五條探検隊

23 土倉庄三郎 
NEW
22 策道  

21
楳図かずお
20 藤代昇の五條回顧
19 女子水泳王国
18 河崎なつ
17 青いぶどう3
16 青いぶどう2
15 青いぶどう1
14 二見城
13 和歌山線
12 昔の五條
11 西川と草谷寺
10 古代の真土峠
9 天誅組の門
8 まちや館
7 大澤寺
6 女性俳句会「紅樹」
5 柿博物館
4 五新鉄道
3 伊勢街道
2 吉野川
1 地名の由来



HOME

藤代昇の五條回顧
(奈良新聞 2001/10/25より)

目次

1 生みの苦しみ
2 政争のまち
3 伊勢湾台風
4 田中勇治郎の登場
5 水泳王国
6 忘れられぬ人たち
7 悲願の南海乗り入れ
8 こんにちは社長さん
9 夫婦茶碗

五條市の中心部、新町通りの古い民家に元本紙記者の藤代昇さん(75)を訪ねた。「大和タイムス」時代の昭和32年から同48年ごろまで、自宅支局を拠点に同市や吉野郡内の取材活動を行った人である。9ヵ町村が合併しての五條市誕生、伊勢湾台風の襲来と復旧、民主政治の芽生え、力強く生きる庶民と激動の時代の表裏両舞台を知る藤代さんのインタビーを通して、南和の中核市・五條の礎に迫ってみた。(木之下伸子、文中敬称略)

1 生みの苦しみ
記者 昭和32年10月15日、五條市の開庁式にあたって記者としてどのような気持ちでしたか。
藤代 その日、旧宇智郡・8ヵ町村が一丸となって五條市が発足した(昭和34年に南宇智村が加わる)。29年3月に合併構想が打ち出されて以来、3年6ヵ月という長い陣痛の末に”帝王切開”ともいえる難産の市誕生であった。
記者 陣痛とはどんな意味ですか。
藤代 合併問題は全国どこでも苦労したものだが、五條では旧野原町で賛否両派が対立し、緊迫した中で刑事事件発生にまで至った。本当にすごかった。あれほどの闘争劇はまず県内になかった。
 賛否両派がしのぎを削りあう中で、あるとき推進派幹部が「牧地区を分離してでも合併を推進する」と発表したのが導火線となった。牧地区民は「潜在意識から出た差別的言辞である」と激高。賛成派幹部らを糾弾する町民大会には、県警250人の警備の中、2,500人の大衆が旧野原小学校に押し寄せた。
 激した青年たちが賛成派の人物宅に不法侵入し脅迫するなど逮捕者も出した。人権を掲げた反対派の行動は約40日間におよび、県内で戦後最大のデモンストレーションだったともいえる。
記者 市の新体制は順調に滑り出したのでしょうか。
藤代 合併を成し遂げた初代市長・山本米三(在任昭和32年10月15日−同34年2月10日)は、足元が固まらないまま野党攻勢の厳しい議会対策にもたつき1年2ヵ月で引退。
行政新体制の構築、庁舎建設、都市計画道路新設・改良や水道事業の設置などの社会基盤整備、教育施設の充実等の課題は、2代目市長北山藤一郎(在任昭和34年2月11日−同37年4月10日)に託された。
 北山は4年の任期を全うできす、五條東中学校の統合問題で足をすくわれて退陣へと追い込まれるが、苦しい事情の中で本当によくやっていた。

