五條探検隊

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21
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16 青いぶどう2
15 青いぶどう1
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7 大澤寺
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5 柿博物館
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3 伊勢街道
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1 地名の由来



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17 五條の空襲

 日本が戦争に負けた昭和20年(1945)8月15日の1週間前の8月8日、のどかな農村の五條にも空襲がありました。五條町大川橋北詰、北宇智駅、北宇智小学校の3ヶ所が米機グラマンによる爆撃を受け、多数の死傷者を出しました。
この空襲については平成5年(1993)に多くの体験者の記述からなる「五條の空襲」という本が出版されています。
 また、「青いぶどう」に当時北宇智小の教員だった赤坂かず子さんが被爆で左足を失くした体験を長文の自叙伝に纏めていますので、ここではそれを紹介します。



北宇智小学校での被爆             「青いぶどう」創刊号、第2号 赤阪 かず子

 深淵とはいえない迄も、死の淵にのぞんだあの日の記憶は今もなお私の胸に生々しい。あの一瞬が私の生涯を支配し、私の運命を傾斜させた。そして戦争という異常な旋風が突如吹き止み、全く空虚な、あの嵐の後の静けさというものが訪れた時、私は、自分の青春が灰色に塗りつぶされているのを知って愕然とした。
 爆傷のために血を吹き、無惨に砕けたくるぶしが、ふっと正気に戻った私の目の前にあったあの切那よりも、うす暗い病院の二階で看護婦達が、敗戦のラジオを前に静かに涙をふいていたあの日のショックの方が、はるかに大きく深いものであった。

 それは敗戦を悲しむという事より、突如戻された現実への恐怖だった。どうして生きて行こう、そんなことは戦時においては個々に許されたことではなかった。ただ命をかけて戦うより外に生きる道がなかった。そしてそのためにこそ、私の傷は有意義であった。行き場のない憤りが身の内を焼き尽すような衝動にかられて、まだその傷のため、四十度を越す高熱と、執拗に去ろうともしない激しい痛みの中で、私は本当に気が狂ってしまいそうだった。

 再起不能かも知れぬという暗雲のたれこめる自分の未来を、何のためにこんなにみにくい体になった自分なのかということを、私は歯をくいしばって考えなければならなかった。そんな暗くみじめな、そして悲しい気持の私の上に、空襲警報のなくなった平安な夜空があった。無茶苦茶に戦争にまき込まれていった自分、炭材運搬をやり、炭俵を編み、真黒になって炭がまの中へ入った年若い教師の私が、やっと自分を取り戻した時、すでに取りかえしのつかない大きな傷を背負っていたのだ。

 それは、私が待望の教員生活に入って二年目、二十歳の夏の出来ごとであった。
昭和二十年八月八日午前八時三十分、突然米グラマン二機が、小型爆弾二発を北宇智小学校校舎に命中させて飛び去った。
 警報と同時に子ども達は家に帰し、職員は教室をかたづけて職員室へ集合しようとしていた。必勝祈願をこめて八幡様へはだし参りをし、帰ってきた矢先、それも平時なら当然夏季休暇であるべき日であった。

 現在の子どもたちは、父母や教師にあたたかく見守られ、浄化装置の完備したプールで、喜々として泳ぎまわっているであろう夏床みの一日――。しかし、その日は大詔奉載日であった。私達は戦場の勇士の武運長久を祈り、重ねて自らの忠誠を誓ってきたのだった。
 校門のわきにぬいだ手製の紅い”はなお”の下駄は、あの日どこへ吹き飛ばされたのだろうか。再びかえってこなかったし、又素足に快よくしまったあの”はなお”の感融を味い得る日は再びめぐって来はしなかった。

 必勝をこめて打った拍手の響きが、何と、空しく寂しかったことか。虫のしらせというのはこんなことだろうか。心細いその音が、じーんと胸底にしみたと思ったあの朝、それでも幼い子どもたちは、声をはりあげて”勝利の日まで”を高らかに合唱して帰っていった。
 七十余名、疎開者を交えた私の教室はすし詰め学級そのものであり、最後の一人を校門に送り出すまでに相当の時間がかかった。

 突然、爆音と機銃掃射の音を聞いた。否、聞いたと思った時はもう遅かった。映画やラジオで聞き訓れていたその音が、全く突然に私の頭上でほんの一瞬響きわたった。
 そして、土ぼこりとも白煙ともわからぬぼやけた視野の中で、倒れている自分を見出し、校舎の崩壊の有様を知った。とっさに急いで立ち上がって逃げようと思ったが、どうしたことかどうしても頭が上がらない。それに何だか眠いようだ。私はそのまましばらく寝ていようと思った。しかし、どこかに怪我はないだろうかと、ようやく半身を起こし、始めて自分の受けた傷が尋常でないことを知った。

