2011年の記事一覧

 記事は新しい順にならんでいます。以下のもくじで、日づけおよび記事題名をクリックすると各記事の冒頭に飛びます。

  1. 2011年11月6日 閉居病臥の連休
  2. 2011年9月22日 Le Coffret
  3. 2011年7月11日 言ふまじと思へど今日の暑さかな
  4. 2011年7月9日 「電力が足りない」という嘘
  5. 2011年6月2日 神 対 応 !
  6. 2011年4月12日 激動の2日間
  7. 2011年3月16日 原発事故に思う
  8. 2011年3月11日 大地震
  9. 2011年1月26日 教員不要

2011年11月6日
閉居病臥の連休

 3日(祝日)からきょう(日曜)まで4連休だったのですが、娘からかぜをもらってしまったようで、初日未明から発熱、完全に病人モードになり、ずっと閉居し、ほとんど病臥の連休でした。もっとも、連休だから気がゆるんでかぜをひいたという話もありますが、、、
 じつは11月3日はわたしどもの結婚16周年の記念日で、ことしも去年なみにに祝うつもりだったのですが、祝うどころではなくなってしまいました。

 病床の友として、小松格『やさしいウズベク語』(泰流社)を読んでいました。大学生のころすこしだけかじったトルコ語にたいへん類似しており、かつ、トルコ語とちがって母音調和がないので、学びやすい印象です。
 たとえば、トルコ語では、属格の格助詞が前に来る名詞の語尾母音に応じて in, ün, ın, un の4通りに変わり、かつ母音で終わる語のあとでは頭に n を介するので、合計8通りの形がありますが、ウズベク語ではすべて ning で通せるのでラクチンです。格助詞のみならず、動詞の語尾や、接尾辞など、形態論全般にこうした対照がなりたります。

「名詞+助詞」の例 トルコ語 ウズベク語
「家」⇒「家の」 ev ⇒ evin  uy ⇒ uyning
「年」⇒「年の」 yıl ⇒ yılın yil ⇒ yilning
「目」⇒「目の」 göz ⇒ gözün ko'z ⇒ ko'zning
「学校」⇒「学校の」 okul ⇒ okulun maktab⇒maktabning
「父」⇒「父の」 ata ⇒ atanın ota ⇒ otaning
「橋」⇒「橋の」 köprü ⇒ köprünün koprik ⇒ koprikning

 ただ買ってあっただけのウズベク語の教本をいまさら学習することになるとは思いませんでしたが、どうやら来年3月にウズベキスタンに出張することになりそうなので、すこしでも話せたらなあ、と夢想しています。
 もっとも、じっさいにウズベキスタンに行ったことのあるひとの話では、ウズベキスタンは多民族国家だから、たとえロシア語とウズベク語が話せても、いきなりタジク語で話しかけられたりするのであまり役に立たない、とか。

#「あれっ、ウズベク語ってキリル文字表記だったはず」と思ったかたへの註釈。ソヴィエトからの独立後、ウズベク語は(ソヴィエト時代以前に使っていたことのある)ラテン文字表記にもどっています。
 たとえば、つぎのページは、ウズベキスタン政府のホームページですが、全面的にラテン文字表記です:
 http://www.gov.uz/oz/
 小松格『やさしいウズベク語』のすごいところは、1978年という、キリル文字時代のまっただなかに書かれたにもかかわらず、ラテン文字表記を採用していることです。先見の明でしょうか。

