2006年の記事一覧

 記事は新しい順にならんでいます。以下のもくじで、日づけおよび記事題名をクリックすると各記事の冒頭に飛びます。

  1. 2006年9月18日 秋霖のことぶれ
  2. 2006年8月21日 ファーティマの手
  3. 2006年7月26日 C'est scandaleux !
  4. 2006年4月22日 辻潤を文體模冩してみやうか
  5. 2006年3月2日 『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』

2006年9月18日
秋霖のことぶれ

  ここ1週間、秋霖のことぶれのような気候で、まいにち雨がふっている。ようやく、きょうの午後になってから雨があがった。
 冷涼なのはありがたいが、きのうから、どうもからだの調子がおかしかった。胃腸の調子がわるく、頭もいたい。
 こどもがさきに風邪をひいていたから、それをもらったのかもしれない。
 きょうまで3連休。いつのまにか敬老の日が移動祝祭日になっていたためだが、こちらはいつまで経っても慣れない。
 起きていても吐き気がするので、きのうからきょうにかけて、ながい時間を褥中ですごした。いくらか気分がよくなった。
 ながく寝ることは、まるで心身があげて現実世界を忌避しているかのようだ。
そして、たびたび夢をみる。まちあわせをして、いざいってみるとまったく無視される夢。エレヴェーターがたいへんないきおいで落ちてゆくとちゅう、死を覚悟する夢。
 どれも悲観的な夢ばかりだが、戯画化されているのが救いだ。現実というものは、もっとなまなましく悲観的だ。

 床あげをしてから、気分をかえようとおもって、2か月ぶりにヘンナで白髪を染めた。
 草苅りをしたあとのような、青青としたかおりがして、こころがなぐさめられる。

* * * * *

 12月にチュニジアに出張する見込みになった。
 TJSSST (Tunisia-Japan Symposium on Science, Society & Technology) で発表することがおもな目的だ。
 フランス語圏だし、フランス語で発表できるものと、意識的にでさえなく当然のようにおもっていたら、"All papers must be written in English otherwise agreed" と上記ページに書いてあったのをあとで見つけて、ひどくあせっている。
 論文集の原稿は最悪の場合英語で書くとしても、すくなくとも口頭発表だけはフランス語で勘弁してもらえないか、週明けにでも問いあわせなければ。
フランス語は英語とちがってチュニジアの公用語なので、そのほうが聴衆にもつごうがよい、という考えは甘いかなあ。
 上記学会の人文科学セッションの共通テーマは、「同一性と自己の知覚」。
 それに見合う発表題目を考えるというのは、「英語ショック」以前にしばらくなやんでいたので、なんとか、あまり無理のない(牽強付会ではない)題目を見つけたつもり。

 その準備にくわえて、10月末、11月末の2度にわたって辞書執筆のしめきりもある。これはすでにいくらか作業をしていて、だいたいの要領はのみこんだところだ。
 11月25日には (チュニジアへの出発と近接しているので少々つらいが) 日本の学会で発表。こちらは、これまでの備蓄ですませるしかない。
 欲をいえばおなじ学会の学会誌に投稿したいが、べつのしごとがたまっているなか、これは無謀なくわだてかもしれない。
 その他、複数の仕事が進行中だ。

 それでも、去年までの、非アカデミックな多忙にくらべれば、まだまだめぐまれた環境にいるのかもしれない。

 ♯翌日追記: チュニジアでの口頭発表についてはフランス語でよいことが判明。
 ε-(´o` )ホッ


2006年8月21日
ファーティマの手

 炎暑。学生との面談の約束が2件あり、つくばにゆく。
 ときならぬしごとといえなくもないが、このような「リハビリ」の機会がないと本格的な学期明けの「社会復帰」がおもいやられる。
 やきつけるような太陽に目まいがしたが、正午ころ研究室に到着。とちゅうで早めの昼食もすませている。

 研究室でメールチェックやインターネットの巡回先ページをみようとすると、急にまったくつながらなくなっていることが判明する。
 ソフトもハードもまったくいじっていないのに、どうしてこのようなことになるのか。
 事務室にきいてみると、lingua.tsukuba.ac.jp のサーヴァーは正常に稼働しているという。
 くわしいかたに研究室にきていただき、みていただいたが、設定などはすべてただしく、これでつながらないのはおかしい、パソコン本体のLANボードの故障か、そうでなければLANからバソコンをつなぐケーブルの断線だろうという見たてになる。きょうのことろは、原因を完全には画定できない。
 後日、わたしが自宅からノートパソコンをもっていって、接続できるかどうかを確認することでさらなる見きわめをすることにする。

