたのですが、それはちょっと肩すかしを食らった思いです。あのドラマのオープニングに使われた部分こそ、ホルンの華々しい咆哮でノーテンキな盛り上がりの片鱗は見られるのですが、なにしろこちらも「タンタタン」という付点音符が付いた3拍子がベタ弾きなものですから、軽やかさが全く出てこないのですよ。ただ、第2楽章では、割とあっさり演奏しているよう、こういうところではそれほど深刻にはならないというのが、やはり彼らの性なのでしょうか。
ちょっとユニークだったのが第3楽章のスケルツォです。管楽器が思い切り表情を付けて、殆どハメを外すほどのものを見せていたのが印象に残りました。そして、こちらのフィナーレでは、5番のような勢いはとうとう戻っては来ませんでした。それなりのお祭り騒ぎには違いないのですが、例えばこの間のベネズエラのオーケストラのような前向きの疾走感が殆ど見られないのです。
この前聴いたベザリーのCDで、このコンビがバックを務めているものがありました。その時の印象も「なにか醒めている」というものだったはずです。あれは、このベートーヴェンのほんの少し前、2005年6月の録音でした。その時にはもうすっかり以前の「天然」なキャラクターはなくなってしまっていたのでしょうか。
明るく賑やかなサンバが「洗練」されてボサノヴァになったように、このオーケストラもより「洗練」されたものに変身する道を選んだのでしょうか。一つの超個性的なオーケストラが消えてしまうことを「グローバル・スタンダード」と言うのであれば、それはちょっと寂しいような気がします。

1月30日

MOZART
La Clemenza di Tito
Michael Schade(Tito)
Vesselina Kasarova(Sesto)
Drothea Röschmann(Vitellia)
Elina Garanca(Annio)
Barbara Bonney(Servilia)
Martin Kusej(Dir)
Nikolaus Harnoncourt/
Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
Wiener Philharmoiker
TDK/DVWW-OPCLETI-DG(DVD)


モーツァルト最後のオペラ、当然「M22」DVDボックスの最後を飾るべきラインナップとなるはずのものでしたが、ある種「大人の事情」により、モーツァルト・イヤーの2006年にザルツブルクで行われた公演はここには収録されることはありませんでした。もちろん、公演そのものは8月16日にプレミエを迎え、19日、21日と何ごともなく幕が開くのですが、残りの23日、26日、29日の公演を、突然アーノンクールがキャンセルしてしまったのです。その日の分を代わりに指揮したのはクリストファー・モウルズという、誰も知らないイギリスの指揮者だったと言いますから、アーノンクール目当てにチケットを買った人はがっかりしたことでしょうね。
プレミアの模様はテレビで生中継されていますから、それをDVDにすればよいのでは、とは誰しもが思うところでしょう。しかし、1回の公演だけでは「商品」としての傷の少ないものは得られなかったのでしょう。その代わりということで、ここで用いられたのが2003年にやはりザルツブルクで行われた同じプロダクションの映像です。もちろん、これはすでにTDKからリリースされているものですが、背に腹は代えられないというところでしょうか、このユニバーサルのセットに表のカバーだけを差し替えて加えられることになってしまったのです。ですから、中を開けるとこれだけブックレットやディスク印刷のデザインが他のものと違っています。品番もなにか投げやり。「opera」「clemenza」「Tito」の頭をつなげて、最後に「DG」が付くなんて。
会場はフェルゼンライトシューレ、あのフルトヴェングラーの「ドン・ジョヴァンニ」と言うよりは、映画版「サウンド・オブ・ミュージック」のコンテストの会場として使われた、岩肌の回廊をそのままステージにしたというとんでもないオペラハウスです。その回廊をどのように使うかというのが演出家の腕の見せ所となるわけで、興味は尽きません。その回廊をさらに張り出した形で、3階建ての集合住宅の断面のようになったセットの中で、マルティン・クシェイのドラマは繰り広げられます。ただでさえ広すぎるこのステージ、真新しいそのピカピカの住宅の中を、キャストは上ったり降りたり走り回ったりと大変です。しかもヴィッテリアあたりはその場の気分で下着姿になって着替えを始めたりしますから、レシュマンの豊満な胸が激しい運動で波打つのを楽しむことが出来ます。いや、元々自分に惚れている男を使ってモトカレを殺させようとするのですから、この役にはこのぐらいの異常さがないことにはその性格は伝えられないのかもしれません。そして、その上にそのモトカレ、ティートの役柄に対して大幅な読みかえがなされているものですから、このドラマはとことん息苦しいものになりました。シャーデが演じるこの皇帝は登場した瞬間から極めてエキセントリックな性格であることが分かります。そんな人が、そもそも友人のセストやヴィッテリアを「慈悲」をもって許せるわけがない、というところから、演出家は物語を再構築しようとしたのでしょう。
そんな、およそ楽しくなさそうな世界を盛り上げる(盛り下げる)のに、アーノンクールの音楽ほどふさわしいものはありません。中でも第2幕、焼けただれて廃墟となったセット(この転換には驚かされます)でのこの人は、まさに水を得た魚、とことん重苦しい音楽を提供してくれています。19番のセストのアリア「Deh per questo istante solo」などは、とてもモーツァルトとは思えないほどのどんよりとしたテイスト、その意を汲んだカサロヴァの歌は、まさに絶品です。
この演出では、群衆が重要な役割を果たしています。フィナーレで「3階」に住んでいる家族が、それぞれ食卓に子供を裸にして横たえるのはどういう意味なのか、正直その真意は理解しかねるのですが、なにかただごとではない迫力は伝わってきます。その時に歌われる合唱が、オペラにはあるまじき充実感をもった素晴らしいものであることにも、驚かされます。
キャストが2人(アンニオとセルヴィリア)代わっている他は、2006年のものと同じ内容だということですから、ここに交ざっても何の問題もないのでしょうが、演出などというものは生き物ですから、やはり最新の練り上げられたものを見てみたかった、という思いは残ります。日本のメーカーの「製品」であるにも関わらず、他のものと合わせて字幕に日本語が入っていないというのも納得できません。もちろん納豆では痩せません。

