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◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。

     KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK

 

   (Kjhh)31441

 カナヤマ 豊臣 秀吉

 ガイドブック

 豊臣 秀吉 年表

 No.10

 

 

■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、

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■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。

□ 豊臣秀吉 詳細年表

 

 

□  豊臣秀吉 ガイドブックの内容

 

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■ カナヤマ 主要 公式ホームページ 略語

  一覧表。         

 KOH  CSE   UCF   KHAS (KASH)  CCF  

 KBIH   KPH    HCF  KANH  QGN  KWDB  

 TTFW  TTWH  AWM  KGJ   KJHH  KH H 

 KCB  KCTS  I MB  KHIB  RH  KIOS  KE  

 LKOH  GIMEH  ETCSS  GIMJH JTCSS EP      

 

□ 主要サイト の略語・説明表 。          

 

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■ 更新日 2012年 3月 29日。

 

■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ 

  (1999年〜)。

 

■ RENEWED ON MARCH 29, 2012.  

 

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#jpcontentsofthisbook

 

◆ 豊臣 秀吉 ガイドブックの内容 :

 

■ 初学者・初心者用 オンライン 豊臣 秀吉 ガイドブック 

  (要覧)。

■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし) 関連 初学者・初心者

 向 イン ターネット用 オンライン書籍 (ブック)。

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■ 豊臣 秀吉 ガイドブック。

■ 豊臣 秀吉 の 入門 ガイドブック。

■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 豊臣 秀吉

 のこと(概略) が、一通り、わかります。

■ 豊臣 秀吉 は、 戦国時代(1467〜1573年)、 安土

 桃山時代(1573〜1603年) の農民であり、 織田信長

 の家臣となり、 武将、戦国大名となり、 後に、 豊臣政権を

 樹立し、 日本全国を統一した。

■ TKKI カナヤマ 著 豊臣 秀吉 ガイドブック (要覧)。

 

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 (Kjhh) 豊臣 秀吉

  ガイドブック。

      ( 豊臣 秀吉 要覧 ) 

 

豊臣 秀吉 年表

 

#toyotomihideyoshidetailedchronology

 

豊臣 秀吉  詳細年表  

    (とよとみ ひでよし  しょうさいねんぴょう)。

 

豊臣 秀吉  詳細年表。

 

□ 豊臣秀吉年表 1532年〜 1560年

□ 豊臣秀吉年表 1561年〜 1572年

□ 豊臣秀吉年表 1573年〜 1581年

□ 豊臣秀吉年表 1582年〜 1585年

□ 豊臣秀吉年表 1586年〜 1598年

□ 豊臣 秀吉 画像 NO.1

 

■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし) の詳細な内容に関し

 ては、『 豊臣 秀吉 がイドブック (要覧) 』  を参照し

 て下さい。

■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』

 を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本

 歴史詳細年表 』を参照して下さい。

● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31437。

■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本

 史辞典の年表の、『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、 

 安土桃山時代 年表、 江戸時代初期 年表、 武田信玄  

 年表、  武田 勝頼(かつより)年表、 上杉謙信 年表、 

 上杉景勝(かげかつ)年表 直江兼続 年表、 直江

 兼続 年表、 織田 信長 年表、 徳川家康 年表 お江

 (おごう) 年表、 大奥 年表 』 も参照して下さい。

■ 当年表 は、 豊臣 秀吉 (1536年〜1598年) が

 生きた時代の詳細年表 である。

■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年 1536年〜

 1598年) の時代の日本へタイムスリップして、 豊臣

 秀吉 の足跡、活動を見てみよう。

■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 豊臣 秀吉 の

 実像 (歴史的に有名な人物には、虚像と実像がある

 が) を見てみよう。

■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。

● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、

 当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月

 2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も

 数え年を用いている。

 

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 豊臣秀吉 詳細年表。

● では、 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし)に関係する出

 来事を、年代順に、見てみよう。

 

#toyotomihideyoshidetailedchronology-1532

 

■ 1532年   ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。  

 (天文 元年)   1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょ

           うろく 、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (て

           んぶん、てんもん、 天文元年・1532年・7

           月29日〜 天文24年・1555年・10月23

           日) に改元される。 

 

■ 1534年   ● 秀吉の主君となる、 織田 信長 (おだ の

  (天文 3年)  ぶなが、幼名・吉法師) が、 織田信秀(お

            だ のぶひで)の子として、 誕生する。

 

