五條探検隊

23 土倉庄三郎 
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22 策道

21
楳図かずお
20 藤代昇の五條回顧
19 女子水泳王国
18 河崎なつ
17 青いぶどう3
16 青いぶどう2
15 青いぶどう1
14 二見城
13 和歌山線
12 昔の五條
11 西川と草谷寺
10 古代の真土峠
9 天誅組の門
8 まちや館
7 大澤寺
6 女性俳句会「紅樹」
5 柿博物館
4 五新鉄道
3 伊勢街道
2 吉野川
1 地名の由来



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 22 西吉野や高野山への物資輸送に活躍した索道
(日本近代の架空索道 斎藤達男著 コロナ社 1985年刊 p137-155)

1 紀伊半島、紀伊山地の交通事情
2 大和索道と安全索道商会の創立
3 高野山と高野索道
4 十津川索道と高野豆腐
斎藤達男 大正8年生まれ
昭和10 東京索道入社
昭和13 日本索道へ
昭和21 大平索道へ
昭和28 日本ケーブル取締役、技師長
昭和29 スキー用リフト開発
昭和31 3線自動循環式旅客索道開発
昭和36 交走式旅客索道開発
昭和55 退職、顧問


五條市新町からの吉野川と西吉野の山々、吉野川はここで大きくS字カーブを描く。1つめのカーブは曲り淵、2つめのカーブの右側が川端の河原。
1912-1960年に、そこから西吉野の阪本まで16kmの荷物運搬用の索道があった。


吉野川に西吉野からの丹生川(にゅうがわ)が合流する地点の川端の写真。この河原に策道の起点があった。また二見駅から分離する川端までの貨物線もあった。当時川端は製材所の町として栄えていたが、昭和34年の伊勢湾台風の水害で大きな被害を受けてから寂れた。

