2003年の記事一覧

 記事は新しい順にならんでいます。以下のもくじで、日づけおよび記事題名をクリックすると各記事の冒頭に飛びます。

  1. 2003年9月29日 「隋園別館」
  2. 2003年9月13日 丹沢再訪
  3. 2003年8月2日 つゆ明けの言語行為論
  4. 2003年7月7日 想起空間
  5. 2003年6月10日 丹沢へ
  6. 2003年4月10日 工業規格の似すがた?

2003年9月29日
「隋園別館」

 秋らしい乾燥した晴天。ゆうべあまりねむれず、朝ねぼうしてしまう。出講にはじゅうぶん間に合う電車にのるが、車中で会った、わたしの授業に出ている学生から、「先生もおなじ時間にくるの?」とおどろかれる。校舎までいっしょにあるく。午前ふたこまめの授業をする。今学期もようやく調子がでてきたか。
 中国語の Zh 先生とともに昼食。新宿のとてもおいしい中華料理店、「隋園別館」は、ちかくに「本館」があるわけではなく、清の袁枚が隠棲し、料理の研究にはげんだ「隋園」(『隋園食単』という書名にもでてくる)にちなんで、「隋園別館」としたそうだ。耳学問はありがたい。『隋園食単』は、わたしは書名を知るだけで読んだことはなかったが、Zh 先生によると、技術的な料理書ではなく、それぞれの料理ごとにもっともだいじな点だけが書いてあるという。味つけのしかたよりも、材料のあつかいかたを重視するとのことである。それはだいじな本だ、さっそく買おうとおもったら、岩波文庫にはいっている翻訳は絶版。古書肆に探書を依頼しようとおもう。
 午後、フランス語科4年生の K さんがくる。わたしはことしは3年生のゼミしかもっておらず、4年生がどのような卒論を書いているのかはほとんど知らなかったが、K さんはなんとシャンソニエのジュルジュ・ブラッサンスを論ずるという。ブラッサンスをこよなく愛するわたしとしては、ただ単純にうれしい。私蔵の文献4冊をお貸しし、ぜひがんばってほしいと願う。
 英語の S 先生を今学期はじめて研究室に訪い、紅茶とチョコレートをごちそうになりながら話す。S 先生は「テンションがひくい」ことを気になさっていたが、わたし(の自然な状態)とおなじくらいなので、かえっていごこちがよい。
 本州南西の太平洋上に台風16号があり、風が強い。朝晩は少し肌寒いくらいだが、快適だ。どういうかっこうをしていいか迷う。ゆきかえりの電車のなかでも、半そで1枚のひとから、ツイードのジャケットを着ているひとまで、ひとの服装がまちまちだ。


2003年9月13日
丹沢再訪

 晴れときどきくもり。Aさん夫妻、黒パンさん、Tさんにわたしをくわえた5人で丹沢にゆく。今回は塔ノ岳(1490m)と鍋割山(1273m)の双方に登頂した。
 7時すぎに自宅を出て、買い物をして小田急にのる。8時31分渋沢着。36分着の電車がきたあと全員がそろい、46分発のバスで大倉へ。
 9時10分、大倉からあるきはじめ、大倉尾根を通って塔ノ岳にむかう。30分、木立ちのなかで休憩。40分、観音茶屋近くの分岐。この分岐はどちらに行ってもあとで再合流する。50分、再合流地点。雑事場がある。気温は高いはずだが、風が強く、さわやか。

