◇南京大虐殺の裁判
被告と請求内容 |
本多勝一さん
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提訴 |
2003年4月28日 東京地裁に提訴される(被告) |
東京地裁判決 |
2005年8月23日 勝訴 |
東京高裁判決 |
2006年5月24日 勝訴 |
最高裁決定
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2006年12月22日 勝訴 |
支援団体 |
南京への道・史実を守る会
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本多勝一さん名誉棄損訴訟とは?
日本軍が上海から南京へ行軍している過程で、野田毅少尉と向井敏明少尉が、どちらが早く100人殺せるかを競う「百人斬り競争」を行いました。当時の『東京日日新聞』(現在の『毎日新聞』。1937年12月13日付)は、「向井少尉106人、野田少尉105人」と報道しました。戦後の南京の法廷で戦犯として裁かれ、両少尉は処刑されました。
本多勝一氏は、1971年に朝日新聞記者として日中国交回復前の中国を取材し、『中国の旅』というタイトルの連載記事(後に朝日新聞社から刊行)の中でこの百人斬り競争の事実を報告しました。
ところが2003年に、野田少尉と向井少尉の遺族が「遺族および死者に対する名誉棄損にあたる」として、毎日新聞と朝日新聞、本多勝一記者などを訴えたのが「本多勝一さん名誉棄損訴訟」です。
裁判での闘い
裁判が進行しマスコミなどで報道されると、家庭に埋もれた未発見の資料が次々と発掘されることになりました。
その中には、野田少尉が戦前郷里の小学校で講演した記録があり、「実際に突撃して白兵戦の中で斬ったのは4〜5人しかいない。占領した敵の塹壕に向かって『ニーライライ』と呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っ端から斬る」など武勲を自慢したことが資料で裏付けられたのです。それは戦闘行為で敵を斬ったのではなく、抵抗しない人を惨殺する戦争犯罪でした。
こうして一審・二審・最高裁とすべての裁判で本多勝一さん側が勝利したのです。
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