 誰かを呼ぼうと思ったが声が出ない。
 再び起き上がって這い出そうとしたが、その気力もなかった。
 間もなくH先生が駈けつけて来たが、私の傷を見るなり、アッと叫んで顔を覆ったまま走り去ってしまった。飛び散った真白い肉片が、ピアノにびったりこびりついていた。
 うつ伏せに倒れた誰かの背中の上に板戸がパッサリかぶさっている。その人は見動きもしない。素足が泥で汚れていた。

 あとでN先生だとわかった。N先生はその四月北宇智校に奉職、間近に結婚式を控え、花嫁衣装まで揃えてあったと聞いて、私達は若く美しかったN先生のために声をあげて泣いた。後日慰霊祭が催され、私も参列したが、その私の姿を見て、たとえ足がなくても手がなくても唯生きていてほしかったと、一人娘のN先生を借しむ御両親の涙に、私は又身のおきどころを失いそうだった。
 間もなく村の青年の手で私は救出された。荒縄で太ももがしっかり止血された。どれだけ血が流れていたか、私にはそれをたしかめる余地がなかった。廊下にベットリ血のあとがついていたとあとで聞かされたが、血が流れていた記憶は全くない。血よりも砕けた白い骨と肉が鮮やかに印象に残っている。

 中谷医院は、学校のほん近くにあった。行きつく途中私は逆上したように、子どもたちは無事だったかと口ばしり続けた。今思えばお芝居じみたセリフだが、それが教員魂なのかも知れない。そして強心剤を注射されただけで、包帯もされないまま、三十分程は床の上に放置された。子を背負った被災者の方が、子守り帯を解いて下さった。私の応急止血の荒縄は、そこで子守り帯と交換された。駈けつけてきたK先生は自分も顔や手から、タラタラ血をたらしながら、
「赤坂先生、どうしよう、しっかりせえなあかん。死んだらあかんで。」
と、ちぎれた私の左足の上に脱脂綿をかぶせてくれた。私の足はそれまで、砕けちぎれたまま大勢の人の前に曝されていたのだ。

 私は痛みの中で、父を呼び母を呼んだ。始めて痛みが私の全身を火のように貫いた。こんな姿で父や母に会うのがたまらなく辛い気がした。しかし声に出して お父さんと呼んだ。電話番号を聞かれた。その電話を聞いて驚きとまどう父と母の顔が浮んだ。私の頬を始めて涙がころがり落ちた。涙はとめどなくあふれ落ちた。二十年間大切に守り通してきた心と体、誰よりも美しくありたいと願ってきた自分が、あまりにも、あっけなく、くずれ落ちて行く……。
駄目かも知れない……恐れと不安の中で、父を呼び、必死に母に助けを求めていた。

 田にいた父と母は、低空飛行のグラマンに心の安定を失って、爆撃はどこでしようかとあたふたと聞き廻ったという。しかし、誰も我関せずの顔つきで、せっせと土を堀りかえしていたと、後日、母は憎しみをこめてその人達のことを語っていた。どうしても気分がおさまらず、仕事を続ける気持になれず、早く帰って誰かに聞いてもらおうと立ち上がった所へ、迎えが来たという。

 思えば、その日まで、赤坂家は平穏であった。
 私の目の前で、額をざくろのように打ち割られたY先生が、しだいに吐く息ばかりになりついに息絶えて行った。
 朝、お早ようと行きあった時、あまり青い顔をしているので、「どこか悪いの」と聞いたら、先生は「うん、一寸、おなかこわしたようなの、大丈夫。」といっていた。実に真面目な方で、出征中の御主人の家庭をよく守って黙々と働らいておられた先生。遅進児をいつもかたわら近くに呼んで、丹念な指導を続けておられた先生が、直撃をこめかみに受けて、一言もいい残すことなく、今私の目の前で、絶命。

 声を限りに先生を呼ぶお父さんの声が、やがては力無い泣き声にかわっていった。泣いてはいけない時代であった。泣くことも許されてはいなかった。しかし、周囲の人達は泣いた。医院にあふれる被災者の中には、身寄りにもあえず、壁を背に坐ったままで息絶えている人があった。(列車も爆撃を受けたからだった。)
私は一時自分の傷を忘れ、痛みを忘れ、問もなく泣きながらかけつけてくれるであろう父や母を忘れて、息絶えていく人々を眼をあけてながめていた。やがて私はタンカで荒板をこえた。
「しっかりしなさい。もう少し。」
「がんばって下さい。」

