➁動詞は語幹と活用部分で成る
かしゃぐら通信2005-11-18 / 2007-Dec-23/2015-Feb-07/2016-Feb-10















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 民間私営のプライベート・バスはいつでも込んでいます。中古だけど日本の小型バスを使っていてなかなか快適。政府の公営バス、赤いTATAなら空いていていつでも座れるのだけどオンボロで、汚くて、遅くて。でも、私営も公営も料金は同じです。スリランカは民主的な共和国だからバス料金は庶民運賃だから利用しやすいのです。だけど、公営は経営に努力とサービスを持ち込みません。今日は仏寺に詣でるからと白いサロマとシャツ、これ民族衣装(ジャーティカ・アンドゥムと言います)なのですが、これを着て公営のバスに乗ったりするとケラニアで降りるころには油で黒く汚れていた、なんてことだって、ままあります。だから、庶民はきれいで速いプライベートを選びます。
 プライベートはサービスの塊がバスになったみたいなもんで、個人でバス路線を買い取って営業しています。バスにステレオを組み込んでシンハラ・バイラを流したり、電飾ブッダ像を車内に飾って豆電球をピカピカさせたり。とにかく、車内をきれいに磨いて座席を真新しくクリーニングしたり。プラ―べート・バスはオーナーの趣味が車内のそこかしこにちりばめられているから楽しいのです。
 或る知り合いは中東の出稼ぎで稼いで国に戻ってバスのオーナーになりました。儲かる路線を買ってバスの運行は専門業者にゆだねます。出稼ぎで働き詰めだったから、スリランカへ戻ったら左うちわで優雅に暮らします。だが、その専門業者から電話が入ります。バスのブレーキの利きが悪くなった。タイヤがパンクした。エンジンが動かない。ありとあらゆるトラブルは知り合いの下に寄せられます。知り合いは慌ててバイクにまたがり家を出ます。
 出かけて行って、まず、バスの様子を見ます。何事も自分で確かめないと事実が確認できないのがスリランカです。自動車の構造に詳しくなければ、運転手の言いなりになるしかないし、それは、ちょっと。バスをガレージに入れて修理をするにしても、どこがどう壊れていてどう修理するといくらかかるか? その値段で修理して月の売り上げはペイするだろうか? そうしたことのすべてを把握していなければオーナーという役柄はこなせません。

 だけど、私の場合、公営政府バスをわざわざ選ぶ時があります。汚くておんぼろで、遅くて。その走りっぷりの、いかにも鈍くて、かと思うといきなり豪快なハンドルさばきでバスは道をスピンして、分かんないけど不思議なかっこよさ。重たげな移動装置。公営TATAバス。スリランカの文明のにおいがするからです。
 日の暮れかかり。コロンボの道は車でいっぱいです。ペッタ辺りからミーガムワへ抜ける道路はケラニ川を渡る前のロータリーを抜けるまでひどく渋滞します。日本の援助でコンクリート橋が架けられて誇らしげに、さも誇らしげに、日本がこの橋を架けたのである、なんてプレートが掲げてあるのですがすこしも交通渋滞は変わりません。クレイモア爆弾のテロルの後に道路検問が敷かれたりしたら、道路は駐車場状態です。橋を渡ろうだなんて気でいることが過ちだと知らされます。平日のトーキョー竹橋ジャンクション状態に輪を掛けて、クラクション・ファンファーレの大演奏と見事な排ガスとに全身を包まれながら熱帯の島の大都市では大動脈渋滞が延々と続いています。どこぞの国の、どんなドナーでもいいですからこの南国の天国のような島で本当のプロジェクトをやって、都市が都市として機能する道路網をちゃんとこしらえて欲しいものです。
 
 キリバッジョレの交差点でバスを乗り換えて内陸に向かえばバスは田舎へ走り出します。ここまで来るとやっと本来のスリランカ気分になってきます。田舎のバス停を下りて停留所脇の小道に下って、大きな水溜りが数珠繋ぎで、ため池のようになっている赤土の道を歩いてゆきます。夕方のスコールが去った後の道はいつもこんな具合。歩きにくいけど日中の熱気が和らいで、なんかさわやか。そして、ラテライトの小道に入って1分も歩けば、そこはすでにジャングルです。
 ヤシに囲まれたジャングルに紛れ込んでしまった。どうしよう。てな気分です。この辺りは実は新興の住宅地です。土地バブルで地価が膨らんでいます。抜け目のない不動産業者が宅地を買いあさり、ここ1、2年で地価はずいぶん高くなりました。
 新興住宅地なのですが友人の家は完璧にジャングルの中です。そのジャングルは友人の父の所有地。親父さんが鉄工所勤めのときに買った土地に小さな家を建てたのが半世紀も前。ジャングルに椰子とバナナを毎年植えて増やしました。バナナを植え替えて代を繋いで育ててきました。放っておいてもぐううっと伸びる。その育ちのいいことったら。自然のジャングルに見える林がおやじさんの植林の賜物だったなんて。日本のトーキョーの下町のアスファルト砂漠で育った私にはどうやっても見当がつかない光景です。