2011年9月22日
Le Coffret

 きょうは会議のため筑波大学に出勤。
 台風15号接近のため午後から休講になったが、会議は予定どおり15時から。
 16時30分ころおわり、急いで帰途につく。
 つくばエクスプレスは、さすがに最新鋭の鉄道だけあって、暴風雨のなかでも快速がいつもの巡航速度をだすなど、おそろしく順調だったが、都内の交通機関はJR山手線、中央線、総武線などがとまっている。
 東京メトロも、代々木上原でプラットフォームからひとがあふれそうになって、千代田線がとまっているので、日比谷線、丸の内線をのりついで新宿へ。東京メトロには、JRにのるはずだった乗客がおしよせ、正常な運転ができない。
 新宿についたのが19時ころだったが、JRのみならず、小田急、京王も全線で運転を見あわせていることがわかる。再開時間未定。
 3月11日の大地震のとき、JRという「公共交通機関」は、行き場のないおびただしい旅客を改札外に追い出してこと足れりとした悪しき前例があるが、新宿駅南口のようすをみるかぎりでは、今夜も程度の差こそあれ、おなじことをしているように見えた。
 小田急も改札口のまえに雑沓ができているが、ここで待っても混雑と熱気で消耗するだけなので、小田急ミロードにあがり、冷房のきいたところで、すわるところが空いていたので、これさいわいとこしかける(周辺のカフェなどは、どこも満員で、入り口に行列ができていた)。
 ときどき、携帯電話で小田急のホームページの運行情報を確認しながら、たずさえていた Stéphane Beau : Le Coffret を読む。
 Stéphane Beau さんは、じつはわたしの友だちだ。ジョルジュ・パラント Georges Palante の訳書をだしたとき、序文を書いてもらったり、彼が編纂したパラント全集の序文に友情出演させてもらったりした。
 Le Coffret は、ひとことでいうと、ディストピア小説だ。
 (以下、ねたばれ注意)
 えがかれているのは、労働効率や生産性が徹底して追求され、危険思想の源泉として書物が禁止されているという、2060年代のヨーロッパだ。
 そのなかで主人公は、かれの亡き祖父が書いた叛逆的作品 À l'aube de la dictature universelle とともに、モンテーニュ、ニーチェ、パラントなどの禁書を、屋根裏部屋にしまいこまれた箱(これが題名の coffret だ)から発見し、ひそかに読みふける。
 しかし、職場のとりわけ信頼している友人にそのことを打ち明けたところを、第三者に録音され、公安警察からの追及をうけることになってしまう。
 主人公の祖父の著書À l'aube de la dictature universelle もまた、入れ子構造になって物語りのなかに挿入され、相互作用的テクストとして進行してゆく。
 しかし、Le Coffret のなかで2060年代のディストピアの描写として示されている事象は、ニホンではすでに実現しているように思えてならない。
 だいたい、書物など、禁止されるまでもなく、死に絶えつつある。また、「週45時間の労働」がディストピアの徴候としてえがきだされているが、ニホンでは完全に現実になっているだろう。
 とりわけ、親友とおもっていた同僚が主人公になげかけるせりふ、
 Qu'est-ce que tu racontes là, bonhomme ? C'est quoi, tes question ? Je n'aime pas trop quand tu tournes autour du pot, comme ça... C'est quoi ton problème, et c'est qui ces types dont tu me parles, tes... "philosophes" ? Ils ne m'ont pas l'air de tenir des discours très règlementaires...
 などというのは、多少なりとも真剣な話をしようとすると、いまのニホンでも、ほとんでいたるところからきこえてきそうな思考嫌悪、知性嫌悪ではなかろうか。
 ディストピア小説は、パラントが19世紀文学の精髄として摘示し、パラント自身も標榜していたペシミスムをかたちにしたものであるといえる。
 わたし自身もステファヌ・ボーさんとペシミスムを共有しているつもりだが、なんのことはない、いまのニホンこそ、じゅうぶん、すでに現出しているディストピアじゃないか、という気になる。
 20時30分ころ、足元で電車がうごきだす音がした(小田急ミロードは駅の真上なので、それを感じることができる)。
 下におりてみると、やはり入場制限はつづいている。なにしろ16時すぎから継続している運転見あわせで、足止めをくらった客が滞留しつづけているのだ。
 21時すぎに入場でき、21時20分発の臨時準急電車で新宿を出るが、その後ものろのろ運転と長時間停車をくりかえし、いつもの3倍くらいの時間がかかった。23時ころ自宅につき、シャワーをあびて、ようやくひとごこちついた。