 担架を担いで下さる方に励まされながら、長い峠を越えていった。灼熱の太陽が照りつける真底の荒板峠、ひとり歩いてもたまらなく長く苦しい峠、その峠の長かったこと! 間断なく襲ってくる痛みの中で、私は妄想のように起こってくる過去の思い出の迷絡にまぎれ込んでいった。
 それは睡魔でもなく、又幻覚でもなかった。たしかに、思い出であった。迷路の中に白いクローバーの花が咲き乱れていた。正倉院の池の岸であった。幼い妹が私の傍に立っている。厳しい寮監の目を盗んで、密かに自室に泊めてやったのだ。妹は指定の時間に奈良駅へ来なかった……桜井線まわりに間違えて乗ったのだった。

 炊事婦さんはとてもいい人だったなあ。あの夜、かき上げとさつま芋の甘煮きをお皿一ぱい運んでくれたっけ……あのおばさんには少し知恵の薄い小さい子がいつもくっついていたっけ。鼻すじのよくとおった眼もとの涼しいまつげの長いかわいい子だった……妹もびっくりするだろう……。もう知っているだろうか。私の怪我を……。
 教育心理学のS先生(現在京都学大教授)の時間だった。私は授業放棄のデモの火ぶたを切ってやった。
 「先生、私たちの納得いく解答をしてくれない限り、私たちは、授業を受けるわけにはいきません。」あの時はほんとうに痛快だった。よく退学処分にならなかったものだ……S先生も御存じないだろう。こんな田舎に迄、米機が来たということは……。

 際限なく雑多なことが思い出されては痛みにかき消され、もうろうとした思い出の迷路は、いつ果てるとも知れない。……途中で行き会う人々は、さも哀れげに、さも痛ましげに、私の担架を覗きこんでは、わめいている。
 誰が何といったってどうなるものでもない。重傷の私が、死にもの狂いで峠を越えているだけだ。
 死んではいけない、死にたくない、赤い鼻緒の下駄、ピアノ、父の顔、母の顔。
 発熱していたのだろうか、精神が錯乱していたのだろうか、夢うつつに叫び、夢うつつに何かを口走り、命を縮めるような痛みに襲われながら、やっとの思いで峠を越え、たどり着いた前坊病院であったが。

 自分の体から流れ出し、腰のあたりを浸していた生ぬるい血が、しだいに冷めたくなってきた。敵機が、まだ頭上を旋回し爆音が絶え聞ない病院の土間に、同じように担架で運こび込まれたままの被爆者が悲痛なうめき声をあげている。そして集まって来た家族たちの泣き声、叫び声、無事を喜こぶ声々で、凄惨を極める光景である。

 妹や父母が来たとき、私は再び平静を失っていた。怯えたように、、学校の先生に付き添われ壁ぎわに立っている妹、泣きながら私の手を取ってくれた父、しかし、一滴の涙もこぼさなかった母であった。肉親との対面が終っても、私の心の平静は帰らなかった。うわずった声で種々雑多なことをしゃべりまくる自分を、異状だと気づきながら制することができないまま、私は、四時間も、五時間も、放置されていたという。

 死というものが、こんな風に訪れてくるのだろうかなどと、漠然と思ってみたりした。周囲の人達は何をしているのか、ただそわそわと右往左往しているだけのように思えた。ある人は脈をとり、ある人は傷を見、ある人は顔が蝋細工のようだと言い、医師は防空壕の中で待期中だと言う。
 やがて、S先生の計らいで医師が強引に呼び出された。時を争う程の出血があるらしかった。意識がぼやけ、痛みも薄すれ、私の胸は死にたくないというただ一色に塗りつぶされていった。
素足で麦束を背負って上り下りした、家の近くの石ころだらけの白い坂道が、長く長く続いていた。

 手術台に載せられた私は、白い鉢巻をしめた老医師が、静かに私を覗き込むのを見た。白衣に点々と血の痕がついていた。
ひたいが蝋の様に光り、油汗が滲んでいる。
 しだいに、その老医師が視界から遠ざかり、やがて快ろよい、本当に心の底から救われるような眠りが、静かに、私に訪れた。

 人はよく危機一発でその難を逃れた話をする。
 そして、それが自分にとって、如何に幸運なものであったかを話すその人達の眼の、何と生き生きと光り輝いていることか。
 私は常にそんな人達のよき聞き手であったようだ。
 私の胸には歎息と羨望の灯が点滅する。人生の遥かな旅路に、傷つくことのみあまりに多く、暗いみじめな雑沓の中に、ともすれば自己を失いながら、功みにその荒波を泳ぎ抜く知恵と技能を持ち合わさなかった私の、力ない歎息の灯の点滅である。

 しかし私は生きて来た。心の温かい人達に支えられて、必死な歩みを続けて来た。
 再起不能、否生命の危険にさえも曝された私であったのに、私は今日まで生きて来た。
 あの日、病院の土間で、瀕死の私の脈をとり続けて下さった方、死なせてはならないと、太ももにリンゲルを打ち続けて下さった方、そんな方々のあったことを、私はうかつにもほんの最近まで知らなかった。
 無残な傷口から惜しげなく流れ出していた紅い血潮、土色の私の頬はそれでも若く丸かった。

