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エリザのセイロン史


スリランカの歴史23
英国の植民地支配
セイロンの開発2
2009-Jan-09 , 2022-Jan-04



1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。それは英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)。
栄華を誇るビクトリア朝の英国でナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちが記した膨大な著作から歴史に関わる部分を集めて一冊のまとまりとした。
115ページのコンパクトなハンドブックだが、ここにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。




スリランカの歴史23
英国の植民地経営2
 


セイロンのコーヒー・プランテーション

  1841年、コリン・キャンプベル卿が植民地領事となった。彼の時代にセイロン内陸部でのコーヒー・プランテーション拡大という大きな出来事があった。
 コーヒーはアラブ商人がスリランカにもたらした産物だと考えられている。ポルトガルがこの島にやってきたとき、コーヒーは既にこの島にあった。
 オランダはコーヒーの収益を拡大するためにカンディ王国での栽培を試みた。英国はカンディ王国を征服したときに、ハングランケタの’王の庭園’と呼ばれる広大な土地にコーヒーが栽培されているのを見つけている。シンハラ人にとってのコーヒーとは、その花を仏陀にささげるために栽培されるもので、その実から作られる芳醇な香りの飲み物には興味が示されなかったと言われている。

 初めてコーヒー栽培が行われたのは1820年、ジョージ・バードがカンディでコーヒー・プランテーションを作った。栽培面積が増えてコーヒーはセイロンからの最も重要な輸出産品になった。1827年に輸出量1万6千cwts/80トンだったものが1847年には30万cwts/1万5千トン、1870年には100万cwts/5万トンを超えている。
 1844年には警察法廷が全島に設置され衡平裁定の審判所Couet of Requestsが開設された。1845年には裁判所の管轄制度が改められ北西部が作られた。
 この島には奴隷制度がある。
 ノース知事は総ての奴隷を登録するように命じ、1816年、アレクサンダー・ジョンストン卿は海岸地区に住む奴隷の所有者に対し8月12日以降に生まれた奴隷の子総てをその身分から開放するように命じた。こうして1845年末には奴隷制度がセイロンから消え去った。

 1846年、コロンボとカンディを結ぶ鉄道建設会社が設立された。
 1847年、トリントン卿Load Torringtonが領事となった。この年、コーヒーは生産過剰となり、併せて欧州での需要が落ち込んだとこからコーヒー価格が急落した。コーヒー・プランテーションが次々と閉鎖され、こうした社会変動が暴動を招いた。

 1848年、ゴンガレ・ゴッダ・バンダーGongale Godda Bandaがカンディ地方で暴動を起こした。暴動は膨れ上がりダンブッラへ広がり、7月28日にはマータラへ波及した。暴徒が富裕な市民の家に進入し家財を奪い家を破壊した。その夜、欧人とマレー人で構成された兵の一隊がカンディを立ち、翌朝、マータラに着き、暴動の一団に銃撃を浴びせた。暴動者らは逃げ散ったが40名が死亡、カンディの兵は欧人1人が負傷を負っただけだった。

 7月30日、二千のカンディ人がクルナェーガラを襲った。英国が雇った30人のマレー兵(セポイ)が鎮圧に当たり、暴動は治まった。
 この暴動事件がコロンボに報告されるとすぐに救援を請う蒸気船がマドラスに向かった。六日後、トリンコマリに救援軍が上陸し、カンディに進軍した。
 英国は20万人のセポイ兵と欧兵をインドに抱えていた。アジアの植民地に暴動が起これば機に応じて出兵し、暴動を鎮圧した。

英国によるセイロンの開発


 1848年、道条例が施行された。働ける男は総て、6日間、有給の道普請に就かなくてはならなかった。道路の修復と新設は植民地セイロンの急務だった。

 1850年、ジョージ・アンダーソン卿George Andersonがトリントン卿を継いだ。落ち込んでいた貿易が回復しコーヒー栽培は再び活況を見せるようになった。
 活況と共にセントラル・プロビンスCentral Provinceの酒場tavernでは風紀の乱れが深刻化した。タバーンの半分がジョージ・アンダーソン卿の命令によって営業を廃止させられた。