1月27日

ISLANDSMOEN
Requiem
Soloists
Terje Boye Hansen/
Det Norske Solistkor
Kristiansand Symfoniorkester
2L/2L36SACD


1881年生まれのノルウェーの作曲家、シーグル・イスランスモーンのレクイエムという珍しい作品が、ご当地の手作りレーベル2Lからリリースされました。全く聞いたことのない作曲家ですが「淫乱相撲」とおぼえましょう(ぜんぜん似てないって)。
オスロ音楽院を卒業後も、ライプチヒでマックス・レーガーなどの教えを受けたイスランスモーンは、しばらくは教師として務めた後、1916年からオスロ南部の都市モスの教会のオルガニストとなります。そして、オルガニストとしての生活のかたわら、合唱団やオーケストラを組織して、大規模なオラトリオなどを数多く演奏しました。作曲家としては、様々なジャンルのものを手がけていますが、やはりメインはその様な声楽作品となっています。
このレクイエムは1936年に完成したものですが、初演は少し遅れて1943年に行われています。その後、ノルウェー各地で何度となく演奏され、1949年にはベルゲンでの演奏がラジオで放送されるほど人気を博したものですが、なぜかそれ以後は完全に忘れ去られてしまいます。そんな、ほぼ散逸しかけた楽譜を修復して、再び蘇らせたのが、ここで指揮をしているハンセンです。蘇演にあたって彼は、元々はアマチュアが演奏することを想定して作られたオーケストラのパートに、プロの演奏に見合うように大幅に手を加えています。
この曲を特徴づけているものは、テーマの中に見え隠れするノルウェーの民謡のテイストです。作曲家は、この曲を作る少し前、1934年に、オスロとベルゲンの間にある山岳地帯ヴァルドレスを訪れて民謡を採集していますが、その成果がこの曲の中に反映されることになりました。
通常のレクイエムとは異なり、まず「葬送の歌」というタイトルが付けられたオーケストラだけによって演奏される曲が最初に置かれています。これは、グリーグあたりの雰囲気をそのまま受け継いだような、懐かしくもロマンティックな趣をたたえたものです。タイトルとは裏腹に、いかにもオープニングにふさわしい華やかな印象が感じられるのは、もしかしたらハンセンが付け加えたであろう打楽器やハープのせいなのかもしれません。指揮者の思惑とは異なり、ちょっと異質なけばけばしさが耳に付きます。
それ以降は、多少の入れ替えは行われていますが、例えばモーツァルトの作品のようなラテン語のテキストの曲が並びます。「Lacrimosa」などに現れる「ラ、ソ♯、ミ」のように、下降音型でも導音のシャープが生きている(「和声短音階」でしたね)あたりが、民謡っぽいところでしょうか。それぞれの曲は、とても親しみやすいテーマが現れて、暖かな思いにホッとさせられるものばかり、中でも、アルトのソロで歌われる「Recordare」は、まるでジョン・ラッターのようなポップスっぽい味わいまで醸し出してくれています。ただ、「Kyrie」、「Sanctus」、「Agnus Dei」の3曲にはかなり複雑な対位法が用いられていて、いかにも宗教曲といった面持ちを与えてくれます。そのメリスマがなんとも不思議な動きになっているのにはちょっと戸惑ってしまいますが。
合唱団は、英語にすると「The Nowegian Soloists' Choir」、あのニューステッドが1950年に創設したという由緒正しい団体です。いかにも北欧らしい透き通った音色とハーモニーにはいささかの破綻もありません。先ほどのかなり難しそうなメリスマも難なくこなしているのは驚異的です。このレーベルのポリシーを最大限に生かしたサラウンド録音、オーケストラとソリストは前方、合唱は後方という音場設定になっているのだそうです。それなりの装置を使えば、この合唱団の魅力はそれこそ耳元まで迫ってくることでしょう。ただ、音楽として積極的な訴えかけが殆ど伝わってこないのは、あるいは曲そのものに大して深いものが備わっていないからなのかもしれません。