 以来私の前に道は険しかった。
 幾度か泥にまみれ汗にあえぎながら生きることに懸命だった私。
 教師であること、母であることが、私の生き続けようとする力を湧き上がらせてくれたのか、本来の生への執着が、私を教師であり、母であらしめたのか、とにかく私はここまでたどり着いた。

 あの日から、すでに二十二年の才月が流れ、今日昭和四十二年八月八日、当時同じく被爆され、若く美しい命を戦いの牲(いけにえ)と散らされた故山口清子先生、中橋ハツ子先生、上田和子さん(当時四年生)の三人の方々の二十三回忌に参列、読経の声に又新たな悲憤の涙をかみしめてきた。
 遺影は微かな笑みをたたえて、当時のまま、ふくよかに美しかった。
 死の直前まで同志として固く結ばれていたなつかしい友よ、いまわしい直撃弾に、幽明境を異にしたはるかな友よ、今はやすらかに教育塔に眠るこの二人の友と、手を取り合ってあの日の、恐ろしかったことを語り合いたい。
 生きていくことの辛さ、難かしさを聞いてもらいたい。
 握りしめた手の甲に、熱い涙が一滴こぼれ落ちた。
 幾つかの、苦難のつぶてを私に投げかけながら、それにしても月日は矢の如く過ぎ去った。

    幸せを、一つ一つとこぼし来て、かざせば闇に薄き手のひら
    たよたよと重ねて人に乞うことも なくて握れば小さき我が手
    血通わぬ義足も操作に馴れて 我がカブ軽し霧の晴れてゆく朝

    大川は漸く暮れぬ うずくまり我が病衣すすぐ母は小さく

 長い夏の陽が落ちると、母は血と汗に汚れた私の病衣をかかえて、病院の近くの吉野川に下りていった。手術を終えたばかりの病室では、翌日も、その翌日も警報を聞いた。動かせる患者は、ぼつぼつ町はずれの寄足寺へ避難を始めた。同じく右足に破片の貫通傷を受けたTさんや、顔や手に裂傷を受けたKさんも病院をあとにした。 私の部屋にも、何回か警備員が見えた。

 しかし、避難どころか、絶対安静の身であれば、どうすることもできはしない。少し大きく息をしてさえ、全身をこなごなにしてしまいそうなはげしい痛み、額と胸と患部に、寸時も離せない氷のう、強心剤と麻酔と、日に何回か、医師を呼びに走らねばならない私のために母は言った。
 「仕方がない、一緒に死のうや、せめて親子揃って死ねるだけまだましや。」
母の言葉に、みんな黙ってうなずいた。そして四人は目をつぶった。
――死ねばこの傷の痛みが薄らぐだろう。きっと楽になる――
 見舞客のとだえた病室に、夏の日ざしはようしゃなく射し込み、暑さと痛みと多量の出血のため、私は思考力を失くしていた。
 
 それでも、私は思わざるを得なかった。
――ながいあいだ貧しい中から私を教育してくれた年老いた父母、何の苦情もなく、みにくいあひるの子となった私のために、いっしょに死のうといっている。しかし、これは私の責任ではない。 今にこうした死者やけが人が続出する。どうせなくする命なのだ。敢えて毀傷(きしょう)せざるはと言うけれど、これは私の責任では――
 そう思いつつ、なおも父母が可哀想で、妹がいじらしくて、申し訳ない気持で、ともすれば視野がぼやけた。

 あれ程、死にたくない、命が惜しいと願ったあの時の私はどこへ行ったのか、すまない申しわけないと泣きながら、むしろ死を願っていたようだ。警報が解けると、やがて母は立ち上がった。洗濯物をまるめて階段を降りた。窓から母の姿が見える。わずかに頭を上げて、背をまるめてとぼとぼと石の上を歩いていく。

 名古屋の軍需工場に勤めていた兄が帰って来た。木炭トラックに乗って、一日がかりでたどり着いたという。途中で何回か警報に合い、命からがらだった、という兄の顔は涙でゆがんでいた。
「二度も応召し、死線を越えてきた自分が無傷なのに、安心しきっていた田舎の妹がこんな災難にあうなんて。」
 兄はそう言って泣きじゃくった。肉親が全員揃えば、新しい涙がみんなの頬を濡らすのだった。

 五年間の寮生活の間に、この父と母と兄と妹は、かわるがわる訪ねてきてくれた。家を離れて生活する寂しさに私はハガキー枚ギッシリと
「帰りたい、帰りたい。」
とそればかり書き送ったことがあった。他に文句は何もなかった。そんな私に、この人達はかわるがわる我が家の匂を運んでくれた。思えば私達兄弟三人には、喧嘩というものがなかった。妹は私の帰省を何よりも喜こび、休暇が終って私が寮へ帰ったあと、一週間は半病人のようだったという。ある時は発熱して、食事も採らなかったという。