2 政争のまち
記者 苦しい事情とは「政争のまち五條」の異名を取った政治抗争のことですか。
藤代 そのころ市議会には、アンチ北山で政権奪取を一貫して誓う政治家田中勇治郎、かって北山に敗北した県議選に禍根を残す飯田博明に加え、この二人の反北山姿勢に相乗りして有利な道を進もうという議会運営に長(た)けた寺本繁則が野党を形成。ことごとく審議で対決し、北山市政の転覆の機をうかがっていた。
 ただ私は「政争のまち五條」という言葉はあえて使いたくない。人間がいる限り、どの市町村でも政治的対立はあるもので特別なことではない。ただ五條の場合それが陽性で正面切って派手にやり合っていたから、はたからはうるさいところやな、と見えたのだろう。
 そもそも明治以前から、南部の拠点・五條には論客が集まり、堂々と主張するという政治的感覚が早くから目覚めていたし、歴史的要素・土壌があったと解釈している。
記者 北山市政にも与党勢力がありましたよね。
藤代 私の目には、当時の議会は「民主主義以前の問題」と映ったものだ。議会は威圧的、暴力的な要素を多分に含んでいて与党議員はちぢみあがっていた。結局、上水道事業案を採決に持ち込めず専決強行で乗り切ったんだよ。
記者 民主主義はどのように発展してきたのでしょうか。
藤代 昭和35年から36年にかけて、市議会に3人の革新議員が現れた。競輪協会加入案をめぐり、市民の声をよそに全会で推進論に傾いていたとろ、社会党の平沼重男と松本勲、共産党の福本正夫が反対に立った。この革新3人組は、保守色の中で闘争を続けていた議会に風穴を開けた。独裁的な田中勇治郎に危機感を募らせた3人はハト派の北山擁護に回り、北山市政を助けた。

3 伊勢湾台風
記者 北山市政が手掛けた都市形成の話の前に、昭和34年9月26日の伊勢局台風のお話を聞いておかないといけません。
藤代 市の中心部を東西に流れる吉野川が、まるで大蛇が狂うごとく氾濫(はんらん)した。水害による全壊家屋5戸、半壊家屋500戸、床上・床下浸水2,200戸、田畑も冠水した。死者は4人、被災者は8,340人にのぼった。北山市長就任7ヵ月目のことで、その3週間前の五條小学校講堂火災とともに、課題山積の北山市政出航に大きな衝撃だった。
記者 台風被害復旧と基盤整備の同時進行となったのですね。
藤代 まず昭和35年には、五條の二大財閥の一方の雄、栗山正一氏を説得して民間ガス会社設立にこぎつけた。五條小講堂の再建と庁舎新築を並行して行いながら、上水道計画を推進した。当時は財政再建団体という状況で、まがりなりにも市を形づくった努力は並大抵ではなかった。最後は政治家の命取りとも言われた学校統合問題で、とうとう足をすくわれだが。
 
4 田中勇治郎の登場
記者 宿敵の田中勇治郎は昭和41年、とうとう市長の座を射止めましたね(在任−52年8月2日)。
藤代 まさに彼こそ逸物だった。五條市の歴史は彼を抜きにしては語れない。野にあっては打倒北山、政権奪取の一心に燃え、市長就任後は持ち前の強引さで手腕を奮って市を引っ張り、パイロット(山地の果樹園開拓)など国の事業にも庶民の声を反映させていった。
「助けてくれ」とたずねれば、着ているオーバーを脱いで「質屋に持っていけ」と言うような男だった。金にはむとんちゃくで私腹を肥やすことはなかった。人は彼には金を貸すな、というんだ。借りた金でも人に貸してしまって、返してくれといっても「おおそうか、今ないんじゃ」と、それで終わりだ(笑)。
しかし一番政治をよく知っていた。威圧的な一面もあったが、表では堂々と政策論を戦わせ、よく勉強もし、どんなことにも目が通った。水道事業問題は「給水人口も整わないままでは赤字を増大させる。年次計画が妥当」と主張、学校統合問題では「教育は財政事情に優先すべきだ」と正論を吐いた。
五條で政治の世界に足を入れようと思った者は、みな彼の門をたたいた。弟子には県議の秋本登志嗣、前市長の今田武、現市長榎信晴がおり、衆院議員田野瀬良太郎も”田中参で”をした一人だった。後年「今の政治家も議員もかったるい」としきりに活(いき)っていたが……。

