五條探検隊

23 土倉庄三郎 NEW
22 策道  

21 楳図かずお
20 藤代昇の五條回顧
19 女子水泳王国
18 河崎なつ
17 青いぶどう3
16 青いぶどう2
15 青いぶどう1
14 二見城
13 和歌山線
12 昔の五條
11 西川と草谷寺
10 古代の真土峠
9 天誅組の門
8 まちや館
7 大澤寺
6 女性俳句会「紅樹」
5 柿博物館
4 五新鉄道
3 伊勢街道
2 吉野川
1 地名の由来



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18 五條出身の女傑 河崎なつ少女時代

昔の五條市出身の有名人として河崎なつさんがいます。奈良女子師範を出て、五條小学校の教師を振り出しに教育者になり、女性解放運動家として活躍しました。戦後は参議院議員(全国区)にもなっています。
「母親がかわれば社会がかわる 河崎なつ伝 林 光著」が1974年に出版されていますが、それを手に入れたのでその中から”河崎なつ”の子供の頃の五條時代を以下に紹介します。

婦人選挙権獲得同盟で地方遊説の時の写真。左の2人目から市川房枝、河崎なつ、加藤しづえ。 郷里五條小学校の教師(1905年〜1908年)として遊戯の授業。

五條の町

 河崎なつは、戸籍の上で「明治二〇年四月一日 奈良県宇智郡五條町に生」となっているが、実際は明治二二年(1889)六月二五日に生まれている。明治政府の基礎がようやくかたまり、日清・日露の戦争に勝って、日本が天皇制資本主義国家として世界列強の仲間入りをはじめた時代に、学生生活をおくり、青年時代をおくったわけである。
 五條の町は、いまは地方の小都市だが、維新史の上では天誅組反乱(文久三年(1863)尊皇攘夷派の志士たちが代官所をおそった)の地として歴史にのこる土地であった。五條は幕府直轄の地で、なつの生家のすぐ前に代官所があり、生家の裏が桜井寺の裏門で、天誅組はこの寺にたてこもって、裏門から河崎家の中をつきぬけて代官所をおそった。今でも寺に槍の突きあとがあり、代官の首を洗ったという手洗鉢も残っている。
 五條にはまた未解放部落があって、のちの水平社運動の中心となったところでもあったという。

 なつには、昭和一三年(1938)九月号の「婦人公論」に発表した本人の半自叙伝がある。この自伝で、なつは故郷の五條の町をこのように書いている。
 「憲法発布のあつた明治二十二年の六月に、私は、奈良の五條という小さな古い町に生れました。この五條という町は、大和アルプスを控へた盆地のなかにあって、古野川の清流にのぞみ、北は金剛山、東は吉野山、西は高野山、紀州から伊勢へ抜ける街道の宿駅で、春になると吉野参りや高野参りの人たちが、夏になると大峰参りや葛城参りの道者姿が、季節の渡り鳥のように、私の家の前を通り過ぎて行きました。どこへ出るにも草鞋(わらじ)ばきで、山の峠を越えて行かねばなりません。汽車の便ができたのは、明治もずっと三十年を越してからのことでありました。

 すでに「古事記」や「万葉集」の時代から、多くの伝説や口碑があって、子供の頃の私のロマンテイツクな空想を刺戟していましたが、ことに吉野地方に多い南朝の遺跡は、私の母方の祖先の栄山(さきやま)氏が、南朝にお味方したという関係も手伝って、悲しくもなつかしいものに感じていました。
 勤皇倒幕の第一声を挙げて、明治維新のさきがけとなった十津川の義挙で有名な天誅組と関係のある森田節斉も五條の人で、代官屋敷を襲撃した天洙組の本陣の桜井寺の門前に私の本家があったところから、そのときの模様を詳しく書きとめた祖父の本城久平の見聞録が最近発見されまして、維新史の研究に貴重な資料を加へることができました。

 明治の社会運動史に特筆されている東洋社会党の樽井藤吉も、五條の産。私の親戚にあたる人で、晩年よく私の家へ遊びにきていました。自由民権時代には、自由党の勢力がのびてきまして、板垣退助が馬にまたがって五條の町の演説会にのりこんできたことを、おぼえています。のちに水平社の運動がおこったときにも、五條の町は全国でも有名な運動の中心地になっていました。