1月25日

MOZART
Il Re Pastore
Kresimir Spicer(Alessandro)
Annette Dasch(Aminta)
Marlis Petersen(Elisa)
Arpiné Rahdjian(Tamiri)
Andreas Karasiak(Agenore)
Thomas Hengelbrock/
Balthasar-Neumann-Ensemble
DG/00440 073 4225(DVD)


好調に続く「M22」のレビュー、今回はこんな時でもなければまず見ることの出来ない「牧人の王(羊飼いの王様)」です。競走馬の話ではありません(それは「マキバオー」)。モーツァルトが19歳の時の作品、オリジナルタイトルには「オペラ」ではなく「セレナータ」という表記がある通り、メタスタージオの有名な台本(ハッセやグルックも取り上げています)による音楽劇ではありますが、初演はステージではなくコンサート形式で行われました。
題材としてはもろオペラ・セリア。アレキサンダー大王(アレッサンドロ)がシドンの地を攻略した時に先王は自害したために、その後継者として探し出されたのが、今は羊飼いとして恋人のエリーザと平和に暮らしているアミンタでした。先王の家臣で、今ではアレッサンドロに仕えているアジェノーレからその事を告げられ、アミンタは「王になっても君のことは忘れないよ」とエリーザを思う心は変わらないことを伝えて、王になる決心をします。そんなことは知らないアレッサンドロは、先王の娘タミーリを不憫に思っており、彼女をアミンタと結婚させて幸せになってもらおうと考えます。しかし、実はタミーリはアジェノーレと恋仲だったこともやはり知りません。結婚式が執り行われる最中に乱入してきたのはエリーザ、アレッサンドロにアミンタを返してくれと迫ります。タミーリもアジェノーレとの仲を告白、事情を知ったアレッサンドロはそれぞれのカップルの結婚を許す、というお話です(分かりました?)。
ここで演出を担当しているのが、指揮者のヘンゲルブロックです。以前からその方面への関心があったということですが、彼の作り上げたプランはなかなか見応えのあるものでした。会場がザルツブルク大学のホールというところなのですが、映像を見る限り「講堂」といった感じの規模、そんな環境を逆手にとったのか、基本は「劇中劇」という設定になっています。仲良しのグループが集まって、ひとつお芝居でもやってみようか、というノリ、それぞれにカードを引いて、役を振り分け、カーテンを引いた小さなステージで芝居が始まる、といった趣です。カーテンが開いて始まったものは、ステレオタイプの衣装と仕草から成り立つ、まるで学芸会のようなチープなものでした。しかし、よく観察しているうちに、これは現在隆盛を極めている「バロック・オペラ」のカリカチュアであることに気付きます。良くあるパントマイムのような「振り」は、ちょっと行き過ぎた感もなくはないそんな最近の演出に対する、ヘンゲルブロックなりの揶揄の姿勢に見えてしょうがないのです。他の出演者が、ステージの「外」から、色々指示を出しているのも面白いアイディア。
ところが、そのうち「外」でもきちんと話が進行するようになっていきます。もちろん、その頃には「中」でやるべき事を「外」でやられても違和感のないように、観客は慣らされているはずですから、これも演出の意図だと理解できるはずです。もちろん、肝心なところは「中」。その典型が、いやいや結婚させられようという2人の結婚衣装でしょう。それぞれ、水車のような形をした蒸気船のパドルを前に取り付けられているのです。2人が自虐的にそれを回すことによって「他人の意志で動く」ということを象徴しているのでしょう。そんな2人の気持ちも知らずに、とうとうと歌いまくるアレッサンドロの姿は愉快そのものです。
さらに、登場人物が「役」ではないところでちょっとしたさや当て劇を演じるというスリリングな場面も出てきて、この演出が「3層」に入り組んだものであることが分かります。それをサラッと見せられるヘンゲルブロックは、この分野でもただ者ではありません。
出演者の中では、何と言ってもアミンタ役のダッシュが飛び抜けています。1幕のアリアのコロラトゥーラは恐ろしいほど完璧、その幕切れ、エリーザ役のペーターゼンとのデュエットも2人の息が見事に合っていてとても美しいものでした。そして、2幕、ヴァイオリンのオブリガートが付くしっとりとしたアリアの見事なこと。肝心のアレッサンドロ役のシュピチュルがちょっと頼りないのを除けば、他の人も満足のいく出来でした。
オーケストラはもちろんオリジナル楽器。フォルテピアノによるイマジネーション豊かなセッコの伴奏と相まって、久しぶりに爽やかなモーツァルトを聴いた気分です。