 当時、妹が書き送った私への「幼き便り」は一冊の文集になった。そして、私の作文研究の材料になり、Y教授を感動させたことであった。その三人が集まれば、私にはもう何も言うことがない筈であった。みんなに囲まれて、幸せに養生ができるというものであった。この傷が完全に癒えるならば、失ったあの足が再び私に帰ってくるならば。
     
   もつれ合う白蛾二匹を見失い 痛みしばらく戻る夕暮れ

 太ももに大きな裂傷があって、化膿し始め熱が下がらない。胸が苦しく容態は悪化。そんな状態か続いても、氷のうも氷も自由に手に入らない時代であった。 母は気違いのように町をかけずり廻わった。

 うわ言を言い続ける私をあとに、悲しい世話のやける物々交換が、必死になって行なわれていた。米や芋を風呂敷にくるんで背追い、母は夜更けの町を、氷を求めて走りまわった。やり場のない憤りが、母をますます強くしたようだ。
 「氷がなければ娘が死にます。」
 しかし、声を限りに叫んでも訴えても、ないものは仕方がなかった。母は、僅かな氷を宝物のように、大事に抱えて帰ってきては私の胸にかき抱かせるのだった。
そして、母は言う。
 「大丈夫、きっと直る。直れば義足で歩けるようになる。きっといい日も来るからしっかりして、早く元気になっておくれ。」
「こんなやさしい心のお前が、このまま不幸せのまま死なせてなるものか。さあ薬を飲んで。」 
母は涙を見せなかった。
兄も「泣くな、男のくせに。」と、言葉厳しく叱られている。
 しかし、階段を降りながら、声をあげて泣いたものだと、二、三年もたってから洩らしている。
 見舞客も、皆んなが皆んな、泣きながら入ってきたが、部屋の入口で、
「泣いてくれるな、本人が可哀想だから、」
 と眼で合図して断わったのだよ。あの時は辛かった。」と当時を追想して、今でも涙をこぼす母である。

 非常時であったとは言え、現在自分の娘を、玉の如くいつくしんで育てている自分の娘を、こうした目に遇わせたとしたら、果して私は、母のようにできるだろうか。全く私にはその自信がない。ぐたくたと崩れてしまうにちがいない。

 太ももの切開。老医師は、
 「見事なこのアブラミ、すき焼きしたら美味いだろうなあ。君の足を切断する時のあの脂肪はさあ、三センチぐらいもあっただろうか。随分邪魔でやりにくかったよ。勿体ないことをしたものだ。実に惜しかったよ。」
 などと、私の気を引き立てるような冗談を言い、いまわしい爆弾の破片が入り、化膿していると思いこんでいる私の太ももを、
「そんなに切って欲しいのなら、さあ切ってやる。」
 と、今度は無雑作に切開して下さるのだった。あの日とは似ても似つかぬ柔和な老医師の顔であった。

 膿が出ると、あとはさっぱりと熱が下った。切断の傷も漸く痛みがとれ、早鐘を打っていた胸の動悸も収まった。ガーゼ交換にも、はや押さえつけてもらう必要もなくなった。

 その間に終戦という事実があった。
 私の思考力は、回復する時期をしばしば失したかのようだった。
 いたずらに心は空転し、暗中模索、しばらくは呆然と日を過ごした。

 秋風が気持ちよい頃になると、私は妹と歌うことが多くなった。妹のソプラノが、病院の夕暮をひそかに流れた。ぼだい樹やジョスラン、乙女の心を静かにかき立てていくメロデーであっても、何の感懐もなく、唯うつろに歌うだけであった。
 軍歌に塗りつぶされた乙女の日ではあったが、やはり二人は、いくつかの愛唱歌を待っていた。
傷が癒えてどうしょうというのでもない。感情のすでに去りし亡骸(なきがら)である私達の歌声は敗戦の町のうらぶれた病院の窓から、いずこへともなく流れ去った。

 そして再び黒船が来ると人々は怯えおののいている。男は皆殺しだそうだなどと、噂は流れる。しかし私には、何のゆかりもない風のような話であった。幼児のように母にまつわり、夢遊病者のように何処まで行こうあてもない日がずっと続く。右肩にひどい傷を負った、きれいな婦人の、痛みを訴えて泣くか細い力無い声が、夜っぴいて階下から開こえてきたりして、夜は又心の痛む夜であった。

 それでも退院の日はめぐって来た。一ヶ月の人院生活はかくして終った。
 目に見えて貧血がはげしく、頭をあげると目がくらみ、意識がぼやける日があっても、一回の輸血はおろか、栄養剤にもこと欠くありさまで、化膿しつつも南爪やさつまいも以外の食料もなかった。心ある人々が、わずかに山羊の乳や鶏肉、さては手に入れがたい増血剤など、かわるがわる病床へ運んで下さった。