 徳川時代は幕府の天領で、土地の気風にほかの城下町のような封建性のすくなかったせいか、天誅組、東洋社会党、自由党、水平社―この歴史の線の示している通り、叛骨とでも中しましょうか、時流と闘うといった精神が、町の伝統のなかに流れているのを見逃すことができません。現在東京に出て、婦人運動の隊伍に加わっている私自身のなかにも、この郷土の血が流れているのかも知れない、と、なにかにつけて思うことがあります。」

萬国時計商

 ここに出ている祖父の本城久平は、「松久」という屋号で代々受けつがれていた漢籍の本屋をいとなんでいたが、文明開化の風は五條の町にも吹きこんで、息子の一人は帽子やシャツをあきなう「西洋みせ」―唐物屋をひらき、もう一人の息子は「萬國時計商」をひらいた。この時計商が、なつの父親で、当時、時計屋は郡内に一軒しかなかったらしい。なつは「萬國時計商」の思い出を、こんなふうに書いている。

 「父は研究心の強い人で、別に人について習ったわけでもないのに、自分で工夫して時計の分解をして、修繕の方もひきうけることができるようになっていました。
 小さい家で、お店と座敷と納戸と台所の四間しかなく、お店には商売柄八分芯の大きなランプをつるしていましたが、台所は四分芯の台ランプを置き、それら晩御飯がすむと早速消して、行燈に代へていました。私はこの暗い行燈のかげで本を読んだもので、小学校の上級になって、はじめて一分芯の豆ランプを買ってもらいました。
 店の表には、字の上手な郡役所の郡書記に書いてもらった「萬國時計商」という木の看板がかかつていました。店の構へは、その頃としては珍らしい総ガラスで、ボンボン時計や八角時計や目覚まし時計が飾ってありました。懐中時計は二十四型の鍵まき、両ぶた、三枚ぶた、十六型無双の総ななこなど、いろいろの種類がありました。
 お客がくると、父はなんでも「上等舶来です」といってすすめ、時計をお客の耳にあてて、「どうです、この元気のいい振りは。これはアンクルですよ」としきりに口上をのべていました。
 ウオルサム会社の美しい時計のポスターを貼りだしたときには、町の人たちが珍しがって、大勢ぞろぞろ見物にきたものでした。時計が売れると、父は一升桝にその金を入れて、次の間のえびす様の神棚に供へることを忘れませんでした。
 お店へ時計を買いにくるのは、郡長か校長か町の且那衆にかぎられていましたが、しかし、「養蚕には時計がなくてはかないません」といって、山奥から百姓の人が八角時計を買いにくることもありました。音は「山間暦目なし」といったものですが、新しい経済関係の発達が時計の必要を山奥にまで植えつけて行ったのです。荷持ち(運び屋)にことづけてくる時計の修繕が多く、店番をしていてガラスをはめる位は私にもすぐできました。父の買ってきた大きな鹿皮を五寸四方に切るのも、子供の私の仕事でした。土倉家とか北家とか、金持の家から古い立派な大名時計を修繕によこしてきたこともありました。
 あるとき、コーヒーを沸かす器械の修繕を頼まれて、父はいろいろ苦心していたようでしたが、大阪の夜店で買ってきたコーヒーを、その器械で沸かして飲んだこともありました。あるときはまた、手風琴やオルゴールなどの不思議な音色に、小さな胸をときめかしたこともありました。」

 なつの父親常三郎は本城久平の三男で、母方の姓をついで河崎を名のった。河崎をついだ時は刀とぎをしていたらしいが、明治一八年(1885)に時計屋をひらいた。母親のさとは、久太郎、徳太郎、繁次郎、なつの四人の子どもを生み、なつを生んでまもなく、結核で死んだ。
 なつはまずしい髪ゆいに里子にだされ、小学校に入る前、継母とみをむかえ、妹ちかの生まれている生家に戻った。

さんまの話

 実の母の顔も知らず、乳房の思い出もなかった子どもの頃を、なつはこんなふうに書いている。

 「私の家の向いが郡役所で、隣りが自由党の倶楽部になっていて、鉄格子からのぞくと集会の有様が手にとるやうに見えました。ふだんは小使のほか誰もこないので、私はよくこの倶楽部へ遊びに行って、大阪の朝日新聞を読んだものでした。「女も新聞の論説位読めるようにならなければいけない」と父にいはれて、子供の私は、ろくにわかりもしないくせに、朝日の論説を夢中になって読んでいました。

