五條探検隊

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16  郷土の歌人 山県ちか子とその作品

浦 延代   青いぶどう創刊号(昭和40年12月)

 「岸花紅(がんくれない)に水を照らし、洞樹緑(とうじゅみどり)に風を含む。山花(さんか)開けて錦に似たり、潤水湛(かんすいたた)へて藍(あい)の如し。面白や思はず此処に浮かれ来て……
 静かな流れるともなき大川を、はらはらと散る桜の花びらの哀れにも通う、華やかな地謡に合せて、一人の舞を誘(いざ)なう如く丁々とゆるやかな鼓の音が、会場の周囲の雑木林にまで響いていた。
 
 奈良県阪合部村切っての名家、山県家の大奥様が、村の敬老会に初めて披露するというその鼓の音である。村の素朴な老人達は、かって自分達の地主であり、戦後農地が解放されてからも、堀と二重の塀に囲まれた三百坪近くの庭をもち、重要文化財に指定されたという、大きなお屋敷の大奥様の、もの柔らかな中にも気品に満ちた姿を、息をのむように見詰めていた。小鼓を斜めに構えた小柄な躰(からだ)からすでに七十歳に手が届くとも思えぬ程の色香が漂い、しっとりとその細おもてに馴染んだ眼鏡の奥に、幽かな憂愁の気配さえ感じられた。

 その大奥様と呼ばれる山県ちか子夫人が、歌集「あゆみ」を上梓された。ときいたのはそれから又七、八年後の事である。 山県ちか子夫人は遠く佐々木信綱先生の門下にあり、現在日本歌人の同人として、その美しく優雅な作品を発表されているのであるが、今郷土が生んだ先輩の足跡を尋ね、同じくこの土地で文学に心を寄せ、文学を通じて生活を考え、未来に夢をみ、郷土をはぐくんでゆきたいと願う私達女性の良き道標とすべく、特にちか子婦人にお許しを得て、その作品と人となりを発表させて頂く事にした。

   (明治二十七年勅題梅花先春というに)
  年立ちて春より先にうれしきは羽根や手まりに匂ふ梅が香

 六、七歳の頃より父の手ほどきを受けて歌を作られ、十一歳にしてこの匂うような作品をのこされたちか子夫人は、明治十七年、大阪府富田林の、これもきっての名家、杉山家に生れられた。兄一人姉二人をもつ四人兄妹の一番末娘であり、大阪府の長者鑑に名を連ねたという富田林随一の大地主の嬢(とう)様として、何不自由なく過されたとはいうものの、十一歳の時に父を失い、すでに家長として実権を握っていた異母兄の長女(新詩社五人女の一人として歌名高い石上露子、本名を杉山孝子といいちか子夫人はその伯母にあたる)が、両親の愛を一身に浴びて我儘一杯に振舞うのを見ながら、後妻の未娘として控えめに控えめに育てられた複雑さは、やがてもの静かに自分を見詰める淋しい少女となり、愛してくれた亡き父をひたすらに恋う感じ易い少女となった。

  幼なくて逝きませし父のただ一つわれに賜ひしは歌といふもの
  古今集七度よめと亡き父に教へられにし日の恋しけれ

 それでも少女時代の思い出は甘くあどけなく、十三歳の時アメリカに憧れ、元禄袖の紫にナショナルリーダーを隠し持って裏木戸からそっと姉の習う外人教師のもとに通った歌、仔猫をとらえて踊らせる春の日の歌など、振り分け髪の色白い利発な少女の絵のような姿が彷仏(ほうふつ)されるのである。そんな彼女を父に代って慈しんでくれたのが伯母であった。

  旧き家の御寮人なる老い伯母は潔く厳しき聖教徒なる

 伯母は明治の以前、大阪十人両替の中の一軒に数えられたという旧家に嫁した人である。ちか子夫人の一生を通じてその生活の底に流れる宗教心は、この伯母の感化によるといわれている。

  源氏など講義きく夜はしたひよる伯母のもとさへそとぬけて来し
  小雨ふる夕べおぼろに野狐の嫁入りつづく菜の花の道
  客人は蝶もや出ると興がりぬ菜の花漬けの夕餉の前に
  縁日の街のはづれに灯をさけて我行く末の占をきく