 見晴茶屋をすぎ、10時から10分休憩。このあたりから、日光が照りつける山肌をひたすら階段がつづくようになる。大倉尾根が「バカ尾根」(このようにすぐ「バカ」と名ざすのは関東人の悪癖と思うが)とよばれるのは、この果てしない階段のせいらしい。
 40分、駒止茶屋をすぎ休憩。11時10分、小草平着。天神尾根分岐をすぎ、11時30分、「塔ノ岳まであと1時間」の標識のところで15分休憩。さらにのぼると、山の斜面は横にながい柵がつづくようになる。柵にそってジグザグにのぼる。この柵は、土がながれおちるのをふせぐためかと思ったが、実はシカよけだそうだ。
 12時10分、花立山荘着。休憩。山荘でビールを売っているが、せめて登頂まではがまん。37分、「金冷ヤシノ頭」通過。57分、山頂着。
 風がつよく、とてもすずしい。わたしは極度の暑がりで、このすずしさがありがたいが、しかし風にあたりつづけていては体力が落ちるかもしれないので、山頂の肩にある尊仏山荘にはいる。黒パンさんが山荘のご主人としたしく、奥の席にすわらせてもらう。山荘の中庭のようなところに、シカがあらわれておどろいた。ビール(A夫妻はコーヒー)で乾杯。昼食。つづけてラングドックの赤ワインをあける。
 14時10分、塔ノ岳山頂発。20分「金冷ヤシノ頭」再通過。ここから大倉尾根とわかれ、鍋割山にむかう。ワインをのんだせいか、元気になり、にわかに足どりも軽くなる。アルコールが燃料か。42分、二俣分岐通過。15時15分、鍋割山頂着、少し休憩。
 ここからは6月10日に書いたのとおなじ経路をくだる。A さん(だんなさん)がひざをいためており、斜面もけわしいので、小きざみに休憩し、たいへんゆっくりとしたペースでくだる。16時25分、後沢乗越到着。17時55分、二俣着。
 鍋割山頂から二俣までの所用時間は6月の2倍近く、いかに A さんがつらかったかということがよくわかる。そこで少し相談する。A さんが携帯電話をひらくと圏外なので、ここから黒パンさんに大倉まで先行してもらい、タクシーをよび、西山林道を遡上してきてもらうとする。A さん夫妻はゆっくりと歩いて、黒パンさんの呼んだタクシーに乗ってもらうことにする。Tさんとわたしは黒パンさんのあとを歩き、自力で大倉までゆくつもり。
 しかし、四十八瀬川の渓谷にそう林道は夕方暗くなるのが早く、18時15分ころにはもう、道の砂利もよくみえなくなる。西山林道と、大倉の集落への道の分岐点がわからなくならないよう、けっきょく18時30分、黒パンさんがヘッドランプをつけて少しのぼってきて、わたしとTさんに、すぐ先の大倉への分岐点で待っているようおっしゃる。黒パンさんはさらにさかのぼり、A 夫妻をむかえにゆくとのこと。
 待つあいだ、T さんとふたりで林道にねころび、木立ちのあいだに、渓すじの相似形に区切られた空を見つめる。19時、全員が再合流。この分岐点にタクシーを呼ぼうと、A さんの携帯電話で、黒パンさんが、この地域では最大規模のタクシー会社に電話するが、秦野の配車も平塚の配車センターで集中的におこなっているとのことで、現在地点をつたえるのに隔靴掻痒の感がある。「西山林道」の名まえさえ通じない。秦野の地理がもっとわかっているひとはいないのかと問うと、乗務員に無線できくしかないという。しばらく話してもらちがあかないので、ここから20分ほどの大倉バス停まで歩くことにし、大倉まで配車してもらうことにする(もうバスは最終便が行ったあとだろうし)。19時20分大倉着。30分ころ渋沢着。
 駅のちかくの「いろは」に入り、つめたい生ビールで乾杯。まさに生きかえったようだった。


2003年8月2日
つゆ明けの言語行為論

 きょう、平年より13日おくれて、関東のつゆ明けが宣言されました。
 「つゆ明け」は、当然ながら、純然たる自然現象ではなく、その自然現象にたいする解釈の類型であり、そして、とりわけ現代では、ほとんどもっぱら気象庁が宣言するかどうかを考えるものになっています。
 今回は、明後日から2〜3日、雨が予想されており、気象庁もつゆ明けを宣言するかどうか、微妙なところだったと報道されています。そうこうしていると、8月8日の立秋がきてしまい、立秋がつゆ明けの期限なので、ことしもつゆ明けはなかったことになるところでした。
 そうした微妙なところもふくめてあらゆる因子を勘案して、最終的にはやや思いきった裁断として、宣言にふみきるという性質のもののようです。
 このように、つゆ明けは、宣言されることによってのみ達せられる現象であること、そして、気象庁という審級(instance)によってのみ宣言されうるものであるという点で、あきらかに、言語行為論の領域に属する問題です。
 進水式で船長が船に命名するとか、会議で議長が開会を告げるなどの遂行的発話(énoncé performatif)もまた、適切な主体・審級が発することによってのみ、そしてその発話行為をとおしてのみ、果たされる行為をさししめしている発話ですが、つゆ明け宣言はそれに相似しているように思います。