 新しくきた母親は農家の出で、まことに鷹揚な人でしたから、娘としてのしつけや行儀をやかましくいいませんでしたのと、今一つは男の兄だちとまじって、まるで男の子のようにして大きくなりました。
 家が狭い上に、人形遊びやままごと遊びの相手がいないので、太陽の光線の満ち溢れた戸外に出て、自由に木登りをして遊びました。春は梅や桃の実を、秋は柿や栗や椎や椋(むく)の実をちぎって食べました。星根にのぼるのも得意で、蜂の子や雀の子を探してはつかまへたものです。おやつがもらえなかったので、自然が子供に恵んでくれるものをとって食べていたのでありました。

 木登りに飽きると、野良に出かけて田にしをとったり、せりや土筆をつみました。附近の山にのぼって赤いぐみの実をちぎったり、わらびやぜんまいをとったりしました。吉野川に行って沢がにをつかまへたり、どじようすくいや鮒すくいに夢中になっていました。小溝をさらへると、しじみ貝が手のひらにのっていました。これらの獲物を家に持って帰ってみんなのおかずにしましたが、今から思へば、遊びであると同時に生活でもあったというわけでありました。

 私は、子供の時分からよく家の手伝いをしておりました。その頃の田舎の家庭経済は、昔の自給自足の面影が残っていて、女手を要する仕事が多く、主婦も手一杯に働いたものでした。私は指図をされて働くのがいやで、いはれない先に自分からすすんで働くようにしていました。

 夏の障子張り、蒲団洗い、秋は大根を何駄と買って漬物につけたものでありました。機(はた)を織って自分の着物をこしらへ、洗催物に糊づけをしてそれを砧(きぬた)でうちました。味噌も甘酒も自分の家でこしらへました。薪を鋸でひいて斧で割るのですが、ちょうど日清戦争後、三国干渉のあとで、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という言葉をよく聞かされ、「この薪の上で寝るのは辛いだらうな」と思ったこともありました。

 水汲みや米つきも私の仕事でしたが、気持が勇んでおりましたから働くことを一度も辛いと思ったりしたことはありませんでした。この労働を通していろいろなことを覚えて行きましたから、私の環境全体が一つの生活学校であった、ということができるかも知れません。

 家庭のなかは極端な粗食で、朝は茶粥に糠漬(ぬかずけ)、昼は麦飯と野菜の煮物、夜はまた茶粥と糠漬、という風に献立が限られていました。おかずはすべて一菜主義で、油揚げや豆腐を使うのは上等の部類でした。月一回位魚が私どもの食膳にのぼりました。それも塩もので、鯖、ぶりなら半切れ、さんまなら半尾、鰯なら一尾。せめてさんまを一尾食べてみたい、というのが私の最大の欲望でありました。

 その頃、私たちは「正月きたらなにうれし、雪みたいな飯たべて、割り木みたいな魚そえて、ちゃらちゃらはいて、ろくろくしようか」といふ宮詣を歌っていましたが、雪のように白い米の御飯は、正月かお祭りのときでなければ、決して口にすることができませんでした。

 そのくせ、父と長兄は、このほかに毎晩のように鯛とか、はもの魚すきをこしらへておいしさうに食べていましたが、女の私や母はその仲間に加わることができません。たまに豆腐を一切れもらったり、鍋のお汁を御飯にかけてもらったりするのが、私にとってなによりの御馳走でした。

 こんなはげしい差別待遇をうけながら、女はさういうものだとして誰一人怪しむものもありませんでした。男と女とでは、いや、男でも、後つぎの長男と冷飯草履の次男以下とでは、第一お茶碗やお皿をのせるお膳のかたちからしてちがっている、というような有様でありました。

 河内から大和へかけては、盆踊りのなかなかさかんなところで、毎年お盆になると、外へ働きに出ていた奉公人も帰ってくるし、お盆の五日間は町の老若男女が総出で踊り狂っていました。町の広場とか神社、仏閣の境内に屋台をこしらへ、傘を持って音頭をとると、その周囲を吉原かぶりにした浴衣がけの人たちが、手拍子足拍子そろえて踊っています。

