◆ TKKI カナヤマ オフィシャル ホームページ。
TKKI KANAYAMA’S OFFICIAL HOMEPAGE.
◆ カナヤマ日本の歴史ハンドブック。
KANAYAMA’S JAPANESE HISTORY HANDBOOK.
(Kjhh)31441
カナヤマ 豊臣 秀吉
ガイドブック
豊臣 秀吉 年表。
No.10。
■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、
スマートフォン, ネットテレビ用 電子書籍。
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■ 次の項目から選んで、クイックして下さい。
□ 豊臣秀吉 詳細年表。
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■ カナヤマ 主要 公式ホームページ 略語
一覧表。
LKOH GIMEH ETCSS GIMJH JTCSS EP
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■ 更新日 2012年 3月 29日。
■ 当ホームページの制作・著作権 TKKI カナヤマ
(1999年〜)。
■ RENEWED ON MARCH 29, 2012.
■ Copyright(C) TKKI Kanayama 1999−.
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◆ 豊臣 秀吉 ガイドブックの内容 :
■ 初学者・初心者用 オンライン 豊臣 秀吉 ガイドブック
(要覧)。
■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし) 関連 初学者・初心者
向 イン ターネット用 オンライン書籍 (ブック)。
■ パソコン、 ネットブックPC、 タブレット端末(PC)、
スマートフォン, ネットテレビ用 電子書籍。
■ 豊臣 秀吉 ガイドブック。
■ 豊臣 秀吉 の 入門 ガイドブック。
■ この本1冊で (このホームページ1つで)、 豊臣 秀吉
のこと(概略) が、一通り、わかります。
■ 豊臣 秀吉 は、 戦国時代(1467〜1573年)、 安土
桃山時代(1573〜1603年) の農民であり、 織田信長
の家臣となり、 武将、戦国大名となり、 後に、 豊臣政権を
樹立し、 日本全国を統一した。
■ TKKI カナヤマ 著 豊臣 秀吉 ガイドブック (要覧)。
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◆ (Kjhh) 豊臣 秀吉
ガイドブック。
( 豊臣 秀吉 要覧 )
◆ 豊臣 秀吉 年表。
#toyotomihideyoshidetailedchronology
■ 豊臣 秀吉 詳細年表
(とよとみ ひでよし しょうさいねんぴょう)。
◆ 豊臣 秀吉 詳細年表。
■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし) の詳細な内容に関し
ては、『 豊臣 秀吉 がイドブック (要覧) 』 を参照し
て下さい。
■ 戦国時代については、『 中世日本歴史詳細 年表 』
を、安土桃山時代、江戸時代については、『 近世日本
歴史詳細年表 』を参照して下さい。
● TKKI カナヤマ 著 日本史 辞典 31437。
■ より理解を深めるために、 当年表と近い時期の日本
史辞典の年表の、『 戦国時代 (室町時代後期) 年表、
■ 当年表 は、 豊臣 秀吉 (1536年〜1598年) が
生きた時代の詳細年表 である。