1月23日

CIARDI
Gran Concerto and Music for Flute
Roberto Fabbriciani(Fl)
Massimiliano Damerini(Pf)
Stefan Fraas/
Orchestra Sinfonica del Friuli Venezia Giulia
NAXOS/8.557857


ほとんど「ロシアの謝肉祭」という技巧的なフルート独奏曲の作曲家としてのみ知られているチェーザレ・チアルディは、1818年にイタリア、トスカーナ地方の都市プラトに生まれたフルーティスト兼作曲家です。後半生をサンクト・ペテルブルクでの教師として過ごした時の産物が、「ロシアの〜」になるのでしょう。サンクト・ペテルブルク音楽院ではあのチャイコフスキーに生徒としてフルートを教えていたこともあるのだそうです。
その目の覚めるようなフルートの演奏技術は、あのヴァイオリンのヴィルトゥオーソ、ニコロ・パガニーニにも匹敵するということで「フルートのパガニーニ」という名声もあったのだとか、実際彼はパガニーニその人の前で演奏、称賛を受けたこともあるといいます。作曲家としては、本格的なオペラなども作ってはいますが、もちろんコンポーザー・フルーティストとして、もっぱら自分で演奏するための技巧の丈を凝らしたフルートやピッコロのためのものが殆どだったはずです。そういう意味では、彼とほぼ同じ頃に活躍したフランツとカールのドップラー兄弟とよく似たところがある音楽家です。実際、フランツもオペラを作っていますし小学校の校歌だって作っています・・・(そ、それは「ドップラー校歌」)。
ドップラーが現在では殆どの作品が多くのフルーティストによって演奏されるようになっているのとは対照的に、チアルディの場合はいまだに「ロシア〜」以外は殆ど録音されてはいないというのが現状のようです。彼のこのジャンルでの最も大規模な作品である「大協奏曲」が初めて録音されたのは、1991年のこと、このマウリツィオ・ビニャルデッリの演奏によるCDでした。

  DYNAMIC/CDS 78

しかし、「協奏曲」とは言ってもこの時の録音はピアノ伴奏のバージョンでした。元々は作曲者によるきちんとしたオーケストラ版も出来ていたのですが、今ではその楽譜は散逸してしまっているそうなのです。今回録音されたものは、ソリストのファブリッチアーニが自らオーケストレーションを施したもの、晴れて本来の協奏曲の形が蘇ることになりました。同様に、やはりDYNAMIC盤に収録されていた「アルノのこだま」という変奏曲も、ファブリッチアーニによるオケ伴バージョンを聴くことが出来ます。ここではトライアングルやシンバルが使われていますが、その響きはちょっと異質、もしかしたらこれは彼の裁量での楽器編成だったのかもしれません(もっとも、これらはパガニーニのオーケストレーションには良く登場しますから、そのあたりを意識したものなのでしょうか)。
その他の曲も、特にコメントはありませんが今まで録音されたことがなかったであろうものが数多く見受けられます。「フルートとピアノのための悲歌 心のため息」などという作品は、ただ技巧的なものを追求したのではない、もっと高い次元での音楽的な訴えかけのあるものです。
ところが、これほど魅力的な企画であるにもかかわらず、ソリストのファブリッチアーニが全く精彩に欠けているためにこのアルバムは殆どクズ同然の仕上がりになってしまいました。もっぱら現代音楽のシーンで活躍しているという印象の強いファブリッチアーニですが、その様な場所で見せてくれる目の覚めるような技巧は影を潜め、とてもこのような難曲には太刀打ちできなくてマゴマゴしている様子が、ありありと見受けられるのです。
さらに失望させられるのは、彼の音です。このようなイタリアの作曲家の曲には欠かすことの出来ない輝かしさがまるで備わっていないのです。しかも、これはもしかしたら録音上のミスなのかもしれないのですが、高音に妙な息音が混ざっているため、そのあたりの音がとても苦労して出しているように聞こえてしまうのです。こんな技巧的な曲は、なんの苦労もないような印象を与えるように軽やかに吹いて欲しいもの、それをこんなにヘロヘロになって吹かれたのでは聴いている方が辛くなってしまいます。正直、最後の3曲ほどはとても聴き続ける忍耐力などはありませんでした。

1月20日

MEDER
Passionsoratorium nach Matthäus
Nichi Kennedy(Sop), Gerd Türk(Ten)
Christian Hilz(Bas)
Michael Alexander Willens/
Die Kölner Akademie, Orchester Damals und Heute
RAUMKLANG/RK 2506