 以上を含めた四十首が娘時代の歌として「あゆみ」に収められている。

 少女ちか子が五条市阪合部の人となったのは、今から六十幾年前、それは明治三十四年十一月の事である。
 吉野川があと十丁ばかりで紀の川と名前を変える辺り「みくら」の曲り淵(ぶち)は今よりずっと水の量(かさ)も多く澄んでいた。大台ケ原に源(みなもと)とするこの水は幾つもの支流を合わせ岩壁の間を曲りくねって吉野川となり、或るときは大川にふさわしい緩やかな流れに、ある時は峡谷をなしつつ和歌山県に入って紀の川となる。

 富田林から伊勢街道を通って運ばれてくる道具や花嫁行列は、この川を渡らなければ阪合部村の山県家に着く事は出来なかった。川の両岸は高い絶壁になっていて橋もなく、草むらの間に細い危ない足型道が一本「渡し場」までついているだけである。「渡し」といってもこんな田舎の事で、通る人も少く、川の向う岸からこちらの岸へ針金の太い綱を引っ張り、客を乗せた舟の舟頭がその綱を手繰りながら向う岸に着くという単純なものであった。流れが速いので、村人も旅人もみな舟頭に倣(なら)って舟を流されないように綱を手繰ってゆく様子が、周囲の松や、そそリ立つ岩、緑深い水に溶け込んで、素朴な風物詩を思わせたものであった。

 この静かな川原も、山県家に嫁様が着くという朝は豊かに華やいだ空気が張り詰めていた。いつもの「渡し」は片付けられ、この川を上り下りする舟頭の中でも特に竿自慢腕自慢が、念入りに洗った舟を幾艘も用意して、大阪からくる嫁様を待った。山県家親族の代表も紋服袴姿で出入の男衆と一諸に出迎へていた。
 昼近く、杉山家の家紋を染め抜いた揃えの法被に草鞋(わらじ)履き、揃いの笠の紐を下顎(あご)にぴしっ結わえた男衆が、琴、鏡台、箪笥、と十三荷の嫁入道具を大名行列のように繰り込み、続いて花嫁の塗駕籠が黄金色の風に鈍い光を放って川岸に着けられた。人力車で着いた仲人夫婦、杉山家の親類縁者も、一先ず車から降り、舟で向い側へ渡るのである。

 十一月の終りともなれば薄ら寒いはずの今日の天気も、雲一つなく晴れ、力一杯竿一杯に漕ぎ出す舟に塗駕龍や嫁入道具の朱房が大きく揺れて水に映った。
 稲架の間を縫って馳けて来た村の娘や、子供を負ぶった主婦達が、
 「何と立派なものやないか……」
 「ほんまに、さすがに山県はんだけあって……」
 とその被っていた手拭を胸に当て幾つも溜め息をつくのであった。当時小作人の嫁さんは、風呂敷包みを提げ、夜さりに提灯を灯して嫁(い)く事が大方(おおかた)だっただけに、山県家の家格は尚一層人々に認識を深めさせたものである。
 舁(か)かれたり、舟に乗せられたり、坂を上ったり、小さな駕籠の中にその気配を一つ一つ感じ取りながら、市松人形を前に白い打掛の乙女が、周囲の人々に依って作られてゆく自分の運命をどのように考えていたであろうか。

  偽りの笑まひ寂しき我が心かくて経む世の罪と知らずや
  進みては又たゆたひぬむつかしき運命を負ひし我がゆくてを

 花嫁より先きに宰領の唄う長袴唄で十三荷の道具は門内に運び込まれ、屋敷内が一層華やぐ中を、人形を胸高く抱いた花嫁は賞讃の余り言葉を失っている人々に迎えられて、奥へ入った。角先では荷を舁(かつ)ぐのに使った青竹が、運んで来た人々の手で さつ、さつ、と切られ、再びこの道具がこの家より出る事の無いよう縁起を祝うのであった。