■ 1536年   ● 豊臣秀吉  (とよとみ ひでよし、幼名:日吉

 (天文 5年)   丸?) 、 農民の弥右衛門の子として、 

            誕生する

           ● 最近では、秀吉の実際の誕生日は、153

            7年 (天文6年)説も有力である (『天正記』

            や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)。

           ● 秀吉の父、弥右衛門 は、 尾張国(現在

            の愛知県西部)の中村(現在の名古屋市中

            村区)の農民で、 秀吉の母は、なか(大政

            所)で、 同じく農民であった。 

 

■ 1539年   ● 信長 (吉法師) は、 幼少で(6歳で)、 

  (天文 8年)       那古野城主 となる。 

             ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1546年   ● 信長は、 古渡(ふるわたり)城にて、元

 (天文15年)   服(成人)し、 織田信長 (織田上総介、お

            だかずさのすけ) と称す。

 

■ 1548年   ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉

 (天文17年)   藤道三との和睦が成立し、 信長は、 美

            濃(岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の娘、

            帰蝶と政略結婚する。 

 

■ 1549年   ● 信長 は、 美濃(岐阜県)の戦国大名、

 (天文18年)   斉藤道三と会見する。 異説では、1553

                    年(天文22年)に、道三と会見する。

 

■ 1551年   ● 信長の父・信秀が急死し、 信長 が、織

 (天文20年)   田信秀の家督を継ぐ。

            ● 家督相続時に、信長は、 同母弟の織田

            信勝(信行)と家督争いが起き、これに勝つ。 

              その際、 尾張の下四郡の守護代の、織

            田信友 が、 信勝(信行)の家督相続を支

            持し、 信長に敵対したため、織田信友を攻 

            めて、殺害し(萱津合戦)、信長は、清洲城

            へ入り、 清洲織田家の頭領となり、 尾張

            の下四郡を支配する。

 

■ 1554年   ● 豊臣秀吉 (木下藤吉郎) 、 織田信長 

 (天文23年)   に仕える (家臣として仕え始める)。 以後、 

            秀吉 、織田信長 の家臣として、信長の

            命に従い、 色々な役職についたり、 各地

            で戦ったりした

 

■ 1555年   ● 弘治(こうじ)改元。    

 (弘治 元年)     1555年10月23日に、和暦の「天文」

            (てんぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こう

            じ、 弘治元年・1555年・10月23日〜弘

            治4年・ 1558年・2月28日) に改元され

            る。 

 

■ 1556年   ● 斉藤道三 が、 子の斉藤義龍との戦い

 (弘治 2年)   に敗れて死去する。 信長 は、道三に援

            軍を出したが、間に合わなかった。

              道三の死去を好機と見た信勝(信行)派

            は、同年8月に、挙兵し、敗北し、信長に赦

            免される (稲生(いのう)の戦い)。

                    ● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。

 

■ 1557年   ● 信長 は、 再び信長に対し謀反(むほん)

 (弘治 3年)   を企てた実弟の信勝(信行)を、 清洲城に

            て、殺害した。

 

■ 1558年   ● 永禄(えいろく)改元。    

 (永禄 元年)     1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こ

            うじ) が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元年・

            1558年・2月28日〜 永禄13年・1570

            年・4月23日) に改元される。 

 

■ 1558年     ● 信長 は、 尾張国の上四郡を支配する守

 (永禄 元年)   護代で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢

            (おだ のぶかた)の軍を破る (浮野(うきの)

            の戦い)。

 

■ 1559年    ● 秀吉の主君の信長 は、 尾張一国を統

 (永禄 2年)   一する。  信長 は、 岩倉城を落城させ、尾

            張・上四郡の守護代の織田信賢(おだ のぶ

            かた)を追放し、また、 新たに尾張守護とな

            った斯波 義銀 (しばよしかね)が 敵対した

            ので追放した。 ここに、 信長は、尾張の国

            内の支配権を確立した。

 

■ 1560年    ● 豊臣秀吉の主君の信長 は、 今川義元を、 

 (永禄 3年)   狭間の戦いで破る。 今川義元は、尾張の

            桶狭間で、敗死する。          

            ● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の兵を

            撤退し、三河へ戻り、 今川家から独立する。

 

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#toyotomihideyoshidetailedchronology-1561

 

■ 1561年    ● 美濃の斎藤義龍(よしたつ)が、 急死し、

 (永禄 4年)   嫡男の斎藤龍興(たつおき)が、美濃を継ぎ、

            美濃の家臣団内部で、 分裂が始まる。

 

