五條探検隊

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22 策道  

21 楳図かずお

20 藤代昇の五條回顧
19 女子水泳王国
18 河崎なつ
17 青いぶどう3
16 青いぶどう2
15 青いぶどう1
14 二見城
13 和歌山線
12 昔の五條
11 西川と草谷寺
10 古代の真土峠
9 天誅組の門
8 まちや館
7 大澤寺
6 女性俳句会「紅樹」
5 柿博物館
4 五新鉄道
3 伊勢街道
2 吉野川
1 地名の由来



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12 昔の五條


地図はクリックすると拡大します。

国会図書館に五條市史(1958年版)があります。
その中に伊勢街道沿いの五條を中心とした河谷に沿う集落の、江戸時代からの変遷の興味深い記述がありました。
和歌山線開通前は伊勢街道を往来するお伊勢参りの参詣客や商人で、街道筋の東阿田、西阿田、三在、宇野、五條、新町、二見、上野、畑田の集落に宿、茶店、人力車等が点在していたそうです。
その中で特に代官所があった五條と新町が繁栄していました。
しかし明治33年に湊町(JRなんば)〜五條〜和歌山の鉄道が開通し、駅のある五條と二見以外は元の村里に戻ったそうです。
横町と呼ばれた当時の五条駅周辺は田畑でしたが、駅ができて今の駅前商店街ができました。
これは今の車社会以前の昭和30年代に書かれており、五條駅前通りとそれにつながる商励会通り(坂口町、辰巳町)の商店街が一番栄えていた頃のものです。

今は五條市内の道路が整備されどこに行くにも車で、鉄道を利用する人や道を歩く人は僅かになり、商店街も変わってしまいました。
五條は寂れたとよく云われますが、五條市の人口は50年前と同じ3万人強です。
かっての中心街から田園町や居傳町等の新しい住宅地に人が移住しただけで、五條市全体では人口は減っていません。
昨年、京奈和道路の五條〜橋本区間が開通しました。
車に占拠されていた五條の中心の本陣交差点(地図の六八銀行周辺)とそこから西の国道24号線も、いくらかすっきりしてきています。
これを機会に自転車や歩行者にも通行しやすい町になってもらいたいものです。
以下は五條市史のその記述で、また左はそこに掲載されていた明治初年の五條の貴重な地図です。

江戸期から昭和30年代にかけての五條の移り変わり(五條市史1958年版より)

河谷に沿う集落

河谷に沿う道路は中央構造線上を走って、紀伊半島の東西横断路として重要な交通路である。五條市やその付近の人々はお伊勢参りの道として、中世、近世から鉄道交通がひらけるまで利用された道である。
江戸時代には和歌山藩の参勤交代往還路でもあった。お伊勢参りの年越え参りと春四月の農閑期に団参が毎日ほど続き、伊勢音頭をとりつつ歩く様子はとても賑やかであったと思う。
明治の末に汽車が開通して、道路を歩く人影は少なくなってきたが、最近自動車交通が盛んになつて道路も国道として改修されて、再び道路の価値が高くなってきた。
この街道筋の村落で本市に関係するのは、東阿田、西阿田、三在、宇野、五條、二見、上野、畑田などである。
街道筋の集落は共通的に休憩、宿泊の店が多かったようである。
それは一寸茶店で休んでから歩こう、タ方になれば宿を求めるといった調子であって、誠に速度のおそい交通であったので、沿道の村落はどこも繁昌したようである。
三在には、あかねや、えびや、大和屋などの煮売屋兼宿屋があった。宇野も同じような店々があった。
宇野、三在と阿田の間に宇野峠がある。今日では切下げて二百二十米であるが、昔はもっと高く坂も急で、明治になって人力車でここを越えるにも、前引後押で越えた位である。
人力車の帳場は三在のえびやの前にあって、ここから下市迄利用した人が多かったという古老の話である。
峠を登りつめると、植田老人が一文菓子屋をやっていたというが、今ではその跡形もなくなっていて、話だけが伝えられている。
宇野・三在では年越参りの頃には、一日平均二百人も通ったというのであるから、必然的に道路より収入を得ようとする人々がでてくるのである。家並は昔と変らず道路に沿って建っている。
こんな村落形態を路村といっている。路村でも生活収入を道路を通る人々より得るので特に村落形態を街村と呼んでいる。宇野・三在は全く街村である。
五條町は明治二十一年、五條、須恵、新町、二見、大島の五村を一つにして行政区とした地域である。ここに述べる沿道の市街地は須恵、五條、新町、二見である。
須恵は伊勢街道に沿う街村で五條に接していたが、鉄道開通後発展して五條と区別がつかなくなってしまった。
五條駅は田の中にぼつんとできた南和鉄道の駅であった。
後、紀和鉄道がここから和歌山に通ずるに従っで益々発展したのである。駅前の須恵町横町は全く駅前町として明治末にできた市街地である。
五條から南へ西熊野街道、この道路は和歌山県の本宮、新宮に通じている。西へ紀州街道、この道は高野・和歌山へ向う。東へは宇野峠を越えて吉野郡下市に通ずる伊勢街道がある。更に北へ岡・荒坂峠を越え久留野を経て河内に通ずる道路がある。
五條はこの十字路の交点に位置している。
また吉野川が交通の価値が高かった頃湊であつたこの町は水路交通の要処であった。
河川、道路交通が繁栄していた頃のようすを記録した古文書があって、その中に、河川は筏で木材輸送を行い、その他の荷物は陸上輸送に当るべきであると慣習になっていたが、筏輸送をする者が他の品物まで運ぶので、五條、須恵、新町の三村の馬借が憤慨して訴えている。
「諸荷物馬荷の分、橋本町問屋まで送り橋本町より差出候荷物も三ケ村迄送り出させ、三ケ村にて差継申す儀に御座候然処近年吉野山中より紀州への荷物減少仕り、怪しむ点有之色々心かけ罷在候処去寅三月吉野郡より下し申し筏之上紛敷見請候につき相改候えば、松板三十二束上覆いたし乗り来り候斯様に罷成候而は馬、船にて積下候物相減じ五條村馬借相立不申云々」
とある。
交通の要点であるがために利権争いが生じたのである。
五條には古くから運送店の経営があり、明治一七年の地図にも辰己町で小川治良平氏が運送屋と宿屋を経営していた。十津川方面の人が五條へ来るには吉野川を渡らねばならなかった。
そこで五條の町では遠来の客を無料で渡船で運んでいたらしいことは五条村船の覚(元禄二年)に
「渡船壱そう長五間壱尺五寸(約九.六米)横六尺五寸(約二米)高さ壱尺八寸(約○.五米)この船吉野郡中より五條村へ柴売又買物に来候市人を乗せ候ため、拾年ばかり以前搏申候、船賃は少しも取不申候、渡守給分は五條村・新町・須恵村右三ケ村より家壱軒につき夏麦壱升、秋米壱升出し置申し候云々」とある。
こうした五條村のサービスによって賀名生、大塔、十津川との交渉が活発に行なわれ、棕梠(シュロ:たわしの材料)、蝋燭(ろうそく)などが持ち込まれて、日常雑貨が買われていったのである。
市も発生していた。応永十九年(一四〇九)に五條の市場という名が河内観心寺文書にみえるからその以前からあったといえる。
市場の場所は戎神社前であった。
この場所は紀伊街道と奥吉野とを結ぶ交点で五條の中心地であった。