2003年7月7日
想起空間

 こまかい雨がふる。夜にはやむ。昼間は蒸し暑く、夜はすずしい。
 おもわぬ雑務が飛び火してきた。しかも、とても苦手な渉外。
 いや、そんな不快な話はやめよう。
 おととしのいまころ、ともだちのHさんが、「想起空間」という秀逸な用語をあみだしてくれたことを、おなじ季節になったせいか、さいきんよく思いおこす。べつにそれを定義する必要はない。「想起空間」ということばだけで、こころよい精神のたゆたいがもたらされる。「想起空間、想起空間」と脈絡なくとなえてみる。夢と詩が帯電する。
 虚構を問題にするとき、よくもちいられるのが「可能世界 monde possible」だが、これは真偽値を集合論とからめることで出てきた、ほんらい論理学的な概念のはずだ。しかし、「可能世界」は、「あるがままの世界 monde de ce qu'il est」(これがなにか、そんなものがあるのか、はひとまずおくとして)に対置されるいわば対蹠世界として考えられるなど、不毛な2分法をまねく。もてはやされたメンタル・スペース espace mental もほぼ同断。
 それらの概念との対比において、現実の言語活動、すなわち、言説や対話や心内発話などが、おどろくほど融通無碍に流れ、すすむようすは、まさに、「想起」の関係にあるいくつもの表象が、「空間」をかたちづくっているととらえるのがよいと思う。
 この場合、「想起」ということのの利点は、関係概念であることにも存する。つまり、「表象Aから表象Bが想起される」とか、「AがBを想起させる」といった、表象間の連合的 associatif な関連を問題にしている。かすかな徴候の共有をもってでも、ほんの部分的な隣接性を介してでも、AからBへと移行することができることのほうが、むしろテクストの連続性に本質的な点だろう。このことは、テクスト言語学において提唱されてきた、「反復のメタ規則」などの、「結束性 cohésion」にかかわる定式化が、ことごとく失敗に終わったことからもわかる。
 しかし、当時、わたしが言語論メーリングリスト 《Aporétique》 に投稿したメッセージを見かえしていたら、「月にさく花をも潤す地下水脈は、想起空間にこそ通じています」などという昂奮ぎみの文が見え、はずかしいようなまぶしいような気分になる。


2003年6月10日
丹沢へ

 きょう、丹沢・鍋割山(1273m)にのぼってきた。以下、それを記録にとどめる。
 7時10分ころ自宅を出る。買物をしてから小田急にのる。8時13分渋沢着。
 ザックを背負って出てきたので、はずかしいことに、いつも使っているかばんに大半を入れていたお金がない。財布に移しておくべきだった。しかたなく、渋沢の柳町にある横浜銀行の時間外ATMでおろす。
 渋沢駅にもどり、8時30分ころ、ごいっしょくださる黒パンさんと合流。すずしい。少し雨がふりはじめた。40分発のバスで大倉にむかう。大倉につくと、雨はやんでいた。いさんで、8時55分、大倉からあるきはじめる。
 畑や牧場を縫い、雑木林に入る。林道になる。森林伐採などの、車もとおることのできる、西山林道に合流。植生が針葉樹の植林にかわる。林のなかをあるいていると、空気もよく、とてもこころよい。山に本格的に足をふみいれたのはひさしぶりなので、爽快さとうれしさが手伝って、足どりも軽い。
 四十八瀬川の渓流をときどき左にみながらあるく。たいへん深い谷で、水ははるか下をながれている。ときどき堰堤があり、その上流すこしでだけ水がよくみえる。
 10時20分、二俣着、15分休憩。この先はいかなる車も乗り入れることができない。あいかわらず四十八瀬川にそう道をのぼる。
 10時55分、ミズヒ沢着。最後の水場でもあり、2つのペットボトルのうち、空になったほうに水をみたす。その場でも水をのむ。とてもおいしい。11時4分、ミズヒ沢発。しばらく後沢乗越ノ沢にそう道をあがるが、ほどなくそれとわかれて急なのぼり。11時20分、後沢乗越通過、のち小休止。
 ここからは山頂まで単調につづく稜線に沿う急峻なのぼり。にわかにきつくなり、小きざみに休みながらのぼる。霧がかかり、気温も低いはずだが、体感的にはたいへん暑く、ヘンリーネックの半そでシャツの前をあけてあるく。
 つつじは、造園のなかでみるとおしつけがましい色だが、山のつつじは目にここちよい。山らしく、足もとには笹のたぐいもはえている。
 12時35分鍋割山頂着。ビールで乾杯し、さらに、黒パンさんからワインもいただく。同時に昼食もとる。
 13時30分発。くだりがたいへんつらい。わたしの感覚では、足にくわわる衝撃がのぼりよりずっとはげしく、ペースをあげられない。のぼりでは黒パンさんと同ペースか、少し速いくらいのペースさえ可能だったので、ひさしぶりでも山の感覚をとりもどしたとよろこんでいたのに、やはりそれは錯覚だった。黒パンさんは快調にくだり、わたしは追いつけない。くだりにこそ熟達の差がでる。急峻であればあるほど、足(足首から下)が悲鳴をあげる。くだりでは体重の3倍の力がかかるそうだが、そのもとになる体重が、最近とみに大きくなっているわたしは、その力もふくれあがっている道理だ。
 14時5分後沢乗越着。10分ほど休む。
 14時30分ミズヒ沢着、休憩。水くみ。沢の水は自宅へのおみやげにする。ここからの下り坂が、足には楽で、とても安心できる(これまでは「坂」ではなく、稜線だった)。あとは気らくに、話しながら歩く。14時58分二俣通過。16時7分大倉着。バス停わきの売店でビールをもとめ、乾杯。
 心配に反して、あるいているあいだずっと、まったく雨には降られず、ときに晴れ間ものぞく好ましい天候にめぐまれた。完全な晴れでは暑くて苦痛なので、むしろきょうの天気が理想的といってもよい。わたしはあまり天気にめぐまれるたちではないので、これはひとえに黒パンさんの徳だと思う。まさにきょう、関東地方まで入梅が宣言された当日だったが、よく雨から逃げきったものだ。
 たのしく、爽快な山行だった。十数年ぶりの山にしては上出来だろう。これからまた、機会をとらえて出かけたい。