 1853年、ダラダ・マーリガーワ(仏歯宮殿)がディワ・ニラマDiwa NIlemaと仏教僧らに引き渡された。今後、仏教に関わる一切の行事を仏教界で行うことになった。
 この仏教の開放は英国市民がセイロン植民地政府に対し仏教との関わりを止めるよう促したことによって行われた。キリスト教は他宗教への迫害を厳しく禁じており、結果として仏教もヒンドゥ教も自由な信仰が植民地政府によって約束されたことになる。

 1855年、ジョージ・アンダーソン卿は健康の理由から、ヘンリー・ワード卿に領事を譲った。この領事の時、植民地政府は最大の努力を持って植民地経営の改革を進めている。

 1856年、ペニー郵便制度Penny Postageがセイロンにも施行された。
 翌1857年、ガーッラとコロンボを結ぶ電信(電報)サービスが開かれた。この電信は後にインドまで延ばされ、欧州、米国、中国、オーストラリアと数時間で連絡が取れるようになった。

 同1857年、真珠の採取が再興した。長い間放置されていた産業だが、再興によって生産額は2万ポンドに昇った。

 スリランカ北部は真珠の産地として古代からその名を馳せていた。ポルトガルもオランダも真珠をセイロン植民地からの重要な輸出産品としていたが、真珠貝の採取に関して土地の王族との紛争が絶えなかった。真珠資源の保護のため採取は3年に一度だけ行うよう定められていたが、収益をあさる貿易商人はその法を守らなかった。宝飾関連の資料によれば、18世紀の後半、真珠採取権をジャフナのカンダッパ・チェティが10万ポンドを超える額で獲得したとある。チェティはカーストの階層を表す呼称で富裕で教育程度の高いタミル人を表した言葉だ。今はチェティの影響が薄くなったように言われるがコロンボ・チェティは、セイロンの経済界に大きな影響を与えていた。


 コロンボと島の北東部との連絡網は整備されていなかった。植民地政府は汽船を買い求めて月に1度、主要港を巡回した。
 コロンボ-カンディ間を結ぶ鉄道建設会社が1846年に設立されてはいたが、鉄道建設の事業は難問を抱えており、鉄道運行には至ってなかった。それが1858年8月3日、ヘンリー・ワード卿の肝入りで計画の進行がはかどり、鉄道建設の盛大な式典が催され、彼の鍬入れによって正式に工事が始まった。

 島の各地には古代の灌漑地跡が転々と広がっている。ヘンリー・ワード卿はそれらの灌漑地を修復し不毛の大地と化した土地を、かつてのように作物の実り豊かな大地に戻すよう植民地政府に提案した。その結果、2万5千ポンドの大金が南部のキリマKirimeとオールーボッカOoroobokkeダムの修復につぎ込まれた。ガンポラには優美な橋が架けられ、マータレへ向かうカトゥガストータの道にも橋が架けられた。

 1859年、旧カンディ王国領内に残っていた一妻多夫の風習が不法であると宣言された。

 1860年、ヘンリー・ワード卿はマドラス知事に任命され、後任にチャールス・ジャスティン・マカーシーChaeles Justin Macarthy卿が着任した。根っからの学者で思慮の深い男だった。健康に優れず、1864年、欧州で亡くなった。

 1860年、初めてのシンハラ語新聞ランカローカヤLankalokayaがガーッラで創刊された。これはすぐに廃刊となったが、シンハラ人の手によるシンハラ語新聞社が1862年、コロンボとガーッラで設立され、翌年1863年にはラクリ・ウィキラナLakriwikiranaが創刊された。
 1865年、ハーキュレス・ロビンソン卿Hercules Pobinsonが領事となった。彼の時代にはいくつかの特筆すべきことがある。
 1867年、コロンボ・カンディ間の鉄道が全線開通した。この鉄道は運行本数が多く、ナワラピティヤNawalapitiyaまで延長された。道路の施設が全土で行われ灌漑池の整備も続けられた。
 コロンボにも変化があった。要塞の壁が取り壊され、ガスと上水道供給会社が設立された。計画されていたコロンボ港の防波堤建設が実行された。