 学生との面談はいずれもなごやかに、たのしくおわる。「指導」などというたてまえに反して、わたしのほうが元気をもらっていることはあきらかだ。

 7月いっぱい、チュニジアのチュニス・エル=マナール大学附属ブルギバ学院に研修に行っておられたかたがた (筑波大学からは5名) のうち、ふたりはわたしもよく知っている大学院生だった。
 そのうちのひとりはきょう約束していたひとだったが、もうひとりのかたもたずねてきてくださった。
 おふたりとも、ひとつき半ぶりくらいでお目にかかるが、チュニジアでの研修を乗り切り、かの地での生活もたのしんでこられたようで、いまなおその余韻が脈動しているかのようにいきいきとしておられたことにおどろいた。
 おみやげに、「ファーティマの手」があしらわれたキーホールダーをいただいた。
 「ファーティマの手」は、お守りのモティーフとして、チュニジア (のみならず、おそらくイスラーム圏の随所) でたいへん人気があるとのこと。
 これをあとすこし早くいただいていたら、ネット接続の問題もおきなかったかな、などとにわかに考えるのはたのしい。
 さいわい、このような冗談をいえる程度には、あまりあせらず、ひどくこまったともおもわないでいられる。テクノ・ストレスにはいい加減耐性ができてきたということかもしれない。

2006年7月26日
C'est scandaleux !

 社会保険事務所から、おどろくべき郵便物が送られてきました。

 前提的に申しますと、わたしはことしの3月31日に玉川大学を退職し、4月1日に筑波大学に就職しました。
 これにより、わたしの加入する健康保険や年金は、私学共済 (日本私立学校振興・共済事業団) から、文部科学省共済組合へとかわりました。

 しかしながら、おくられてきた書面には、「あなた (又はあなたの配偶者) は、裏面に記載してある『1.届書を提出していただく方』の、第1号・第3号被保険者資格取得勧奨に該当いたします」(断定文!(強調引用者)) としるされています。
 裏面をみると、「第1号・第3号被保険者資格取得勧奨」の説明として、「会社員や公務員の方が退職したときは、第1号被保険者又は第3号被保険者になります」とかかれていました。
 さらに別紙には、「同封の届書用紙により、早急にお住まいの市区町村役場で手続きをしてください。また、後日、国民年金保険料の納付書をお送りいたしますので、最寄りの金融機関等で納めてください」(強調引用者) などとしるしてあります。
 退職後、べつの職について共済年金 (もちろん基礎年金部分もふくむ) を払いはじめている可能性など毫も想定しない、あたまごなしの断定です。「官吏無謬」とでもいうのでしょうか。5000万件という、「消えた年金」問題があるのに。

 それとも、あわよくば基礎年金部分を2重に払わせようという策略でしょうか。
 「おっと、こんどはいった共済は、国民年金を別に納めるようになっているのか」とうっかり思うひとの無知につけ込もうというのでしょうか。
 さすが国家のねずみ講だけあって、手口が「振り込め詐欺」と同じですな。悪辣きわまりない。

 まったく、できることなら基礎年金部分だけ脱退したいよ。いまわしきなか国民年金。
 わたしが成人してから19年というもの、これまで払ってきたぶんも、「グリーンピア」だの、社会保険庁の役人用施設だので、さんざん空費してくれたことがあきらかになっているのだから。


2006年4月22日
辻潤を文體模冩してみやうか

▼新年度の繁忙、さうして、轉任にともなふ繁忙で4月ももう3週間がすぎさつてしまつた。けふ(土曜)も文學會の幹事會で恵比壽にいつてきた。5時間つづく會議はつらい。
▼心身ともに疲勞してをり、いつものやうにここに駄文をつらねることもままならない。休載宣言などしてしまひたいが、もとが怠惰な人間であつてみれば、そんなことをしたらそれこそ永久に書かなくなりさうなので、ここは辻潤かなと(はあ?)。
▼しかし、いくらなやんでみたところで、どうせなにごともうまくゆくはずはないのだ。このさい、ただひらきなほつてしまふほかにすべはないではないか。べらんめえ。べらべらのぎむげむ。
▼このあひだ大學の教室で、「わたしは1987年に大學に入學しました」といつたところ、「わたしはそのとしにうまれました」といふこたえがかへつてきて、衝撃のあまりわたしはあしもとにくずれてしまつた。
▼わけもなく、やたらにとしをとつてしまつたといふことだ。ときははるかにたちすぎてしまつたといふことだ。このやうなことは、どうしたつてとりかへしはつかない。
▼しかしそのやうなたどうしやうもないわたしに對して、學生たちはなんと清く、なんと純粹なのだらうかとおどろくばかりだ。
▼とりわけつくばの學生はこちらが申しわけなくなるほどの純粹さだ。わたしの方がつくばをはなれて十餘年、こちらが「頽廢の都塵」にそまつてしまつたかとおもふくらゐ(いや、實際そまつてゐるのだが)。
▼これがつくばの美風だらうか。しかし卒業してから、狡猾きはまりない世間にでてゆかなければならないとすると、きびしいおもひをすることになるのではないかと心配してあげたくもなる。
▼先週、ガイダンスで教員がかはるがわる話をする場にいあわせたが、「數年まえまでは上級生にガイダンスをしてもらつてゐたのですが、履修などのうらわざの紹介に終始して、實がないので、教員がするやうになりました」と司會の先生がおつしやつてゐた。
▼その規範性に對する反動といふわけではないが、わたしはおもはず、ある授業の初囘で、みづから、ほかならぬ「うらわざ」を傳授してしまつた。
▼かならずしも邪道をすすめるといふつもりではない。制度を熟知するためには、その限界的ケースがどのやうなものかを知つておくことは、むしろ必要なことではないか。
▼いやいや、わたしは教訓をたれるやうながらではない。たんなるアンテイテーズだとおもつてください。
▼ところで、つくばエクスプレスの電車が淺草驛にはひると、地下ふかいはずのプラツトフオームから車内にまで、うなぎのにほひがただよつてくる(かうして話がとぶのが辻潤的かと)。
▼辻潤は、日本にはうなぎがあるから佛蘭西にゆくことなど問題ではない、などとのたまつてゐたが、うなぎのにほひに食欲をそそられるうちは、まづ元氣なのだとおもつてまちがひはない。
▼こちらがおとろへてきてゐると、うなぎのにほひはむしろ強すぎて、あてられるといつたかんじだ。 けふも、なにもたべたくない。夜になつてから、やつと食事らしい食事をとる。
▼いつたいなにを書いてゐるのか、そんなものはちらしのうらにかいておけ、といふのが2ちやんねるで「反復される言説」 (discorso ripetuto、コセリウの用語) だが、しかし、辻潤はどこか2ちやんねる的で、「ちらしのうら」的なのではないか。
▼これが辻潤の現代性だといつたら、信者からおこられるだらうか。いや辻潤に「信者」なんてゐたら、こんどはその「信者」こそが、辻潤からおこられるだらう。