中略

商業の中、宿屋、旅籠屋なども入れて計算しているが、五條の旅館の宿泊客を調査することによって、商圏も大体わかると考えて、旧吉野屋旅館の貸付帳を整理したら、十津川方面の客が多い。
五條、富貴、天辻、阪本、十津川への道筋が五條への最大の顧客となっている。
次は下市、鷲家口、小川方面で伊勢街道筋となる。川上方面からも木材関係でやって来たようである。
五條の当時の商圏は西熊野街道と伊勢街道筋と考えて、更に地元を付加したものであると思う。
このようにして五條は奈良県南部の重要な村として発展したのである。
従って寛政七年(一七九五)ここに代官所がおかれ、口出口、奥谷口、滝口、簾口、天ノ川、坂本口、下市口、飯貝口の口役銀(荷物にかける税)の収納もここでやったのである。
これに伴う掛屋(銀行)を栗山、柏田の両家で預かっていた。
五條は交通の町である。古い交通によって栄える基盤をつくり、現代の鉄道、国道によって更に躍進していく町である。複雑な道路のため集落の形態も複雑になり、街村状になった。
新町は二見の枝郷で「慶長年間に松倉豊後守御赦免被成下則御書頂戴仕罷有候云々」の文書にもみえる通り、町の設立は慶長年間であって、家並が揃うのが「元和九年宇智郡新町屋敷割帳」のできた頃であろう。
正保弐年に家数九拾四軒、延宝弐年九拾三軒、元禄十六年九拾三軒で徳川時代には増加が少なかったようである。
二見は松倉豊後守の城下町として慶長五年頃発展したのである。
松倉氏元和元年肥前島原四万三千石の城主として国替があるまで約十五年間に町の発展が著しかった。
城下の機能を失っても紀伊街道に沿う交通集落として発展を続けたのである。古い旅籠屋の民家もその当時の名残りを留めている。
畑田も紀伊街道に沿う交通集落である。飲食店人力車の帳場などがあった。
人力車(一人乗)岡本常吉氏、田村若松氏、人力車・旅籠屋飲食店岡村松吉氏などそれぞれ経営していたのである。
その他に鋸商奥田久吉氏、質屋風谷忠三郎氏、綿打業土田政吉氏などがあった。
これは明治十五年の記録で鉄道開通前の状態である。
更に総戸数十五の中、七戸までが商業に従事していたことは、街道に沿って生活していたので、これも街村といえる。
以上で伊勢・紀伊街道に沿う村や町の中で特徴的なものを拾ってみたのである。
これらの集落は交通的機能によって生活していたので宿屋、旅籠屋、煮売屋、菓子屋などの店々が繁昌していた。
しかし時の移るに従い、世は文明となるにつれて道を歩く旅人はなくなり、五條、二見を除く他の村落は昔日の観を失なって、単なる農村となった。
今日道路交通が自動車によって行なわれるようになったが、沿道の村落は昔に戻らなく、煩わしい自動車の騒音のみがふえただけである。