2011年7月11日
言ふまじと思へど今日の暑さかな

 かんかん照りの真夏日。東京の最高気温は33.8度だった。
 自覚的には、脳が誤動作をおこす暑さで、ナンセンスな言動の割合がふえていたのではないかと思う。しつこいようだが、わたしは夏が大のにが手で、圧倒的に冬派だ。
 こんな日もシゴトがある。白百合女子大に非常勤出講。筑波大は変則的3期制なので、すでに夏休みだ。このときばかりは、筑波にもひとかけの良識を感じる(笑)。
 きょう、ほぼ唯一生きたここちがしたのは、出勤途上、小田急から京王にのりかえたときだ。京王は小田急とちがって、冷房をギンギンにきかせていて驚愕した。まこと、過剰冷房は都会のオアシスじゃのう。
 しかし、仙川の駅から大学まであるくだけで、すでにあたまが朦朧としてくる。
 大学ではひるやすみに、「学生エコサポーターによる省エネパトロールを実施いたします」という放送がながれたりして、やはり、なんとなく冷房を使いづらい。
 自分の授業に出ている学生には、「えんりょなくあおいだり、水を飲んだりしてください」とよびかける。
 そのようなぐあいで、つねに「暑い」ことと、「冷房が涼しいかどうか」ということにばかり注意が向いているので、ろくにあたまがはたらかない。

 もう何年もまえの炎暑の夏、エスリンゲンの佳人におしえていただいたハイネの「はすの花」の詩を思いおこす。

 Die Lotosblume ängstigt
 Sich vor der Sonne Pracht,
   はすの花は
   陽のかがやきをおそれ
 Und mit gesenktem Haupte
 Erwartet sie träumend die Nacht.
   うなだれて、夢をみながら
   夜がくるのを待っている 

2011年7月9日
「電力が足りない」という嘘

 きょう、関東は梅雨明けが宣言された。まだ7月9日なのに、たいへん早いのではないか。
 わたしは圧倒的に冬好きのニンゲンで、ただでさえ夏は大のにが手なのだ。ふとっているから暑いのだろう、と思われるかもしれないが、わたしはいまより20 kg やせていた20歳のころも、いまとおなじくらい暑がりだった(笑)。「過剰冷房は都会のオアシス」だと思っている。
 そのようなわけで、節電の夏、しかも暑い夏になっては、いくえにも受難の季節と思う。

 ほんとうに電力は足りないのか。東京電力の「でんき予報」の分母は、最大発電能力ではなく、「本日のピーク時供給力」という、意味不明の名まえがついた数字だ。
 6月29日の東京電力原子力・立地本部本部長代理の記者会見( http://kishadan.com/lounge/table.cgi?id=201106271146541 )でも言っているように、「ピーク時供給力」の積算根拠は示されていない。
 揚水発電の能力1050万kwが算入されていないなど、恣意的に低く見積もっていることは明らかだ。
 毎日の「ピーク時供給力」の変動は、けっきょく、東京電力が発電所のスウィッチをつけたり消したりしているだけということもわかっている( http://tomtittot.asablo.jp/blog/2011/07/01/5937142 )。

 そんなわけで、下の記事のオーサカ人の態度が、めっちゃ爽涼で、ええと思うわ(笑)。

http://www.news-postseven.com/archives/20110708_25248.html
からの引用:

エアコンガンガン使う女性「金払い電力使うの何で悪いんや」

 節電の夏が本番を迎えた。福島第一原発事故の影響で多くの原発が運転を停止し、全国的に電力が不足するなか、7月1日から東京電力のホームページで翌日の電力需給を知らせる「でんき予報」がスタート。同じく東京電力・東北電力管内の企業などに昨年比15%の節電を義務づける電力使用制限令が発令された。政府・東電は、各家庭にも15%程度の節電を呼びかけている。
 しかし、各家庭で節電に対する考え方に大きな差があるという。大阪市のNさん(42・女性)は節電とは無縁だと笑う。
「エアコンは一日中ガンガン使うとるよ。照明も明るうしてる。無理してジャブジャブ使うのは悪いかもしらんけど、利用者がちゃんと料金払って使うことがなんで悪いんや。とにかく、電力会社のいうことはよう信用できへん。何をしたら15%になるかわからへんから、やりようがないわ」
 無論、こうした態度に怒りをあらわにする人もいる。東京都荒川区の主婦Sさん(42)がいう。
「お隣さんの家に遊びに行ったら、冷房がガンガンにきいていたんです。私に気を利かせてくれたのかと思い、“気にしないでクーラー切って。節電、お互いに大変よね”といったんです。でも、お隣さんは“節電なんてしなくて大丈夫よ、あんなの脅し。私は一日中つけてるよ”と。私はこまめに照明消したり、扇風機の置き方を工夫したりしているのに、“何それ”っていう感じで、腹立たしくて仕方ありませんでした」
 本誌が実施したアンケートでは、約6割が節電積極派で、4割が消極派という結果が出ている。消極派のなかには節電意識が極めて低い人もいて、両者の間に不公平感も広がっている。
※女性セブン2011年7月21日号
   

2011年6月2日
神 対 応 !

 明け方、艶福のきわみのような、恥ずべき夢をみた。
 艶福といっても、ほかの多くのひとにとっては、とるにたりない内容か、むしろありがたくない内容だと確信するが、わたしにとっては、ストライクゾーンの中心、いわば centre attracteur だった。

 いちにちぢゅう雨がふっていた。そして、冷涼なのはありがたい。「梅雨冷え」ということばは、19歳で関東に引っ越してくるまで、俳句の季語としてしか知らなかった(わたしのうまれそだった大阪では、たいてい、梅雨のさなかから暑い)。
 いつも、わたしの研究室のある人文社会学系棟から、授業教室のある第1学群棟にゆくときは、傘をもたずに、中央図書館から学群棟にかかる橋の下をあるいて、雨をしのいでいるのだが、雨とともになにほどか放射能もふっている昨今、めんどうだが傘をさして往還し、いつもの木曜とおなじく、3つの授業をつとめる。

 3限と4限のあいだは研究室にかえらないで、「人文社会支援室」(わたしが学生だったころは、「第1事務区」といっていたものだが、いまは「支援室」という、いっそう官公庁的な名まえになった)にゆき、その一角にある人文学類長室に、10月に予定されている、下級生の演習見学にかんする書類を提出する。
 ついでに、大学院教務のWさんに声をかけ、感謝のことばを申しあげる。その理由はつぎにしるすとおりだ。

 パリ第13大学(ヴィルタヌーズ)の博士課程に、日仏共同博士課程コンソーシアムから給費を得て留学中のMMくんから、2週間ほどまえ、学費免除申請の書類をパリで署名して大学院の後輩のMYくんに送り、それにわたしが署名をして支援室に出す、という予定だった。しめきりは5月末日。
 ところが、MYくんのところには、待てど暮らせど書類が着かない。きょうになってもついていない。2週間たっているから、郵便事故で亡失したのだろう。これから、重要な書類は普通郵便で送ってはいけない、という教訓をわれわれはひきだした。
 MYくんは、一昨日火曜日にあったとき、郵便がつかないから、もう少し待ってもらえないかと事務にかけあってみる、といっていた。ずいぶん行動力があるなあ、とおもったものだ。MMくんはかれにとっては親しい先輩だから、必死なのか、とも思った。
 きょう、MYくんが代筆した書類に、わたしが署名して、もってゆけばよいということになっていた。MYくんの労をねぎらうと、みょうにニヤニヤしていて、ようすがおかしい。きくと、大学院教務の女性の担当者がとても親切で、しかもとってもかわいいので、会いにゆくのが楽しみだという。「ああ、Wさん?」とわたしはたずねた。そのとおりだという。
 Wさんは、わたしが大学院生のころ、当時の文芸言語の事務室におられたアイドル的なかたで、当時はSさんといっていた。わたしとそう遠くない年齢だと思う。いまは結婚なさり、娘さんもいるときくが、いまもなお、乙女のようにわかわかしく、文部官僚的なところがまったくない。
 なんと、そのWさんが、事情を話すMYくんに、「書類は形式的なものですから、MYくんが署名して、わたなべ先生の署名捺印をもらってくればいいです」と明言してくださったという。なんという「神対応」だろう!
 むかしの事務区はこんなに柔軟な対応はしてくれなかったなあ。1秒でもしめきりをすぎると受けつけないのは当然で、それどころか、こちらが内容にかかわる質問をいうまえから、「不備があると受けつけませんよ」と威圧的に言っていたものだ。あたかも、学生の道をさえぎることがしごとであるかのように。
 (ついでにうらみぶしだが、書類をかきあつめて期限内に出しても、わたしが大学院生のころは、学費免除は一度もとおらなかった。阪神大震災で実家が「一部損壊」し、それを損金として計上した結果、父親の年収がマイナス300万(!)になった年でさえ、不許可だった。「いったい、親の年収がマイナス何百万だったら通るのだろう、まさか、親の年収が黒字のひとは通っていないよね?」とことあるたびに毒づいている(笑))