■ 1561年    ● 豊臣秀吉 (木下藤吉郎) 、 浅野長 

 (永禄 4年)   勝の養女・ねね (おね)と 婚儀を結ぶ(結

            婚する)。

 

■ 1562年    ● 1562年1月に、 信長は、徳川家康と

 (永禄 5年)   清洲同盟(織徳同盟)を結ぶ。 

 

■ 1564年    ● 信長 は、 斎藤氏を牽制(けんせい)す

 (永禄 7年)   るため、北近江(きたおうみ)の戦国大名

            の、浅井長政と同盟を結ぶ。

■ 1565年    ● 信長 は、 伊勢へ侵攻を開始した。

 (永禄 8年)

■ 1566年    ● 徳川家康(松平家康) は、三河国 (み

 (永禄 9年)   かわのくに、現在の愛知県東部) を統一

            した。

 

■ 1567年   ● 信長 は、 北近江(きたおうみ)の戦国

 (永禄10年)   大名の、浅井長政と1564年に結んだ同

            盟をより強固なものにするため、 信長の

            妹のお市を、浅井長政に輿入(こしい)れ

            させた。

 

■ 1567年    ● 1567年10月に、信長は、 美濃(みの、

 (永禄10年)   岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。 

              ここに、 豊臣秀吉の主君の信長 は

            33歳で、 尾張、美濃の2カ国を領する大

            名となる

 

■ 1568年    ● 1568年9月に、豊臣秀吉(木下藤吉郎)  

 (永禄11年)   は、 織田軍団として、 近江(おうみ)の箕

            作城攻略戦で、活躍する(観音寺城の戦い)。

 

■ 1568年    ● 1568年11月に、 信長は、足利義昭(よ

 (永禄11年)   しあき)を奉じて、上洛を果たし、 義昭を将

            軍位に就(つ)ける。  

              その後、信長は、義昭の行動をコントロー

            ルしようとしたので、 義昭との関係が悪化す

            る。 義昭は、反信長勢力を操り、 武田氏、

            朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などからなる信

            長包囲網が結成される。

 

■ 1570年    ● 元亀(げんき)改元。    

 (元亀 元年)     1570年4月23日に、 和暦の「永禄」

            (えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元亀

            元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・15

            73年・7月28日) に改元される。 

 

■ 1570年    ● 1570年4月に、 信長 は、 越前に侵

 (元亀 元年)  攻し、信長の妹婿の北近江の浅井長政

            に背後をつかれ、 京(都)へ逃れた。

 

■ 1570年    ● 1570年6月に、信長 は、近江国の姉

 (元亀 元年)  川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の

            戦い)。

            ● 石山合戦の始まり。

              1570年9月に、 本願寺は、織田

            信長に対抗する。 石山合戦(1570年

            ー1580年)が、始まる。

 

■ 1571年    ● 1571年9月に、 信長 は、  比叡山延

 (元亀 2年)   暦寺を焼討ちする。

■ 1572年    ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の軍

 (元亀 3年)   を起こす。             

            ● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか

            たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍は、 

            武田軍に大敗する。

 

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#toyotomihideyoshidetailedchronology-1573

 

■ 1573年   ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、

 (元亀 4年)   浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信

            長討伐を謀(はか)る。

 

           ● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化

            し、武田軍は、織田領の美濃や徳川領の三

            河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国した

            (信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。 

 

                      ● 1573年7月に、 信長 は、信長 に敵対

            した、足利義昭(よしあ き)を京都より追放し、

            室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。

 

            ● 1573年7月に、 信長 は、元号を元亀

                        から天正へ と改めることを朝廷に奏上し、

            これを実現させた。

 

■ 1573年   ● 天正改元。    

 (天正 元年)     1573年7月28日に、 和暦の「元亀」

            (げんき)が、 「 天正」 (てんしょう、天正

            元年・1573年・7月28日〜 天正20年・

            1592年・12月8日) に改元される。 

 