 教育のシステムも変わった。中央学校委員会Central School Comissionが市民教育庁Director of Public Instructionに変えられ、学校には交付金が給付され、コロンボに医学校が設立された。

 ジェームス・デ・アルウィスJames de Alwisはセイロンの高名な学者だが、彼はパーリ、シンハラ語の古文献収集を委託され、収集した文献を蔵書する図書館も作られた。
 1871年、初めての完全な人口統計調査が行われた。
 1872年、インド・ルピーとセントが英国貨幣の替わりに導入された。
 同年、ハーキュレス・ロビンソン卿を継いだのは右派のウィリアム・ヘンリー・グレゴリー閣下William Henry Gregoryだった。
 コロンボにガス灯が灯った。翌年、ガンポラに鉄道開通、ライフル隊の解散、また、新しく北-中央地区を制定した。

 島の北部と東部への道は砂利道だったが、改修され、総ての川に橋も架けられた。
 1874年、コロンボ防波堤工事の着工があり、主任裁判官のホン.R.F.モーガンと立法評議会のタミル代表クーマラ・スワーミCoomara Swamiがナイト(騎士)の称号を授与された。
 この年、ナワラピティヤへの鉄道も完成した。

 W.H.グレゴリー卿W.H.Gregoryの時代、ウェールズWales王子の来島、コロンボ博物館の建設、パナドゥーラPanadureへの海岸鉄道線の開通、リベリア・コーヒーの導入があった。リベリア・コーヒー樹はアラビア樹より収穫量が多く、平地でも良く育った。
 1877年、ジェームス.R.ロングデンJames Robert Longdenが領事となった。
 1879年、公教育省長官Public InstructionとなったブルースBruce氏は教育庁の重要施策である学校援助に関する法令を作った。
 同1879年、鉄道海岸線はカルタラKalutaraまで開通、1880年にはナワラピティヤ-ナヌオヤ間の約42マイルの鉄道建設に着手、また、マータレへの延長線が開通した。

 1881年に行われた人口調査(センサス)の結果、総人口は240万5576人から275万8529人に増えたことがわかった。

 「セイロンの歴史」を手にしたエリザはどんな人だっただろう。雲をつかむような話で到底分かりえないと思っていたが、その出生や住所などのことを知ることができた。この1881年のセンサスが彼女の記録を残していた。セイロンが英国の手によって経済発展を遂げているその最盛期に、彼女がヌワラエリヤに生まれ、英国へ行き、また南の島の山中に戻り「セイロンの歴史」を開いて時を過ごすまでの経緯がその時のセンサスに浮かび上がる。

 ジェームス・ロングデン領事は1883年に退職、同年末、アーサー・ゴードンSir. Arthur Gordon卿が領事となった。
 
 この後、数年に亘ってコーヒー・エステートは葉の病気のために収穫量が減少する。コーヒー生産者は病害の駆除法を見つけ出す作業に追われ、また、新たなプランテーション作物の開発に取り組まなければならなくなった。
 期待されている新作物には次のようなものがあった。
 シンコーナCinchona(キナノキ)。南米原産の木で、その幹から熱病の特効薬であるキニーネQuinineがとれる。1860年に英国植民地政府は南米からシンコーナを取り寄せ、ヌワラエリヤ近郊のハクガラHakgalaの植物園に植えた。若木は成長し増え、現在、島内には数百万のシンコーナが育ち、その輸出量はシナモンを越えた。

 オランダはセイロンで紅茶の栽培を試みたことがある。しかし、成功しなかった。
 1841年、プッセルラーワPussellawaのウォームズWorms氏が中国から茶の苗木をセイロンに持ち込み中国人を雇って紅茶生産を始めた。この紅茶生産事業が注目を浴びるのは1873年になってのことである。
 紅茶の生産は的中した。1883年にはこの新事業に約6万エーカーの土地が費やされた。農業は飛躍的な発展を遂げた。