受難曲に関する文献には良く登場し、コンサートなどでも取り上げられることもあるヨハン・ヴァレンティン・メーダーの「マタイによる受難オラトリオ」の世界初録音です。メーダーというのは、1649年と言いますから、バッハの少し前に生まれたドイツのオルガニストで作曲家、そして最初は歌手だった人です。歌手時代、各地の宮廷に雇われますが、リューベックではあのブクステフーデと知り合い、その影響はこの作品にも現れていると言われます。その後はカントールとして、様々な土地を転々とすることになるのですが、最後の任地となったリガ(現在はラトビア共和国)で1701年に作られたのが、この「マタイ」です。
同じ題材を扱ったものであるにもかかわらず、この作品はそのほんの30年ちょっと前の1666年にドレスデンでハインリッヒ・シュッツによって作られた「マタイ受難曲」とは、かなり異なる様相を呈しています。シュッツのそれは全曲ア・カペラで終始する極めて禁欲的なたたずまい、テキストも最初と最後の合唱以外は、全て新約聖書の「マタイ福音書」からのものとなっています。エヴァンゲリストを中心としたレシタティーヴォが淡々と述べられる中、時折群衆の言葉としてポリフォニックに繰り広げられる合唱が、束の間のアクセントという渋いものでした。
メーダーの作品は「オラトリオ」というタイトルの通り、もっとヴァラエティに富んだ音楽が味わえるものに仕上がっています。通奏低音に弦楽器とリコーダーまたはオーボエ2本(同じ奏者が持ち替え)という編成のオーケストラは、歌の伴奏だけではなく、イントロとして「シンフォニア」というインスト曲も演奏、シュッツのものとは全く異なる色彩豊かな世界を提供してくれます。そして、この時代には、聖書のテキスト以外のテキストを用いた「アリア」というものが挿入されるようになっています。ただ、「アリア」とは言ってもそれはこの、やはり30年足らず後にライプチヒのヨハン・セバスティアン・バッハが作ることになるイタリア風の壮大なダ・カーポ・アリアとは規模も、そして訴えかける感情の起伏も全く異なるものでありあした。それは、どちらかといえば、そのバッハの作品の中にも登場する「コラール」のような、極めてシンプルな「うた」だったのです。
そんな、まるで音楽史の隙間を埋めて、なだらかな傾向を知らしめるのに貢献しているようなこのメーダーの「マタイ」、そんな、変遷の経過のサンプルとしてではなく、一つの魅力的な声楽作品として愛好家の琴線に触れうるものとなったのは、ひとえにしなやかな力を持つ演奏家達に負うところが大きいはずです。中でも、エヴァンゲリストを歌っているテノールのテュルクの伸びやかな声は、ひときわ心を打つものです。自身が歌手でもあった作曲者は、このパートにことさら思いの丈を込めて作ったといわれていますが、それに見事に応えた輝かしい成果を、ここで聴くことが出来るでしょう。この録音では合唱も含めて各パート一人の歌手しか用意されていません。したがって、レシタティーヴォでは何人もの役を担当することになり、テノールもエヴァンゲリストに続いてすぐペテロが出てくるような場面もあります。そんなところでも、テュルクはしっかりキャラを描き分けています。
数々の「アリア」を歌っているソプラノのケネディも、その素直な声は感動的です。ただ、イエス役のバス、ヒルツの声が深みに欠けるのが惜しまれます。レシタティーヴォの中でもイエスのパートは「アリオーソ」という形でよりカンタービレに作られているので、この声ではちょっと物足りません。
オーケストラは、もちろんオリジナル楽器ですが、ピッチはモダンピッチより高め(当時は地域によって様々なピッチが使われていましたから、必ずしもオリジナル=低いピッチという訳ではありません)、そのせいもあって、メリハリのあるサウンドを味わうことが出来ます。

1月18日

BRUCKNER
Symphonie Nr.5
Sergiu Celibidache/
Münchner Philharmoniker
ALTUS/ALT138/9