■ 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし、生没年 1536年〜
1598年) の時代の日本へタイムスリップして、 豊臣
秀吉 の足跡、活動を見てみよう。
■ 歴史学の立場から、 年代を追って、 豊臣 秀吉 の
実像 (歴史的に有名な人物には、虚像と実像がある
が) を見てみよう。
■ 日付(年月日)は、全て旧暦、人物の年齢は、数え年。
● 一般的な歴史書籍で使用されているのと同じように、
当年表の日付(年月日)は、1872年(明治5年)12月
2日までは、旧暦(太陰太陽暦)を用い 、人物の年齢も
数え年を用いている。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
◆ 豊臣秀吉 詳細年表。
● では、 豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし)に関係する出
来事を、年代順に、見てみよう。
#toyotomihideyoshidetailedchronology-1532
■ 1532年 ● 天文(てんぶん、てんもん)改元。
(天文 元年) 1532年7月29日に、和暦の「享禄」(きょ
うろく 、享禄元年〜5年) が、 「天文」 (て
んぶん、てんもん、 天文元年・1532年・7
月29日〜 天文24年・1555年・10月23
日) に改元される。
■ 1534年 ● 秀吉の主君となる、 織田 信長 (おだ の
(天文 3年) ぶなが、幼名・吉法師) が、 織田信秀(お
だ のぶひで)の子として、 誕生する。
■ 1536年 ● 豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし、幼名:日吉
(天文 5年) 丸?) が、 農民の弥右衛門の子として、
誕生する。
● 最近では、秀吉の実際の誕生日は、153
7年 (天文6年)説も有力である (『天正記』
や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から)。
● 秀吉の父、弥右衛門 は、 尾張国(現在
の愛知県西部)の中村(現在の名古屋市中
村区)の農民で、 秀吉の母は、なか(大政
所)で、 同じく農民であった。
■ 1539年 ● 信長 (吉法師) は、 幼少で(6歳で)、
(天文 8年) 那古野城主 となる。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1546年 ● 信長は、 古渡(ふるわたり)城にて、元
(天文15年) 服(成人)し、 織田信長 (織田上総介、お
だかずさのすけ) と称す。
■ 1548年 ● 信長の父・織田信秀が敵対していた、斉
(天文17年) 藤道三との和睦が成立し、 信長は、 美
濃(岐阜県)の戦国大名、斉藤道三の娘、
帰蝶と政略結婚する。
■ 1549年 ● 信長 は、 美濃(岐阜県)の戦国大名、
(天文18年) 斉藤道三と会見する。 異説では、1553
年(天文22年)に、道三と会見する。
■ 1551年 ● 信長の父・信秀が急死し、 信長 が、織
(天文20年) 田信秀の家督を継ぐ。
● 家督相続時に、信長は、 同母弟の織田
信勝(信行)と家督争いが起き、これに勝つ。
その際、 尾張の下四郡の守護代の、織
田信友 が、 信勝(信行)の家督相続を支
持し、 信長に敵対したため、織田信友を攻
めて、殺害し(萱津合戦)、信長は、清洲城
へ入り、 清洲織田家の頭領となり、 尾張
の下四郡を支配する。
■ 1554年 ● 豊臣秀吉 (木下藤吉郎) が、 織田信長
(天文23年) に仕える (家臣として仕え始める)。 以後、
秀吉 は、織田信長 の家臣として、信長の