2003年4月10日
工業規格の似すがた?

  わたしの勤務先の大学では、昨年の入学生からカリキュラムが大きく変わり、英語が全員必修になりました。
 以前もふたつの外国語を学ぶことは義務づけられていたのですが、たとえばフランス語を専門の外国語とする学生が、スペイン語を第2外国語とすることができたのです。
 もちろん、英語以外の外国語ばかりをふたつ履修する学生はもともと少数派ではありましたが、それにしても、制度的に可能か不可能かでは予想以上に大きな差がありました。
 なにしろ、こんどからはひとりのこらず、なんらかのかたちで英語をまなぶようになったわけですから、フランス語教員のわたしにも、新入生ガイダンスのしごとの一環で、英語に関係する業務がはいってくるようになったのです。
 その最たるものを、先週経験しました。 Pre-TOEFL の ITP の試験監督をしたのです。この試験を実施したことは、大学の英語の授業のクラスわけをするために、各学生の能力の目やすを得ることが目的でした。
 わたし自身、実施の直前まで、TOEFL もろくに知らないのに、Pre とか ITP とかいわれても... というのが正直なところでした。

 では、わたしの学習の成果を開陳しましょう (Pre-TOEFL なんて常識、というかたは、このパラグラフをとばしてください)。
 TOEFL は Test of English as a Foreign Language の略 (わたしは以前、ある会議の議事録で、誤って、*TOFLE としるしたことがありました。FLE の部分が、無意識に Français Langue Etrangère に影響されたかと想像することはたのしいことです。ちなみに、同僚の英語教員にはたいへんおやさしいかたが多く、このまちがいはそっと放っておいてくれました)。英語の非母語話者の英語能力を測定し、アメリカ、カナダの大学入学の際の規準のひとつとされている試験です。
 ITP とは、Institutional Testing Program、つまり学校などの団体単位で自主的に実施する、TOEFL に準じた試験です。
(それにしても、テクニカルな英語って、どうしてこんなに、かしら文字の略語がおおいのでしょう。とおもったら、英語でも、"Alphabet Soup" といって、アルファベット型のクルトンが浮かんでくる子ども用のスープになぞらえて、多用される略号を揶揄するのだそうです)
 TOEFL を簡略化して、試験時間をみじかくし、測定できる学力範囲の上限をやや低めに設定したのが Pre-TOEFL です(TOEFLの最高スコア 677 にたいして、Pre-TOEFL は最高スコア 500)。