■ 1573年    ● 1573年8月に、  織田信長 は、朝倉・

 (天正 元年)   浅井両氏 を滅ぼす。

             ● 信長 は、 1573年8月に、越前に行

             軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害させ、

             同年9月に、北近江の小谷(おだに)城を

             落とし、浅井久政・長政父子を自害させ

             る。 落城前、信長の妹のお市と娘3人

             は、落ち延びて信長が引き取った。 信長 

             は、 越前と北近江を領土とした。

               1573年(天正元年)、信長は、北近江

             に攻め寄せ、 小谷城を囲んだ。 お市は、 

             長政と運命を共にする覚悟であったが、長 

             政に諌(いさ)められて、 お市は、浅井三

             姉妹を連れて、 小谷城を脱出し、信長の

             元へ落ちのびた。

               その後、 浅井三姉妹 は、 叔父の織

             田信包(のぶかね)の庇護の下(もと)にお

             かれ、 尾張で暮す。

           ● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅

             井氏滅亡後、その旧領の北近江三郡の

             経営を織田信長より任され、 北近江(きた

             おうみ)の長浜城の城主となる

 

■ 1573年   ● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉) 、 

 (天正 元年)    丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもら

             いうけ、 木下姓を羽柴姓に改め、 羽柴

             秀吉と称する

 

■ 1574年    ● 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越

 (天正 2年)    前で、地侍や本願寺門徒の反乱が起こり、 

             本願寺門徒が、越前を制する。

            ● 1574年9月に、 信長 は、伊勢長島の

             一向一揆を滅ぼす。

 

■ 1575年    ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、

 (天正 3年)   三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率

            いる軍に大勝する (長篠の戦い)。 

            ● 1575年8月に、 信長は、越前に侵攻

            し、本願寺門徒の軍を破り、再び、織田領

            に、越前を柴田勝家に経営させる。

 

■ 1576年    ● 1576年2月に、 信長は、 琵琶湖湖岸

 (天正 4年)   に、安土城の築城を開始する (1579年

            完成)。

 

■ 1576年    ● 信長軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉) は、 柴

 (天正 4年)   田勝家の北陸方面軍より無断で帰還し、信

            長の怒りをかったが、許される。

 

■ 1577年    ● 1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、上

 (天正 5年)   杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取川の

            戦い)、 撤兵する。

             ● 1577年10月に、信長 は、、謙信と呼応

            して信長を裏切り挙兵した、大和の松永久秀

            を滅ぼす。

              1577年10月に、秀吉は、信長軍の織

            田信忠の指揮下で、松永久秀を滅ぼし、功

            績をあげる。

             ● 石田 三成 (石田佐吉) が、 1577年、

            18歳で、 豊臣秀吉(羽柴秀吉) に仕官す

            る。

 

■ 1578年    ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻略

 (天正 6年)   を開始する。 

            ● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船を

                        用いて、毛利水軍を破る。

 

■ 1579年   ● 信長 は、 五層七重の豪華絢爛(ごうか

 (天正 7年)   けんらん)な安土城を完成させる。

 

■ 1579年   ● 信長 は、 徳川家康の嫡男・松平信康

 (天正 7年)   (のぶやす) と、家康の正室夫人で信康

            の生母の築山殿(つきやまどの)に、不審

            を抱く。 徳川家康は、不審を抱かれた2

            人を、自害させる。

 

■ 1580年    ● 石山合戦の終り。

 (天正 8年)     1580年4月に、織田信長 は、石山

            本願寺を屈服させる。 石山合戦(15

            70年ー1580年)が、終わる。

 

■ 1581年   ● 1581年2月に、 信長 は、 京都の内

 (天正 9年)   裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬揃え 

            (馬揃えは、現在の軍事パレードに相当)

            を行う。

           ● 信長軍の豊臣秀吉 は、 鳥取城を兵糧量

            攻めに追い込み、  因幡を攻略した (鳥取

            城攻め)。  また、信長軍の秀吉 は、岩屋

            城を落として淡路を攻略した。

           ● 信長 は、 6万の軍勢で伊賀を攻略し、 織

            田家の領地とする (第2次天正伊賀の乱)。

 

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#toyotomihideyoshidetailedchronology-1582

 

■ 1582年   ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田

 (天正10年)   への攻撃開始し、同年3月11日に、 武田

            勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏

            は滅亡する。                    

 