 「セイロンの歴史」を偶然手にしたことから「エリザのセイロン史」を書くようになった私は1900年代の終わりに東京・四谷でスリランカ料理TOMOCAを開いていた。TOMOCAの紅茶はこのプッセルラーワ・エステートのものだった。私は年に一度、怒和らエリア山中のプッセルラーワ茶園へ行き紅茶を仕入れた。トーキョー・ジャーナルTokyo Journalに寄稿する60'sの英国人がプッセルラーワの茶を淹れるトモカをこよなく愛してくれた。かれは記事にこう書き残している。
TOMOCA 1992-Feb / Tokyo Journal


 アメリカ原産のカカオはコーヒーのような飲料を作る。カカオの種も木も数年前からペラデーニヤ植物園にあったのだが、カカオ生産が事業として始まるのは1877年、R.B.Tytlerティトラー氏を待ってのことだった。
 1887年にカカオの作付け面積は1万4千エーカーに昇った。
 このほか、インド・ゴム、アフリカン・パーム・ナッツ、オーストリア・ガムの木が導入された。古くからこの地にあるカーダモンも注目を集めている。

 1886年、ウヴァの広大な地帯がカンディ地区から分けられ1地区として数えられた。ナヌオヤからハプタレーへの鉄道延長がこの年、認められた。

 アーサー・ゴードン卿は灌漑事業にも暖かな配慮を見せている。千四百年の昔、ダトゥ・センが築いたカラウェラ湖Kalaweraを修復したのは彼の時代である。無数の小さな貯水池も復元された。総延長が54マイルにも上る運河は国内最長でアヌラーダプラの各貯水池を満たされている。
 密林は実り豊かな平原となり、人々の暮らしは豊かである。
 これから更に大きな富がこの島にもたらされるであろう。



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 「セイロンの歴史History of Ceylon」はアーサー・ゴードン卿の時代の簡単な記述で終わっている。
 エリザがこの冊子を読んだ1893年にはコーヒーから紅茶へのプランテーション作物の転換が済み紅茶生産は最盛期を迎えていた。英国の栄華を豊かに醸したのは雲の上に建てられた桃源郷、セイロンのヌワラエリヤだったかと思う。そう、資本主義に振り回されて皆が息巻く「すばらしい」ロンドンではなくて。
この時だったのだ。リプトン卿がオーストラリアへのバカンスの途中にコロンボに立ち寄ったのは!
 リプトン卿はビジネスに長けている。どこへ行っても商売だ。このとき、彼はセイロン紅茶に新しいビジネスの大きなヒントを得た。
 1890年、コロンボ港の正面に建つグランド・オリエンタル・ホテルでいすに腰掛けビジネス・パートナーと商談をしたとき、フレッシュなBOP茶葉をティ・バッグで英国の消費者に届けることを思いついてしまった。英国の中産階級の労働者に安価な紅茶を届ける。オーストラリア行きはすぐに中止して、セイロンの紅茶プランテーションを5ヶ所、即座に買い取った。大きな資本が注入されたヌワラエリヤの開発は勢いを加速させて進んだ。
 エリザはヌワラエリヤに暮らした。一日五回の紅茶を飲む。置きぬけの朝はベッドの上で。早朝、教会へ行って家に戻って午前のお茶。昼食のあとに、そして、午後にも紅茶。日曜には着飾ってビクトリア湖畔の競馬場へ足を運ぶ。そこはピクニックでにぎわう社交の場。日傘をかざすエリザ。
 紅茶のセットが並ぶテーブルに「セイロンの歴史History of Ceylon」が置かれている。ヌワラエリヤの日差しは強い。冊子の表紙が焼けるかのよう。読み終えて表紙の裏に日付を書き込んだ。紅茶をもう一杯。世界のあらゆる富を集めたビクトリア。英国が優雅を極めたひと時。

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