 子供は十時頃になると引きあげてしまうので、夜っぴて踊りぬく若い男女の世界のことは、もとより知るよしもありませんでしたが、盆踊りがすんで十月頃になると、毎年きまって親戚の薬屋の、おろし薬の売高が増えていました。その頃、私たち子供の歌っていた手まり唄に、「京のあちらの糸屋の娘、姉は二十で妹は十九、十九なる子はやや生みそめて……」というのがあって、大きくなるまではなんの意味かわからずに歌っていましたが、やはり盆踊りには、古い歌垣に見えるような男女の自由な結合が行はれていたものと思はれます。

 私の家の近くに緑座という芝居小早があって、そこへよく芝居がかかりました。私は芝居が三度の飯より好きで、毎晩のように見物に出かけましたが、大人一銭五厘、小人七厘のところを五厘にまけてくれましたし、夜八時すぎに行くと、木戸番のおじさんがただでなかへ入れてくれました。

 狂言は「義経千本桜」とか「仮名手本忠臣蔵」とか「伊勢音頭恋寝刃(こいのねたば)」とか「金比羅御利生記(ごりしょうき)」とか、いつも同じような出しものをくり返していましたが、この泥絵のやうな怪奇な舞台が、いかに美しく子供の私の眼に映ったことでしょう。「千本桜」を見ていて鮨屋の娘の美しいおさとが出てくると、死んだ母の名が同じおさとであったところから、「お母さんはあんな人ではなかったかしら?」とひそかに空想したこともありました。

 一番ショックをうけたのは「重の井子別れ」で、母親を恋いしたう小馬方三吉にすっかり同情してしまって、涙がぼろぼろこぼれだし、道々泣きながら家へ帰ってもとまらず、潜り戸をくぐって、寝床に入って泣き寝入りをしましたが、翌朝、眼がさめてもまだ泣きつづけていたほどでありました。実の母のないわが身につまされて、よほど悲しかったにちがいありません。

 今から振返って考へてみると、この少女時代の芝居見物は、教育家の心配するような弊害よりも、私におぼろげながら人生の現実というものを教へてくれた点で、利益があったように思はれます。例へば、「千本桜」のいがみの極太が、維盛郷の子の首(実は自分の子の首)をさげて梶原景時に渡したときに、景時は褒美として頼朝公拝領の陣羽織を与へようとすると、極太は首を横に振って、「とかく浮世はお金、お金」といって現金を要求するところがありますが、そのいがみの権太がはっきりと自分というものを出す現実的な態度に、なんとなく好感を持っていました。もっと理屈をつけていえば、この景時と極太の対照に現われている武士と町人の考へ方の相違、封建社会から近代社会への移り行きが、子供の頭にもしみこんできたのだ、という解釈を与へることもできるでありましょう。」

小学校へ

 なつが小学校に入ったのはちょうど日清戦争が終り、講和条約の交渉が行なわれていた明治二八年(1895)の四月。それから尋常科四年、高等科四年の小学校に通うが、この頃は、最初の本格的な対外侵略戦争であった日清戦争のあと、日露戦争にむけて軍国主義が急速に育てられていった時代である。

 明治三一年(1898)には民法の親族編、相続編が制定されて、女性を卑しみ蔑視する男性への隷属と、家父長制による強大な戸主権、親権、夫権などで構成された封建的家族制度がつくりあげられ、敗戦までの五〇年間、女が人間として生きることが否定されつづけてきたのである。

 こうした時代の風潮は、田舎の小学校にも勢いよくしみこんできた。なつは、こう記している。
 「国家至上主義、天皇至上主義の教育は、明治二七、八年の戦争(日清戦争)に突入しますと、いよいよ軍国的となり、わたしども小学校時分にうたわされた歌は、もうほんとうに軍歌ばかりでした。「撃てやこらせや清国を、清は御国の仇なるぞ、東洋平和の仇なるぞ」とか、「日清談判破裂して、品川のりだす吾妻艦、西郷死するも彼がため、大久保死するも彼がため、遺恨重なるチヤソチヤン糞坊主」(当時、中国を支那といい、支那人をチヤンチヤン坊主と蔑称した)というのを、意味もわからずうたっておりました。毎日、声をはりあげてうたい、廊下でうたい、学校の行き帰りにうたっていました。

 また行動も軍隊式になって、女の子であるわたしたちは日本にはじめてできた赤十字のまねをして、明治三〇年頃、よく看護婦ごっこをしました。看護婦ごっこをするには戦争のまねをしなければならないので、わたしなど戦闘の隊長になりました。山から竹を切ってきて、すこしずつ金をだしあって白木綿を買ってきて、担架をこしらえました。わたしたちがはじめると全校にひろがって、校長も非常にいい遊びだとほめてくれました。金剛山や葛城山などへ山登りもしましたが、これも、攻めるじゃまな者を乗りこえていくという気持の指導としてなされました。川の水をくぐってむこう側にしゅっと出ていく水泳ぎも同じです。」

