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Looking for Elena by Ilkay, Universal Age 17

『宇宙年齢17才、イカイ少年のエレナ探し』

【5】

福原 哲郎




 人びとが月や火星に住み、多くの地球外生命体も発見されはじめた2050年代の世界。
 地球の生活も大きく変わった。人びとは、日常生活ではロボットスーツを洗練されたファッションとして愛用し、自己の分身として付き合うようになり、電脳空間では第三世代BMIシステムにより優秀な秘書ロボットを競って育て、さらには現実と異界の間を能力に応じて自由に往来できるスペーストンネルの通行技術を身につけた。その結果、コミュニケーションも、愛も、戦争も、家族も、死も、大きく変化した。

■目次

[序]
心改造ゲームがはじまった 【1】 【2】
[第1部]
【第1話】 スペーストンネル少年少女学校 【3】
【第2話】 現実(四次元時空)と異界(五次元時空) 【4】
【第3話】 ノアとアスカ
[第2部]
【第4話】 王女の夢、電脳サイト『イスタンブール』 【6】
[第3部]
【第5話】 異界の住人たち〜キベ・タナ・エレナ 【7】 【8】 【9】
【第6話】 メタトロン軍の野望と戦略 【10】
【第7話】 エックハルト軍の『ヒト宇宙化計画』 【11】
【第8話】 アトム4世〜ヒトを愛せるロボット 【12】
【第9話】 宇宙の花計画〜破壊される月 【13】
【第10話】 エリカ攻撃と、イカイとエダの情報戦争 【14】
【第11話】 ノア、脳回路を使い分ける 【15】
【第12話】 電脳恋愛の光と影 【16】
【第13話】 大家族の出現 【17】【18】


【第3話】 ノアとアスカ

1 宇宙ダンス

 サチは、スペーストンネル少年少女学校のスタッフの一人で、高い知性と感性を兼ね備えた魅力的な女性だ。ほんとうはエリカがこの学校の副校長で僕の相棒のはずだが、本業が忙しくて世界中を飛び回っているため、時々しかニューヨークに来れない。サチはその代理というわけだ。肩書きはマネージャー。大学で専攻したのは文化人類学とデザイン史。この学校の広報も担当している。優秀な人材だ
 但し、サチの唯一の欠点は、何でもリクツで物事を知りたがること。僕の仕事は日本的感性の表現を土台にしているため、説明は口ではなかなか難しい。それでも、この学校の目的や授業について彼女にわかるように説明しないといけないので、僕にも勉強になっている。彼女が理解できなければ、外部への広報にも支障が生じるわけだ。
 それで、サチが、就任時の多忙な時期を過ぎ時間が出来たので僕と議論したいと言い出した時、いまこの学校で優秀な成績を挙げているノアとアスカにも参加を頼んだ。彼らの実演を交えて議論すれば、僕の説明も簡単になるからだ。
 サチが、約束の時間に、巨大体育館に運動着姿で現れた。彼女もやる気で、張り切っているのだ。