命に従い、 色々な役職についたり、 各地
で戦ったりした。
■ 1555年 ● 弘治(こうじ)改元。
(弘治 元年) 1555年10月23日に、和暦の「天文」
(てんぶん、てんもん) が、 「弘治」 (こう
じ、 弘治元年・1555年・10月23日〜弘
治4年・ 1558年・2月28日) に改元され
る。
■ 1556年 ● 斉藤道三 が、 子の斉藤義龍との戦い
(弘治 2年) に敗れて死去する。 信長 は、道三に援
軍を出したが、間に合わなかった。
道三の死去を好機と見た信勝(信行)派
は、同年8月に、挙兵し、敗北し、信長に赦
免される (稲生(いのう)の戦い)。
● TKKI カナヤマ 著 日本史辞典。
■ 1557年 ● 信長 は、 再び信長に対し謀反(むほん)
(弘治 3年) を企てた実弟の信勝(信行)を、 清洲城に
て、殺害した。
■ 1558年 ● 永禄(えいろく)改元。
(永禄 元年) 1558年2月28日に、和暦の「弘治」(こ
うじ) が、 「 永禄」 (えいろく、 永禄元年・
1558年・2月28日〜 永禄13年・1570
年・4月23日) に改元される。
■ 1558年 ● 信長 は、 尾張国の上四郡を支配する守
(永禄 元年) 護代で、岩倉(いわくら)城主の、織田 信賢
(おだ のぶかた)の軍を破る (浮野(うきの)
の戦い)。
■ 1559年 ● 秀吉の主君の、信長 は、 尾張一国を統
(永禄 2年) 一する。 信長 は、 岩倉城を落城させ、尾
張・上四郡の守護代の織田信賢(おだ のぶ
かた)を追放し、また、 新たに尾張守護とな
った斯波 義銀 (しばよしかね)が 敵対した
ので追放した。 ここに、 信長は、尾張の国
内の支配権を確立した。
■ 1560年 ● 豊臣秀吉の主君の、信長 は、 今川義元を、
(永禄 3年) 桶狭間の戦いで、破る。 今川義元は、尾張の
桶狭間で、敗死する。
● 徳川家康 (松平元康) は、 松平軍の兵を
撤退し、三河へ戻り、 今川家から独立する。
#toyotomihideyoshidetailedchronology-1561
■ 1561年 ● 美濃の斎藤義龍(よしたつ)が、 急死し、
(永禄 4年) 嫡男の斎藤龍興(たつおき)が、美濃を継ぎ、
美濃の家臣団内部で、 分裂が始まる。
■ 1561年 ● 豊臣秀吉 (木下藤吉郎) が、 浅野長
(永禄 4年) 勝の養女・ねね (おね)と 婚儀を結ぶ(結
婚する)。
■ 1562年 ● 1562年1月に、 信長は、徳川家康と
(永禄 5年) 清洲同盟(織徳同盟)を結ぶ。
■ 1564年 ● 信長 は、 斎藤氏を牽制(けんせい)す
(永禄 7年) るため、北近江(きたおうみ)の戦国大名
の、浅井長政と同盟を結ぶ。
■ 1565年 ● 信長 は、 伊勢へ侵攻を開始した。
(永禄 8年)
■ 1566年 ● 徳川家康(松平家康) は、三河国 (み
(永禄 9年) かわのくに、現在の愛知県東部) を統一
した。
■ 1567年 ● 信長 は、 北近江(きたおうみ)の戦国
(永禄10年) 大名の、浅井長政と1564年に結んだ同
盟をより強固なものにするため、 信長の
妹のお市を、浅井長政に輿入(こしい)れ
させた。
■ 1567年 ● 1567年10月に、信長は、 美濃(みの、
(永禄10年) 岐阜県)の斉藤氏を滅ぼす。
ここに、 豊臣秀吉の主君の、信長 は、
33歳で、 尾張、美濃の2カ国を領する大
名となる。
■ 1568年 ● 1568年9月に、豊臣秀吉(木下藤吉郎)
(永禄11年) は、 織田軍団として、 近江(おうみ)の箕
作城攻略戦で、活躍する(観音寺城の戦い)。
■ 1568年 ● 1568年11月に、 信長は、足利義昭(よ
(永禄11年) しあき)を奉じて、上洛を果たし、 義昭を将