 そのようなわけで、きょう、わたしは、学類長室に行った「ついでに」、というのは言い条で、じつは嬉々としてWさんのところにゆき、「今回はMMくんのことで、温情的な扱いをしてくださいまして、ありがとうございました」と申しあげた。
 すると、Wさんは、「MYくんがあいだに入って、とても心配そうに駆けまわっておられました。どうか安心なさるようお伝えください」とのおこたえ。これはもう、「神」としかいいようがない。
 ネットの流行語では、すばらしい対応を「神対応」といい、ときに「ネ申」と書いたりするようだが、これは、じつは、たんなる流行りことばというのを超えて、じつは「神」ということばの、もっとも正統なつかいかただとわたしは思っている。たとえば、ギリシアの劇作家、メナンドロスのことばに、"Deus est mortali juvare mortalem" (ひとがひとを助けることは、神だ) というのががある。
 職業として課されているしごとは、制度の番人としてはたらくことであるかもしれない。しかし、それにもかかわらず、目のまえのこまっているひとに手をさしのべる。これにまさる理想はないと思う。


2011年4月12日
激動の2日間

 きのう(4月11日)のはなしからはじめる。

 きのうは朝8時30分に集合して、娘の幼稚園の入園式だった。娘は幼稚園には昨年からかよっているので、ほんとうは今春入園というわけではないのだが、今春入園の同級生たちといっしょにあらためて入園式に出ることになっている。
 保護者会のときに、親からいったんひきはなされて、なきさけぶ子がおおいなか、娘は昨年からかよっていてなれているので、まったく平常心で、問題はなかった。いや、そのころまでは問題がなかった。
 教室で親子が合流したとき、入園祝いの紅白まんじゅうをもらったら、「いますぐたべたい」と言いだし、「あとで」といってかたづけると怒って泣きだし、おわったあと友だちといっしょに写真をとったときも、それがあとをひいていて、心底からの笑顔が出ない(笑)。

 14時ころ帰宅して、おそい昼食をとる。

 16時すぎに出て、前泊のためつくばにむかう。自宅から駅まであるく間だけ、にわか雨がふった。傘をもちだしたが、それ以降は雨にはふられなかった。
 運よく新百合ヶ丘から快速急行に乗れたので、代々木上原に16時40分ころつき、すぐ千代田線にのりかえる。
 17時すぎ、新お茶の水のすこし手まえで急停車。大きな余震。地下鉄のトンネルは(高いビルの逆で)地殻といっしょに動くので、あまりゆれを感じないが、関東では本震以来1か月で最大の余震だったらしい。
 そういえば、この日は、3月11日の地震からちょうど1か月だった。
 15分ほど止まって、とりあえず新お茶の水まで、あるくような速さ(時速5km未満ときまっているらしい)で最徐行運転、新お茶の水で30分くらい出発抑止。
 安全確認が済んだとして徐行運転で動きだしたが、ひとつの駅間を閉塞区間としているらしく、ひとつさきの駅の電車がうごきだすのを待ってから、毎駅で10分くらい止まりながらの運転。北千住についたら、もう19時をすぎていた。
 つくばエクスプレスにのりかえ、混雑する快速をきらって各駅停車でつくばへ。20時ころつくばにつく。つくば駅前のジャスコで買いものをしてから研究室へ。