 「ねぇ、イカイ。私、あなたの『宇宙ダンス』という本で、人間は動物たちの記憶も脳の中に保存しているという章を読んだの。私が勉強した文化人類学の観点からも面白いわ。でも、はじめて聞く話しだし、わかるような、わからないような。何とも不思議な話しね。今日はまずそこから話してくれる?」
 「いいよ。誰にも一番面白い話題かも知れないね」
 「そもそも、宇宙ダンスって? ステキな名前だけど、一体何かしら?」
 「スペースチューブを使った姿勢構築や、スペーストンネルの使用技術のこと。魚の姿勢からはじめて、両生類・鳥・サル・人間・ポスト人間の姿勢をつくって遊ぶんだ。面白いよ。訓練の最後に、それぞれ自分で想像して、ポスト人間の姿勢づくりに挑戦する。僕たちの『ヒト宇宙化計画』では、人間の進化をどうやって自然の摂理にのっとった形でデザインできるかが勝負になるからね。だからこういう遊びが大事になる。いまからノアとアスカに実演してもらうから、よく見てね」
 ノアとアスカは、いまではこの学校の一番優秀な生徒だ。二人とも、からだの使い方のセンスが抜群にいい。僕も、もう彼らには適わない。僕は二人のスペースダンスの特徴を、アスカが運動系、ノアが構造系と名づけている。運動系とは、何も考えないでその場の発想から直感的にスペースチューブと一体化して動くタイプ。運動の開発に適している。つまり、見たことも無いすごく面白い運動をつくり出す。構造系とは、静かに考えながらやるタイプ。特徴は見た目の運動の面白さよりも、体験から掴んでくる思考の豊かさにある。とにかく、ノアが体験談として語る内容には、僕だけではなく、この学校の教授たちや医者たちも注目している。
 一方のアスカは、スペースチューブとスペーストンネルの巧みな操縦技術が評価され、イルカロボット隊の隊長に内定している。ノアは、脳科学者たちと仲がよく、脳科学の次世代のホープということになっている。二人とも、入学してまだ2年目なのに、既に「側頭葉」を膨らませている。期待されているのだ。
 サチも目を丸くして二人の実演の様子を見ている。僕もあらためて感嘆して見ている。二人とも成長したものだ。
 「へぇ、すごい動きをするのね。面白いわ!」
 僕はサチの方をふりかえった。
 「よく二人の様子を見てね。いま二人は、ここからはよく判別できないけど、スペーストンネルの中に入るよ。二人はこれから、異界の住人たちとの出会いにトライするんだ」
 「えっ、まさか。ほんとなの?」
 「もちろん、ほんとうだよ」
 「へぇ、変わってる。奇妙な格好ね。でも、懐かしい感じもする。遠い昔の記憶の世界を演じているわけ? でも、あんな奇妙な格好をすることで異界の住人たちと出会うなんて、私ははじめて聞いたわ。もちろん、子供だけじゃなくて、大人にも面白いわね!」
 サチはしきりに感心している。自分でもやってみたくて仕方ないという様子だ。
 「サチもやってみる?」
 「私にも出来るの?」
 「もちろん。身体を持つ者なら誰でも。もちろん、出来の差はあるけどね」
 「身体の動きって、不思議なのね」
 「そうだね。宇宙文化の創造を考える時の僕の出発点は、いつも身体なんだ」
 「知ってる。あなたはいつも身体から話しを始めるわね」
 「そう。脳操作や遺伝子操作も含め、身体が改造される速度は現在もすさまじい。でも、身体は環境と共に存在しているから、身体が改造されればその影響を環境が受ける。環境が変化すれば身体もその影響を受ける。身体に対する過去の考え方の欠点はここにあった。環境から独立して、身体を身体だけで扱ってきた。そんな環境から切断された身体は、身体とは言えない」
 「その方が科学には扱いやすかったから。これまでは、身体は科学の合理的思考の対象としては馴染まなかった」
 「だから、人間は身体のことをまだ何も知らない。それは大変なことだよ。デザインも専攻したサチにはこの辺のことはわかると思うけど?」
 「それはわかる。身体のことを知らなければ、身体が使うモノのデザインも、身体を容れる容器としての建築も、身体の維持に必要な情報も、全部できない。その設計はもう一度見直される必要がある。当然ね」
 僕はこの点を強調して、次のように言い直してみた。

 身体が不明なら、身体のために何かしたくても、それは難しい。

 サチもそれに答えた。
 「たしかに! その前に身体についてもっと知る必要が出てくるわ」
 「身体が、像として明確である内はまだよかったよ。でも、それは環境が一定の範囲で保たれてきたこれまでの話しにすぎない。いま環境は、誰もが知る環境問題に象徴されるように、人間の営みによって破壊を加えられ、大幅な変動を始めている。そして、人間の身体も、複雑に変化している」
 「そうね。明日の身体がどんな姿をしているかは誰にもわからなくなった。とても複雑ね。油断できない。大変な時代になったのよ」
 「身体と環境の関係は、もっと相互依存的なものになっているよね。身体を知るためには、その関係性の中に答えを求める必要がある。身体を身体だけで扱うことはできないんだ」
 「だから、あなたが考える身体生活のデザインは、環境との関係からはじまるわけね」
 「そうだよ。いまアスカやノアがやっているように、スペースチューブを使ってその関係を体験するわけ。それが宇宙ダンスの出発だよ」
 「面白いわ。でも、そんな関係から出発するなんて、大変な遠回りのように思えるわね」
 「古代はそうじゃなかったと思うけど。その後怠けてきたわけだから、仕方ないね」
 「身体ほど身近なものはないから、人間は身体のことは自明として、身体について考えるのを止めたのよ。そのツケがとうとう来たというわけね」
 「そうだね。身体問題の象徴ともいえる生命科学や脳科学が大流行している世界の状況を見ても、これまで自明の対象として扱えた身体が、ふたたび謎に満ちた新しい主役として躍り出てしまった」
 「たしかに、生命科学や脳科学の流行はいまも続いているわ」

