タウンゼント・ハリス、
ゴールでハルワを食す

KhasyaReport 2023-03



参考
仮名垣魯文の一分銀/7メースと2カンダレーン



ハルワはインド発祥のお菓子。スリランカでも食べることができるがシンハラ・オリジナルのデザートではない。ゴールでハリスがハルワをたいそうおいしく召し上がったとして、それは、そこがゴールだから。植民地セイロンの南端に位置するゴールは西欧の貿易商人たちが集まる国際港で、ハリスには絶好の「東洋料理とスィーツにありつける」土地柄だった。ハリスはカレーならマレーシアが一番、と常々称しているがゴールでマレーシア・カレーを食べ、北西インドに起源を持つお菓子ハルワを食べている。これが植民地時代のセイロンの、貿易港として発展した英国植民地政府の建物が立ち並ぶ都市コロンボの繁栄と優雅を物語もする。この英国の優雅は後に日本がゼロ戦で現れてコロンボ港を爆撃し微塵に砕き、チャーチルを震撼させることになる。

 タウンゼント・ハリスは日本へ向かっていた。1856年1月1日の日誌にこうある。

 夜半、ゴールについて馴染みのホテルに宿をとった。翌日フォート近くの高台に邸宅を構える旧知の友人フォーブスに会い新年の日の食事に招致された。---夫人はスリランカ料理にたいそう精通していて、六品の椰子を用いた料理をテーブルに並べた。そして、デザートはハルワhalwa。これがすこぶる美味であった。

 ハリスさん、インドの料理に精通した食通です。インド、中国をくまなく回っていた貿易商時代、西洋人向けのシンハラ料理にもたいそう執心しています。中でも古くからの付き合いのフォーブス氏の夫人がこしらえるシンハラ料理を称賛しています。彼女はゴール生まれのゴール育ち。ゴールから離れたことがないのですが英国料理もセイロン料理も作ります。日本へアメリカ公使として向かう途中、乗り換えの蒸気フリゲート艦サン・ジャシントUSS San Jacintoを待つゴールでハリスは14日間を過ごします。1月1日のテーブルに上がった料理を丁寧に書き残しています。
 発芽する前の椰子を用いた6品の料理の中にはキャベージと呼ばれる幼い芽を調理した一品がありました。この珍しいシンハラ料理をセイロン生まれの、ゴールの街を一歩も出たことのない英国人女性が調理するのです。19世紀、貿易で栄えるセイロンの優雅はゴール・フォートの中にありました。コロンボはまだ貿易船の出入りする商業港として整備されておらず小さな漁村でした。
 なんでハリスはそんなに悠長なのかって、理由は最新鋭のフリゲート艦サン・ジャシントがエンジン不調をきたし故障ばかりして修理に明け暮れゴール到着が遅れていたことにあります。船が遅れて来ないからほわほわした椰子の新芽のカレーを食べることができた。カレー好きのハリス公使にはこの上ない贅沢なひと時がここセイロンのゴールで神によって恵まれたのです(と19世紀、彼に専属ライターがいたとして、そう書き散らすでしょうか。いえ、ここはセイロンですから仏の御利益)。  
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〈ハルワ〉 正月元旦に食べて安寧と富裕を願う菓子



  スリランカではハルワを正月最初の日に食べて安寧と富裕を願います。もともとアラブ(モスリム)のデザートですがインドに伝わりさまざまなバリエーションを生んでセイロン(スリランカ)へもやってきました。昨今、ニンジンを用いるハルワがビーガンにもてはやされてブームとなったのは周知のとおりです。
 ハリスは日記の中でセイロンのデザート・ハルワのほか、妙薬トルシ―Tulsi(スイート・バジル)にも触れています。世界を股にかける植物分類学は19世紀の蒸気船文明がもたらした知性の「流行」の一つでした。商人の眼力を持つハリスが流行に乗らない訳がありません。
 ハルワをセイロンのゴールで新年に食べたのが効いたのでしょうか、その年の夏、下田に着いたーこれをdrift「漂流」と陰口叩く方もおられますが-ハリスは通訳兼秘書ヒュースケンの力を借りて幕府との条約締結交渉を粘り強く進め進展を得ます。幕府側の外交責任者、老中筆頭の堀田正睦が日本を世界に開く開明派(政治の論を異にする水戸藩斉昭からは蘭癖ランペキと叩かれますが)であり、ハリスに好意的であったことも幸いしました。1857年12月7日、ハリスはこの日の為に訪日途中、パリで誂えたえた大礼服、どう見ても金ぴかモールを付けただけの華美なフランス式軍服ですが、幕府外交担当からは華美を控えてと釘を刺されていましたが、その大礼服を着用してヒュースケンを従えて将軍家茂に謁見しました。ピアーズ大統領からの親書を将軍タイクーンに渡して、ここまでの幕府の動きはずいぶん鈍かったのですが、この日から条約交渉は本格化して再スタート、後は批准するだけとなりました。だが、…

 だが、条約締結の前に天皇の承認が必要だと老中会議で決まりました。天皇の承認なんてたやすい、何とでもなるよと幕府のオランダ語通訳Mが言っていたのをヒュースケンは思い出しました。堀田は孝明天皇へのあいさつ土産、取り巻きの公家に配る金銀財宝をたんまり馬の背に載せてたいそうな大名行列を組んで京へ向かいました。だが、…

 1858年5月18日、堀田老中と共に京へ上った肥後守岩瀬忠震いわせ ただなりが急遽江戸へもどり「孝明天皇の了解が取れない」と渋い顔でヒュースケンに漏らしました。和訳のハリス日記にはこの件が省かれていますがハリスはこの事を日記メモに残しています。何という不運、どうなるんだ条約。ああ!ハリス公使、あぶない。日本へ向かう途中、セイロンのゴールでハルワを召し上がったよね、新年最初の日に。元旦に食べるハルワは繁栄と富をもたらす。ハルワのご利益はどこへ。まさか、ハリスから幸運が遠ざかったなんて。椰子のキャベツのカレーだって食べたのに。
 1861年1月5日、ヒュースケンが夜間、宿舎近くで数人の刺客に囲まれ切られました。攘夷に血気をそそぐ「虎の尾を踏む会」による外国人へのテロです。イギリス、フランス、オランダ3か国はすぐに反応し、オールコック、ベルクール、ポルスブルック公使たちが江戸を離れ神奈川へのがれ我が身の安全を図るとともに幕府の対応如何では江戸湾に待機する各国軍艦が江戸を砲撃すると江戸政権を脅す体制を取りました。各国はヒュースケンの暗殺者を捕らえよと迫るのですが幕府の対応は鈍い。ハリスはこの脅し砲撃を背景にした政治交渉に関わりませんでした。その理由は様々に取りざたされています。この事態は当時の新聞各紙に「なぜハリスは江戸にとどまったのか」という謎ときを書かせ大きなスキャンダルになりました。日本では横浜のジャパン・メール紙(英語)がヒュースケンの日記を紙面に掲載してこの事件に関連する事態を掲載しましたが、事件そのものへの言及はありませんでした。英国では「ハリス、けしからん。オールコック、偉い」という風潮が新聞紙を支配しました。