 また「自伝」では、小学校時代をこんなふうに書いている。
 「明治二十八年、七つのときから町の小学校に通いはじめましたが、「犬はどうして歩くか」ということを教えるのに、先生が教壇の上を四つんばいになって、ワソワン吠へながら、お尻にあてた鞭を尻尾のように振って、私どもに歩いてみせて下さいました。中央で唱へられていた実験主義の教育が、こんな辺ぴな五條の町にまで波及してきていたのでした。

 この犬の真似をした先生は山本先生といふ近村の旧家の若且那で、いつも和服の上に黒い羽織をかさねていましたが、あるとき私の家へお見えになって、「あの子は先生にしなさい」といって、父におすすめになったことがありました。もしこの世に運命というものがあるとすれば、私はもうこのとき、将来教育家として立つ運命を坦わされていた、といえるかも知れません。

高等科へ

 その頃の制度では、尋常の四年から高等科(四年制)へ移ることになっていましたが、その高等科にはいると、郡全体の生徒が集ってきて、男も女も一緒に机を並べて勉強するので、急に世界が広くなったような気がしました。

 高等科の一年で教へていただいた岡本作次郎先生の深い感化は、今でも忘れることができません。これまでの作文は「筆は竹と毛によって造り……」というような概念的な指導をうけていたのに、この先生は「川へ洗濯に行ったのなら、そのことを書け」といった調子で、現実の体験を重んじる自由作文を課して下さいました。詩や俳句などの文学趣味を植えつけて下さいました。やがて六週間現役で兵隊においでになったので、わずか一学期だけの御縁でしたが、のちに私が女高師を出て作文の授業を受持つようになってから、その当時における岡本先生の教への貴さが、ほんとうの意味でわかったような気がいたしました。

 その頃、よく学校で二十世紀という希望の多い言葉を聞かされました。「二十世紀になったら内地雑居(その頃外国人は居住地に住んでいた)になって、西洋人が全国どこへでもやってくる」と繰返し先生がおっしやっていました。その二十世紀に当る明治三十三年がやってきたので、私はいつ西洋人がやってくるのかと思い、毎日空しく待ちつづけていました。このとき海の彼方のエレン・ケイ(スエーデンの婦人思想家。男女平等、女権の伸長を主張したが、女性の使命は母性の実現にあるというのが中心主張)は、二十世紀に対する新しい期待のなかに、「二十世紀は児童の世紀」という本を書いて、母性と児童の保護を主張していましたが、日本の片田舎の少女は、こんな風にして二十世紀を迎へたわけでありました。

 この明治三十三年にはまた北清事変がおこり、戦争の影響で軍歌が流行るとともに、白衣の看護婦の活動が新しい婦人の仕事として世人の注目をあつめていました。私どもの時代の少女の看護婦に対するあこがれというものは、或ひは今の少女レビューに対するあこがれ以上のものだったかも知れません。巌谷小波(いわやさざなみ)の書いた「小看護婦」といふ本が、私どものヒロイズムを煽(あお)りたてました。東京の女高師からおいでになった束髪姿の美しい中島つね先生が、「火筒(ほづつ)のひびき遠ざかる、跡には虫も声たてず……」と、あの名高い婦人従軍歌を歌いながら、遊戯を教えて下さいました。

 ちようどそのとき、五條の町の附近で行なはれた中学の機動演習に刺戟されたためでしょう。私どももじっとしておられない気持で看護婦ごっこをして遊びました。それも二、三人でこそこそやるのではありません。クラスを二組にわけ、紅軍、白軍が出動して戦争をするのでした。近くの山で竹を切ってきて、急造の担架をこしらへ、赤十字のしるしのついた鉢巻をしめて負傷者を収容するのですが、友達を抱き起しながら、「わきてすごきは敵味方、帽子飛び去り袖ちぎれ、艶れし人の顔色は、野辺の草葉にさも似たり」といふ従軍歌を歌っていると、切ないまでの実感が胸に迫ってくるのでありました。