 僕は、最初に、このような提案を、2006年に日本の宇宙機関との共同研究の中で行った。10年以上、何の反応もなかった。しかし、人間が月居住を開始するようになった2023年前後から、状況が大きく変化した。僕の提案が理解されるようになったのだ。僕はNASAをはじめヨーロッパやアジアの宇宙機関からも講演を依頼されるようになり、ブリュッセルで知り合った新・国連の宇宙開発部の研究者を通してフジイ博士に紹介され、正式に採用されて、僕の提案が『ヒト宇宙化計画』の基礎を形成するまでに発展した。欧米の研究者たちは、「日本人の発想は相変わらず面白いね。宇宙生活の設計に君の考え方が不可欠になった」と、掛け値なしで誉めてくれた。


2 身体からはじめる

 アスカとノアが実演から戻り、議論に加わった。ふだんは忙しくてゆっくり話す時間がなかったので、僕も二人と話せるのは嬉しい。二人とも、僕の顔を見るたびに「先生、質問があります」と言っていた。僕にはそれに答える充分な時間がなかった。
 サチがアスカとノアにウィンクした。
 「二人ともお疲れ様! すごく面白かったわ」
 最初にノアが質問をはじめた。アスカも何か言いたくて仕方ないという顔をしている。
 「私が先生に聞きたかったのは、どうしてこれまでやってきた宇宙開発が役に立たなくなったのかということ。本当なの? その理由は何?」
 アスカも続けた。
 「先生、僕も同じ質問。それを聞きたかったんだ。だって、それはすごく重要だからね」
 サチも続けた。
 「私だって、本当の理由は知らないわ」
 「それはね、さっきもサチに言ったけど、宇宙開発を支えてきた考え方が身体と環境を分離した古いものだったから」
 ノアはそんな説明ではわからないという顔をしている。
 「身体と環境の関係って? 難しいことはわからない。私にもわかるように説明してください」
 一時は機密として隠されていたが、これはもう今では誰に喋っても構わない。
 「みんな、この話しは知ってる? この学校にゲストで時々授業に来てくれる、新・国連のサイード博士の話し。無重力環境の宇宙に長期滞在した宇宙飛行士たちの身体が、帰還後には骨粗しょう症がひどくなった感じで、ひどい場合は廃人になってしまうということ」
 ノアが答えた。
 「知らないわ。サイード博士はよく覚えてるけど。若い時に宇宙飛行士だった人ね。それで博士も身体が悪くなったの? いつも車椅子に坐っていたから、なぜかしらとは思っていたけど」
 「そう。博士も宇宙漂流の経験者で、たった30分の漂流なのに、それで身体がボロボロになってしまった」
 三人とも同時に言った。
 「なぜ!?」
 「それは、地球の1重力環境の中で育った人間の身体には無重力環境が馴染まなかったからだ。考えてみれば単純なことだね。無重力環境の身体をケアするためには、地球の1重力環境の中で培われた身体ケア技術は役立たない。宇宙漂流によって、その答えが明白になった。そして、宇宙ステーションの中でも同じで、いくら自転車のペダルを漕いでも無駄なんだ。身体機能を維持する事はできない。徐々に衰えていく。回復することはない。 つまり、とても重要なのに、身体に対する配慮は後回しにされていたわけだ。その内に慣れるものと甘く見られていた。でもそれが間違いだった。つまり、それが環境との関係を欠いた身体に対する考え方だった。この点が見落とされていたわけだ」
 アスカが言った。
 「じゃ、どうすればよかったの?」