軍位に就(つ)ける。
その後、信長は、義昭の行動をコントロー
ルしようとしたので、 義昭との関係が悪化す
る。 義昭は、反信長勢力を操り、 武田氏、
朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などからなる信
長包囲網が結成される。
■ 1570年 ● 元亀(げんき)改元。
(元亀 元年) 1570年4月23日に、 和暦の「永禄」
(えいろく) が、 「 元亀」 (げんき、 元亀
元年・1570年・4月23日〜 元亀4年・15
73年・7月28日) に改元される。
■ 1570年 ● 1570年4月に、 信長 は、 越前に侵
(元亀 元年) 攻し、信長の妹婿の北近江の浅井長政
に背後をつかれ、 京(都)へ逃れた。
■ 1570年 ● 1570年6月に、信長 は、近江国の姉
(元亀 元年) 川で、浅井・朝倉連合軍を破る (姉川の
戦い)。
● 石山合戦の始まり。
1570年9月に、 本願寺は、織田
信長に対抗する。 石山合戦(1570年
ー1580年)が、始まる。
■ 1571年 ● 1571年9月に、 信長 は、 比叡山延
(元亀 2年) 暦寺を焼討ちする。
■ 1572年 ● 1572年10月に、武田信玄は、上洛の軍
(元亀 3年) を起こす。
● 1572年12月に、遠江の三方が原(みか
たがはら)の戦いで、徳川・織田連合軍は、
武田軍に大敗する。
#toyotomihideyoshidetailedchronology-1573
■ 1573年 ● 1573年2月に、足利義昭は、武田氏、
(元亀 4年) 浅井氏、朝倉氏、本願寺と協力して、信
長討伐を謀(はか)る。
● 1573年4月に、武田信玄が、病状悪化
し、武田軍は、織田領の美濃や徳川領の三
河や遠江から、軍を返し、甲斐へ帰国した
(信玄は帰国途中、信濃・駒場で病死)。
● 1573年7月に、 信長 は、信長 に敵対
した、足利義昭(よしあ き)を京都より追放し、
室町幕府を滅ぼす (室町幕府滅亡)。
● 1573年7月に、 信長 は、元号を元亀
から天正へ と改めることを朝廷に奏上し、
これを実現させた。
■ 1573年 ● 天正改元。
(天正 元年) 1573年7月28日に、 和暦の「元亀」
(げんき)が、 「 天正」 (てんしょう、天正
元年・1573年・7月28日〜 天正20年・
1592年・12月8日) に改元される。
■ 1573年 ● 1573年8月に、 織田信長 は、朝倉・
(天正 元年) 浅井両氏 を滅ぼす。
● 信長 は、 1573年8月に、越前に行
軍し朝倉軍を破り、朝倉義景を自害させ、
同年9月に、北近江の小谷(おだに)城を
落とし、浅井久政・長政父子を自害させ
る。 落城前、信長の妹のお市と娘3人
は、落ち延びて信長が引き取った。 信長
は、 越前と北近江を領土とした。
1573年(天正元年)、信長は、北近江
に攻め寄せ、 小谷城を囲んだ。 お市は、
長政と運命を共にする覚悟であったが、長
政に諌(いさ)められて、 お市は、浅井三
姉妹を連れて、 小谷城を脱出し、信長の
元へ落ちのびた。
その後、 浅井三姉妹 は、 叔父の織
田信包(のぶかね)の庇護の下(もと)にお
かれ、 尾張で暮す。
● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉)は、 浅
井氏滅亡後、その旧領の北近江三郡の
経営を織田信長より任され、 北近江(きた
おうみ)の長浜城の城主となる。
■ 1573年 ● 信長軍の、豊臣秀吉(木下秀吉) は、
(天正 元年) 丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもら
いうけ、 木下姓を羽柴姓に改め、 羽柴