 こうした厚い人の情に守られて、あの戦後の苦境の中を、私は快方に向っていった。静かに髪がとかせるようになると、毎日見舞って下さるS先生に、一度坐って空を見たい、と椅子をねだった。
 寝ながら見なれた窓の空とはちがって、光る雲がまぶしく美しかった。
 時々、夕立ちが心の中を洗い流すように降りしぶき、すがやかな初秋の明け暮れが続く。
 金色にさざ彼のたった吉野川の夕暮れ、あの河原を歩いてみたい、冷ややかな河の流れに両足をひたしてみたいなどと、回復に向えば又空しいことを思いわずらう明け暮れが続く。

 やがて退院。爽やかにとうもろこしの葉が風に鳴る九月半ば、とうとう病院をあとにする。父がリヤカーを引いた。父は何度か立ち止って汗を拭いた。汗と涙で父の顔はみにくく汚れている。母と妹が、大きな包みを抱えてとぼとぼとついてくる。
「まあ、なんと悲しいことよ。こんなに美しい娘まで。世の中には神も仏もないわいたあ!」
と涙をボロボロこぼしながら見送ってくれた隣室の老母のその声が、どこまでも私を追っかけてくる。

 白い障子のあるわが家、あの朝”紅い鼻緒”の下駄を履いて、「行ってきます」とすこやかな足音で出かけて行った私の、かくも変わり果てた姿であった。下駄箱の前に、白い小さなハイヒールがきちんと揃えてあった。

 それから毎朝の通院が一ヶ月程続く。十日余りは、リヤカーで運ぱれた。抱きかかえられ、おぶさって、私は幼児のように運ぱれるより仕方がなかった。目を覆い、見ざる聞かざる思わざる、自分自身をほうむってしまいたいような一ヶ月。後半は父の自転車の荷台に乗せられた。父は、時々火のように怒った。怒る父よりも黙って聞いているあの時の私の心の中を、どう書き表わしてよいだろう……。

 当日、北宇智の某家で、敷布とんをお借りしたまま家に持ち帰っていたが、その某家から催促があった。母は急いで布団の仕立てがえをすると、風呂敷にくるんで背負い、あの日私がタンカで越えた荒板を、歩いて北宇智に向った。汽車の切っぷが自由に買えない当時であった。
 まだ残る暑さに、全身汗だくになって、峠にさしかかる手前、一人の看視人らしい人に呼び止められたという。

 当時荒坂は自由に通行することを禁じられていたようだ。それは何か物資の横流しを押えるための見張りであったようだ。かくかくしかじかで某家に行くのですと、母は頭を下げて泣いて頼んだが、どうしても通すことができないという。思案にくれて、母は石に腰をおろしてしばらくは泣いていたようだ。もう一度引き返えそうか。それとも外に抜け道はないだろうかと。

 そうした母の姿を、私は今でも涙をして思い浮べることができない。やっぱり私は、自分を親不孝者と名づけよう。そして生涯かかっても、この償いをしよう。私はこの話をずっとあとになって聞かされたが、その時そう固く心に刻みこんだ。

 しかし、そうはいかないことが次々に起ってしまう。幸い一人の婦人、それもその看視人と懇意の人が通りがかり
「それはお気の毒に私が連れていってあげましょう。」
 と道案内をしてくれた。おかげて母は関所を通り抜けることができ、無事に布団をかえしその日の夕方、いそいそと帰ってきた。

 ついで四ケ月の療養生活。信仰を熱心に勧めて下さる人があった。神のみがあなたを救ってくれるのです……
 しかし、この私を教ってくれる神があろうとは思えなかった。私は無神教だった。何回足を運んで神の教えを説いてくださっても、私の心は閉ざしたまま開こうともしなかった。
 小説や随筆を届けてくださる方もあり、また方々から見舞や激励の手紙が届いた。
 ぼつぼつ好きな短歌をやっていた矢先だったので、有名な先生方から慰問の手紙を頂いたりした。

     左足切断の手術を終えし病院に 国破れたと聞きしあの日よ
     はなやぎてかっては乗りにし通勤列車 義足買い持ちこっそり坐る

 その技術や作品の良さというより、事実そのものに対してのいたわりの手紙であった。母校の先生方や、同期の友達も、はるばるこの山深い待乳山のふもとまで足を運んで下さった。 みんな私のすこやかだった頃を知っていて下さる方達、美しく伸びた私の左足が決まったように話題となった。春日野にボールを追って転げ廻ったかっての私、津の海岸の白い砂の上に思うさま手足を伸ばして直射日光に真黒になっていた私、横泳ぎが得意だった。
 体力検定に上級がとれたのは毎朝のかけ足訓練のたまものだった。
 生駒山の熊笹をかきわけて強行軍の吟行もやったっけ。
 そして、みにくい今の私の左足……友も私もその包帯の上にハラハラと涙をこぼし声をあげて泣いた。