 「最初から地球環境を人工で持ち込むべきだった。或いは、無重力環境の身体をケアするための全く新しい方法を考え出すべきだった。それができないから、宇宙飛行士たちにはマッチョな身体訓練が必要になった。でも、それは無効。それに、宇宙に住むのはそんな宇宙飛行士たちじゃない。何の訓練もしていない普通の人たちだよね」
 ノアが言った。
 「わかったわ! それでこの学校では過重力訓練とかがまったくないのね」
 アスカも続けた。
 「僕もわかった。いつまで立ってもその訓練が始まらないから変だと思ってたんだ。この学校は宇宙での戦闘要員も育てる宇宙学校でもあるから、当然それがあると思ってた」
 「そうだね。君たちが毎日やってるのは、もっと感嘆。ロボットスーツを使用した0重力と1重力の間を往復しながら行う姿勢創造訓練だ。あくまで1重力がベースキャンプ。それなら、ふつうの人にも出来るし、ふつうの人のためになるよね? 変な筋肉をたくさんつけたりしないで。君たちもいつまでもふつうでなければダメなんだ。君たちがふつうの人たちのモデルになるためにね」」
 サチが口をはさんだ。
 「先生、わたしもわかったわ。だから先生は、最初の月面歩行の証言で有名になったオルドリン宇宙飛行士を評価するのね? わたし、先生の本を読んだの」
 「その通り。今だって、彼の証言は面白いよ。1/6の月の重力下では走るとうまく止まれず、身体が斜めに立っている、とか言っているからね」
 予想通り、ノアの感想は鋭いし、面白い。
 「つまり、オルドリン宇宙飛行士が発見したことは、重力が変われば人間の姿勢も変わる、ということね? 姿勢は重力の関数なんだ。そして、その姿勢の違いで、感覚も変わってしまうのね。すると、人間はどうなるのかしら?」  「そうだね。ノアの考えは面白いね。だから、いきなり人間が人間じゃなくなるのではないとしても、少なくとも重力を変えることで人間の新しい姿勢をつくれる、ということになるよね?」
 サチも興奮しているようだ。
 「これで全部わかったわ! あなたの<姿勢は文化創造の母胎>という持論だけど。ロボットスーツを使ってふつうの人たちを0重力と1重力の間を往復させ、それで魚からポスト人間の姿勢形成に挑戦させるということね? それで、ふつうの人を新しい人間につくり替えようというわけね?」
 「そうなんだ。ノアが言う通り、姿勢は重力の関数だよ。この公式を使えば、人間が宇宙環境で地球文化以上の宇宙文化を創造するために必要な<新しい姿勢>づくりに挑戦できるようになる。もし人間が、宇宙では地球文化を超えたいと真剣に望むならの話しだけどね」
 アスカが言った。
 「もちろん、僕たちは宇宙に出ることで地球文化を超えたいわけです。だって、そのためにこの学校に来たんだから」
 「そうだね。とにかく、僕たちにはハードな身体訓練は一切不要だ。かえって邪魔になる。ロボットスーツにただ馴染めばいい。ロボットスーツが僕たちの新しい皮膚になるんだ」
 ノアが聞いた。
 「整理すると、こういうことでいいんですか? 単純に言えば、地上の身体を宇宙環境に合わすな、地上の身体に合う新しい環境をつくれ、ということ? そういうことなら、確かに先生の言う通りで、これまでの考え方と正反対になると思います」
 「そういうことだね。だからこそ、僕たちは身体から始める必要があるんだ。現在の自分の身体を尊重し、その声をいつも聞いていないとダメなんだよ。環境の事を一番よく知っているのは身体だからね」
 僕は、整理のために、少し声を大きくして、もう一度言ってみた。