2006年3月2日
『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』

 ここ数日は、くもったり、雨がふったりで、気温もひくく、閉居しがちだ。
 空がくらく、寒いと、からだが自然に冬眠のような状態になるらしく、ここのところ夜は子どもがねるときにもう一緒に寝てしまい、睡眠はじゅうぶんとっているはずなのだが、きょうなどは、子どもの午睡の時間になったら、はじめだけ添い寝のつもりが、そのまま夕方まで寝てしまった。
 こんななかでも、メールでうっとうしい雑務がいくつも来ているのだが、対応する気力もなく、半分は懸案のままにしている。

 まだ読んでいないことじたい基礎教養の欠如だろう、といわれそうな気もするが、ここ4日ほどでようやく、瀬戸内晴美『美は乱調にあり』と『諧調は偽りなり』を (文藝春秋刊、伝記小説集成第4巻で) 通読した。
 ふたつの小説をあわせると680ページにもなる大部だが、読みやすい文体のせいか、とてもすらすらと読める。なんの関係もないが、「ながれゆくエクリチュール」というデュラスのことばをおもいおこす。

 『美は乱調にあり』は、色恋沙汰と痴話の連続で、性描写もなかなかになまめかしく、「伊藤野枝」、「辻潤」、「大杉栄」、「平塚らいてう」といった固有名詞がなかったら、たんなるエロ小説ではないかといったところ。とくに、上野女学校でおしえていた28歳の辻潤と、当時17歳のおしえ子だった伊藤野枝との恋愛の描写は、もえあがるようになまなましい。
 もっともそれには、恋愛がこのんでえがかれただけではなく、じっさいの題材が色恋にみちていたという理由があろう。また、作者自身が書いているように、完全には像がさだまっていなかった大杉虐殺 (じっさい、大杉虐殺から53年たった1976年に新資料が出たりしている) をえがくより、1916年の日蔭茶屋事件まででいったん断筆することをえらんだという事情がある。

 15年後に続篇として書かれた『諧調は偽りなり』は重厚な大作で、関東大震災のあとの混乱に乗じて、憲兵大尉甘粕とその部下数人が大杉栄、伊藤野枝、そしてわずか6歳の橘宗一までもを虐殺した事件にいたりつくまでの時代をえがいている。
 おなじ事実を、大杉の視点、辻潤の視点というように、ことなる人物の目で、重複と差異をふくみながら重層的にたどりなおしていることもあり、よけいに長くなるが、読むほうとしてはそれはまったく苦にならない。
 『諧調は偽りなり』のほうでは、それぞれの人物像がいっそういきいきと、きわだたしくえがかれている。
 わたしにはとりわけ、大杉栄に伊藤野枝をうばわれたはずの辻潤が、かえって魅力的にかんじられる。
 もともと思想的には、辻潤にはわりあい親近感をおぼえていたのだが、それをおいても、かれの戯作的な、それでいて根源的な問いをふくんだ文 (『諧調は偽りなり』にも効果的に引用されている) や、シュティルナーの訳書をだした前後の情熱と自負のいりまじった情態にも共感をおぼえる。
 また、宮嶋資夫がじつはたいへんはげしい性質で、日蔭茶屋事件のあと伊藤野枝と大杉栄にむかって激昂している場面があったのは意外だった。
ほかにも、 (もともとこのあたりの知識にとぼしかったこともあり) あらたに知ったことも多く、ゆたかな収穫があった。