秀吉と称する。
■ 1574年 ● 朝倉氏を攻略して織田領となっていた越
(天正 2年) 前で、地侍や本願寺門徒の反乱が起こり、
本願寺門徒が、越前を制する。
● 1574年9月に、 信長 は、伊勢長島の
一向一揆を滅ぼす。
■ 1575年 ● 1575年5月に、信長・家康連合軍 は、
(天正 3年) 三河・長篠(ながしの)で、 武田勝頼の率
いる軍に大勝する (長篠の戦い)。
● 1575年8月に、 信長は、越前に侵攻
し、本願寺門徒の軍を破り、再び、織田領
に、越前を柴田勝家に経営させる。
■ 1576年 ● 1576年2月に、 信長は、 琵琶湖湖岸
(天正 4年) に、安土城の築城を開始する (1579年
完成)。
■ 1576年 ● 信長軍の豊臣秀吉(羽柴秀吉) は、 柴
(天正 4年) 田勝家の北陸方面軍より無断で帰還し、信
長の怒りをかったが、許される。
■ 1577年 ● 1577年 9月に、信長軍 は、北陸で、上
(天正 5年) 杉謙信の率いる上杉軍に敗れ (手取川の
戦い)、 撤兵する。
● 1577年10月に、信長 は、、謙信と呼応
して信長を裏切り挙兵した、大和の松永久秀
を滅ぼす。
1577年10月に、秀吉は、信長軍の織
田信忠の指揮下で、松永久秀を滅ぼし、功
績をあげる。
● 石田 三成 (石田佐吉) が、 1577年、
18歳で、 豊臣秀吉(羽柴秀吉) に仕官す
る。
■ 1578年 ● 信長軍 は、 上杉領の能登、加賀の攻略
(天正 6年) を開始する。
● 1578年11月に、織田水軍が、鉄甲船を
用いて、毛利水軍を破る。
■ 1579年 ● 信長 は、 五層七重の豪華絢爛(ごうか
(天正 7年) けんらん)な安土城を完成させる。
■ 1579年 ● 信長 は、 徳川家康の嫡男・松平信康
(天正 7年) (のぶやす) と、家康の正室夫人で信康
の生母の築山殿(つきやまどの)に、不審
を抱く。 徳川家康は、不審を抱かれた2
人を、自害させる。
■ 1580年 ● 石山合戦の終り。
(天正 8年) 1580年4月に、織田信長 は、石山
本願寺を屈服させる。 石山合戦(15
70年ー1580年)が、終わる。
■ 1581年 ● 1581年2月に、 信長 は、 京都の内
(天正 9年) 裏(だいり)東の馬場で、 京都御馬揃え
(馬揃えは、現在の軍事パレードに相当)
を行う。
攻めに追い込み、 因幡を攻略した (鳥取
城攻め)。 また、信長軍の秀吉 は、岩屋
城を落として淡路を攻略した。
● 信長 は、 6万の軍勢で伊賀を攻略し、 織
田家の領地とする (第2次天正伊賀の乱)。
#toyotomihideyoshidetailedchronology-1582
■ 1582年 ● 1582年2月に、織田信長 は、 武田領
(天正10年) への攻撃開始し、同年3月11日に、 武田
勝頼を討ち取り(天目山の戦い)、 武田氏
は滅亡する。
■ 1582年 ● 1582年5月に、織田信長 は、明智光秀
(天正10年) に、備中国(びっちゅうのくに)にいる秀吉軍
への援軍を命じ、 信長は、同年6月に、京都
へ上洛した。
● 1582年6月に、 秀吉の主君の、織田信長
は、本能寺の変で、自刃(自害)する。
● 1582年6月に、明智光秀 が、1582年6
月に、京都の本能寺にいた織田信長を攻め、
自害させる (本能寺の変)。 信長、49歳で
死す。
● 1582年年6月に、 信長死去を知った秀
吉(羽柴秀吉) は、明智光秀を討つ (山崎
の戦い)。
● 清洲会議。
1582年6月27日に、豊臣秀吉 は、
清洲城にて、 他の織田家の重臣と 信長
の後継者 と 遺領の分割 を決める。
● 1582年(天正10年)に、本能寺の変で織
田信長の死去後、 母・お市が、 織田家重