 庭の椰子の群落が日差しをさえぎる。満天にそよぐ椰子の葉が湿気と冷気を運ぶ。玄関の開け放した門の先のタンバパンニの色をした小道を眺めて犬があくびしているのが見えます。道の水たまりを避けながら私は歩いて門に近づいています。チッ、チッ、チッと小鳥が鋭く鳴いて目の前を横切りました。小鳥の名前はわからない。
 家に帰ってすぐに浴室のシャワーで水浴み。バスタオルを腰に巻いて部屋に戻ると小皿を紅茶のマグ・カップに載せて友人が笑顔で差し出します。サロマをかぶって腰に結びなおして甘くておいしい紅茶をいただきました。
「探し物はあった?」
「なかったんだけど、別の本に出合った」
「どれ?」
「これだけど」
 買ってきた冊子『クリヤーパダヤ』を広げました。その14ページにこんな表が載っています。


ක්‍රියා පදය
動詞 クリヤーパダヤ
ක්‍රියා ප්‍රකෘතිය
動詞語幹 クリヤー プラクルティヤ
ක්‍රියා ප්‍රත්‍යය
動詞活用部分 クリヤー プラティヤ
日本語の部分は「かしゃぐら通信」が加えました


 まさか、こんな表が出てくるとは。だって、これって日本語の動詞の仕組みと同じです。これは、

 動詞=語幹+活用語尾

ということです。繰り返しになりますが、まさかそんな。これでは日本語の動詞ではないですか。クリヤー・プラクルティヤは通常シンハラ文法でダーツと呼ばれます。そして、クリヤー・プラティヤですがそういう文法用語はありません。プラティヤは「後置詞(辞)」という意味の用語ですがこれをクリヤー(動詞)と結びつけてシンハラ文法になかった文法名をディサーナーヤカ先生は作ってしまいました。
 こんなことを言っています。

මෙවැනි කොටස්‌ හැඳින්වීමට 'ක්‍රියා ප්‍රත්‍ය' යන නම භාවිත කරමු. 
ディワイナ日曜文化欄 nimnaya 2013-01-3から

 上のシンハラ文はディワイナという日刊紙の日曜版文化欄の記事の一節です。「単語には五つの種類がある」と題された小論で、「動詞は最小の単語単位だが、それは更に小さな部分に分けられる」とした上で、「こうした部分をクリヤー・プラティヤと呼んでおきましょう」(上記のシンハラ文の訳)と提唱しているのです。この後に動詞を語幹と活用部分に分けた例を挙げています。

 どうしよう。こんな風に動詞を分解したらシンハラ語は屈折するなんてことを堂々と言えなくなってしまいます。日本語の動詞活用は屈折語的だなどと言われもしますが、カ変、サ変はともかく口語五段活用など少しも屈折しません。
 ディワイナは庶民の味方の日刊紙。日本でたとえれば発行部数のシェアは読売並、内容は東京新聞か毎日新聞のように面白い。やわらかな意思のある新聞です。ディサーナーヤカ先生は随筆が得意なので、ディワイナの読者を引き込むようにして日曜版にこう書いた。朝の紅茶を片手に持って、熱帯ジャングルの中の家のベランダでつい読んでしまいます。ふむふむ、そうか。ディサーナーヤカ先生、また面白いこと言ってるな、って。
 このエッセイで、一番困るのは「シンハラ語は屈折語だ」とする日本の研究者たちかもしれません。シンハラ語新聞、しかも庶民紙なので、日本の学究は普通目を通しません。だから、だれも困らないと思います。

 ディサーナーヤカ先生の「動詞=語幹+活用語尾」という文法論なら、従来のシンハラ文法と違って、すっきりと動詞の仕組みが整理されています。
 こんなこと言っていいの?シンハラ語の動詞は語形全体が屈折して姿を変えると言わなくてはならないんじゃなかった? そうしないとシンハラ文法にならないんじゃないの?