1 紀伊半島、紀伊山地の交通事情 top

 紀伊半島は、鉄道発達の最も遅れた地域であることはよく知られている。
 紀伊半島の主要都市和歌山に、鉄道が開通したのは現在の和歌山線で、明治29年10月25日南和鉄道が高田−二見(五條町)に開通し、続いて明治31年4月11日紀和鉄道が二見−橋本間に開通、明治36年3月和歌山に通じた。
 難波から線路を延ばしてきた南海鉄道が、紀ノ川北岸に達したのは明治31年10月1日で、この時点では和歌山市には紀ノ川の本橋を徒歩で渡っていて、南海鉄道が紀ノ川を渡って紀和鉄道の和歌山駅に乗り入れたのは明治36(1903)年3月21日である。
 しかし、これらの鉄道は、いずれも紀伊半島の北西部の入口に接したのにすぎない。
 大正1年12月4日、紀伊半島の南端の新宮−勝浦間に新宮鉄道14.9kmが開通しだのが明治末の姿である。
 官鉄が紀伊半島に鉄道を敷設し始めたのは大正末に近く、大正12年9月25日、三重県の相可口から川沿いに18.3kmを開通、大正15年8月18日三瀬谷まで7.2km、尾鷲に達したのは昭和9(1934)年12月9日である。
 和歌山からは大正13年2月28日箕島まで25.3kmが開通し、田辺に達しだのは昭和7年11月8日である。
 こうして紀勢本線として多気(相可口)−和歌山間が全通したのは昭和34(1959)年7月15日である。
 今日でもこの半島の内部に入り込む鉄道は、近鉄吉野線、南海高野線、貴志川線のようにごく短区間にとどまって、房総半島における五井−中野−大原または久留里線のような鉄道は皆無である。
 大正期より五條町から西吉野、大塔、十津川の諸村を貫いて新宮町に至る五新鉄道の請願が繰り返し行われ、昭和に入って五條町−城戸(じょうと:西吉野村)11.7kmに着工したが開通に至らなかった。
 紀伊半島の中央部は、東は伊勢と大和を東西に分ける台高山脈、西は高野山、陣ヶ峰、伯母子岳など南北に連なる山脈、この間に南北に大峯山脈が走り、北は大峰山から高野山を連ねる山々、南は果無山脈に囲まれた山国であって一帯を紀伊山地と呼ぶ。
 ひのき、杉など山林は豊かであるが、山は深く交通は不便であって、古くは山中で加工し、製品、半製品として人の背に負ってこれを搬出して帰りに食糧、日用品を求めたといわれる。
 やがて大峯山脈の東側の地域では北山川、西側の地域では十津川を利用して新宮に木材を送るようになった。
 北山川では瀞八丁が有名であり、いかだ流しで知られているが、十津川では1本ずつのいわゆる管流しであったという。
 十津川流域は十津川、大塔(おおとう)、野迫川(のせがわ)、天川の4ヵ村がある。十津川村は新宮、他の3村は橋本、五條、下市の町と関係が深い。
 新宮は海路、3町は吉野川(紀ノ川)によって堺、大阪方面に通じていた。
 この地域ではひのき・杉などの木材は、十津川によって新宮に流送したが、村内で木材を加工して人の肩と牛馬の背によって北の山を越えて吉野川沿いの五條、橋本、下市などの町に出し、食糧、日用生活物資を同様の方法で入手していた。
 林産加工品はひのき生地、ひのき板、曲木、畳のへり板、もろ蓋、杓子、箸に及び、特に酒桶材は西宮方面に送られたという。
 物資の交流は十津川(天ノ川)沿いに集まり、北上して大塔村阪本を経て山越えにかかり天辻の建場に集まり、富貴辻の峠を越えて和歌山県に入って富貴(ふき)、大深(おぶか)、田殿(たどの)、川瀬を通り橋本町の経路であった。
 一部は富貴辻から大月、大日川を経て五條町。大月、城戸を経て下市町のものもあった。
 このほか、東よりの地域や天川村では、天ノ川上流に沿って天川村川合に集まり、笠木峠を越えて同様な手段によって下市町に往来した。
 明治29年南和鉄道が五條町に通じた。
 南和鉄道は五條町の西、吉野川岸に二見駅を設け、これを終点とした。
 このころは、吉野川の水運が盛んであって、これと接続したわけである。明治41年4月11日紀和鉄道が五條−橋本間に開通、両鉄道は五條−二見の中間で接続したため、二見駅は現在の大和二見に移り、旧二見は貨物駅川端(かわばた)となった。
 紀和鉄道が和歌山に全線開通しだのは明治36年3月である。
 吉野川流域の集散地として栄えた五條町は、鉄道の開通によっていっそう活気づいた中で有力者の間に、天ノ川、十津川流域4ヵ村との物資集散が全体の20%内外であるが、これをより多く五條町に向けられないかという考えが起こってきた。阪本から富貴辻の峠を越え富貴に至るルートは峠道であるが、大深−田殿を経て紀ノ川流域に出るルートは長い険路である。
 富貴辻の峠から大月−大日川下は険路ながら短く丹生川沿いに五條に通じていたが、橋本町との結び付きが強かったので、これを五條町に結び付ける方法を模索していた。

2 大和索道と安全索道商会の創立 top

 二見川端の鉄道を延長し、富貴辻の下をくぐって阪本に達することができれば、五條町を集散地とすることができるが、これは夢のような話であった。

 こうした折から、架空索道を架設して五條−阪本を結び物資だけでも交流しようという話が持ちあがった。
 主唱したのは林平造(五條町の名士で町長を動めた人)、栗山藤作(代々襲名するという五條の旧家)、今村勤造ほかの人々である。
 県や大阪方面の有力者、知識人との交流もあり、この辺の事情についてつぎのように記してしる。
 明治40年頃三井物産株式会社は、英国ジェームスモリソン商会よりロー式鉄鞍(あん)クリップを輸入して2-3箇所に架設せられたるも、その後安全索道商会がそのクリップを改良して架設するようになった(「架空索道」二宮勝太郎)。
 明治40(1907)年、英国商社ジェームスモリソン商会の大阪支配人に石田美喜蔵が赴任した。
 当時の英国は、世界一の先進工業国であって様々の工業製品を諸国に送り出していた。
 石田美喜蔵は語学に堪能で海外知識の紹介などの実績も多く、後年優れた経営手腕を示しているが、先見の明があり、機械工学も理解したという。
 多様な取扱い商品の中にロー式単線自動循環式索道があり、これに大きな興味をもって研究し普及させようとした。
 当時日本にはハリジー式、ロー式、ブライヘルト式などが輸入・架設されていたが、いずれも足尾銅山に集中し、ほかに2線を数えるにすぎなかった。
 足尾銅山小滝索道は、唯一のロー式(ロー&ベッドリントン単線索道……足尾銅山ではホドソン式と呼んでいた)で、足尾銅山の索道中最大の輸送力をもっていたが勾配に弱く、不安定であったので玉村勇助が握索機を考案してこれに替えられている(当時玉村ホドソン式と呼んだ)。