 またその頃まで、私どもは筒袖に細帯をしめ、前かけをかけて、頭にお煙草盆(当時の少女の髪の形)をのせ、ちようど古い小学読本の挿絵に出てくる女の子のような恰好をしていましたが、明治三十四年、東宮御成婚式(皇太子の結婚式)が行われ、御同列で傍畝(うねび)御陵へ御参拝になるというので、県下の小学校生徒がうちそろってお出迎えいたしましたとき、みんな木綿の袴をはいて出かけました。尤も、袴は式のときだけで、ふだんは着流しでしたが、
それ以来、頭の方はお下げにしてリボンを結ぶことが流行になりました。

友達

 変化は風俗の上に起ったばかりではありません。もうその頃になると、私の内部にも新しい精神的な変化がきざしていました。前記岡本先生の感化や、学校の先輩にあたる犬飼るいさん(後に北宇智の藤岡家に嫁いだうた代夫人)や楠本まさのさん(現堀中将夫人)の影響をうけて、読書欲が頭をもたげてきました。

 ことに犬飼さんのお家はお金持で、立派な国文学の文庫が備へてあって、私は「太平記」や「増鏡」やその他の書物を自由に借りて読むことができました。また郡役所の図書館へも通いましたが、そこではじめて「女学世界」を読みました。作者の名前は忘れましたが、その雑誌にのった「新旧」といふ小説がぼんやり頭に残っています。なんでも「不如帰」のような家庭の悲劇を扱った小説だと思いました。

 それまでは屋根に上って、「鈴木主水」や「滝夜叉姫」のチョンガレ節(徳川時代、百姓一揆や、うちこわしの実録を全国に伝えるために民衆の間から生まれた歌物語の一形式だが、のちにこの形式で講談などの話が語り伝えられるようになった)を歌っていた私が、いつのまにか星空の下で「太平記」の落花の雪や、土井晩翠の「東海遊子吟」を暗誦する十五の少女になつていました。」

 ここにでてくる犬飼るいは、いま藤岡うた代といい(五條市在住)、三つ年上の高等小学校の頃の親友である。「うた代さん」の名は、なつが最後まで目にしていたなつかしい名前だったらしいが、うた代はその頃のエピソードをこう語っている。
 「いつでも思いだすんですけどな。犬飼の家には屋根のひさしのところに大きな柿の木がありましてな。またむこうのほうにもう一つあって、二人であっちの木とこっちの木とへ登りましてね。その柿をとっては投げてたべあいしたんですよ。屋根のひさしが大きいもんで、そこで鬼ごっこをしたり、竹馬にのったり。

 なんせ五條というのは吉野川に沿ってずっと細い、長い町でございます。高等小学校は五條にだけしかなかったので、私は一里の道を通いまして、おなっちゃんの家は五條の中心でした。私の小学校は生徒が全部で四〇人ぐらいでしてな、複式の学校で先生がたった一人でした。まん中に黒板があって、くるっとむけたらこっち側がかくれる。そんなことでございましたから、高等小学校へ行った人はいくらもおりませんでしたなあ。おなっちゃんの家は、ま、裕福じゃないようでしたが、お父さんが教育に理解があったんでござんしょうなあ。

 学校ではあなた、破半鐘(われはんしょう)っていうあだ名でね。あの人の声はあんまり美声じゃありませんでしょう。そのちよっとかすれたような声を大きくはりあげるもんですから、こわれた半鐘みたいやって。その破半鐘を発揮しましてな、理屈をいったり、教科書を読まされたり。有名でございましたよ。」
 藤岡うた代は、なつがのちに婦人選挙権獲得同盟で活躍するようになったとき市川房枝を紹介され、以後、市川房枝とも交流をもつようになった。

HP管理者追記
昭和41年(1966)、第12回日本母親大会で「母親がかわれば社会がかわる」と絶唱、これが最後の大会となる。この年11月16日河崎なつは77歳で死去。関係した学校と日本母親大会連絡会で合同葬。解放運動無名戦士の墓に葬られる。(河崎なつ伝より)
その後、幼馴染みだった藤岡うた代は「青いぶどう」のメンバーに働きかけ、「河崎なつを偲ぶ会」を企画、藤岡家住宅で何度か打ち合わせがもたれた。そして昭和50年の春、河崎なつゆかりの五條の桜井寺で伝記の著者林光氏を始め多くの関係者を集めて「河崎なつを偲ぶ会」が開催されたという。藤岡うた代はその前年に故人となられた。(青いぶどう3号より)