チェリビダッケがさまざまな機会に述べたものを集めた本が最近出版されて、大きな話題を呼んでいます。そこで紹介されている、特に同業者に対する辛辣なコメントには、思わずのけぞってしまいます。我々が大指揮者だと信じて疑わない人に対して、「音楽がない」やら「まるで子供」だのと言いきっているのですからね。言われた本人にしてみればたまったものではありませんが、そこまで言い切ることが出来るところに、普通の人は凄さを感じてしまうことでしょう。真の芸術家なのだから、このぐらい自意識が強いのは当たり前、その裏付けとなった音楽観にはひたすら敬服する他はありません。もっとも、見方を変えればただの偏屈ジジイに過ぎないと言えなくもないのですが。
いずれにしても、そこまで言うのなら、自分の演奏はどれほどのものかと誰しもが思ってしまうことでしょう。そんなすごいものなのなら、いっちょう聴いてやろうじゃないか、と。ところが、彼は自分の音楽は「生」でしか聴かせない、というポリシーを貫き通しました。そもそも「録音」というものを通して音楽を聴くことを否定し、その様な方法で音楽を伝えている同業者をこっぴどくこき下ろし続けたのです。
ですから、彼の演奏を、こんなCDで聴いたりしたら、その「聴衆」もこっぴどく罵られてしまうことでしょうね。しかし、もはや「生」の演奏を伝えるすべを失ったこの指揮者は、遺族によって無制限に垂れ流されている「録音」の流通を阻止することすらままなりません。もちろん、「録画」もですが(テレビだっけ?)。そんな中で、このような「秘蔵音源」がまたまた市場を賑わすこととなったのです。
これは、198610月、出来たばかりの日本で最初の本格的なコンサートホール、サントリーホールで行われた演奏会のライブ録音です。当時のFM東京が放送用に録音する許可を得てマイクをセット、リハーサルも終わったところでいきなり「録音はやめてくれ」という申し出があったにもかかわらず、したたかなスタッフが無断で録音を行った、という、極めてイリーガルな素性のものなのです。当然、それが放送されて公の耳に届くことはありませんでしたから、なぜか20年も経って出てきた時には、とびっきりの「秘蔵」っこになっていたわけです。
このコンサートの写真がジャケットに使われていますが、それを見ると木管楽器の編成がかなり奇妙なことに気付かされます。このような大編成の曲ですから、当然木管は人員を倍増させた「倍管」となっています。スコアはそれぞれ2人ずつの2管編成ですから、4人ずつということですね。ところが、なぜかフルートだけは6人いるのです。しかも、場所の関係でしょうか、1列に並ばないでアシのアシの2人がなんと2列目、クラリネットの隣りに座っているのです。これはもちろん、チェリビダッケの指示に違いありません。木管セクションの中にあって、フルートだけはリードを持たないために音量は小さめ、それが分かっていて、マーラーやチャイコフスキーのように最初からフルートを重ねてスコアを作る作曲家もいます。もちろん、卓越した耳を持つチェリビダッケですから、ブルックナーにおいてもその様な補強を施したのでしょう。
しかし、それはあくまでトゥッティの場合です。ソロではもちろん一人で吹いています。ところが、それがこの録音では全く聞こえてこないのです。第1楽章の序奏が終わって、ヴァイオリンのトレモロに乗ってヴィオラとチェロで奏されるアレグロの第1主題の最後の部分をフルートが繰り返すのですが、それが殆ど「気配」程度にしか聞こえてこないのですよ。こんなアンバランスな聞こえ方は、おそらく「録音」だからなのでしょう。サントリーホールの中では、きちんと指揮者が作った通りのバランスで聞こえていたに違いありません。こんなところが、彼が「録音」を認めなかった一つの原因なのかもしれない、と、このいかにもメリハリのない放送録音を聴くと感じてしまいます。
サウンドを気にしないで聴いていると、これは継続した流れが一瞬たりとも途切れることのない、緊張感にあふれるものすごい演奏であることが分かります。しかし、本当の凄さは、やはりそこで聴いていた人でないと決して分からないものなのでしょうね。

1月16日

MOZART
Der Schauspieldirector
Bastien und Bastienne
Radu Cojocariu(Buff/Colas)
Bernhard Berchtold(M. Vogelsang/Bastien)
Evmorfia Metaxaki(Mlle Silberklang/Bastienne 1)
Aleksandra Zamojska(Mme Herz/Bastienne 2)
Thomas Reichert(Dir)
Elisabeth Fuchs/
Junge Philharmonie Salzburg
DG/00440 073 4244(DVD)


色々な演出が楽しめる「M22」ですが、ついに人形劇バージョンの登場です。刀で斬り合うという残酷なお芝居ですね(それは「刃傷劇」)。ザルツブルク・マリオネット劇場との共同制作、演じているのは人形で歌はちゃんとした歌手が歌うというものですが、もちろんこれはただの人形劇で終わるわけはありません。人形劇のステージの外側では、普通の人間のドラマが展開されるというユニークな設定、しかも、「劇場支配人」と「バスティアンとバスティエンヌ」を合体させたというとんでもないプランなのですから。ただ、「劇場支配人」を他のオペラと一緒に演奏するというアイディア自体は、そもそもあのゲーテが始めたものだそうですから、さして目新しいものではありません。しかし、ここでは演出のトーマス・ライヒェルトのアイディアでこの2つのジンクシュピールが見事に融合し、全く一つのドラマとして成立することになりました。
「劇場支配人」の序曲で始まったそのシーンは、オーディションの会場です。これから「バスティアンとバスティエンヌ」を上演するにあたってのキャストの選定が行われているという設定です。人形は衣装も付けていない骨組みだけのもの、それぞれに番号が付けられて、プロデューサーのフランク(「劇場支配人」のセリフ役)は客席の中からその番号で俳優(もちろん人形)を呼びつけて、指示を出しています。このあたり、まるでブロードウェイ・ミュージカルの「コーラス・ライン」を思わせられるようなところです。その助手としてステージと客席を行ったり来たりして働いているのが、オリジナルでは歌手だったブッフ、どうでもいいことですが、このコジョカリウという人はあのクラヲタ阿部寛にそっくりです。
そんな、劇場全体がステージと一体化した中で、オーディション劇は続きます。フランクに「普通に歩け!」とか「寝るな!」などと叫ばれている人形たちの動きはとてもチャーミング、そんなユーモラスな仕草に場内から笑いがおこるという場面が頻繁にあるうちに、殆どステージと客席、そして人間と人形の区別が付かなくなるような不思議な感覚に陥っていきますよ。その中で、マドモワゼル・ジルバークランクと、マダム・ヘルツのアリアが、人形によって歌われます(もちろん、2人のソプラノ歌手が歌っていますが)。
やっとキャストが決まったものの、結局バスティエンヌ役はその2人のダブルキャストになってしまいました。しかも、魔法使いのコラスは、その阿部ちゃん(?)がそのまま、つまり人形と人間が共演するということになってしまいます。そして、まるであのベートーヴェンの「エロイカ」そっくりの(これは殆どパクリ)イントラーダに乗って、「バスティアンとバスティエンヌ」が始まります。
この作品は良く上演されるものですが、ストーリーがどう考えてもいい加減、しかも、ちょっとした「発表会」程度のところで手軽にやられることも多いため、なんとも胡散臭いイメージがついて回ります。ですから、逆にこのような思い切った設定の方が、音楽を純粋に味わうことが出来ました。歌手たちはみなクセのない素直な声で、アンサンブルなどはとても美しいものでした。女声が歌うこともあるバスティアン役はテノールのベルヒトルト、この人の伸びのある声も素敵です。そして、なによりも指揮者のフックス(女性です)が作り出す音楽が、若々しくて生気に満ちています。
先ほどのダブルキャスト、途中で人形を(歌手も)入れ替えるというシーンがあって、2人ともめでたく出演できたのですが、そのあとにまた「劇場支配人」のシチュエーションが戻ってきて、その2人(2体)が「私こそがプリマなのよ!」という言い争いを始めるという仕掛け、これには思い切り楽しめました。

