▲TOPへ



エリザのセイロン史


スリランカの歴史22
英国の植民地支配
セイロンの開発






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史22
英国の植民地支配
セイロンの開発
 


 1824年、エドワード・バーネス卿がセイロン植民地の領事となり1831年まで勤めた。
 バーネス卿は島の内陸部開発に力を注ぎ、道路網の整備に全力を尽くした。まず、コロンボ近郊を流れるケラニ川に橋を架けた。カドゥガンナワへ登る道はコロンボーカンディ間の最大の難所だったが、深い密林を抜け、渓谷を望む崖っぷちを取り巻くようにして道が作られた。
 技術者であるドーソン陸軍大佐Captain Dawsonは巨大な橋桁の建設を監督している間に熱病に罹り他界した。
 カンデイからマイルほどのところにあるペラデニアを流れるマハウェリ川にも美しい橋が架けられ、川を渡って左へ曲がるクルナェーガラへの道にはトンネルが掘られた。
 道路建設は強制労働(ラージャ・カリヤ)で行われた。過酷な労働だった。道路整備で植民地セイロンは経済的に大きく飛躍した。
 バーネス卿はカンディとマウント・ラビニアに別荘を建て、避暑地として過ごした。1827年にはヌワラ・エリヤが避暑地として知られるようになり、健康増進に訪れる英国人が多くなっていった。

 1831年、ロバート・ホートン卿がエドワード・バーネス卿を継いでセイロン領事となった。
 その翌年、1832年にアジアで初めての郵便事業が始まった。郵便馬車がコロンボとカンディの間を走るようになった。
 
 同年、ムーア人とタミル人に対してコロンボのフォーと地区とペッタ地区に不動産を所有することが植民地政府によって認められた。
 
 同じくその年、初の定期刊行物となるコロンボ・ジャーナル新聞がホートン卿の援助で発行されている。ジョージ・リーGeorge Lee Esqが編集者となり、官職者が執筆した。コロンボ・ジャーナルは本国政府の通達ですぐに廃刊の憂き目を食らったが、1834年、コロンボの経済人によりザ・オブザーバーが創刊され、C.エリオットC. Elliot Esqが編集長となた。

 1832年、強制労働制度ラージャ・カリヤが廃止された。

 1833年、政府によるシナモンの独占販売が廃止され、シナモンは民間人が商品として扱えるようになった。英国政府が発行する公正証書を持てば誰もがその商品価値の高い農産物シナモンを栽培・収穫・販売できるようになった。

 ところで、1811年には主席裁判官アレクサンダー・ジョンストン卿Alexander Johnstoneによって陪審員制度が勧告されている。勅許(英/国王によって許可される自治都市や組合などを作るための法)によってセイロンの数箇所に法廷が開設され、小さな事件は主席地方判事と3人の副判事によって裁かれた。下級法廷からの上級法廷への上告も可能で、上級法廷でも3人の判事が審理に当たった。

 1833年、セイロンは西南東北と中央の5地域に分けられた。これまでは法律が政府と議会によって別々に制定されたが、議会を解散し新しく立法議会と行政議会とを設置した。立法議会Legistlative Councilには、後に政府との関係を持たない6名が加えられ、法を立案した。行政議会Execitive Councilがその法を施行した。

 1834年、教育振興を図り学校委員会が設立され、その2年後にコロンボ・アカデミー(現在のローヤル・カレッジ)が創立された。

 1837年、右派のスチュワート・マッケンジーStewart Mackenzie閣下がロバート・ホートン卿を継いだ。彼の政権は短命だったがセイロンにとっては貴重な時代であった。蔓延していたギャンブルに対する規制法が施行された。コロンボには精神病院と総合病院の建設が許可された。バーガーとシンハラのための図書館建設も行われた。

 1838年にはカンディ-コロンボ間に続いてカンディ-ガーッラを結ぶ馬車郵便が始まった。1840年には魚税が廃止された。

 マッケンジー閣下は教育の振興に多大な努力を払った。女子高等学校がコロンボに設立された。スリランカ人の中にはカルカッタへ留学するものもあった。国中に公立学校が設立された。

 ウェッダは二千年にわたってスリランカの密林の中で野獣同然の暮らしをしてきた。彼らは国から税を徴収され戦争にも借り出されていたが、彼らはその天真爛漫の性格から文化生活を求めることもなく、生活の向上に努める者もなかった。
 こうした状況を知ったマッケンジー領事は自らがウェッダの領地へ足を運び彼らの生活の向上に様々な工夫を試みた。自費で学校を建て、移動の狩猟から定住の農耕へ暮らしの転換を図るため牛と鋤を彼らに提供した。
 マッケンジー長官(領事)はウェッダの村を訪ねたことが原因で熱病に罹り、領事の職を辞任せざるを得なくなった。彼の徳は高く評価されている。



次章→ 7 英国の植民地経営 セイロンの開発2