 「シンハラ語の話し方」では日本語の動詞とシンハラ語の動詞を比較するために双方の動詞を「語幹+活用語尾」に分けて較べてみて、ほら、日本語の動詞とシンハラ語の動詞は同じでしょ。だから覚えやすいのです。と言ったのですが、そんなこと言うのって「かしゃぐら通信」だけだと思ってました。シンハラ語の話し方を易しく覚えるために、日本人には学校で習った日本語の動詞活用が分かりやすい。だから、学校文法の動詞活用でシンハラ動詞を説明した。それだけだったのです。



シンハラ動詞も同様に活用する



「動詞」

ක්‍රියා පදය
බසක මහිම 11 / ජේ.බී.දිසානායක /
ගොඩගේ පොත් මැඳුර 2001

 勘ぐる人なら「シンハラ語の話し方」のシンハラ動詞の活用って話はパクりじゃないの、と疑うでしょう。
 J・B・ディサーナーヤカ先生の小冊子「クリヤーパダ/動詞」は2001年発行。「かしゃぐら通信」の「シンハラ語の話し方」は2005年。なんだ、「シンハラ語の話し方」は後出しだ。JB先生のパクリだってことになる?
 いえいえ、「シンハラ語の話し方」には前身があって、それは2000年に発行された「熱帯語の記憶、スリランカ」です。その中ですでにシンハラ動詞の活用に、実に素人っぽく触れています。「シンハラ語の話し方」というテキストは「熱帯語の記憶、スリランカ」から生まれた会話実践版です。だから、パクリじゃない。では、ディサーナーヤカ先生がパクリなの? 
 そんなこともない。ディサーナーヤカ先生はペーラーデーニアへ留学する日本人学生の面倒を良く見てくれる方で、英語もパーリ語も読むけど日本語を読まない。それにこの小冊子はシンハラ動詞の活用を事細かに述べて日本語には一切触れていません。

 そうすると、人類進化でよく言われるところの、多地域進化説。言語進化の同時進行?

 120ページのこの本は全編、シンハラ動詞の活用で埋め尽くされています。「熱帯語」と「話し方」で触れたシンハラ動詞の活用がより詳しく解説されています。和をもって尊しとなすと「熱帯語」で触れたシンハラ動詞の使役形をつくる「ワ」シンハラ文字ののことも、明快に解かれています。
 
 冊子を閉じて目を休めました。入口のベランダに出て紅茶を一口。友人の家では特別に私には砂糖抜きで紅茶を淹れてくれます。和を以て貴しとなす、と呟いてはるか上空にそよぐ椰子の葉を見上げます。西に傾いた熱帯の木漏れ日が動いて足元の影が揺れます。スリー・ホィーラーがサリーをまとった客を乗せて家の前の赤茶けた道を過ぎていきました。ヤラの雨季だというのに、夕方前にときどきスコールが来るだけ。田を潤す雨は一向にやって来ず、涼しい風が吹いています。乾季と雨季の周期が狂い初めて何年経ったでしょう。熱帯が温帯になるような大きな気温変動はありませんが、決定的に季節の周期は狂っています。

 それでもスリランカにいると地球って快適なんだな、と思います。
 赤道直下のこの島から長大なエレベーターを宇宙に向けて立ち上げて衛星までの宇宙旅行はそのエレベーターに乗って行くようになった。地球エレベーターで衛星へ行くようになったので宇宙ロケットが要らなくなった。と、そんな近未来を描いたのはスリランカに暮らすSF作家のA・C・クラークです。日本のどこかの大学の研究室がそれをパクって、かな、地球エレベーターが未来の姿だなんてCGをつくって、それがTVマスコミから流れたことがあります。あの漫画のCGに出てくる宇宙エレベーターは熱帯ジャングルの中から天に延びていたけど、A・C・クラークの宇宙エレベーターはスリ・パーダだというスリランカ最高峰の一つから宇宙に向かっています。熱帯の密林や高山の頂から柱が伸びるのは、インド神話で言えばウィシュヌの臍が天に伸びるようなことかな。スリランカは壮大な夢と逆転の発想が広がる熱帯の島なのです。

 日本語の学校文法で教える動詞五段活用がこの南国の島の言語シンハラの動詞に当てはまるって、一体どんな訳があるのでしょう。不思議だな。
 「シンハラ語の話し方」を読まれた皆さん。皆さんはこのテキストでシンハラ語動詞には日本語学校文法の動詞活用が当てはまることをご覧になって、中にはテキストをスリランカに持ち込んでその「話し方」をもう実践された方もいらっしゃるでしょうから、ディサーナーヤカ先生が文法解説書「動詞/クリヤー・パダ」に記したことをかしゃぐら通信KhasyaReportがここで紹介してもそれほど驚かれないと思います。
 ディサーナーヤカ先生の「動詞」が解くシンハラ動詞の仕組みを次に少し詳しく検討しましょう。まるで日本語の動詞の仕組みを説明しているかのようです。


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