1月14日

KILAR
Bram Stoker's Dracula
Antoni Wit/
Cracow Philharmonic Chorus
Polish National Radio Orchestra, Katowice
NAXOS/8.557703


NAXOSに多くの録音を行っている、お気に入り、アントニ・ヴィットの新譜を探していたら、こんな映画音楽のアルバムが見つかりました。スペクタクルな音楽には定評のあるヴィット、何をおいても聴いてみたいと思わせられるアイテムではありませんか。
これは、最近ではロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト Pianist」という、仕事が少ないために、トイレ掃除のアルバイトをしているピアニストの生活を描いた映画(それは、「洗浄のピアニスト」)ではなく、カンヌ映画祭のパルム・ドールや、アカデミー賞を総なめにしたユダヤ人ピアニストの物語で、その音楽を担当したポーランドの作曲家、ヴォイチェフ・キラールのスコアを集めたものです。NAXOSでは「新譜」ですが、実はこれは以前他のレーベルから出ていたもの、録音も1997年ですから、あいにくこの映画のサントラに使われた音楽は入ってはいません。というか、ここでは演奏に使われたショパンの曲ばかりに注目していましたから、オリジナルスコアがどんなものだったのかは、完璧に記憶にありませんが。
キャリアの最初には、ポーランドで、有名なアンジェイ・ワイダなどの自国の映画監督の作品のために100曲以上の音楽を作っていたキラールは、1992年のフランシス・フォード・コッポラの「ドラキュラ Bram Stoker's Dracula」で、ハリウッド・デビューを果たします。ゲーリー・オールドマンやウィノナ・ライダーが出演したこの作品は確かに見たはずなのですが、やはり音楽の印象は全く残っていません。もう一つ、1994年の「死と処女(おとめ) Death and the Maiden」という、やはりポランスキーの作品も、シューベルトの「死と乙女」が効果的に使われていたことは覚えていますし、シガニー・ウィーヴァーが椅子に座らされたままパンティを脱ぐなどという細かいシーンまでも記憶にはあるのですが、キラールの音楽はどこにも残ってはいません。これは、ジョン・ウィリアムズあたりのものが、執拗に耳について離れないのとは、まさに対照的なことです。
しかし、ここで音楽だけを抜き出して聴いてみると、それぞれにとても魅力的なことに気付かされます。「ドラキュラ」の最初の曲「The Brides」は、重たいリズムに乗ってヴァイオリンが切々と奏でるメロディがとてつもなくキャッチー、しかし、それはどこか人を突き放すような厳しさも伴っているものです。それは、彼の作品の全てに共通する要素なのでしょうが、聴いた瞬間にある特定のイメージを的確に伝えられるというものであるにもかかわらず、決して心に深く残るような「甘さ」は持ち合わせてはいないという厳しさなのです。これは、映画音楽の場合にはとても重要なファクターになってくるのではないでしょうか。この映画を見ていた時には、その時に流れていた音楽によって、まさに深層での心理操作が行われていた結果、ドラマはより一層のリアリティを持って感じられたことでしょう。そこには「寅さん」における山本直純のように、音楽だけが独り歩きをしてドラマを「邪魔」していたことはなかったはずです。もちろん、見終わったあとにそのテーマを口ずさむような状況は、とてもあり得なかったことでしょう。
「処女」の場合には、それだけ聴くととてつもなく美しいテーマが最初に現れます。そのテーマは他の曲にも使われているのですが、それは徐々に別の要素が入り込んできて、ものの見事に醜いものへ変貌していきます。つまり、最初の「美しさ」は、「醜さ」を強調するための伏線でしかなかったという驚くべきことが、ここでは行われていたのです。
日本では公開されなかった1993年の「König der letzten Tage」という映画は、中世の王様の話。それに合わせて、いかにも古風なたたずまいの曲が最初に披露されます。そして、それに続くのが、合唱を伴ったミサ曲ですが、そのテイストは「ドラキュラ」と酷似しているのというキワものです。それは、音だけを聴いて判断したこと、実際に映画の中で味わえば、きっと全く別の世界が広がることでしょう。