  身に添はぬ錦のうちぎ裾長く引きてすわりし銀燭の前
  かくて経むつらき運命の我世ぞと知りて悲しき安らぎを祈る

 こうして山県ちか子夫人の阪合部村での生活は始まるのである。
 夫君充弘氏は、五百石の小作米と多くの山林を持つ地主として、小作人の指導や村の公共事業に采配を振り、美しく聡明なちか子夫人は女衆や男衆にかしづかれて、優雅に慎ましく両親や夫と暮し、近所の小作人のおかみさんはいうに及ばず出入りの商人達からも、雲の上の御殿に住むお姫様のように敬われ、辺りの小作人などめったに話しても貰(もら)えないと思い込んでいたようであった。勿論そんな家柄で外出もそうやすやす許されなかった事は当然である。

 歌集が出てからずっと後、歌会の帰りの車の中でちか子夫人に、
 「山県さんへ来られてから随分になりますけれど、そのうちで一番辛かった事ってどんな時でしたでしようか」
と尋ねると、
 「そうですね」
と瞬時、想い出すように遠い眼をして、
 「主人が日露戦争でひとい外傷をしなさってね、あちこちの陸軍病院へ移されましたのに一度も見舞にやって頂けなくて…その時ははんとうに…」
と話しはじめた。陸軍歩兵大尉だった夫君は結婚して三年目に起った日露の役で重傷を負い、内地へ送還された時も、舅が面会に行き、姑もちか子夫人も行かせては貰えなかった。そして又それが当然として少しの不満さえもいえず、見舞いに行って帰った舅から夫の病状をきかされてひとり胸を痛めていた。といわれるのだった。
 「それでも唯一度だけ実家へ帰った時に夫のところへ行きましたのよ」
といい添え、言葉のおしまいにふっとはにかまれた時、新妻の初い初いしさが忍ばれて、深く深くうなづいた私であった。

  天地に一人の夫が死にあひて笑まむは辛し戦勝てども
  召されたる君しのぶ夜の夢はならずうつつに見ゆるもろこしの原

 しかし名家の見識はこれどころでは無く、百年以上も続いた様々の行事や習慣、果ては戦時中の国防婦人会長に至るまで、常に背すじを伸ばし、顎を引いて、厳かに、優雅に、気品高く振舞わねばならなかったし、使用人にも小作人にも、近郷近在の家柄同志の付き合いにも、その姿勢を崩す事も隙を見せる事も出来なかった。生れながらの資質もあるとはいえ、二十歳を出たばかりの若い夫人には、それ等の因習の重荷は想像以上であったと思われる。佐々木信綱氏の竹柏会に入ったのもこの頃からであろうか、折々その作品は「心の花」に掲げられていたといわれる。

  はらはらと風なきに散るわくら葉の乾きすぎたる心にも似て
  都へと都へとのみあこがれて来にし都はつめたきところ
  暮れてゆく春のとぢめの色とでやうす紫の紫陽花のはな
  逃げてゆくむなしき影を追ひつかれ極まり知らぬ広野さまよう

 男児三人女児二人の母となっても、尚何かへの憧れは美しい言葉で歌となって綴られ「あゆみ」とつけられた題そのままのちか子夫人の人生が織り込まれているのである。

  亡き母の絶えず絹拭きしたまひし廊下に青く松の花散る        。
  何事のおん怒りともおもいわかずけふも幾時夫黙します
  小鼓を打つに散りしく花吹雪浴みて舞う子が紫の袖
  我生活うつろの如き心地しぬ末子嫁がせ春くるる頃

 厳しかった舅姑も世を未り、時代は満州事変から支那事変へと進展してゆき、長閑(のど)かなこの村にも出征兵士を送る幟は日をおかず其処彼処に立ち、土に灼(や)けた若者達が次々と召されて征った。昔、舟に駕籠を乗せて渡った「みくら淵」には長い吊り橋が掛けられ、村人達も国民学校の子供達も手に手に日の丸をはためかせながら、「我が大君に召されたる…」と兵士を送る日が多くなった。