 研究室は、本震のあとかたづけをしたのに、未固定の棚がまた動いていて、キャビネットもまた少しずれていた。キャビネットは中身をぜんぶあけないと動かせないので、棚だけをなおす。
 パソコンで情報収集。実況中継的な情報はNHKのつぎのページがはやい(前日や、それ以前のデータも日づけをクリックすれば見られる):
 http://www3.nhk.or.jp/sokuho/jishin/
 17時16分ころの地震はいわき市が震央で、マグニチュード7.0、最大震度6弱、つくば市は5弱、都内はほとんどのところが4だった。その直後にも2度、福島県の浜通り方面で最大震度5弱の地震があったようだ。
 研究室にいると、小さな余震は、それこそ数分おきといっても過言でないほど、くりかえし起きていることがわかる。NHKの上記ページでも刻々と更新されている。
 とくに20時42分ころの地震は北茨城市を震央として最大震度5弱、つくば市は4になっていたが、体感的にはもっとあるように感じた。

 22時すぎに宿泊施設に移動。翌日にそなえる。

 きょう(4月12日)は、朝9時ころ研究室に移動し、事務室でたまっている書類をうけとる。
 科研費の今年分の実施計画のチェック用原稿が事務方からかえってきていて、実質的に14日木曜までに修正版をつくらなければならない。
 いっぽう、昨年度の報告書と中間自己評価書のチェック用原稿も木曜がしめきりで、かさなっている。ほんとうは、きのう地震がなければつくばに到着後に書くつもりだったが、移動時間がのびて、あてがはずれた。
 大学院1年生に配分するティーチングアシスタントの教員側提出書類や、非常勤先からもらった兼業依頼書の自分の書く部分をととのえて事務室に届ける。

 午前中は1H棟の階段教室で、人文学類の主専攻の全体説明会。言語学主専攻フランス語学コースを代表して、「フランス語学へのいざない」のようなことを話す。
 大教室には緊急地震速報装置がそなわっているため、応用言語学のⅠ先生が話しておられるとき、それが不気味な警告音を発し、しばし中断。
 午後は各コースにわかれて、2時間ほどのあいだ、個別に質問、相談をうける。新入生が質問に来たら答える時間帯なのだが、来るかどうか新入生の自由なので、「お茶をひく」可能性もある。
 そこで、一昨日以来、大学院生で履修の相談があるといっていた大学院生3人も呼んで、合同相談会のような感じにした。おにぎやかしのようなものか。
 ちょうどというか、学類の新入生も3人が質問、相談に来たので、たがいに紹介もして、いい雰囲気で話をすすめていたが、ここでまた大きな余震がくる。14時7分ころ、いわき市を震央とするマグニチュード6.3、最大震度6弱の地震がおき、つくばも震度4。これで説明どころではなくなり、午後の予定は突如として終了。

2011年3月16日
原発事故に思う

  きのう15日は妻の誕生日で、きょう16日は娘の誕生日だ。
 近所の商店街で40年来営業している、妻が中学生のころからなじみの(いまの拙宅から妻の実家は近い)洋菓子屋さんが、水曜定休なので、きのう(火曜)ケーキを買ってきて、ふたり分まとめてお祝いをした。
 スーパーマーケットでは、朝の開店と同時に、買いだめをするおおぜいの客が米や麺類、パン、牛乳などに殺到して、その後はずっと品薄状態だが、洋菓子屋さんはケーキの予約に行ったときも、ひきとりに行ったときも、客のすがたはわたし以外にまったく見えず、閑散としていた。社会的感情は、嗜好品どころではない、ということなのだろう。しかし、余震があるとはいえ、主たる地震がすでに去ってから買いだめに奔走するとは、群衆心理のなんと愚かなことか。
 公共広告で、アイドルグループが、「むだな買いだめはやめよう」と訴えているが、そのアイドルグループは、CDに握手券などを封入し、券目当てでファンに大量購入させる商法で知られているという。
 「むしろ、いまこそビールのような嗜好品を買うべき」と説いている経済学者がいたが...かくいうわたしも、8日に早美出版社の社長のご招待で飲んできて以来、自宅で酒に手が出なくなり、地震でますます酒をのもうという気もちが減退している。もう1週間以上飲んでいないのだが、これはわたしにしてはめずらしい。チュニジアの赤ワイン≪マゴン≫の備蓄はまだあるが、妻と娘の誕生日でも開栓する気がしなかった。