5 水泳王国
記者 一方、市井に目を向けと、「水泳王国」として名をはせた時代がありましたね。
藤代 五條高校女子水泳部がインターハイで13連覇を達成し、日本中に名をとどろかせた。元旧制五條中水泳部員の浦井保弘教諭らが育てていた。そのうち私が知るだけでも7,8人が国際選手として育った。実際、彼女たちを送り出したのは「吉野川」だといえるだろうね。
戦前は、新町の青年会と商店主団体が、吉野川に川舟を出してロープを張って仮設プールを造り、吉野川流域の和歌山と奈良両県の小学生が競う紀和水泳大会を開いていた。ベルリン五輪金メダリスト前畑秀子選手もこの大会に出場していたよ。子供たちの間では、吉野川で泳ぐ不文律があって上級生が下級生を育てた。川と泳ぎが密着していた。
だが、昭和30年代の砂利採取によって川は壊された。濁流、濁水が泳ぎを阻み、市民と水、子供と水とが離されていった。そして「五條の水泳」も切れた。水泳王国・五條は、自然と人間が共存していた時代の象徴だった。

6 忘れられぬ人たち
記者 印象に残っている人物は。
藤代 田中勇治郎。ほんまに政治が好きな男で五條の痛快児だった。そして北山藤一郎を挙げずにはおれんな。一番貧乏くじを引いて苦労した。それから革新市議の福本正夫・嘉子のおしどり夫婦。共産党市議として登場し、右翼的な田中と勇敢に対決した。議会での田中市長との応酬は、見ていて楽しかったよ。田中も「ほかは怖くないが、福さんだけは……」と言って、だいぶ勉強して臨んでいた。後年はどっちも懐かしがっていたなあ。嘉子は女性の政治意識を啓もう、啓発したという意味でその働きは表彰にも値するのではないかな。
記者 文化面ではどうですか。
藤代 五條市役所の表札を揮毫(きごう)した書家来田掃雲、昭和49年の歌会始めに入選した松浦正雄、素晴らしい短歌で印象に残っている。画家の花野五壌や千木裕三、写真の辻本良尊、版画家山口裕文ら美術界も盛ん。児童文学作家川村たかし、漫画家楳図かずおも活躍中。まさに多士済々というところ。

7 悲願の南海乗り入れ
記者 さまざまな人たちの活躍があって、現在の五條市があるわけですが、「いまだかなわぬ長年の悲願」というようなものがあるのてしょうか。
藤代 それは私鉄の乗り入れでしょう。昔から交通の要衝といわれたのは、裏を返せば交通が不便であるということ、これはいまだに解決されずにいる。
 五條町政時代からの宿願だった。市になってからは北山、田中両市長がそれぞれ近鉄、南海に働きかけたが実現しなかった。市自体の受け入れ態勢ができていないことも指摘しておかねばならないが、近年、橋本市内の南海の宅地開発が五條市側に広がるなど若干の明るさが見えてきたのでは。もし私鉄が乗り入れれば当然、人の足の流れが変わってくる。今後、同社の方針がどうなるか分からないが、市として、働きかけはやっていくべきではないたろうか。

***************************************

8 こんにちは社長さん 金陽製薬 北山藤一郎氏  top
      
(奈良新聞 昭和46(1971)/2/14)  


人間関係が何より大切と語る北山藤一郎氏

従業員の声

「どうも”市長さん”というイメージがぬけきれない」
「家族的フン囲気を大切にされる方。暖かい思いやりがあります」
「薬のことについては専門家。何もかも知りすぎておられるので、ちょっとのミスも許されない。よく怒られることもあるが、カラッとしているから気持ちいい」
「時代の動きを敏感にキャッチ。すぱらしいアイデアマン。教えられますねえ」