臣の柴田勝家と再婚すると、 茶々(淀殿)ら
3人の娘(浅井三姉妹)は、 母・お市と共に、
北の庄城(福井市)へ移る。
● 1582年7月に、 秀吉は、 山城(やまし
ろ)を検地する (太閤検地 (1582〜98
年) 始まる)。
● 1582年12月に、秀吉は、 北近江へ侵
攻し、 敵方の長浜城を降伏させ、 敵方の
美濃へ侵攻、平定する。
● TKKI カナヤマ著 日本史辞典。
■ 1582年 ● 織田信長死後、 織田領の信濃(しなの、
(天正10年) 長野県)、甲斐(かい、山梨県)、上野(こう
ずけ、群馬県)へ 上杉景勝の軍、 北条
氏政の軍、 徳川家康の軍 が侵攻した。
その後、戦いの結果、 北信濃(きたし
なの、長野県北部) は、上杉領になり、ま
た、徳川家康と北条氏政は和睦し、 信濃
(北信濃を除く)、甲斐 は、徳川領に、 上
野 は、北条領 となった。
ここに、 徳川家康 は、 三河(みかわ、
愛知県東部)、 遠江(とおとうみ、静岡県
西部)、 駿河(するが、静岡県中部)、甲
斐、 信濃 の 日本の中部5カ国を領有す
る大大名 (1582〜90年) になる。
■ 1583年 ● 1583年2月に、豊臣秀吉は、北伊勢へ
(天正11年) 侵攻し、3月に、伊勢亀山城を降伏させる。
● 1583年4月に、秀吉は、 賤ヶ岳(しずが
たけ)で、柴田勝家の兵を破り(賤ヶ岳の戦
い)、 追撃された、勝家は、越前の北庄城
(きたのしょうじょう) で、自害する。
1583年4月に、柴田勝家の北の庄城が、
豊臣秀吉の軍勢に攻められ、 柴田勝家と母
・お市が自害し、 落城時、 茶々(淀殿)ら3
人の娘(浅野三姉妹)は、逃がされ、城を落
ちのびる。
その後、 浅野三姉妹 は、織田長益、京
極龍子らの庇護の下(もと)におかれた。
● 秀吉は、 さらに、 加賀国と能登国(かが
のくにとのとのくに、現在の石川県)へ侵攻
し2国を平定して、それらを前田利家に与え
た。
● 1583年8月に、秀吉は、石山本願寺の
跡地に、大阪城の築城を開始する (15
88年大阪城完成)。
■ 1584年 ● 1584年4月に、徳川家康は、秀吉の兵
(天正12年) を長久手で破り (小牧・長久手の戦い)、
同年12月に秀吉と和睦する。
● 1584年8月に、秀吉は、大阪城に移る。
■ 1585年 ● 1585年3月に、秀吉は、正ニ位・内大臣
(天正13年) に叙位・任官される。
● 1585年3月に、秀吉は、紀伊(きい、和歌
山県)へ侵攻して、平定する (秀吉の紀州
征伐)。
● 1585年7月に、豊臣秀吉は、 関白(か
んぱく)となる。
● 1585年8月に、秀吉は、 長宗我部 元親
(ちょうそかべ もとちか)を降伏させ、四国を
平定する (秀吉の四国征伐)。
● 1585年8月に、秀吉は、越中国(えっちゅ
うのくに、現在の富山県)の佐々 成政 (さ
っさ なりまさ)を降伏させ、北陸を平定する
(秀吉の北陸平定)。
#toyotomihideyoshidetailedchronology-1586
■ 1586年 ● 1586年10月に、徳川家康 が、 豊臣
(天正14年) 秀吉(羽柴秀吉)に臣従する。
● 1586年12月に、豊臣秀吉は、 太政大
臣に就任し、 豊臣の姓を賜(たまわ)り、
豊臣政権が 確立する。
■ 1587年 ● 1587年5月に、秀吉は、島津 義久(しま
(天正15年) づ よしひさ)を降伏させ、九州を平定する
(秀吉の九州平定)。
● 1587年6月に、秀吉は、 バテレン追放
令をだす。
● 1587年9月に、秀吉は、 聚楽第(じゅら
くだい)を完成させ、大阪城より移る。
また、天正通宝を鋳造する。
■ 1588年 ● 茶々(淀殿) は、 豊臣秀吉の側室夫人
(天正16年) となる。 大阪城へ入る。