■ 1582年   ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀

 (天正10年)   に、備中国(びっちゅうのくに)にいる秀吉軍

            への援軍を命じ、 信長は、同年6月に、京都

            へ上洛した。

           ● 1582年6月に、  秀吉の主君の、織田信長 

            は、本能寺の変、自刃(自害)する。

           ● 1582年6月に、明智光秀 が、1582年6

            月に、京都の本能寺にいた織田信長を攻め、

            自害させる (本能寺の変)。 信長、49歳で

            死す。

           ● 1582年年6月に、  信長死去を知った

            吉(羽柴秀吉) 智光秀を討つ (山崎

            の戦い)。

           ● 清洲会議。

              1582年6月27日に、豊臣秀吉 、  

            清洲城にて、 他の織田家の重臣と 信長

            の後継者 と 遺領の分割 を決める

           ● 1582年(天正10年)に、本能寺の変で織

            田信長の死去後、 母・お市が、 織田家重

            臣の柴田勝家と再婚すると、 茶々(淀殿)ら

            3人の娘(浅井三姉妹)は、 母・お市と共に、 

            北の庄城(福井市)へ移る。

           ● 1582年7月に、 秀吉は、 山城(やまし

            ろ)を検地する (太閤検地 (1582〜98

            年) 始まる)。 

           ● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵

            攻し、 敵方の長浜城を降伏させ、 敵方の

            美濃へ侵攻、平定する。

                   ● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。

 

■ 1582年   ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、

 (天正10年)   長野県)、甲斐(かい、山梨県)、上野(こう

                    ずけ、群馬県)へ 上杉景勝の軍、 北条

            氏政の軍、 徳川家康の軍 が侵攻した。 

              その後、戦いの結果、 北信濃(きたし

            なの、長野県北部) は、上杉領になり、ま

            た、徳川家康と北条氏政は和睦し、 信濃

            (北信濃を除く)、甲斐 は、徳川領に、 上

            野 は、北条領 となった。

              ここに、 徳川家康 は、 三河(みかわ、

            愛知県東部)、 遠江(とおとうみ、静岡県

            西部)、 駿河(するが、静岡県中部)、甲

            斐、 信濃 の 日本の中部5カ国を領有す

            る大大名 (1582〜90年) になる。

 

■ 1583年    ● 1583年2月に、豊臣秀吉は、北伊勢へ

 (天正11年)   侵攻し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。

            ● 1583年4月に、秀吉は、 賤ヶ岳(しずが

            たけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤ヶ岳の戦

            い)、 追撃された、勝家は、越前の北庄城

            (きたのしょうじょう) で、自害する。

              1583年4月に、柴田勝家の北の庄城が、

            豊臣秀吉の軍勢に攻められ、 柴田勝家と母

            ・お市が自害し、 落城時、 茶々(淀殿)ら3

            人の娘(浅野三姉妹)は、逃がされ、城を落

            ちのびる。 

              その後、 浅野三姉妹 は、織田長益、京

            極龍子らの庇護の下(もと)におかれた。 

           ● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(かが

             のくにとのとのくに、現在の石川県)へ侵攻

             し2国を平定して、それらを前田利家に与え

             た。 

           ● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の

             跡地に、大阪城の築城を開始する (15

             88年大阪城完成)。

 

■ 1584年   ● 1584年4月に、徳川家康は、秀吉の兵

 (天正12年)   を長久手で破り (小牧・長久手の戦い)、 

            同年12月に秀吉と和睦する。

            ● 1584年8月に、秀吉は、大阪城に移る。

 

■ 1585年   ● 1585年3月に、秀吉は、正ニ位・内大臣

 (天正13年)   に叙位・任官される。

           ● 1585年3月に、秀吉は、紀伊(きい、和歌

            山県)へ侵攻して、平定する (秀吉の紀州

            征伐)。

           ● 1585年7月に、豊臣秀吉は、 関白(か

            んぱく)となる。

           ● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部 元親

            (ちょうそかべ もとちか)を降伏させ、四国を

            平定する (秀吉の四国征伐)。

           ● 1585年8月に、秀吉は、越中国(えっちゅ

            うのくに、現在の富山県)の佐々 成政 (さ

            っさ なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する 

            (秀吉の北陸平定)。

 

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#toyotomihideyoshidetailedchronology-1586

 

■ 1586年   ● 1586年10月に、徳川家康 が、 豊臣

 (天正14年)    秀吉(羽柴秀吉)に臣従する。

           ● 1586年12月に、豊臣秀吉は、 太政大

            臣に就任し、 豊臣の姓を賜(たまわ)り、 

            豊臣政権が 確立する。

 

■ 1587年   ● 1587年5月に、秀吉は、島津 義久(しま

  (天正15年)  づ よしひさ)を降伏させ、九州を平定する

            (秀吉の九州平定)。

           ● 1587年6月に、秀吉は、 バテレン追放

            令をだす。

           ● 1587年9月に、秀吉は、 聚楽第(じゅら

            くだい)を完成させ、大阪城より移る。

              また、天正通宝を鋳造する。

 