図1 大阪市水道局策道

 着脱式の鉄鞍クリップを考案し、ホドソン式単線索道を実用化・工業化したピアース・ロー(Pearce Roe)が、クリップ内面に索条のより目にくい込むひれ状の突起(pip)を設けた新しい鉄鞍クリップを考案し、1904年に特許を得た。
 この構造は、今日もプレコ(BRECO)社が採用しているもので、以前のものより性能上格段に優れたものである。
 ピアース・ローは1910(明治43)年、スペイン領モロッコに150t/hの大輸送量のロー式単線自動循環索道を架設している。
 山国である日本は、交通・物流に大きな障害があり、国力、経済力、輸送収支の面からも鉄道の普及は遅々として進まず、これを期待し得る地域は限られていた。
 古河市兵衛は足尾銅山開発に、何度も鉄道敷設を計画したが及ばず、明治23(1890)年ハリジー式単線索道を架設して山間地輸送の道を開いた。
 石田美喜蔵は施設を供給する側からこれを普及することで輸送手段に苦しむ山間地域を救済し得ると考えた。
 こうして石田美喜裁は、五條町有志に働きかけロー式単線索道の売り込みに成功し、明治40年に五條町の有志が奈良県に対し、五條町二見−大塔村阪本を結ぶ16kmに架空索道を架設し、貨物運送事業を行う許可の申請が提出された。
 発注者も、奈良県もほとんど知識を有しなかったので、石田は英国への発注はもとより、計画、設計に工事、出願から開通に至るまで手掛けたという。
 このほかモリソン商会在任中大阪市水道局の新淀川横断の索道(石炭輸送10 t/h)も架設している(図1)
 奈良県は申請を受けたが前例もなく、ほとんど知識もなかったので許可を与えることができず、明治43年に架空索道取締規則を制定してこれによって許可を与えたという。
 申請後、重なる説明、陳情にもかかわらず、延引を重ねて3年後に許可した事情・過程は不明であるが、和歌山県といっても五條とは近い高野山に架空索道架設の計画が起こり、明治42年10月に許可されている。