 ことしはずっと寒かったので、いつもは妻と娘の誕生日ころにひらく拙宅の窓の下の白水仙も、ことしはまだつぼみのままだ。

 さいわい、つくばで知っているひととはすでに全員と連絡がつき、無事が確認されている。
 なかでも驚歎するべきなのは、通称「かるた姫」さまで、彼女は11日、東日本大地震の起きた当日の午前から、かるた部の合宿で湯河原に行っておられてまったくご無事だった。それだけではなく、きのう(15日)湯河原からつくばにお戻りになったことにより、富士で震度6強を記録した地震を、これまた当日回避なさったのだ。なんというか、災いを避ける不思議な力をおもちとしか思えない(笑)。

 * * * * *

 地震いらい、福島の原子力発電所がつぎつぎと事故を起こしている。
 東京電力はこの2月末にも保安設備の故障を隠蔽していたばかりで、なにを発表しても信用できない。たしかなことは、統禦不能になった原子炉が爆発したり発火したりして、放射能をふき出しつづけていることだ。
 だいたい、せまくて地震の多いニホンで、原発などまったく無理だったのだ。原発を批判すると、かならずといっていいほど「おまえも電気を使っているではないか」と反問されるのだが、そもそも、電力会社はいまも実質的には独占企業だから、消費者として選択できないことを忘れてはいけない。
 ドイツのように、自然力のみで発電している電気会社を選択できるなら話はちがうが、いやおうなくおしつけられている原発なのだ。
 あまつさえ、各電力会社は、統計上原発依存率が上がるように、意図的に火力や水力の発電所を止めているのだ。意図的にそうしておいて、「原発がなければやってゆけない」といいだすのは、自作自演としかいえない。そのような操作は、政策的偏向によってのみ可能なものである。
 じっさい、原発は、巨大企業たる電力会社のみならず、立地対策費などの財政によって、つねに圧倒的な力で反対をおさえつけながら強行されてきたのだ。
 安全神話が明白にくずれさったいま、原発政策の180度の転換が必要である。

 ところで、『美味しんぼ』の作者、雁屋哲氏が、3月12日の日記でつぎのように書いておられる:

 http://kariyatetsu.com/nikki/1340.php からの引用:

 地震は天災である。
 だが、原発事故は人災である。
 過去の自民党政権の遺産である。
 自民党の現議員たち・前議員たち・元議員たち、総出で福島冷却水問題に当たれ。
 本当に国を思って原発を建てたのなら、今こそ自民党人柱隊を作って福島原発に突入せよ。
 今の民主党政府の取り組み方を批判する資格はお前たちにはない。
 分かっているのか、この、腐れ自民党どもが!
 貴様等の悪政が今の悲劇を招いているんだ。

 この激越なものいいが、いわゆるネトウヨをたいそう刺戟したらしく、2ちゃんねるは罵詈の嵐になっているようだ。
 しかしこの雁屋氏の文のような、手もつけられないほどの怒りこそが、われわれニホン人には欠けているのではないか、その微温性こそがこれまで電力会社のでたらめをゆるしてきたのではないか、とも思う。

2011年3月11日
大地震

 朝9時から、定期診療をうけるため、呼吸器科にゆく。
 予約しているにもかかわらず、混雑で2時間半くらい待たされる。花粉症の季節でもあり、患者が増えているようだ。
 会計をすませて、正午ころ病院を辞し、小田急にのって町田へ。
 所得税の確定申告書を提出するために≪ぽっぽ町田≫にむかう。
 恒例により、添田唖禅坊の≪増税節≫をうたいながら、申告書を提出し、その足で横浜銀行に行って追い銭をはらう。