金陽製薬の創立

昭和6年、五條市二見町で薬局を開設するとともに、製薬研究所を設立。自ら生産、販売にあたった。戦後の22年3月、現在の会社を創設。製造する薬種もおよそ100種をかぞえた。販路は大和の薬といわれるとおり、全国各地に販売網をもっている。五條工場のほか、3年前には阪合部工場(旧阪合部中学跡)をつくり、ドリンク剤専用工場として日産7万本の生産能力をもっている。現在は、50数種の医薬品医薬部外品を製造している。従業員80人、年産額2億5,000万円をあげている。

メンタムで一旗

 自分で始められた仕事ですが、製薬を手がけられた動機は?
 私は百姓のせがれでね。中学を出て電気部門に進もうと大阪高等工業(現阪大)を受験したんだが、みごとふられちやった。受かっていたら、いまごろは松下幸之助さんぐらいになっていたかな。そこで、富山薬専をうけた。これもダメなら洋服屋になるつもりだったが、運よく合格、これが私の人生を決めてしまった。学校を出て、大阪医大へ勤めていたが、オフクロが死んだんで、当時盛んだった大和売薬の製造にとりかかったわけだ。
 戦後、メンタムがよく売れたそうですね。
 当時はメンソレータムが外傷薬の花形だっだ。でも一般にはハマグリの貝にコウヤクを入れたもので間に合わせていた。それが10銭のときに、メンタムを30銭で売った。”そんな高いもの売れるか”と非難もあったが、3ヵ月たったらブームになって一旗あげさせてもらった。

伸びるドリンク剤

 数年前から栄養飲料がぐっとのしてきましたね。
 うちも昭和41年から栄養強壮薬(ドリンク剤)を手がけ、また”赤まむしドリンク”など3種類の栄養飲料を製造販売している。時代の要求ですからね。いつまでも昔ながらの薬だけに頼ってはいけない。いまでは、生産額の65%はドリンク剤で占めている。とくにきれいな吉野川の水を使っているのが強昧です。
 薬種も一昔前にくらべると、半減していますね。
 ある程度、整理してきたが、それでも昔からの長いつきあいがあり、お客さんの要望もあって手のきれないものばかり。

家庭温泉にも進出

 医薬品のほかには、どんな商品がある?
 温泉の素。これは戦後の皮ふ病まん延に対処して売り出したのがはじまりで、最近は各家庭でも美容と健康に役立つようなものにし、非常に人気があります。このほか、トイレ消臭剤など。

誠を忘れるな

 薬も広告面が大切だが……。
 大いにPR する必要はわかっていても、われわれ中小企業者にとっては大企業には対抗できるだけの資力がない。そのかわり、宣伝費をコスト安に結びつけ、しかもいい品質をつくる以外に道はない。
 経営方針は?
 とくにこの業界では取引先との人間関係が大切。品質を信用してもらい、常々″誠″を忘れたらいけないということをしみじみ感じる。
 最近の県下製薬業界も体質改善を追られているが……。
 戦前まではドイツの薬剤を基本としていたが、戦後はアメリカ力式になった。ことに最近は、公害問題がやかましくいわれ、医薬品の内容や包装に至るまで、規制品目がふえてきている。チクロ問題一つにしても、大きな打撃だった。変革を迫られているのは事実で、協業化問題などにも真剣に取り組む必要があるでしょうね。

新製品開発へ意欲

 苦しかった思い出は…
 五條市長を辞めた当時(37年)。誰も商売人にしてくれない。ムリにジャンバー姿で歩いたりしたが、そのイメージを払うのに1年ぐらいかかった。
 うれしかった思いでは?
 遠方の見知らぬ人から、礼状や注文依頼の手紙がくるとき。月に10通ぐらいあるが、病苦に役立ってよかったと思えば、なんともいえない感激です。
 従業員教育は?
答 毎月一回、道徳科学研究所の方にきてもらい、全従業員に精神訓練をしてもらっている。思想の統一ではなく、お互いに人間として少しでも成長してもらいたいから。
 将来の構想は?
 時代の流れにさからってはいけない。これからは、人生をより楽しく、より快適な生活を送ってもらうため、新製品の開発につとめたい。
とりあえず、スモッグ公害に悩んでいる都会の人たちのために、すばらしいプレゼントを……
と頭をひねっているのだが…。