 注目すべきものは身体で、身体は世界100億人の毎日の関心事。

 サチが言った。
 「それがあなたの得意のセリフね! 私は最初にこのセリフを新・国連の宇宙デザイン会議に参加した時に聞いたのよ。感動したわ。やる気があるなって。インパクトを感じた。それでどうしてもヒト宇宙化計画に参加したいと思ったの」
 「ありがとう。光栄だよ。つまり、いま100億人の身体が、遺伝子テクノロジーや脳科学やロボット工学で改造され、生身の身体が変化している。そして、人間が初期の宇宙開発時代を終わって本格的に月や火星に住むようになったいま、身体に対するケアもこれまでのものでは不充分であることがわかり、新しい対策が必要になっているわけ。急ぐ必要があるよ。だって、月や火星では、もう新しい子供たちも生まれているわけだからね」
 「あなたは早い頃から指摘していたわ」
 「でも、その頃は、サチも事情を知ってるけど、僕の提案は一人のアーティストの提案としてしか受け取られていなかった。要するに彼らには僕の提案はどうでもよかった」
 「あの頃は世界全体が保守的だったわね。世界が大きな変わり目にあることは誰もがわかっていたけど、具体的に何をすればいいのか。要するに誰にもわからなかったのよ。新しいアイデアはなかった」
 「アーティストが考えることと科学者の考えることは別世界として区別されていた。両者はすごく近づいているのにね」
 「それが、人間の月居住や火星居住が全部ひっくり返してくれたというわけね。ステキだわ!」
 「急に面白い時代になったからね。それまで偉そうにしていた科学者やプロデューサーたちは、ほぼ全員が表舞台から消え去った。うそみたいだ。代わって新しい世代が登場した。その交代のドラマもすさまじかった」
 「あなたの新しい身体論が新しい科学の基礎を築いたのよ。いまでは当たり前だけど」
 「僕が何より嬉しかったのは、僕と同じように考えている若い科学者やアーティストたちが世界中にたくさん存在していたことを発見できたことだ。僕は孤独じゃなかった。それまでは辛かったからね」
 「彼らがあなたを認め、新・国連にあなたの新しい舞台をつくったのよ」
 「そのおかげで、ノアやアスカのような新しい子供たちの世代も登場するようになった」
 「素晴らしい変化だわ」


3 身体の動きの中に蓄積された動物たちの記憶

 身体に対する重要な問いとして、次のものがある。そもそも、ヒトはなぜ二足歩行という姿勢を選択することになったのか? そして、ヒトはなぜ動く存在なのか? 生命の進化史において人類が最終ランナーであるとはとても思えず、そして地球環境崩壊後の延命方法として惑星移住が真剣に求められる宇宙時代に入っているという点で、人間が「人間の次の姿」を予想しながら生きることがますます重要になっている。「人間の次の姿」とは? もちろん、多くの試行錯誤の研究開発が世界中で行われているとはいえ、いまの時点では、まだ誰も決定的な成果を出せていない。しかし、僕には或る程度見当がつけられるようになった。それを実証するのが、アスカやノアたちの世代だ。
 次の日も、サチが僕の部屋に質問があると言ってやってきた。僕は、アスカとノアにもまた参加してもらった。