 卒業式も間近い或日、四年間学級主任だったM先生から突然こんな話があった。
 「ある小学校長から、音楽の堪能な卒業生の推薦を依頼されたから、あなたを推薦しといたわよ、いいわね、決して堪能とは言えないけれど、あなたの可能性を信じているのよ。しっかりおやりなさいね。お勤めしてもピアノは見てあげる。」
 私はM先生を手こずらせた一生徒であった。例のデモ騒ぎ、そしてそれよりも一番心配をかけたのは偏食と健康の問題であった。そのM先生から手紙を頂いた。
 「あなたをあの時推薦しなかったら、こんなかわいそうな目に合わせずにすんだものを。あ々たはきっと私を恨んでいるでしょう。申しわけないことをしてしまった。とても辛い気持です。どうか強く生きてください。いのっています。」
きっとM先生は心を痛めていて下さるにちがいない。
 恨むなんてそんなこと、私には思いもかけぬことであった。私はM先生に心の負担をかけてはいけないと思った。再びM先生の前に姿をあらわすまい、と心に誓った。でも何回かお会いしてしまう。

 M先生は手を合わせて私の姿をおがんでいるとおっしゃった。そして御自分の苦労もあなたを思い出すと軽減するとも。今は、奈良女子大のY教授、当時は師範の国文の担任であった。Y先生ははるばると見舞ってくださった。当時私はY先生を案内して待乳峠に万葉の跡をたずねている。リルケの詩を朗読して下さったY先生、三好達治の一点鏡や会津八ーの鹿鳴集を勧めて下さったY先生は私の敬愛する先生であった。

 Y先生の講義を聞くたびに、文学への憧れは高まり、限りない知識欲が燃えひろがった。当時私は顔色のよくない、やせっぽちな少女であった。一学期を皆欠席したかして病弱であった。
 せまい校内にY先生との心ない評判が立ち始めると、一部で私を白眼視する先生が出てきた。
 清純な乙女の胸を無残に傷つけるそのいまわしり意地悪な侮蔑のまなざしを、私は今も尚忘れることができない。

 或先生は私を授業中面罵した。
「戦時下じゃないの、文学少女の青二才に何かできる。あたしゃ、そんなものに何の価値も見出しゃしないよ。馬鹿馬鹿しい。」
 厳しい寮生活で、消灯の規則は厳格であった。
 しかし、消灯後も特別に、図書室で本を読むことは許してくださった寮監の先生もあったのに。ともあれ、私はよく貧血を起してぶっ倒れたかして他の級友のように、強靭な精神と身体を待ち合わせていなかったようだ。

 文学に興味を待って何が悪いというのだろう。非国民を見るような眼で、何故責めなければならないのだろう。私は、むしろ反抗的に源氏を読み更科日記を読みふけった。
 そのY先生の手紙の一節に、
「神は救いを拒みはしない。片脚を失ったかわりに、過ぎゆかざるもの――永遠をつかんでほしい。口惜しかっただろう。悲しかっただろう。御身の哭き声が聞こえる。だが、どことなく強いところのあった御身だ。世の中も亦冷酷だとばかり決まっていない。歌たいたまえ、悲しみの唄を。
されど亦歩む日の唄も亦、高らかに唄いたまえ――。若鮎のような御身の姿体を思い浮べながら……。」
 とあった。
神はなくとも、素直に勇気づけられ慰められて、気も狂(ふ)れず療養の日は過ぎていった。

 しかし、ある時命を断つことを真剣に考えた。
 それは、出来上ってきたばかりの義足を見ては、あさましく、こなごなに打ち砕いて、泣き荒れた日もあった。家族の者は唯おろおろと、私の周囲に立ちつくすばかり。
 その義足は、母が東奔西走して、やっと手に入れた乗車切符で――二見駅で泣きついたが、役場の証明書よ、警察の許可書よと、わずらわしい手順を経なければ、手に入れられる切符ではなかった――。

 その得がたい切符を、何度か都合し、あつらえてきた義足であるということを、誰よりも、その母の苦労を承知している私であるのに、またしてもこうした親不孝を重ねてしまう。
 そして、食事もせず、口もきかない時間がきてしまう。
泣き荒れて、そのあとにくるこうした虚脱、これがまた何とも始末に終えないものであった。