***************************************

夫婦茶碗 (北山民子  青いぶどう第2号 昭和43年2月より)  top

長女恭子から電話がかかりました。
「お父さんとお母ちゃんのお誕生日のお祝いに、夫婦茶碗を届けますから使ってください。」
2、3日後また電話で、
恭子「あの茶碗いいでしよう。使ってくれてるの。」
主人「わしはつかつているけどお母ちやんはもったいない言うて使っていない。」
恭子「そんなこと言わんと使ってよ。」
私が代わって
私「もったいないのではなく、赤いから気恥ずかしいのよ。新婚の夫婦みたいでしよ。」
恭子「お父さんの還暦もすんだことだし、いいじやないの。」
私「そうね。それでは使わせていただくわね。どうもありがとう。」
右の会話は去年の11月の電話です。主人は11月21日、私は11月15日が誕生日です。主人の茶碗は藍、私のは赤の模様でどちらも蓋付、湯飲みと対の上物です。何か気恥ずかしくて使わずにいたのですが、3度目の電話で使わせてもらうことにしました.
「千恵子さん(長男の嫁、長男夫婦に孫2人と同居しています)も嫁入りにもってきたのを使いなさいな。」という私の言葉に
千恵子「私も近頃あまり茶碗をわらなくなったから、いいのを使わせてもらいますわ。」とさりげなく答えてくれて、嫁の心の成長が同時に、私の心の成長でもあるとうれしかった。

今日は長男夫婦が子供をつれて遊びに出かけ久しぶりに主人と二人きり、いろりに足を入れて、長女から祝ってくれた茶碗に白いご飯をもり、お湯飲みにお湯を注ぎながら、私は北山へ来てからの20余年を思い浮かべてみました。

私が嫁してきた時、おじいさんと主人、それにぼんさん4人、女中さん1人。その方らは、箱のおぜんに、それぞれの茶碗、皿、はしを入れ、茶の間の板の間にすわり、私達は畳の上で、長火鉢の横に食卓を囲んですわって食事をよばれました。そのうち戦争になり、戦争がはげしくなるにつれて、ぼんさんは次々応召していきました。そのうちに崔さんというぼんさんがいました。18才位で、日本語は全然知らなかったのですが、ちょうど長男が小学校へ行きはじめた時で、長男の本で一緒に勉強をはじめたのです。頭のいい子で、長男をぐんぐん追いこして、むつかしい字もおぼえ、普通の算数も出来るようになりました。気性のいい子でしたから、みんなから可愛がられて多勢に見送られて出征してゆきました。

戦後は、寝泊りするぼんさんはなくなり、親類の娘さんが3、4人、次々と来て店と家事を手伝ってくれていましたが、しかしその娘さんたちも結婚して、初めて子供達5人と私達2人との親子だけの生活になりましたが、それも長くつづきませんでした。やれ進学に、就職に、はては結婚にと次々私達のもとから離れ、来春は末っ子の千鶴子も社会へ巣立とうとしています。

私は今まで子供を育てることに生きがいを感じて、子供に身も心もうばわれて過ごしてきました。 一方主人は家をあまりかえりみないで外をとび歩く仕事に没頭していましたが、4、5年前から家業に精出すようになり、身近く語りくらす日が多くなったのです。これもあと何年つづくでしよう。身近な人たちの悲報を耳にする度に、これからの何年かを、悔いをのこさないような生き方をし、子供たち、孫たち、主人から愛されるおばあちゃんでありたいと思うのです。