 ちか子夫人の作歌中絶期はこのあたりからではないかと思われる。五人の子供達は夫々家を離れて棲み、何ものにも侵されぬはずの山県家にも、大東亜戦争から終戦にかけての変動はめまぐるしかった。中でも最も根底から揺すられたのは昭和二十二年の農地改革である。嘗(かっ)ては十二月の始めから節季(せっく)にかけて小作人達が十俵二十俵と運び込む米俵で米倉は一杯になり、金で年貢をする者、米を買いに来る商人、果ては年貢米を負けてくれと恐る恐ろ持ちかける老人迄、裏ロにしょつちゅう人が出入りしていたのに、家の周囲の田畑六反歩を置いて他はすべて旧小作人の手に入り最早昔の華やかさは夢となってしまった。

  敗戦の年より田畑打ち慣れてふしくれ立てる父の指さびし
  戦時中の強制伐採に荒れし山祖先の労をいかにつぐなはむ
  茶を揉みて青く染みたる指見つつ誰が嗜好の湯に香るべき

ちか子婦人の一生に悲しかった事の一つとして、次男敏昭氏がその夫人と三人の子供を残して殉職された事件がある。

  絣(かすり)着の赤き頬して素直なる子にてありしを悲しきぞ敏昭
  今五日生命ありせば博士号ききけむものを魂はかへらず
  エーテルの焔に焼かれ棚帯の姿痛ましくうつつ言いふ

 こうした運命の試練ののち、ちか子夫人は再び歌にかえり、歌の中に生きる支えを見出すのである。このあたりからの夫人の歌は以前に無い才能の閃きを見せ、優雅な中にも朝露を含んだ花菖蒲の蕾のような瑞々しさと新しさを示して来たように思われる。

  園に来て露ながら取ればひややかに剥く手に甘き白桃の雫
  紫陽花は若芽をふきぬ大らかな花をいづれの枝がもつなる

 稚い頃、なつかしい父の部屋からきこえていた謡曲がちか子夫人のものとして、山県家の奥から小鼓の音が再び響きははじめたのもこの頃からであろうか。

  あはでうきその色衣の三重がさね班女が扇かざしつつ舞う
  小鼓の古き手すさび春の夜の宴に打ちぬ羽衣の曲

 すでに長男与一氏は一流銀行の支店長として、その気鋭と人望はひろく世間に認められていたし、竹久夢二の画に見るような美しい大らかな若夫人が使用人も少くなった大きな家を何の心配もなく取り仕切っていた。椎なかった孫達も皆大きく育ち、或る孫は農学博士に或る孫は彫刻家としてイタリーに留学するなど、山県家の家名は又別の世界で大きく高く伸びて行った。終戦後の日本の生活が次第に平和をとりもどし経済も安定して来たように、ちか子夫人の生活も戦前のそれとは比ぶべくも無いが落付いたものになった。昭和三十二年、夫君充弘氏が亡くなられてからは益々おだやかに静かに自分を見詰めながら歌を作って居られた様である。

  かしづきし五十幾年夫逝きてけふひしひしと足らざるを悔ゆ
  行きかへり語らふ人のなき部屋に淡く匂へる白梅の花

 昔、夫を見舞う事さえ許されなかった外出も意の儘になり、七十歳を越えてからも一人で東京、京都、長崎の息子や孫達の許に出かけて楽しみを求められた。そして又その土地土地に博物館を尋ねては、幾千年昔の遺物の静かな言葉に耳を傾け、由緒ある神社や寺を訪れては、幾時間もその内陣入りをして無我の境に浸るなど、若き日の都への憧れはこのようなかたちで内面的に深く床しくにじんで行ったのである。又昔クリスチャンの伯母に薫陶を受けた幅広い宗教心は、老いて益々ちか子夫人の心の底の清らかな流れとなり、愈々おだやかな美しさを増すと共に、その作品は一層若々しく、その心は童女のようなあどけなさになって行った。