■ 1588年  ● 茶々(淀殿) は、 豊臣秀吉の側室夫人

 (天正16年)   となる。 大阪城へ入る。

 

■ 1589年  ● 1589年に、茶々(淀殿) は、 秀吉の男 

 (天正17年)   子、鶴松を生む。          

            ● この懐妊・出産を喜んだ秀吉から、淀城を

            賜(たまわ)り、 以後、茶々は、「淀の方」

            (よどのかた) と呼ばれるようになる。

          ● その後、 淀殿(茶々)は鶴松を、秀吉の正

            室夫人のねねに預け、ねね が鶴松を引き

            取り、育てる。

 

■ 1590年  ● 1590年7月に、豊臣秀吉は、北条氏を降

 (天正18年)   伏させ、関東を平定する(秀吉の関東平定)。

          ● 1590年7月に、秀吉は、奥州も制圧した 

            (秀吉の奥州制圧)。

          ● 1590年7月に、秀吉  は、 天下(日本

            全国)を統一した (秀 吉の日本統一)。

          ● 1590年8月に、徳川家康が、 関東に移

            り、 江戸城に入る。

              秀吉の命(令)で、 家康は、 秀吉へ三

            河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国の家

            康の領国を返上し、 秀吉より北条氏旧領

            の関東を受け取り、 関東へ移る。

 

■ 1591年   ● 1591年に、秀吉の正室のねねの元で育

 (天正19年)  てられていた、 鶴松 (淀殿(茶々)の最初

           の男子) が、 死亡する。

            ● 1591年12月に、秀吉は、関白の職を、

           甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀吉

           は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と呼ば

           れるようになる。

 

■ 1592年    ● 1592年(天正20年)4月に、 豊臣秀吉

 (天正20年)  により、 朝鮮出兵が開始される (文禄の

           役(ぶんろくのえき)、1592〜93年)。

 

■ 1592年   ● 文禄改元。   

 (文禄 元年)     1592年12月8日に、和暦の「天正」

            (てんしょう) が、 「 文禄」 (ぶんろく、 

            文禄元年・1592年・12月8日〜 文禄

            5年・ 1596年・10月27日) に改元さ

            れる。 

 

■ 1593年   ● 1593年に、 淀殿(茶々)は、 秀吉の男

 (文禄 2年)   子、 拾(ひろい、秀頼)を生む。 秀吉の許

            しを得て、 自分の手元で、育てる。 

               今回は、 淀殿(茶々)は、 拾(秀頼)を

            秀吉の正室のねねに預けず。  その後、

            拾 (豊臣秀頼) は、 伏見城で、育つ。

 

■ 1595年   ● 1595年7月に、秀吉は、関白 秀次(かん

 (文禄 4年)   ぱく ひでつぐ)を自害させる。

 

■ 1596年   ● 慶長改元。   

 (慶長 元年)   1596年10月27日に、 和暦の「文禄」 

            (ぶんろく) が、「 慶長」 ( けいちょう、慶

            長元年・1596年・10月27日〜 慶長20

            年・ 1615年・7月13日) に改元される。 

 

■ 1597年   ● 1597年1月に、秀吉により、再度、 朝

 (慶長 2年)   鮮出兵が開始される (慶長の役 1597

            〜98年)。

 

■ 1598年   ● 1598年8月に、豊臣秀吉、 死去する 

 (慶長 3年)   (63歳)。  豊臣家の秀吉の跡継ぎの豊

            臣秀頼 は、まだ、6歳だった。

            ● 1598年8月に、徳川家康、前田利家 が、

            朝鮮撤兵を命じる (同年12月にほぼ撤

            兵が完了する)。

            ● 1598年に、秀吉が死去すると、 秀吉の

            遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼 は、 

            伏見城より、 大阪城の本丸に移る。

            ● 1598年に、豊臣秀頼 が、 豊臣宗家の

            当主となり、 淀殿(茶々)が、 幼い豊臣秀

            頼の後見人となる。 

              淀殿(茶々)は、 淀殿(茶々)の乳母(う

            ば)の、大蔵卿局(大野治長の母)、 饗庭局

            を重用する。

            ● 1598年より、淀殿(茶々)が推(お)す三

            成派の豊臣家臣団 と ねねが推す家康派

            の豊臣家臣団 が、豊臣家内で対立し始める。

 

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『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。