 広島、長崎の原爆の話題が尽きず、その街には、再び草も木も芽生えることがないという不気味な噂が、敗戦の不安を一層かき立てた。
 収容しきれぬ患者が、食餌もないまま、折重って昇天してゆくと、なお私の心に怒りの炎をかきたてていくような悲惨なニュースが次々と伝わった。
 青ぶくれになって、明らかに栄養障害を起していると見られる、都会の、かっては上流婦人であった人達が、闇米を求めてうろつき、進駐軍のジープか県道を何台もつっ走る。ガムやチョコレートをせがんでむらがる子どもたち、それはかって一億火の玉の精神を、やっきとなって吹き込んだ陛下の赤子であった筈だ。すべての人は心を宙に浮かせていた。
 巷には節操を失くした人々があふれ、不安で惨めなのは、私の心だけではなかった。希望を失ったのは私だけではない。そうしたことはわかりきっていながら、やはり、私に
「人生は一度しかないのだ。」という絶望感、
「青春はすでに、無残に塗りつぶされてしまったのだ。」
という絶望感は周囲とは全く無関係に私を底深く落とし込み、閉じこめあえぎ続けさせた。

 しかし、しかしその暗い乱れた空のもとでも、若い娘は日増しに美しさをとり戻していた。
 黒いモンペを軽やかなスカートにはきかえた彼女達は、昨日まで厳しく禁じられていたパラソルを、紅い花模様のパラソルを幸せそうに傾けながら、短かくカールした髪も心よげに、ほのかな脂粉の匂いを残して帰って行く。
 二十才という年令が恨めしかった。

 奈良の近くのある村へ学生の頃、よく稲刈り奉仕に出かけて行った。そして、一人で留守家庭を守る盲いた気の毒な老母のために、手紙の代筆をしてあげたことがあった。
 御子息は若い海軍さんだった。
 その方とはその後もずっと文通を続けていたが、突然復員され、かけつけてきて下さった。初対面のその人は、交換しあった写真で見たような美しい若い人ではなかった。別人のように疲れ果て、マラリヤ熱で痩せおとろえ、その上に栄養失調からくる皮膚疾患のため見るかげもなくやつれていた。平和な御時世ならば、どちらも青春の歌を高らかに歌いあう、若さを包み切れない年令であった。誰が私たちをこのようにしたのか。

 その人は言った。ボツボツと。
「あなたも酷いめにあったね。帰ってみれば母は亡くなり、広い家に僕は一人だ。終戦の知らせがあと一日遅かったら、僕も戦地で突っ込んで、今頃おめおめと帰ってはこなかったのだが……生きて帰って幸せといえるだろうか。今は唯、夜が明ければ起き、日が暮れれば眠るだけだ。」と、
 私達は手を取り合った。互に冷めたい手であった。燃えることを知らない失意の手であった。私の前に、彼は再び現れない。

 そして又、密かに交際を始めていたK青年も復員後申し訳けのように私の枕辺を訪い、
「僕には母を養う責任が……。」
と、私の心を掻きむしるような言葉を残して去って行く。みんな遠い存在となった。

 十月の末、北宇智校のS校長先生が誠にお気の毒ですがといって、
 「療養三ヶ月以降は、給料月額の三分の一しか支給できなくなります。」
という話を待って来られた。そしてついでに
 「どうでしょう。今後なおこの教職について行かれるおつもりでしょうか。」
と、さも言い難くそうな口ぶりであった。

 私にとって、その言葉は全くの打撃であった。いたずらに感傷に溺れ、死を夢に見、自棄的な日常に甘んじていた矢先であった。すでに私の涙は乾いていた。
 そうだった。それについて真剣に考えなければならないのだ。何という、うかつな日々を過してきた自分だろう。
 もはや人生の小休止は過ぎ去った。たとえそれが無理であったとしても、傷ついて倒れた職場から、その日迄受け持っていた七十余名の子供たちから、
 「早く良くなって職場へ戻っておいで。」
という甘い言葉をそれとなく夢見ていた私ではなかったか。私は真剣に苦しんだ。そして、今私から教職を取りあげられるということは、死ねということ以外何ものでもない。そう確信した。

 洋裁も、その他手内職も生きて行くかてが得られようとはどうしても思えなかった。
幼い日から、母と共に憧れた教師の生活が、何としてもすがりつきたい一本の綱であると思われた。
 後日、何とか教師として生きて行きたい旨を書き送った私は、改めて自分の体と、至難な将来について深刻に考え始めた。
 間もなく、歩行訓練が始まった。
松葉杖にすがって、おぼつかない一歩一歩が、懸命に痛みを耐えながら、そして、もう薄すら寒い北風に向って踏み出された。母は中古の自転車を買ってきた。何とか、自分の力で生きてゆくためにとの、母の悲痛な思案の結果てあった。
 母と私の、血の出るような努力が始まる。耐えることのみ強いられ生きてきた私のなお、耐えて生きねばならぬ未来のために、踏み出された再出発の第一歩であった。

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