 自宅のもより駅までとってかえし、午前にもらった処方箋を薬局に出し、薬をもらってくる。13時30分ころ帰宅し、妻とふたりで昼食。
 白髪が目立ってきたので、ヘンナで白髪ぞめをしようと思う。ヘンナはチュニジアに行ったときににキロ単位の計り売りで買ってきて、愛用している。
 ヘンナをあたまにつけ、毛がそまるのをまっていたら、14時46分、大きな地震がくる。同時に停電。経験したことのない大きなゆれで、家がくずれるのではないかと思う。妻は掃きだし窓をあけ、庭に出ている。いや、庭でもなにか落ちてきたらあぶないだろう、と言おうとしたが、ゆれが強まり、立っていられないほどになる。ひざをついて、居間にある唯一の高い棚がたおれないようにおさえて、なんとかゆれをやりすごす。じつは、毛ぞめ中のすがたがはずかしく、庭にでるのを躊躇したのも事実だ。そんななことを考えている場合でないのに。しかしそもそも、ほんとうは家のなかと庭のどちらが安全なのか、いちがいには言えない。
 停電はながく続く。電話、水道、ガスはつながっている。しかし、ガス自動湯沸かし器(風呂などの温水供給)は電気もつかうので、うごかない。暖房も各種ともなんらかの形で電気が必要なので、ひとつも使えない。
 電池式のラジオと、携帯電話で情報を得ようとする。宮城では震度7だったとか、マグニチュード8.8の未曾有の大地震だったことを知る。
 15時過ぎ、ほぼいつもの時間に息子が小学校から無事帰宅。15時30分ころ、妻がバス停までむかえにゆき、娘が幼稚園からもどってくる。家族4人が無事だと知り、ひと安心した。

 太陽の光があるうちに、息子は小学校の宿題をしている。
 温水が出ないので、わたしはしかたなく冷水でヘンナを洗いながす。

 首都圏の電車はすべて止まっているとのこと。近所をはしる小田急もとまっていて、とちゅうでおろされた乗客や、帰宅手段をうしなったひとたちが、小田急の線路に沿った≪津久井道≫(別名世田谷街道)を見たこともないほどおおぜい歩いているのが、2階の窓からみえる。

 停電で電気炊飯器がつかえず、ガスコンロと鍋で炊飯し、懐中電灯の明かりで夕食をとった。
 起きていても暗がりのなかでなにもできないので、20時ころ就寝。

 23時40分ころ、ようやく電気がもどってきたので、この文を書いた。

2011年1月26日
教員不要

 きょうは筑波でひとこま授業をつとめたあと(ちなみに、筑波大学では2月末まで学期中です(泣))、3年生のみなさんの卒論仮題目申請の書類作成に応じ、さらに人文学類の専攻説明会に参加して、言語学主専攻フランス語学コースの説明を担当した。
 説明要員としてフランス語学の学生2人を学類予算で短期雇用している。卒業をまぢかにひかえたHさん(別名「アイスホッケー姫」)と、3年生のIくん。
 わたしがまったりと説明をしたあと、学生のみなさんに「いつわらざる内情」を話してもらおうとすると、HさんとIくんがたいへん要領よく話してくれて、助かった。というか、わたしは行かなくてもよかったほどといっても過言ではない。
 だいたい、専攻説明会全体の計画・運営も、学生の委員会の主導でうまいぐあいにしてくれているし、ほんとうにすぐれた学生というのは、じつはほとんど教員要らずなのだ(笑)。
 そういえば、わたしが筑波大学に転任した初年度、はじめて大学院での主任指導教員をつとめたFさんも、「指導」とは言い条、じっさいには自分でどんどん研究をすすめてくれて、わたしのほうの感覚としては、ときどき議論の相手をしたという程度の感覚しかない。
 「できのいい学生を担当すると、ラクでいい」という結論にもってゆきたいわけではない。学生を自律させることが教育の目的であるとするならば、教員はもともと、みずからを不要にすることを目ざす逆説的な職業なのだ。