図2 大和索道鳥瞰図 上が南方向
阪本−長殿間は計画のみ

 事業規則の制定は、奈良県が最初といわれているのと矛盾するが、和歌山県は高野山一山の物資供給と営林署の木材運送請負によって径営計画にあまり心配ないと考えたか、一般の林業索道のように扱ったか不明である。
 このような事情が作用したと考られる。
 許可を得たので、林平造ほかが発起人となって直ちに大和索道株式会社を創立し、架空索道の架設に着手した
(図2)。
 何分会社の重役も株主も監督官庁さえも、架空索道とはどんだ風に架設するのか、運転するのか、甚だしきはどんな物かさえ知らず、唯外国では公衆の輸送機関として設備され立派に引合っているのだから、日本でもものになるだらう位で漠然として始めた(安全索道の出版物−大正13年)。
 まず第1期工事として二見川端−富貴間8.8kmが決定、英国に機械を発注、明治44年に着工した。
 線路は二見川端−樫辻(かたつじ)、樫辻−富貴の2線路を接続した形で原動機は樫辻に置かれた(図3、4)
 工事は順調に進み明治45年5月26目に開通した。
 これによって天ノ川(十津川)流域の物資交流は、富貴から大和索道によって五條町に結ばれ、著しい時間の短縮、経費・労力の軽減を示した。
 大和索道はモリソン商会によってイギリスのRopeway Limited社に発注され、ロ一式単線索道の製造、線路の詰設計が行われ、架設は同社の技師が来日して指揮した。
 大阪市水道局の淀川横断ロー式単線索道も同じRopeway Limited社の架設したものである。官業の浄水場の設備の一つであったので、日本で最初のロー式単線索道として知られるだけで、架設時の事情などあまり問題はなかった
ようで語り伝えられていない。
 大和索道が日本最初の架空索道による貨物運送事業であっただけでなく、日本の架空索道建設業界の指導的企業安全索道株式会社を発足させたことも、また歴史の1ページである。
 石田美喜蔵は、大和索道の計画から、建設・開業・運転・営業状況そして永年にわたって交通不便によって負っていた村民の労苦・経済的負担の軽減される事情を見て架空索道の将来性を見いだし、架空索道建設を企業とし独立する決心を固めたという。
 大正3年ジェームスモリソン商会を退社し創業準備にかかり、大阪市北浜に大正4(1915)年5月安全索道商会を名乗って独立した。
 機械は輸入に頼らず国産化する方針をたて、この時期に安全クリップを考案し特許を得ている。
 このクリップはロー式鉄鞍クリップの改良で、大正4年6月堺市内に実験設備を設け、著名の工学者を集め公開試験を行っている(図5)
 実際に使用した結果では、脱線防止器がかえって支障し、実効が得られずほとんどが国産のロー式鉄鞍クリップ(図6)を使用している。
 安全索道商会は大正4年10月18日(この日を創業記念日としている)資本金10万円の株式会社として登記した。社長は石田治(美喜蔵の実兄)である。
 石田美喜蔵は専務取締役となり、実質上の代表者でのちに2代目社長となり業界に活躍した。
 日本で最初に架空索道を輸入し、足尾銅山に多数架設したのは高田商会である。
 高田商会は貿易商社ではあるが建設・開発事業も多く、それぞれの業者にあたらせており架空索道架設もその一部である。
 したがって、架空索道架設の専門企業の第1号は明治40(1907)年創業の玉村工務所(玉村勇助)、ついで大正4(1915)年創業の安全索道商会(石田美喜蔵)となる。
 高田商会は足尾銅山開発に活躍し、架空索道の輸入、架設にあたったことから架空索道の架設・運転・保守の経験者を支配下に有することになり、安全索道商会の発展過程にも寄与している。
 この中に原晋一があり、その人脈は品川工務所→日索工業→大平索道(株)に及んでいる。
 石田美喜蔵は、ジェームスモリソン商会から三井物産と交渉があり、独立後は高田商会、江商、三井物産などの受洗面の協力を得ていた。
 技術面では北浜の河野工務所主工学上河野天瑞(のちに安全索道商会技師長)の協力を得た。
 工事関係では高田商会の工事を多く手掛けた堺市の里見工業所が活躍した。索道の工夫、実験などはここの敷地で行われている。
 会社設立後三井物産と総代理店契約が成立し信用を増すとともに次第に資本的にも結びついていった。
 二見川端−富貴間をもって開業した大和索道は、長年の流通経路を五條町に替え、天ノ川(十津川)流域の人々に多大な利便を供するとともに、運輸事業としても好調であって、当初の目的である五條−阪本間を実現すべく富貴−阪本間に着工した。工事一切は創業間もない安全索道商会に大正4年11月2日付けで発注された。この受注は3番目であった。
 線路は富貴−阪本間7.2km 1区間であるが、富貴辻ノ峠を越えるため、ここに天辻屈曲停留場が設けられ、原動機は富貴に置かれた。
 この区間の高低差40m、最大高低差240mである。搬器(図7)は二見川端−阪本間16kmを直通するようになり、阪本で積み込まれた荷物は1.8m/sの速さで途中3停留場を通って2時間40分ほどで二見川端に到着し、かっては日数で数えたものが、時間に変わってしまった。