■ 1589年 ● 1589年に、茶々(淀殿) は、 秀吉の男
(天正17年) 子、鶴松を生む。
● この懐妊・出産を喜んだ秀吉から、淀城を
賜(たまわ)り、 以後、茶々は、「淀の方」
(よどのかた) と呼ばれるようになる。
● その後、 淀殿(茶々)は鶴松を、秀吉の正
室夫人のねねに預け、ねね が鶴松を引き
取り、育てる。
■ 1590年 ● 1590年7月に、豊臣秀吉は、北条氏を降
(天正18年) 伏させ、関東を平定する(秀吉の関東平定)。
● 1590年7月に、秀吉は、奥州も制圧した
(秀吉の奥州制圧)。
● 1590年7月に、秀吉 は、 天下(日本
全国)を統一した (秀 吉の日本統一)。
● 1590年8月に、徳川家康が、 関東に移
り、 江戸城に入る。
秀吉の命(令)で、 家康は、 秀吉へ三
河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国の家
康の領国を返上し、 秀吉より北条氏旧領
の関東を受け取り、 関東へ移る。
■ 1591年 ● 1591年に、秀吉の正室のねねの元で育
(天正19年) てられていた、 鶴松 (淀殿(茶々)の最初
の男子) が、 死亡する。
● 1591年12月に、秀吉は、関白の職を、
甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲る。 秀吉
は、太閤(たいこう、前関白の尊称)と呼ば
れるようになる。
■ 1592年 ● 1592年(天正20年)4月に、 豊臣秀吉
(天正20年) により、 朝鮮出兵が開始される (文禄の
役(ぶんろくのえき)、1592〜93年)。
■ 1592年 ● 文禄改元。
(文禄 元年) 1592年12月8日に、和暦の「天正」
(てんしょう) が、 「 文禄」 (ぶんろく、
文禄元年・1592年・12月8日〜 文禄
5年・ 1596年・10月27日) に改元さ
れる。
■ 1593年 ● 1593年に、 淀殿(茶々)は、 秀吉の男
(文禄 2年) 子、 拾(ひろい、秀頼)を生む。 秀吉の許
しを得て、 自分の手元で、育てる。
今回は、 淀殿(茶々)は、 拾(秀頼)を
秀吉の正室のねねに預けず。 その後、
拾 (豊臣秀頼) は、 伏見城で、育つ。
■ 1595年 ● 1595年7月に、秀吉は、関白 秀次(かん
(文禄 4年) ぱく ひでつぐ)を自害させる。
■ 1596年 ● 慶長改元。
(慶長 元年) 1596年10月27日に、 和暦の「文禄」
(ぶんろく) が、「 慶長」 ( けいちょう、慶
長元年・1596年・10月27日〜 慶長20
年・ 1615年・7月13日) に改元される。
■ 1597年 ● 1597年1月に、秀吉により、再度、 朝
(慶長 2年) 鮮出兵が開始される (慶長の役 1597
〜98年)。
■ 1598年 ● 1598年8月に、豊臣秀吉が、 死去する
(慶長 3年) (63歳)。 豊臣家の秀吉の跡継ぎの豊
臣秀頼 は、まだ、6歳だった。
● 1598年8月に、徳川家康、前田利家 が、
朝鮮撤兵を命じる (同年12月にほぼ撤
兵が完了する)。
● 1598年に、秀吉が死去すると、 秀吉の
遺言により、 淀殿(茶々)と豊臣秀頼 は、
伏見城より、 大阪城の本丸に移る。
● 1598年に、豊臣秀頼 が、 豊臣宗家の
当主となり、 淀殿(茶々)が、 幼い豊臣秀
頼の後見人となる。
淀殿(茶々)は、 淀殿(茶々)の乳母(う
ば)の、大蔵卿局(大野治長の母)、 饗庭局
を重用する。
● 1598年より、淀殿(茶々)が推(お)す三
成派の豊臣家臣団 と ねねが推す家康派
の豊臣家臣団 が、豊臣家内で対立し始める。
□ 日本史辞典の先頭ページへ。
『 あなたのハートには 何が残りましたか? 』。
以 上。