 さて、その Pre-TOEFL の試験監督をして思ったことです。
 解答要旨はすべてマークシートで、はじめに指示用のテープをながしながら、氏名、受験番号、性別などをマークする(氏名などはアルファベットの全文字がならんだマーク欄を順次マークする)のですが、その作業を見まもっているとちゅうで、すでにえもいわれぬ違和感をおぼえはじめました。
 とくに、問題のパターンをしめす記号である Test Form Number、問題用紙1冊1冊に振られたシリアルナンバーである Test Book Number を解答用紙のマーク欄にマークする作業になったとき、あ、この試験は工業規格なのだ、と思いました。
 Test Book Number(コンピュ−ターのソフトの CD-ROM に振られた Product ID とおなじように、色刷りのシールでしめされている)を書かせておけば、まさにその問題冊子1冊だけが「不良品」であったときに、跡づけることができるのでしょう。
 そうであってみれば、もはや受験番号も、Test Book Number とおなじような意味なのだろうなあ、と思うのです。
 なにも、「教育は競争ではない、選別ではない」などというつもりはありません。すくなくとも、いまそれをいいたいのではありません。Pre-TOEFL でおこなわれていることは、多かれ少なかれ、制度的な教育のなかでひろくおこなわれていることでしょう。とりわけ資格試験や競争試験では、工業製品の「性能」を測定することとおなじように学力を測定しているのでしょう。
 しかし、Pre-TOEFL をみていて思ったことは、工業規格のやりかたを、あまりにもむきだしに、そのままそっくりもちこんでいるなあということです。
 マークシートも、コンピューター黎明期のパンチカードを想起すれば、工学的情報を媒介することを本来の機能としていることはあきらかです。

 いよいよ試験がはじまります。第1部はききとりの問題。専用のテープを開封して、ながします。いきなりはじまったかと思ったら、そうではなく、はじめにテープをふきこんでいる4人ほどの男女が、わたしはこんな声ですよ、という感じで順々に軽く交話的(phatique)に話すのです。これはさしづめ、音響機械のためし聴きといったところでしょう。
 いったん工業的だとおもってしまうと、すべてが隠喩の紐帯でむすびつき、なにもかもが機械のふるまいのように思えてきます。
 試験のあいだぢゅう、メモをとってはならず、答案だけをマークシートに入れる、という指示がなされています。受験生もまた、機械のようにふるまうことを要求されているわけです。
 ほかにも、それぞれ時間が計測されているので、指示された範囲だけを見て、解答するように、という指示もなされています。つまり、時間があまればほかの部分を解くのにまわして、全体で成果をあげるというやりかたは許容されず、部分(モデュラー?)化されたかたちで能力を計測しようというわけです。
 ちなみに第2部は文法問題、第3部は読解の問題ですが、それぞれ制限時間が17分と31分。これらの時間が20分や30分でないところにもまた、工業が要求するいっそうの実質的な精確さを感じます。

 試験がおわったとき、いみじくも「機械になった気分」といっている学生がいました。
 大学入試も、マークシートを多く採用していることから、似たような気分になってもいいとは思うのですが、じつはその度合いはまったくちがうと思います。
 わたしの感覚では、それはやはり、Test Form Number、Test Book Number を解答欄にしめすことを要求されることが、大きなわかれ目だという気がしました。
 Test Form Number をしめすことは、試験のおびただしい多回性を明確に意識させ、Test Book Number をしめすことは、おなじタイプの問題にとりくんだ受験者のおびただしい多数性を明確に意識させ、いずれも試験が大量生産の文脈のなかにおかれていることを明示しています。
 また、同時、同所で試験をしていれば原理的に省略できるはずのそれらの情報を、あくまでもその場で書かせるということは、生産現場で製品チェックをすることで、歩留まりを高め、チェックそのものも効率化する工業技術を思わせます。
 こうした情報をマークシートにいれてゆく作業は、いまからおこなわれる試験が、工業規格の似すがたとしての学力を測定しようとしていることを予測させるにじゅうぶんな儀式として機能していたのではないでしょうか。
 もちろん、問題への解答は、すべてマークシートのうえに、機械の正確さで黒い斑点を布置するというかたちでなされるのですから、完璧な工業性を帯びています。
 くりかえしますが、TOEFL だけが工業的だといっているのではありません。ただ、「製品」の「規格」・「性能」を計測しようという趣旨が、露骨なかたちであらわれていることに瞠目したといいたいのです。

 ちなみに、ITP ではない正式の TOEFL は、CBT すなわち Computer-Based Testing で、受験者はマークシートにとりくむのではなく、コンピューターの端末に解答を打ちこむのですが、皮肉なことに、その試験には、Writing という部門があり、それぞれが自分の表現で英語の作文を打ちこむという、「より人間的な」試験になっているそうです。