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2004年12月19日
日曜日にようやく日常をおくる
天気予報より雨がちかづくのがおくれて、昼すぎまで晴れ、そのあとくもり。
午後、あるいて20分くらいのカフェ「H」にひさしぶりにゆく。エスプレッソがしみ入るようにおいしい。
たずさえていった書物をひらくと、「知性の鈍磨は余暇の不足からつくられる」というくだりがあったので(その書物の主題はべつのところにあるのだが、それを一瞬わすれて)、ぎくっとする。ここのところ雑務におわれるいっぽうでさっぱり時間のないわたしは、まさにそこにはまりこんでいるにちがいない。
帰宅すると、子どもはまだ午睡からさめていない。
17時ころ、階上の寝室に起こしにゆく。
やさしく、徐々に目ざめさせると、夕方のきげんのよさがまったくちがう。
きょうは、あえて話しかけないで、カーテンを閉めたりする物音だけで目ざめさせようとしたら、これが成功で、あごをひいて「ほっほ、ほっほ」という、この子独特のわらいかたをしてくれた。
この子は、お昼寝のともだち、カナダのくまのぬいぐるみをだいじに抱いて、わたしはこの子をだいじに抱いて、階段をおりる。
さむくなったせいか、ここのところにわかに過食ぎみになった。
夕食のあと、いただきものの洋なしをひとりで1個たべて、さらに、近所のしにせのお菓子屋で焼いているおいしいシュトレンをたべた。そのシュトレンは、しょうががよくきいていて、くるみもたくさん入っていて、わたしのこのみの味だ。
でも、酒はまったくのんでいない。「自宅に酒類を常備しない」という方法は、じつに効果的な抑止法だ。
日曜日、≪制度≫にとりかこまれることをやめ、こうして日常らしい日常をおくることができると、かろうじて、どうやら自分も≪生活≫というものをしているらしいと感じる。
そういえば、先週末は研究会で土曜も日曜も終日慶應の三田キャンパスに行っていたし、きのうの土曜は校務で中野に行っていたので、週末のなかでも、ゆっくりできるのはしばらくぶりだった。
2004年10月11日
はりねずみ型宣言
たとえば、「追跡型狩猟」と、「待ちぶせ型狩猟」という2項対立がある。
日本ではたいてい、これらの型を、いぬとねこで代表する。もちろんいぬが追跡型で、ねこが待ちぶせ型だ。狩猟のパターンに規定されて、いぬは集団を構成するがねこは単独行動をこのむとか、いぬは自分の気配を隠さないがねこは隠すとか、いろいろな違いがでてくる。
フランス語の、すくなくとも一部の慣用では、追跡型を renard (きつね)、待ちぶせ型を hérisson (はりねずみ) で代表させているらしい。
フランスの言語学者、イレーヌ・タンバ先生が、「フィールドワーク型研究」と「書斎型研究」を、隠喩的に、きつね型、はりねずみ型とおっしゃった(わたしは、そこできつねとはりねずみが出てきたことにややおどろき、気をとられて、その後の話をしばらくうわのそらで聞くはめになってしまった)。
さて、いまわたしが本題にしたいことは、どうも社会全般からは、きつね型のほうがはりねずみ型よりも評価されることが多いらしい、ということだ。
もともと追跡型狩猟をするきつね型のほうが、ニーチェ(や、パラント)のいう「群棲性」をもっていることから、社会に安心してむかえいれられるのだろう。
そして、その社会性にくわえて、追跡のためにたえずうごきまわる勤勉さもまた、社会の美徳に合致しているというわけだ。
隠喩のターゲットである「研究」でいえば、フィールドワーク型のほうが、地道な、着実な研究として評価されるというぐあいである。
しかし、わたしはそれががまんできない。
群棲性が、なぜアプリオリに好ましいことなのだろうか。
勤勉さが、なせアプリオリに好ましいことなのだろうか。
フィールドワークが、なぜアプリオリに好ましいことなのだろうか。
そんなけちくさい≪価値≫は、まるごと、懐疑のほむらで焼き捨てたい。
いささか戯画的にいうならば、パラノイアックな思想の帯電から、突如として夢幻的なばかりにとっぴょうしもない仮説を出し、その証明たるや、事実のもっとも周縁的な生起を示すだけでことたれりとする。そんな学問がわたしの理想だ、とあえていおう。
「言語学は科学である」なんて、安手の入門書みたいなことを言う連中には、敢然、「言語学は欲望である」といいかえそう。
わたしは断然、(その隠喩のあらゆる意味において)はりねずみ型だ。つまりデュオニソス型だ。