  若草をふむにえたへず砂利道を遠く廻りて春日野にゆく
  背のびすればアメリカ迄が見えますといふバスガール旅の面白さ
  寒餅のよき昧召せと粉雪あびて遠く加太(かだ)より魚うりの来る
  捨てられし青きトマトを拾ひ来ぬ厩(うまや)に遊ぶ仔牛のために
  電灯によりくる虫はそれぞれに物思ふらし髭を振りつつ
  天と地はふけて声なく月光にうつる思惟の涯(はて)しあらなく

 最近、私はちょつとした用があって山県ちか子夫人を訪問した。それは盆月の四日である。玄関、座敷、応接間、居間、と幾つもの部屋を通り抜けて招じられたのは二間つづきの広間であった。濃茶の縮上布をゆったりと纏(まと)い鉄色の帯をぴしっと締められた夫人は、暑い事など知らぬものの様に寂びた雰囲気を漂よわせながら、梁からむ小暗い奥座敷から出て来られた。

 しばらくぶりの挨拶を交して、ちか子夫人は、
 「実はね、朝から院主さんに来て頂いて施餓鬼(せがき)を致しましたのよ」
と百年ももっと以前から山県家に続いている年中行事の一つの、無縁仏を供養する話を、相変らず若々しい声で話してくれた。
夫人は少し前から足を痛めていて歩いての外出は出来なくなっていたが、お見舞状を差し上げた時、
「足は思うように参りませんけれど、耳とロだけは至って達者で御座居ます―」
とおどけた返事を貰った事を思い出しながら……
暑い日盛りを訪れた私には庭に面したその部屋の、廻り廊下の建具を全部取り払って御簾を垂した風情が、源氏物語絵巻でも見るようであった。床に桔梗の軸がかかり、青磁の不二の置物が不思議にそれを見る人の心を澄ませた。

 用件を済ませたちか子夫人と私の話題は当然のように最近亡くなられた閨秀歌人石上露子の事になって行った。先きにも書いた通り、石上露子はちか子夫人の姪であるが、年齢はちか子夫人より二歳年長であった。与謝野鉄幹の創立した新詩社に入ったのは明治三十六年といわれるから、ちか子夫人の作歌生活も或はこの人の影響を多分に受けていたのではないかと思われる。
ともあれ、「明星」に清純で沈痛、切迫した作品を発表して、多くの男性から恋に似た感情を寄せられ、初恋の人を思い続ける余りその平和な家庭生活をも拒否した謎の女性石上露子と一つ家に暮した事が、ちか子夫人の人生観に何等かの影を指していた事は否めないと思う。

 こうした深窓の美貌歌人石上露子をモデルに山崎豊子の小説「花紋」は書かれたと噂されるが、そのどこまでが真実で有るか無いかをききつつ、むしろおぞましいと思える程に厳しく悲槍に自己を貫いた石上露子に比し、水のように静かに穏やかに周囲に従いつつ、最後まで自らを見失う事なく過された山県ちか子夫人の来し方の上に、今更のように私達は一つの典型像を見出すのである。

 歌集「あゆみ」のあとに附記してちか子夫人は次のように書いている。
 「旧家の因習は重苦しく、絆(きずな)のからみ合ふなかに生ひ育った私は、少女心の楽しく抱き見つむる憧れさへにゆるされず、斯くてたどたどしく人生の一歩を踏み出した私は、やりどころなき心の哀楽を誰憚(はばか)らぬ歌に託してはひそかに歌ひつづけ細やかな慰(なぐさめ)を持つものでした。」……以下略……

 そこに載せられた三百二十首の作品には、三百二十の思想と、その数だけの追求がある。たとえそれが単なる情景描写であれ、そのものに潜む運命や歴史の語り掛けに耳を蓋する事は出来ない。そうして人は何時の間にか真実の何たるかを覚り、倖せの奈辺に有るかに気附くのである。

  幾代かも伝来の家紋誇りたる其誇り今何の価値ありや
  若き日の夢に見し美しき仕合せは風に立ち舞ふ挨の如く
  人知らぬ千々の思惟をからめつつかぽそく残る我が白き髪
  あこがれし倖せはすでに身内なる心の奥にひそみたりしを
  顧みるくさぐさの翳(かげ)は野に返し日々はすがしも苔の広庭