図3 大和索道の支柱と木材搬器

図4 川端の索道駅と木材搬器

ロ一式単線自動循環索道
線路長8.8km、3停留場、高低差490m、最大高低差658m、150kg積み、1.8m/s、 2分間隔で4.6t/hを輸送


図5 安全策道式握策機の実験

図6 ロー式握策機

図7 安全索道式搬器図

 そしてその輸送経費は1/3〜1/5に減じたといわれる。
 大正6(1917)年6月27日である(図8)
 大和索道の成功によって架空索道による貨物運送事業が相次いで起こった。
 大正6年洞川(どうかわ)索道の開通、大正7年北山索道、大正9年紀和索道、奈良倉庫運輸、紀南索道(和歌山)、大正10年久万索道(愛媛)、千早(ちはや)索道、大正12年益田索道(島根)、三芳索道などがある。
 阪本(大塔村)の位置は、五條町から丹生川(にゅうがわ)「沿いに南下、賀名生(あのう)村大日川から富貴辻の峠を越えて阪本、天ノ川沿いに大塔村を通り十津川(天ノ川下流)沿いに十津川村を通って和歌山県に入り新宮に通ずる十津川街道と、高野山から東進して野迫川村北部中原川沿いに柞原(ほそはら)を通り阪本、天ノ川沿いに天川村に入り、和田・川合を経て洞川(どろがわ)山上ヶ岳に通じる高野街道の十字路にあたる。
 大峰索道が川合から下市町、紀和索道が原から橋本町に開通した。
 この影響も考えられるのであるが、当時天ノ川沿いの街道はかろうじて犬の引く小車、その後牛車が通れるほどになったという状態であったので、大和索道は十津川村長殿まで延長して貨物を確保する計画をたてた。
 安全索道の記録に大正9年4月阪本−長殿間10.5kmを受注とある。しかし理由・経路は不明であるが、この延長計画は実現しなかった。
 明治29年南和鉄道の開通は、十津川筋の人々に紀伊山地を縦断する鉄道を夢見させた。
 しかし当時の鉄道は既成の町々を結ぶのが精一杯であった。
 南和鉄道は紀和鉄道と結び、和歌山に直通運転を行い明治37年関西鉄道に譲渡され、さらに明治39年3月31目鉄道国有法によって官鉄和歌山線となった。
 大正8年鉄道院が鉄道網制定のため交通資源の調査を行ったことから、五條−新宮間の鉄道は実現の可能性を生じ熱心な請願が開始された。
 林業開発と軍事目的が認められて、大正12年1月五新線第一期工事として五條−阪本間24kmの工事費が計上され、帝国議会を通過した。
 しかし折あしく関東大震災が起こり、大正13年着工と決定していた工事は延期となり、打ち続く不景気により延期が繰り返された。
 ようやく昭和14年に五條−神野間6kmに着工したが、大戦によって中止されてしまった。
 昭和21年五條−城戸間11.7kmに着工したが、路盤を構築した時点で中止となり、ついに夢と化してしまった。
 野原町から丹生川(にゅうがわ)沿いに城戸に至る国鉄専用道路がそれである。
 大正11年富貴辻ノ峠の50m下に長さ146mのトンネルが開通、南北の急坂もS字形の自動車道に改修されてトラックが大塔村に通じるようになり、間もなく小形バスの運行が開始された。これによって大和索道は大打撃を受けた。
 戦時には野迫川村金屋淵鉱山の開発が行われ、昭和19年阪本−紫園(しおん)間3.76kmを延長、阪本−二見間を補強し銅鉱石運搬が行われた。
 以後鉱山用索道となったが、昭和32年天辻トンネルの100m下方に延長1,174 mの新トンネルと本格的自動車道路に着工し、現在五條−新宮間に国鉄バス、地方バスが直通している。道路の整備、自動車の発達の前に大和索道は昭和35年ごろに廃止された。
 最終の名称は、千原鉱業五條鉱業所索道である。なお、柴園は今は廃村になっている。