1月11日

Transcriptions 2
Laurence Equilbey/
Accentus
NAÏVE/V 5048


最近はバロック・オペラがブームとなっていますね。そんな中で、今まで殆ど知られていなかったヴィヴァルディのオペラも人気を呼んでいます。それの火付け役となったのが、このNAÏVEというフランスのレーベルの「ヴィヴァルディ・エディション」です。とてもクラシック音楽、しかもバロックとは思えないような扇情的なジャケットの魅力とも相まって、その人気は高まるばかりです。
このように、オペラに関しては、彼の作ったものの全容はほぼ解明され、それを実際に音として楽しめるという時代になっています。そんな動きはほかのジャンル、例えば宗教曲などでも顕著なものがあります。その最大の成果は、今まで彼の作品リストには存在していなかった「レクイエム」が発見されたということではないでしょうか。そして、それをこのレーベルの看板スター、「アクサントゥス」が、世界で初めて録音してくれました。ただし、自筆稿が散逸していたということで、実際に演奏可能な状態にあったのは「Requiem」、「Benedictus」、「Lux aeterna」の3つの楽章だけだというのが、少し残念なところです。
通奏低音のビートに乗って、まるで心の中に寒風が吹きすさぶような楽想で、「Requiem」が始まります。かと思うと、続く「Benedictus」では、あたかも暖炉のまわりでくつろいでいるような穏やかなたたずまいが広がっています。しかし、最後の楽章になると、やはり氷のように冷ややかな情感に支配され、曲は終わるのです。
・・・っと、ごめんなさい! これは、前にも取り上げた「第1集」に続く、編曲もののアルバムの第2弾、最初に収録されているのがヴィヴァルディの「四季」から「冬」の全3楽章を合唱のために編曲したものだったのです。つまり、「スウィングル・シンガーズ」のように、この曲を「ダバダバ」と歌っているわけではなく、なんと「レクイエム」のテキストをこのヴァイオリン・コンチェルトに当てはめるという無謀なことをやっていたので、ちょっとからかってみただけなのですよ。
もっとも、「スウィングル」だったら、全ての音をきちんと声で再現していたことでしょうが、このとことんゆるい合唱団のためにアレンジを提供したフランク・クラフチクは、原曲の鋭角的な部分を全てそぎ落として、微妙に甘ったるい仕上がりを施しました。それでも、結構大変そうなメリスマを残してしまったものですからから、いけません。この合唱団は、とてもそんな難しいことは出来ませんから、思わず失笑を買うことになってしまいました。
こういうものにかけてはまさに「大御所」の貫禄を備えているクリトゥス・ゴットヴァルトの仕事も、前作同様たくさん含まれています。その中でワーグナーの「ヴェーゼンドンクの詩」からの「温室で」は、以前に別の合唱団の演奏で聴いたことがありました。その時には確実に味わえた「トリスタン」の淫靡なテイストが、ここでは全く別もののあっけらかんとしたものになってしまっていたのは、おそらくお国柄の違いのせいでしょう。フランス人のエキルベイにとっての「トリスタン」は、きっとこんな開放的なものだったに違いありません。それは、おそらくゴットヴァルトが描こうとしていた世界とは、ちょっと隔たりがあったのでは、とは誰しもが感じることです。それは、同じくゴットヴァルトの編曲によるマーラーの「2つの青い瞳」でも感じられるもどかしさです。ここからは、交響曲第1番の第3楽章の中では葬送行進曲の前触れとなるはずの不思議に澄みきった雰囲気は、どんなにがんばっても聴き取ることはできません。
「お国もの」のドビュッシーやラヴェルでは、さぞかし持ち味を発揮してくれるのだろうという期待も、虚しいものでした。「マ・メール・ロワ」のなんと重苦しいこと。一つの要因は男声のだらしなさでしょう。それは、男声だけで歌われるシューベルトの「夜と夢」を聴けば納得できるはずです。なんというアバウトな音程。口直しに羊羹を食べなければ(「夜の梅」、ですね)。

おとといのおやぢに会える、か。


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