 「あなたの、<ヒトはなぜ動くのか?>という問いもシンプルで面白いわ。それも、あなたが若い頃から舞踏家でもあること、ダンスの動きの意味を考えてきたこと。それが助けになったわけね。あなたはダンスに感謝する必要があるわ」
 「ほんとにそうだ。僕の場合は、舞踏家として、ヒトはなぜ動くのかという問いから出発して、人間の次の姿を想像してきたからね。ヒトが動くのは、僕の経験では、本質的に動くこと自体が面白いからだ」
 「それは、いろんなスポーツや、いろんな身体芸術を見ていても、よくわかるわね。日常の生活の中ではきびきびとした動きが好かれることや、速く走ってみたり、ゆっくり散歩してみたり、わざとバランスを崩して遊んでみたり。ヒトは動くこと自体を楽しんでるわ」
 「でも、なぜ動くことが面白いのか? あらためて問うと誰にもわからない。だから僕は舞踏家として見当をつけてみた。それは、一つの動きは他の動きを自然に誘うことを発見したからなんだ」
 「私は人類学やデザインが専攻だったからダンスには詳しくないけど、その発見があなたの出発点であることはよくわかるわ」
 「一つの動きの中で発見される楽しさは、その動きの中で閉じることはない。まるで見えない法則があるかのように、動きは動きを求めている。その動きの連鎖は無限の選択肢をもっている。そして、どうやら、一つの動きには一つ以上の記憶が対応している。そのために、ヒトは多様な動きの組み合わせで多様な記憶の世界を再現できる。これが、なぜ動くことが面白いかの一つの理由じゃないか? だって、記憶の追跡は面白いし、人間の普遍的欲求だからね」
 「いつからそう考えるようになったの?」
 「30代に、一人だけで踊らなければならない辛い時期があった。その頃だった。ある時、自分の動きの中にヒトとしての動きとは思えない動きが混じっていることを発見した。その時、突然、言葉では表現できないなつかしさに襲われた。僕たちの動きにはこれまで知らなかった未知のステージが既知のステージの裏側に畳みこまれていることに気づいた。有史以来の人間がダンスを愛してきた理由は何か? その秘密がここにあると思った」
 「それがあなたの大発見よ。そんなことを言い出した舞踊家が他にいるのかしら? 私は聞いたことがないけど」
 「僕は、ダンスしている時、この動きは、ヒトのものとは思えないと感じる瞬間がたびたびあった。そして、なぜかそういう時が特別に楽しい。人間は骨格の構造上、動物たちの動きの記憶を宿し、それを脳が保存している。脳も、反射・情動・理性の機能を担うための、爬虫類の脳・哺乳類原脳・新哺乳類の脳という、三層構造からできてるよね。そのために、二足歩行をする人間の動きと、そうではない動物たちの動きの差も判別できる」
 「素晴らしいわね。あなたの経験に似た話しは他にもたくさんあるわ。洞窟時代の人間は、地球上のいろんな地域で洞窟の壁に動物の顔をもつ人間の絵をたくさん描いていた。動物に特別の親近感をもっていたからで、描くという行為が文化的儀式のようなものなっていたに違いないのよ」
 「そうなんだ。現在の僕たちの身体の中にも、いろんな動物の記憶が残されている。それを感じる時が、とてもなつかしく、また嬉しい気持ちになる。僕はその楽しさをもっと追求したくて、わざわざ少し関節をずらして新しい動きの工夫をしたりしている」
 「わかるわ。ダンサーが本能的に奇妙な動きを試みるのはそのためね」
 「自然にそうなるんだ。追求したい感覚が動きによってどう広がるのか、判断はそこに集中される。それがダンサーのひそかなもう一つの楽しみになっているはずだ。人間として生まれてからの記憶だけではなく、動物たちの進化史を動きの組み合わせを通じて辿ること。それが面白い」
 「私もやってみたい! 私にもできることなの?」
 「もちろん。サチにも、誰にもできる。人間の共有の財産だからね」


4 生命の進化史に属さないと人間の進化も進展しない

 それまで大人しく聞いていたノアが、また喋りはじめた。
 「先生の話は面白いけど、でも、それは何のため? そんな進化史を辿ることにどんな意味があるの?」
 アスカも続いた。
 「僕もそれを聞きたい。僕たちはこの学校で、結局何を勉強していることになるのかな?」
 僕もずっとその問いを考えてきた。何のために? 進化史を辿ることにどんな意味があるのか? そして、僕がそう問うたびに、僕の内部の動物が僕に何かを囁きかけるようだ。僕は、その理由を、次のように考えるようになった。

 生命の進化史にうまく属さないと、人間の進化もうまく進展しない。
 それは人間の動きの面白さ自体が示唆することで、
 進化史をうまく辿れた時ほど、過去からのリターンとして、
 新鮮な未来へのステップを与えられる。
 すぐれたダンサーという存在も、このリターンの振幅が大きいダンサーのことではないか?