***************************************

母の葉書(平成元年2月 母:79歳)    民子句集より   top 

母の数少ない血縁者の中で何かと頼りにしていたのは、母の弟に当る富山の大津賀伝芳と、 一時家業の製薬業を手伝ってくれた甥に当る大阪の大津賀伝蔵である。伝芳の叔父は長く教員を務め70歳で叙勲を受けたが、それが地元の新聞に大きく報道され、母は我が事のように喜んでいた。
しかし、その頃から叔父は体を悪くしていたので、見舞いを兼ね母の最後の里帰りともなった富山行きに、父の七回忌の法事で帰省したその足で同行したことがある。
その時、富山から東京の我が家と恭子宅を回って帰條したが、これが母の東京への最後の旅ともなった。まだ駅にエスカレータのない頃で、足腰の弱った母には駅の階段が大変だった。以下の句は帰條後、葉書で送ってきたものである。
なお、伝蔵兄は趣味の会の雑誌「民芸」の編集に長く携わり、自らの戦地でもあった沖縄について、当時の様子も含め民芸品の紹介の記事を多く執筆している。母方の血には文学の素養があったのかもしれない。

富山へ行った時の句

しあわせに顔ににこやか姪の春
病む弟ホロリと涙冬の部屋
手をとりて涙ぐみをり寒ぬくし
雪の中見送る人の影消えぬ

法事の時の句

如月やまづ酒供ふ亡夫の忌に
夫の忌や鍋物たぎり柚匂ふ
祖父の忌の膳に小枝の梅を添え
祖父の忌の太き墓標や春浅し
祖父の忌に好物供へ堂寒し

(母の句は父が夫になったり、祖父になったりする。これは誰の立場かで身内の呼び方が変わる言葉の不正確さのためである。他の句についてもこの点は注意して読む必要がある。)

帰條後の句

二日はや一人になりて部屋暗し
大ぶりのトクリに水仙いけてみる
春立つを待つほのぼのと小豆め

***************************************

母の富山時代大津賀伝蔵の戦時中の沖縄 NO24より) top

郷里では花壇のサルビャの花がそろそろ盛りを終えて、今はコスモスが咲き乱れ、赤トンボが群れとんでいるとのことであります。私は幸運にも富山の松枝姉から沖縄へ来て二度目の便りを受けとりました。長兄伝治が出征した後は、母と兄嫁のたみ子姉が、三才になった甥の伝祐を養育しながら、 一家の食糧の獲保に必死の苦労をしている様子でありました。

考えてみればとても配給だけでは生き残ることは出来ない筈です。わが家の留守部隊長の重責を担う弟伝七郎は、切角大学に進学はしたものの、食糧事情の極度の悪化に堪えられず、 一年間休学すると書いてありました。末弟の伝八郎は、富山師範に入学はしたものの、勤労動員で一向に勉強も出来ない状態だそうです。

成長した弟達も、やがて私達の後を追って順次に、皇国のために兵役につくことでありましよう。若し命あって幸に再会することがあっても、二人とも小中学生の幼な顔しか覚えていないので、成長期の弟達は見違える位大きくなって、直ぐには見分けもつかないかも知れない、などと考えたりしていました。
空襲が心配で、大阪今市の家の家財道具を八方手を尽して、やっと貨車を手配して富山へ輸送したそうです。そして富山市内の家の分とともに、郊外の農家の離れを借りで分散疎開した由です。姉の手紙は相かわらず、こと細かに家中のこと家族の状況や、親戚のこと、町内の様子なども書いでありました。

然し後日談ではありますが、このように苦労して分散し、富山へ疎開させた家財道具が、翌年七月のB二九富山大空襲で全部丸焼けになり、 一物も余さず悉く焼失してしまいました。そして不幸なことには、兄嫁たみ子の実家上田一族が、出征中の文造、重保兄弟を除いて家族全員八人が焼死しました。私が戦後台湾から復員した時には、郷里富山市は一面の焼野原で、かっての那覇の空襲の跡を思い起こさせたものであります。

追記
 兄宏和の母は3歳の時に病死し、大津賀家に嫁いだたみ子が夫の戦死で、父藤一郎と再婚した。大津賀家では伝祐をもうけた。従って敏和には母違いの兄宏和と父違いの兄伝祐がいる。


伝蔵、左:伝祐 赤目48滝の社員旅行にて

top
***************************************