五條探検隊

23 土倉庄三郎 NEW
22 策道  

21 楳図かずお

20 藤代昇の五條回顧
19 女子水泳王国
18 河崎なつ
17 青いぶどう3
16 青いぶどう2
15 青いぶどう1
14 二見城
13 和歌山線
12 昔の五條
11 西川と草谷寺
10 古代の真土峠
9 天誅組の門
8 まちや館
7 大澤寺
6 女性俳句会「紅樹」
5 柿博物館
4 五新鉄道
3 伊勢街道
2 吉野川
1 地名の由来



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10 万葉集で詠われた古代の真土峠 その1 その2 その3
真土峠は奈良県五條市と和歌山県橋本市の県境で、万葉集でもよく詠われている地です。
真土山そのものは海抜100mほどの低山ですが、その山中に落合川の深い渓谷があり、紀ノ川(奈良県側は吉野川と呼ぶ)に流れ込んでいます。
そこでこの峠越えの国道24号線と旧道の伊勢街道は、落合川を小橋で渡る紀ノ川から離れた畑田町を通るルートになっています。今の国道はラクダのこぶのように2つの低山を切り通しで越す峠になっています。なお奈良県側の山は天女山とも呼ばれています。
しかし万葉の時代の古道は、より紀ノ川に近い場所にある「飛び越え石」で落合川を渡っていました。
万葉集には真土峠の景観を賞賛した歌もありますが、今の国道や旧道からはとても連想できません。
万葉の時代の古道の真土峠はもっと紀ノ川沿いで、真土山や天女山に登る紀ノ川と吉野川が一望に見渡せる展望のよいルートだったのではないかと考えられます。
平安初期に弘法大師が高野山を開き、京都奈良から高野詣で多くの人がここを通るようになり、より便利な国道沿いの今の旧道が造られたのではないかと思われます。
この地域にはお寺が多く弘法大師の伝説も数多く残っていますが、弘法大師も「飛び越え石」で高野山と都の行き来をしたのでしょう。
明治の後期にここにJR和歌山線が開通しました。線路は吉野川の川べりを通りますが、天女山の南端が絶壁になっているのでそこはトンネルで、落合川の渓谷はトンネルからの土砂で高い土手にしていました。
しかし昭和の中ごろ、トンネルの崩壊の危険があったので、絶壁をコンクリで補強して線路を引きかえています。
「あさもよし 紀伊人羨しも 真土山
 行き来と見らむ 紀伊人羨しも」
これは真土山の景観をたたえた万葉集の歌です。

その1 和歌山県橋本市側   top  その2

隅田駅から和歌山県側の真土山を越えて万葉古道の飛び越し石を目指す。

JR和歌山線隅田駅

駅前に何もない寂しい無人駅。線路の向こう側は河岸段丘の畑で、そのすぐ先に崖があり、その下に紀ノ川が流れている。 駅からの東方向の写真。向うの山は和歌山県側の真土山。線路はこの山裾を通る。

峠の入口

駅前の右手にある真土山への道。左はコンクリ製品を造る大きな工場。 上り坂。溜池は小泉花菖蒲園。

和歌山線落合川橋梁

隅田駅から300m東の落合川の渓谷。右は今のアーチ橋で左は農道になった昔の土手。突き当たりにトンネルの入口が見える。トンネルの山は奈良県側の天女山で右端は吉野川への絶壁で、当時はここでの山越え谷越えは不可能だったと思われる。 隅田駅の下にある水道橋からの上流の写真。川の両側は高い河岸段丘になっている。左岸の河原の先は落合川河口。ここで吉野川、紀ノ川と名前が変わる。その先の左岸は絶壁で川沿いに歩くのは不可能。

上り坂

隅田駅からの上り坂途中からの写真。吉野川は河岸段丘の下なので全く見えない。遠くの景色は対岸の恋野の集落。 上り坂は竹薮の中に入る。

慈願寺

山上は平らな広い平地。坂の上に四辻があり、その直進方向の写真。白壁は小さなお寺の慈願寺。四辻を右に行くと市営の待乳山(まつちやま)住宅。 慈願寺の中庭には布教の旅姿の親鸞聖人の立派な銅像が奉られている。真土峠は高野山や吉野山に通じる道なので、古代から多くの僧侶や行者が通った道である。

飛び越え石入口

慈願寺の先は畑でしばらく進むと飛び越え石への入口の階段がある。最近整備された。 途中にある万葉歌碑。忘れ去られていた飛び越え石が再度世に出たのは、万葉学者の犬飼孝先生の功績による。

棚田の畦道

階段の先は棚田の畦道になる。道しるべに所々に石の歌碑が立つ。遠くの左の集落は北の旧道沿いの畑田の集落。 田畑の先の林は、河口から上流になったため渡れるようになった落合川で、その先は奈良県側の天女山。

飛び越え石

落合川の入口の案内表示。ここから階段を下りる。 2つ石が並んでいるのが飛び越え石。子供でも渡れる。左は奈良県側で上りの小道がある。小さな流れだが雨が降ると水嵩が急に上がる。

奈良県側の終点

奈良県側の坂を少し上った場所に古い歌碑があり、ここが終点。道のようなのは周辺の柿畑への農道。 ここからは茂みで上には進めない。この上が赤井氏館跡で、そこへの道が不明の万葉古道になる。

その2 奈良県五條市側 top その3

大和二見駅から奈良県側の天女山を越えて万葉古道の飛び越し石を目指す。二見駅から上野町の真土峠の登り口(国道のレストラン大和の下)までは旧道と古道はほぼ同じルートだろう。
しかしそこから旧道とは別れ、天女山の麓を相谷まで南下し、相谷から天女山に上り、山上の降霊寺の北にでて西に進み、赤井氏館跡から山を下り飛び越し石に出る、今より南の吉野川に近いルートを万葉古道と仮定した。