 ノアが不思議そうな顔をして言った。
 「人間が最初の二足歩行に成功した時、どんな思いで立っていて、どんな思いで歩いたのかしら?」
 「ノアはどう思う?」
 「さぁ、どうかしら。すごく大変だったことはわかる気がする。でも、もっと知りたい」
 「僕には、人間とは何かという問いと、二足歩行とは何かという問いが、いつも一緒だった」
 「私のお父さんも同じことを言ってたわ。人間について考える時は二足歩行という観点が大事だって。だからお父さんと先生は仲良しなのね?」
 「そうだね。僕はお父さんともよく話すよ。二足歩行によって、人間は脳をさらに大きくすることができた。二足歩行するからこそ、坐るという休息の姿勢も新しい意味をもち、その姿勢を確定するために椅子をつくるというデザインの行為も始まった。サルも坐るけど、さすがに椅子はつくらない。二足歩行とは、骨格の構造からして、物理的にも奇跡だったし、文化の観点からも大きな奇跡だった」
 サチが口を出した。
 「そうね。デザインの原点もまさにそこにあるわ」
 「でも、人間はそんな奇跡の意味をすっかり忘れてしまった」
 ノアが叫んだ。本当に勘の鋭い子だ。
 「またわかった! 私が最初にこの学校に見学に来た時、お父さんも同じことを言ってたわ」
 「何て?」
 「だからこの学校の床は平らじゃないって」
 「実はそうなんだよ。斜めの方が気がつくことが多いよね? とにかく、いつからか人間は、二足歩行が当たり前で、それ以外には何もないと思い始めた。でも、人間の一つ一つの動きにはその頃の記憶も含めて膨大な記憶が宿り、人間は毎日そのような動きを、多様に、無意識に選択して、それぞれの行為を組み立てている。その関係から、人間はことあるごとに理由もなくなつかしさを感じたり、なつかしさにまつわる趣向を美の体系として育てたり、そしてまさにその趣向が人間の一人一人の個性を異なったものとして形成することに役立っている」
 サチがまた言った。
 「要するに、個性もその趣向にも関係しているのね?」
 「個性は、考え方などの知的な相違だけじゃなく、行為の無意識の選択の違いからも来ている。或る解剖学者が言っていたように、個性は脳ではなく身体に宿っている。喜怒哀楽や誘惑や拒絶を表現するための話し方や目つきやポーズや、歩き方も、人によりみな違い、個性を決定する重要な特徴になっていて、それぞれにみな遠いルーツをもっている。こんな大切なことを、人びとは現代社会の忙しい日々の生活にまぎれて忘れている」
 黙って聞いていたアスカが言った。
 「僕も、人間が最初に二足歩行に成功した時の喜びを味わってみたいな。そして、大地の上を自由に移動しはじめた時、身体を動かすためにどんな苦労をしていたのか、その経験を反芻してみたいよ」
 ノアも言った。
 「多分、たった一歩を踏み出すためにも、信じられないほどの苦労があったに違いないわね? 私たちがそれを知ることができれば、現代人が失くしたものが何で、進歩したものが何なのか、もっと感覚的に知覚できるようになるはず」
 僕は続けた。
 「そうだよ。僕たちは、忘れてしまった動きの全体性というものに出会う時、いまでも我知らずに深い感動に誘われてしまう存在なんだよ」
 サチが独り言のように言った。
 「ダンスの本来の役割って、この動きの全体性を表現することなのね? 優れたダンサーって、結局はこの点を知ってるダンサーのことね?」


5 心が発生する現場を体感する

 夜になっても、サチの質問が続いた。
 「生徒たちのスペースチューブ体験の反応はどうなのかしら?」
 「それはすごいよ。キャーキャーというすさまじい歓声。スペースチューブの中に入ると出てこない。いろんな反応の子がいて面白い。動物に変身している子もいれば、立ったまま何もしないでじっと考えている子もいる」
 「その多様さが面白いわね」
 「子供たちの反応は、大人に比べたら抜群に多様で、多彩。僕もいつもビックリする。特にアスカとノアの動きが抜群。ほかにも面白い子はたくさんいる。親たちがスペースチューブの中のわが子を見て驚くのもむりはない。面白い動きをしているからね。うちの子は天才かしら?、ってよく聞きに来るよ」
 「生徒たちは何を感じているのかしら?」
 「正確にはわからない。まだ小さい子供たちもいるしね」
 「でも、スペースチューブ体験が面白くてやめないということは、社会にそれを満たすものが欠けているということね」
 「身体に飢えている、ということ。子供たちのアンテナは敏感だから」
 「それにしては子供たちは公園で遊ばないけど?」
 「公園の遊具にはもう飽きてしまった」
 「結局、現代社会で身体の新しい経験が要請される理由は何かしら?」
 「仮想化の促進。そして、人工身体の時代と宇宙時代に対応するため。この理由しかないね。身体感覚が豊かでないと、現実と仮想の区別ができない。必要な正しい判断ができなくて大変なことになる」
 「人間は自然に戻る必要があるということ?」
 「それはできない。仮想をダメと言って現実に戻るのではなく、その区別をよく知って、仮想と現実をミックスして新しい現実を作りだす方向に進むこと。区別できないままやると、ごちゃごちゃになるだけ」
 「その区別が大事ということね。わかったわ。スペースチューブで感覚の革命が起こせるかも知れなくて、それが今日の生活に役立つだけでなく、明日の生活の準備にも役立つということね? いろんなプログラムをつくれそうね」
 「うん。僕もそんな気がする」

