Web-Suopei  生きているうちに 謝罪と賠償を!

南京大虐殺に関する裁判外の支援活動

映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』上映運動

 ジョン・ラーベは、1937年に南京大虐殺が起きた当時、ドイツ・シーメンス社の南京支社長として南京に滞在していたドイツ人ビジネスマンです。彼はナチス党員でしたが、個人的には国際感覚をもった博愛主義者で、南京国際安全区委員会の委員長を引き受け、市民を戦火から守るべく奔走しました。その活躍により実に20万人の中国人たちの命が救われたのです。映画『ジョン・ラーベ 南京のシンドラー』は、ドイツ・フランス・中国の合作により2009年に公開された劇映画です。2009年度の「ドイツ映画賞」では、最優秀劇映画作品賞、最優秀主演男優賞、最優秀美術賞、最優秀衣装賞の4冠を獲得しました。

 この映画は、「南京・史実を守る映画祭実行委員会」が日本国内における独占上映権を獲得しており、国内の興業ルートでは配給されていません(映画館では観れません)。2014年5月の東京での上映会を皮切りに、全国各地で自主的な上映会の企画が進んでいます。

 詳しくは公式ウェブサイトをご覧下さい。

李秀英さんを支援する会

 この裁判は、李秀英さんの名誉を守るとともに、歴史事実の正当な認識を多くの人々に広げる重要な意義があるということで、2000年3月3日、裁判支援をすすめようと集まった人たちで、「李秀英さんを支援する会」が結成されました。

●結成総会での発言 

 松村俊夫著「『南京虐殺』への大疑問」への大疑問・・・  井上 久士さん

 まずこの著書の構成が紹介され、断片的な資料を使って、南京大虐殺を否定しようとしているが、東中野修道氏とやや違うのは、松村氏は南京大虐殺を完全には否定しきれていないということです。「一部はあったかもしれない。捕虜を不法に殺害した例はあった」とも述べています。しかし、南京安全区内の略奪や放火は「支那人」がやったことと述べているのです。そもそも「否定派」に多いのですが、中国のことを「支那」と呼んでいる時代錯誤性があります。「支那」とい うのは、語源的には、秦の始皇帝のころ、インドに伝わり、仏教の伝来とともにサンスクリット語が中国に逆輸入されてできたといわれています。そもそもは差別的でもなんでもなかったのですが、近代日本では中国を蔑視することばとして使われ、戦後は使われなくなったものです。それをことさら使うことの問題もあ ります。南京の略奪や放火は中国人がやった、という説についても、戦争のさなか、中国軍としては、日本軍がやってきた時に何も残さないようにしようという焦土作戦はありました。だから混乱はあったと思います。しかし、その後日本軍が入城してきた後に日本軍の虐殺がなかったことの証拠にはまったくならないと いうことです。

 また「支那人女性をめぐる問題は日本兵が彼女たちを求めるのは肉欲のためであるという先入観と、言葉による意志の疎通を欠いていたことと、そして日本側の説明も不足していたらしいという複合した原因でおきている」「不思議なことに、日本兵には生殖能力がなかったのか、支那大陸には日本兵との混血児の話は全 く聞かれないのである。これは一体どういうことであろうか。」などと書いています。儒教的な中国の社会のなかで、本人が言うはずがない、ということを気が付くこともできないものです。

 また、日中戦争についての無知もあちこちにあります。「これは日本軍が強硬したいわゆる『三光作戦』の一部として、中学・高校の教科書にまで書かれるほどになっているのが減じようである」と書いていますが、日本軍の「三光作戦」は1940年代にはいってからの中国大陸でとられたもので、1937年の南京大虐殺の時にはあてはまらないものです。かなり初歩的な誤りです。

 また、随所に自分流の都合のよい解釈をしようとしています。「白人たちがわれわれ東洋人をみても何国人かを判別する力がなかったことは日本軍にとって致命的だった」と中国人がやったのに、それをみていた南京の白人たちは日本人だと思ったと言っています。しかし、南京在住の欧米の外交官は中国や日本の外交官とのつきあいもあり、その区別は明白である。また「ラーベの日記」で「1938年2月以前は日本軍が自分のいえの近くの死体について埋葬許可をしなかった」と書いているから、2月以前の埋葬記録は信用できないとも言っています。しかし、一方では1937年12月の末から日本軍は紅卍字会を使ってどんどん埋葬していたのも事実としてあります。

 そして、松村氏の独善的なの「日本人の誇り意識」があることです。「敗戦後、民族としての誇りを失った日本人が今になって、その頃の宣伝戦の前にもろくも敗北しようとしているのが『南京大虐殺』という主張であろう」「それが自らの父祖をどれだけ辱かしめていることか気がついていない」とも書いています。

 こういう人物が「李秀英は別人」などと個人への誹謗をしているのです。

 その後、2000年10月28日「南京虐殺事件をみんなのものに・・・東京集会」を開きました。350人の多くの方々が集まりました。この時の報告集が出版されています。

 紫金草合唱団の公演ではじまった集会は、李秀英さんのビデオ・メッセージもおこなわれ、シンポジウムがおこなわれました。本多勝一さん・笠原十九司さん・中学校社会科教師・大学生らがくわわって真剣な議論がおこなわれました。

●2002年4月27日・支援する会・第2回総会

地裁判決にむけての議論がおこなわれる。
この間、裁判傍聴の強化をはかり、たくさんの人たちに裁判の意義について訴える

●2004年2月4日・支援する会・第3回総会

 高裁判決を確定させるための闘う方針を確立
 本多勝一名誉毀損裁判にもとりくむことを決める。

 この間、ニュースレターを25号まで発行してきました。

 最高裁判決確定後、全国各地から「お祝い」の言葉がおくられてきました。

 李秀英さんの名誉は守られた、ハッピーエンドで終われてよかったです。小生も少しでも支援活動ができてよかったと思っています。(青森県・Mさん)

李秀英さんの勝利、心よりおめでとうございます。(群馬県・Kさん)

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