図8 大和索道

二見川端−樫辻−富貴−天辻−阪本−紫園(野迫川村) 19.76 km、13t/h、5区間6停宿場、索道直径24mm、140kg積み、1.8 m/s、間隔39秒

3 高野山と高野索道 top

 高野山は和歌山県東北部、奈良県との県境に位置する紀伊山地の900〜1100mのいくつもの峰をもつ山上にあって、標高約900m、東西5.5km、南北2.2kmに広がる窪地状の山上に金剛峰寺を初め、多数の寺院・宿坊がある仏都霊場で、古くから真言密教の大聖地として知られている。
 高野山一帯は古くから金剛峰寺の寺領であって、ひのき、高野まき、もみ、つが、杉などの良材を産する山林である。
 豊臣秀吉の紀州征服によってこの地方一帯の寺領が失われたとき、高野山の憎応其が秀吉と折衝して高野山は事なきを得たという。
 高野山の山林は長く金剛蜂寺などの財源であって、寺院によって営林事業が行われ、ひのき、杉などが切り出されていた。
 明治維新によって寺領は認められず明治6年国に返還され国有林となった。
 明治19(1886)年和歌山に和歌山大林区署、高野山に小林区署が置かれ、明治38(1905)年伐採が始められた。
 事業は霊場としての高野山の範囲を除いて行われ、高野山−神谷−長坂−椎出(現在の高野下駅付近)に木馬道、椎出−安田島(九度山町)の平坦区間に軌道を敷設して紀ノ川岸に搬出し、ここでいかだに組んで紀ノ川によって和歌山に送られた。
 明治42年本道区間を軌道に替え高野山まで軌道によることになった。
 椎出−高野山のコースは高野街道を外れ、西に迂回し高野山チリコシ−神谷−細川−古沢−椎出−大郷で、椎出−神谷間は現在の南海高野線とほぼ同じコース、極楽橋付近は急勾配を避けて蛇行している。
 このころ九度山町入郷(町の西北部紀ノ川端)に貯木場が設けられたので、軌道は町の南を回って入郷に結ばれた。
 別のコースは高野山南の山林から高野山大門の西を回り−花坂−細川に軌道を敷設し細川で合流した。
 台車は馬によって引き上げられ、木材を積んで人夫が乗って制勤しながら山を下る方法であった。
 貯木場の設置、木材の処理など事業の中心が九度山町に移ったことから、営林署は九度山町に移転した。
 この頃から木材の払下げを受け、これを加工する製材業が盛んになった。
 製品は高野口に送られ、ここから積み出されるようになった。
 九度山町は高野山信仰と深くかかわってきたのであるが、林業を通じても高野山とつながりをもってきたもので、営林事業の拡大・近代化・基地化は商・工業の発展をもたらした。
 高野山林業の発展は輸送手段の改善が求められ、明治40年代に入って架空索道架設が計画された。
 高野山−椎出間は急勾配を緩和するために高野街道を外れ迂回していても曲線、急勾配の連続で、自走軌道方式の運材はずい分危険な作業である。高野山大門から椎出に架空索道を架設すれば、山上線区間はゆるやかな牛馬車軌道とすることができ得る。
 高野山上には数多くの寺院・宿坊・民家があり、定住する僧・修業者・関連する多くの村民・信者・参詣者などの生活があり、食糧を初め生活諸物資が人の肩や、馬の背によって運び上げられていた。
 これも機械力によって短時間に輸送することが可能となる。

 高野山に架空索道が実現する過程は明らかでぱないが、高野山と大阪を結ぶ計画はかなり古く明治31年1月30日、高野山鉄道の最初の区間大小路(現堺東)−狭山間に鉄道が開通し、明治33年9月3日道頓堀(現汐見橋)−長野間が開通、曲折を経て高野山に延伸している。
 紀州の山地ながら信仰によって知られ、営林事業も盛んであるから官界・実業界の交渉もあり、早期に架空索道の情報が入っていたことは考えられる。
 日本における近代的架空索道の始まりは、明治23(1890)年間通した足尾銅山細尾峠のハリジー式単線索道とされている。足尾銅山では増設し6線に及び、明治35年ホドソン式、明治37年ブライヘルト式を輸入架設した。
 足尾銅山以外では、足尾に実績をもつ高田商会が明治33年ブライヘルト社(Leipzig ドイツ)の代理店となって、明治38年海軍省大嶺無煙炭坑(山口県)、住友別子銅山、明治42年日立銅山にブライヘルト式複線索道を架設した。以上いずれも鉱山であるが、玉村勇助が玉村式索道を考案し架空索道架設を始め、明治43年北山林業の柳ノ谷索道(奈良県吉野郡上北山村)を架設・開通させた。


図9 高野索道山歴駅(今の南海高野下駅近くにあった。

 柳ノ谷索道は、玉村式単線索道で東ノ川流域の天然林の搬出を目的とした林業索道であるが、事業のための食糧、日常生活諸物資が送り込まれた。
 奈良県では、五條町と十津川流域諸村を架空索道で結び貨物運送事業を経営しようとする計画が起こり、その許可を奈良県に求めた。
 このほうは明治40年ごろに始まり曲折の末、明治43年奈良県が条令を制定して許可したので、大和索道(株)を設立、索道をRopeway Limited 社(イギリス)に発注、ロー式単線索道によって第一期線二見川端(五條町)−富貴(和歌山県伊都郡富貴村)間を架設明治45年5月26日営業を開始した。
 二見川端−富貴−阪本(奈良県吉野郡大塔村)全線開通は大正6年6月27日である。