 サチはしばらく黙って考えていたが、また喋りはじめた。サチの質問は正確だ。
 「もう一つだけ聞きたいことがあるの」
 「何?」
 「例の脳科学者のイリエ博士に会ったかしら?」
 「フジイ博士の親友のイリエ博士のこと? うん、行ってきたよ。抜群に面白かった! イリエ博士は、心の発生について実にユニークな仮説を立てている」
 「どんな?」
 「人の祖先が道具を使用してモノを動かし始めた時、道具が身体の一部になると同時に、身体も道具の一部として客体化され、この客体化された身体を動かすために脳に心が発生したのでは、という仮設」
 「どう思った?」
 「すごいよね。僕の考えが裏付けられる気がする」
 「あなたも、客体化とか身体の拡張とか、冷静な心とか、よく言っているわね」
 それは、僕がダンスの中でずっとそのことを感じてきたからだ。ダンスでは自分の身体を客体化できるほど自由な動きをつくれる。まるで臨死体験みたいだ。身体を抜け出して身体を自由に操る感覚。その身体は、自分のものなのに、異物。でも不気味ではない。その身体を、時間とともに冷静になっていく心が見つめている。だから、自由に扱える。そして、その時に身体に満たされるエネルギーが面白い。使えば使うほど増えるから。エネルギーが身体と空間の間で大きく循環をはじめる。僕の内部が外部になり、外部が僕の内部になり、内部と外部の入れ子構造ができてくる。僕は自分でも信じられないほど変身する。僕が空間の中に住みはじめる。
 「それは観客として見ていてよくわかるわ。優れたダンサーは空間と共に踊るわね」
 「空間と共に、という感覚がとても楽しいんだよ」
 「だから、あなたはその楽しさをふつうの人にも味わって欲しくてスペースチューブに注目したわけね」
 「そうなんだ。スペースチューブはふつうの人を即席のダンサーにする装置だよ」
 「ここがスペースチューブの一番重要なポイントね」
 「スペースチューブの中では、誰もが、身体を預けることでスペースチューブと一体化できる。スペースチューブの大きさも、ロープでつながれたスペースチューブの強度も知覚できる。まさにスペースチューブは第2の身体。ロープは新しい手足。誰もが自分がスペースチューブになった感覚で動ける。スペースチューブとして新しく目覚め、スペースチューブとして新しく立ち上がる感覚」
 「その時に新しい心が目覚めているということね」
 「その通り。僕たちがスペースチューブの中で姿勢構築を繰り返し、いろんな動物たちの姿勢を回想し、スペースチューブと一体化していく時、僕たちの新しい心が育つ。具体的には、脳の側頭葉が肥大化をはじめる」
 「これからの脳進化のバロメーターは側頭葉なのね?」
 「うん。イリエ博士のサルを使った実験でも、道具をうまく使いこなしている時のサルの側頭葉の変化を計測すると、その部分の脳波が活性化されている」
 「あなたも感じるの? その点が重要だけど」
 「もちろん。すごく感じるんだ。だから僕はイリエ博士の仮説が面白い。スペースチューブの中で一体化を体験している時に一番敏感に反応している脳の部分は、側頭葉。ほんとに或る音がするし、手で触ると膨らんでいることがわかるんだ」
 「大脳皮質はどうなの?」
 「特に変化はない。大脳皮質の進化はもう極限まで来ている。人間が人間を超えるために必要な力は側頭葉で発達する。そう考えていい気がする」
 「あなたの耳の上が膨らんでいるのは何だろうと、いつも不思議だった。アスカとノアもそうだし、何人かの生徒たちも同じね。膨らみ始めた女の子の胸みたい。とにかく、ここに私たちが求める新しい感覚の秘密がありそうね。スペースチューブで新しい心が発生する現場を体感できるのね!」


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