JR和歌山線大和二見駅

無人駅の大和二見駅。周辺に住宅が多いのでそれなりに利用者がいる。背後のアンテナは五條土木事務所。 二見駅西の旧街道(伊勢街道)の踏切。この背後50mに国道24号線との交差点がある。

生蓮寺

家屋が並ぶ旧道を進むと生蓮寺の前にでる。寺の裏は天女山に連なる寄足山(よらせざん)の墓地。 生蓮寺の先は山沿いの細い道になる。

和歌山線ガードと犬飼寺

河岸段丘の坂を下った和歌山線とのガード。ガードの先で国道に吸収される。 ガードの出口の国道の下り坂。お寺は転法輪寺。五条市は弘法大師ゆかりの地なのでお寺が多い。

国道24号線と旧道

100m先の国道と旧道の分岐点。旧道は山裾を大きく左にカーブしながら、国道と上り坂の手前でまた合流する。上り坂は2段になっており、1つめは和歌山線の陸橋で、2つめが天女山の真土峠の上り。 国道の和歌山線陸橋からの旧道への下り坂。昔は踏切だったが国道整備にあわせ旧道も立体交差になった。遠くの民家は旧道沿いの上野町の集落。その先は天女山。線路は左にカーブして天女山の麓を走って、相谷の集落で右カーブして吉野川沿いにでる。

上野(こうずけ)公園

国道の坂の最下点から左折して入る大きな上野公園。ここはもともと吉野川の河川敷で40年前まで広大な松林と竹薮が広がっていた。すぐ左に吉野川が流れており、大水で浸かるため田畑に開拓されなかった土地。 上野公園への道の先の阪合部橋からの吉野川の下流。川は河岸段丘から1段下を流れており、堤防はない。

相谷集落

旧道と国道が通る上野町の南の相谷の集落。先の四辻を左に曲がると和歌山線の踏切。 踏切を渡った少し丘の上からの写真。踏切の向うは相谷の集落で、遠くに見えるのは川向こうの阪合部の集落。

上り坂

くねくねした上り坂。 坂の途中からの景色。

阿弥陀寺跡

さらに上ったお墓の上からの景色。 お墓の横の阿弥陀寺跡の石碑。

降霊寺

山の上は平らな平地で、山上の南端の降霊寺と北端のホテルアイネの間の道に出る。写真の道は降霊寺への道。ホテルアイネは国道からの道のこの山上への入口に建つ。 山上にただ一軒の天女山降霊寺。南向きに建つ。ここは吉野川の崖のはずだが杉林が茂り、残念ながら見晴らしはよくない。万葉の時代は広葉樹の里山で、もっと見通せたかも?

奈良県側の天女山の山上

山上の平地。かなり広く畑になっている。 戦時中、ここを戦闘機の飛行場にする計画があったらしいが、その前に日本が戦争に負けた。

赤井氏館跡

山上の西端にある小さな稲荷社。鳥居も人間の背丈程度。地図上はここは「跳び越し石」の上になるが下に降りる道は見つけられなかった。探検はここまで。 その脇に立つ赤井氏館跡の石碑。赤井氏は戦国時代の武将で関が原の合戦にも参加したらしい。この地で真土峠の関守を勤めていたという。当時の関所はどこなのだろう。

その3 東京隅田川の畔の待乳山聖天 top

浅草寺の支院待乳山聖天(まつちやましょうてん)は、隅田川の西岸にある海抜わずか10メートル足らずの丘であるが、
江戸時代は火の見櫓より高い建物が禁止されていたため、上野の山からもこの待乳山が良く見えたそうだ。
当時の浮世絵にもその光景が描かれている。逆に待乳山から望む眺望は素晴らしく、西に富士山、東に筑波山が見渡せた。当時活躍した歌人「戸田茂睡(とだもすい)」は、
 「あはれとは 夕越へてゆく人もみよ まつちの山に 残すことの葉」
と詠んだ。現在その歌碑が本堂の横に建っている。 
万葉集の紀州の真土山を詠った歌の中に
 「亦打(まつち)山 夕越え行きて 廬前(いほさき)の 隅田(すみだ)河原に ひとりかも寝む」 弁基
がある。茂睡は当然、万葉集の弁基の歌を知っていて、というよりも歌心のある人ならよく知っている万葉歌に掛けた歌とされている。茂睡自身、はるか遠い紀州の真土峠を訪れたことはなかったと思われるが、弁基の歌からまつち山や隅田(すだ)の紀ノ川の河原を想い描きながら、茂睡が詠んだ歌なのである。
(注:真土山、待乳山、亦打山はすべて字が違うが同じこと)

待乳山聖天

浅草の北600mのビル街に囲まれた待乳山聖天。階段を上ると境内があり、本堂を一周できる。本堂の隅田川が望める右手に茂睡の歌碑がある。 待乳山聖天と茂睡の歌の解説をした台東区の掲示板。

隅田川

水上バスで出かけた隅田川の花見の時の写真。手前の橋は水戸街道の言問(こととい)橋、その先はX字のクロスにかかる歩道用の桜橋。この間の左岸に待乳山聖天がある。 中央の3本の木の茂みの背後に瓦屋根が見えるのが待乳山聖天。右の堤防の水門に見えるのは昔の山谷堀で、大尽は隅田川から山谷堀を通って舟で花の吉原に通った。待乳山聖天は吉原への途上にある寺としても有名だった。

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