 高野索道(株)は発起人尾上勝道によって明治43年3月資本金20万円をもって設立し、工事費に17万5千円があてられた。架空索道はセレッティ・タンハニー社に発注した。
 機械の供給と設計は、セレッティ・タンハニー社によって行われ、工事はドイツ人技師カタネオ(大阪通天閣を建設した技師)の指導によって行われ、明治44(1911)年6月運転を開始した。
 明治44年12月、工学会誌に主任技師フューレス(Fuehles)が架空索道の発達について講演をした記録があって、この中で高野索道の概要を述べている。
 この架空索道が同社の誇る最新・最良のものであること、山麓に向かって木材、高野豆腐、木炭などを、山上に向かって、高野山上の村に必要とする食糧を初め生活諸物資と高野豆腐の原料を運搬することを述べている。
 当時このほかに旅人(高野山参詣者など)の荷物の託送が含まれていて、これらに対してそれ以前は50頭の馬と200人を越える人夫が断え間なく高野山を上下して輸送が行われていたと述べている。
 高野豆腐は高野山に始まった凍豆腐であるが、高野山村のみならず隣村野迫川村(奈良県吉野郡)の重要な産業でもあって、製品の出荷、原料の搬入その他に多大な労力を要していたので高野索道に大きな比重をしめていた。
 このため大正に入って野迫川村−高野山間に十津川索道が架設された。
 高野索道の開通は、明治44年6月であるから日本における架空索道による最初の運送事業となる。
 しかし運輸省の記録によれば、大和索道が明治45年5月26日、高野索道は6月10日営業開始となっていて、一般に大和索道を最初のものとしている。
 高野索道の営業開始が1年ずれているのは手続上の理由か記録の誤りか不明であるが、セレッティ・タンハニー社の貨物索道はこれ以外になく、大和索道について安全索道商会の宣伝が勝っていたことも考えられる
(同じ輸入索道であって大和索道の工期約2年に対し、高野索道は1年余りと短期間である)。
 支柱はすべて鉄製で神谷−弁天山は深い沢を形成しているので692mの最大径間となっている(図10)
 セレッティ・タンハニー社は1890年に創業した現在でもイタリアの指導的企業で、早くから架空索道を製造し、架設している。日本では旅客索道によって知られている。 1894年ミラノ博覧会に8人乗り複線交走式索道を展示運転した。
高野索道
椎出(伊都郡九度山町)−高野山大門(伊都郡高野山村)間、セレッティ・タンハニー式複線自動循環式索道、線路長6,430m、 高低差680m、最大高低差800m 余り、支柱数43基(最高28m)、搬器数100台、支索直径25mm、 えい索直径21mm、動力30HPガスエンジン(36HPガス発生機)のちに30HP電動機に変更した、搬器は200kg 積み、速度1.4m/s、 輸送量片線7.0t/h程度


図10 高野索道と紀和策道
赤線:策道、青線林用軌道、緑線:南海線

 この索道はその後ジュネーブ、ブエノスアイレス、リオデジャネイロ、トリノ、ウィーンなど各地で展示運転された。
 明治36年第5回内国勧業博覧会が大阪市外天王寺に開催され、その跡地の東より大部分が天王寺公園に、西よりの部分が娯楽地新世界ルナパークとなって明治45年7月開業した。
 ルナパークは中央に高さ75mのエッフェル塔を模した通天開を建設、欧風の娯楽舘を配した遊園地で、通天閣の中段と白塔(白亜の塔状の娯楽館)を結んで架設、運転されたのが新世界ルナパークロープウェイであって、ミラノ博以来各国を回ってきた索道であった。

 セレッティ・タンハニー社は最新の貨物索道を世界に向けて売り込んでいたので高野索道を受注して、新世界の計画にロ−プウェイを持ち込んだようで、両索道の開通に1年の差があり、双方の建設責任者が同じカタネオ技師である。
 高野山の林業を支え山上に食糧を初め生活諸物質を送り、参詣者・旅人の荷を運び続けた高野索道は、高野山霊宝堂・金堂・根本天堂の建立にも多くの建設資材を運び上げた。
 このほか霊場であるだけに寺院の宗教的用品から墓石までに及んでいる。
 大正14年7月30日南海鉄道は九度山−高野山(現高野下)を開業、旅行者は高野索道に荷物を託すことで交通は著しく改善された。
 昭和3年6月18日高野山電気鉄道によって高野下−神谷間が開通、昭和4年2月21日極楽橋まで開通、高野街道の行程は1/4に短縮された。


図11 セレッティ・タンハニー式搬器

 昭和5年6月29日極楽橋−高野山間に鋼索鉄道が開通し、山上駅−高野山市街へ起伏の小さい新道が開かれ現在の交通体系ができあがった。
 昭和9年に玉川林道が開かれ、高野山上までトラックが上下するようになると高野索道の輸送需要は激減し、存亡の危機を迫えた。このため高野索道(株)は南海鉄道の傍系会社となってかろうじて命脈を保った。
 しかし戦時色が濃くなるにつれて、自動車の運行が困難になって再び高野索道の出番が回ってきた。
 戦時中は高野山内に2,000 人の軍隊が駐屯していたので、その物資の補給、軍需品の輸送に活躍している。
 昭和27年、28年と高野山一帯は豪雨におそわれ、山津波の被害は甚大で、地上のあらゆる交通手段が断たれてしまったが、高野索道は被害をまぬがれ、唯一の交通、輸送機関として救援物資の輸送、山上の生活確保、復興資材の輸送に活躍した。
 その後は国有林資源の変化、道路の整備開通、トラック輸送の発達が急速に進んで高野索道の存在意義はうすれていった。
 昭和35年高野山有料道路の開通を機に高野山の運送事業を全面的にトラックに切り替え、明治44年以来49年に及ぶ長年月運転された高野索道は廃止された。

4 十津川索道と高野豆腐 top

 高野索道の輸送物資の中に高野豆腐の搬出・原料の搬入がかなりの比重をもっていた。
 いうまでもなく高野豆腐は高野山の特産である凍豆腐で、弘法大師が教えたと伝えられている。
 高野豆腐はもともと高山寒冷な高野山に始まった仏徒の重要なたんぱく補給食品であるが、次第に産業化し、一般に売られるようになった。
 隣接する野迫川村(のせがわ:奈良県吉野郡)は、高野山に隣接する寒冷な地域なので、当時凍豆腐の製造はいちばんの重要産業であった。
 始まりは文久元(1860)年野迫川村柞原(ほそはら)の大岡万平が高野山で製法を伝習してからといわれている。
 高野豆腐製造は次第に拡大し野川(柞原)、池津川、北股などの集落で盛んになった。
 原料の搬入、製品の出荷は馬の背につみ高野口、橋本、五條(奈良県)と往来していた。
 明治44年高野索道の開通は、野迫川村の高野豆腐産業を改善した。
 そして十津川索道架設が計画された。五万分之一地形図(大正11年修正昭和4年鉄道補入)高野山に高野索道とともに高野山報恩院付近から東南方向に延び県境の野迫川村上垣内(かみがいと)に至る十津川索道が記載されている。
 十津川索道は大正2年玉村工務所が受注・架設した初期の玉村式単線索道で大正3年ごろ間通した。
(野迫川村史は大正11年間通した紀和索道と同じ頃としている)。線路長6.6km、1/6t積み、6.0t/h、28HP。
 野迫川村には高野山と大峰山を結ぶ北高野街道、十津川村から北上伯母子峠を越え野迫川村平、北股、高野山村大滝を経て高野山に至る南高野街道があり、いずれも信仰・行者道であり、高野山を経て高野口・橋本に通じ、今井峠を越えて富貴を経て五條町と往来する道も馬を通すに足るほどの難路であった。
 明治33年11月紀和鉄道(現和歌山線)が五條(二見)−和歌山間全通し、交通、輸送も和歌山から大阪へ舟が利用された。
 大正4年高野登山鉄道(現南海)が橋本に通じ流れは橋本−大阪と移り、大正14年南海鉄道が高野山(現高野下)まで間通し、物資の輸送に関しては高野索道、十津川索道と結んで野迫川村に達したことになった。
 昭和5年6月29日高野山電気鉄道鋼索線が開通して、高野山から極楽橋を経て橋本・大阪方面に交通するようになった。
 野迫川村の主産物高野豆腐の原料である大豆は大正末ごろ1石22円ぐらいで、高野口駅から高野索道を経て高野山までの運賃が2円45銭、十津川索道の運賃が2円15銭であったという。
 生産は野川地区が最も盛んで、十津川索道に遠く、両索道の運賃のほかに、そこまでの運送費も加わって不利なことから、大正8年ごろ野川地区から橋本町に紀和索道を架設する計画が起り、大正11年に開通した。
 これによって十津川索道経由の出荷は減少した。
 昭和12年には野迫川村に平田貨物自動車が入って貨物運送が始まったが、戦時色が濃くなって燃料事情その他の悪化で能力が急低下し、再び十津川索道、紀和索道に頼るようになった。
 紀和索道が廃止されたのは昭和25年で、高野山−野迫川村のルートにバスが登場したのは昭和28年8月高野山女人堂−野迫川村上垣内間で十津川索道の使命もこれによって終ったという。

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