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エリザのセイロン史


スリランカの歴史 21
英国の植民地支配・カンディ






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史 21
英国の植民地支配・カンディ
 

アディガーの没落、植民地政府への反乱

 カンディの植民地行政は当初、評議会によって運営された。評議会が行ったのは裁判と税の徴収であった。評議会は住民1名と評議員2名の3名で構成され、各評議員は裁判と税の徴収を担当した。住民は政府の代表とされ、評議員が各庁を統括した。
 アディガーAdigarと主だった領主は大法廷を運営し、裁判は植民地政府に関する事案だけが取り扱われた。
 評議会議員とウヴァ、サバラガムワ、スリー・コラレーのアディガーが植民地政府の行政の執行に関わったのに対して、市民生活に関わる事項はこれまで通りディサーヴDissavesとラテー・マタッタヤRatee mahatmayasが行った。


 アディガーは旧カンディ王国の大臣や事務次官のことであり、ディサーヴは国境周辺を管轄する領主である。ラテー・マハッタヤは王国中央部の管理者。

 植民地政府は軍事担当を設置後、内陸部防衛のために11地点を軍基地として設定、ここに兵を配備した。兵は総数で1000を超えることはなく、取るに足らないものだった。
 主席大臣(アディガー)にモッリゴダがそのまま着任し、次席大臣にはカップワッタKappuwattaという名の領主が就任した。
 エイラポラには最高の敬意が払われたが、彼は自ら公職を辞した。「英国の友人」と呼ばれることだけを彼は望んだと伝えられているが、そうではなくて、逆にシンハラ王国を復興しその王位を狙っていたという噂も伝えられている。結婚し、カンディに大邸宅を構えたエイラポラは、国の人々から偉大な王と呼ばれ尊敬されたのである。

 1815年3月から1817年10月の間、カンディは平穏だった。人々は英国が樹立した植民地政府に満足していた。人々の生命と財産は守られ、カンディ王朝の時代よりも、国民はより多くの自由を満喫することが出来たのである。
 領主らは、しかし、不満だった。旧王国時代に享受した特権も、支払われるべき敬意も失ったからである。暴君に抑えられていた一握りの連中を救っただけの英国はいらない。英国をこの国から追い出す方法を、不満領主たちは探し求めていた。

カッピティポラという男


 1817年10月、植民地政府への反乱の兆しがウヴァで生じた。
 嫌われ者のムーア人が人々に捕らえられ、還俗した僧の下に運びこまれた。人々はそのムーア人への刑の執行を求めたのである。還俗僧は権力の座を熱望しており、これが大きな騒動となった。
 ウヴァ政府は即座に反応した。ウヴァ政府は軍の小隊を引き連れて暴動の鎮圧に向かった。だが、多数の反乱者を集めていたウェッダに彼は銃の一撃で殺されてしまった。ウヴァ軍は状況を不利と見てバドゥッラBdullaに退却した。
 反乱を起こした一団はウヴァのディサーワであるカッピティポラKappitipolaの下に集結した。カッピティポラはエイラポラの義理の兄弟で、野心が強く、その上、分別をわきまえぬ男だった。

  「分別をわきまえぬ男」というのは英国側の主張だ。シンハラ・クラシカルのスニル・エディリシンハsunil edirisingheが柔らかな彼独特の音調でシンハラの勇者カッピティポラを歌っている。

මෙතෙක් ආ මග වැරදි බැව් දැන් පසක් වී ඇති නිසා මා හට
හැරී ආපසු මගේ දේශය මගේ මිනිසුන් වැළඳ ගන්නෙමි
ඉංගිරිසි කඳවුරෙන් ගෙන ආ සියලු අවි ආපසු එවන්නෙමි
කියවු මහ ඒජන්තයාටම මගේ වැසියන් සමග එන බව
මගේ වැසියන් සමඟ එන බව...

මහ දිසාවේ ලෙසින් ඌවේ රාජ සේවය පිණිස සිටියෙමි
අදින් පසු මව්බිමේ නිදහස පතා ජීවිතයම පුදන්නෙමි
රුදුරු අදිරද දෙපාමුල වැඳ වැටෙන නිවටෙකු නොවී කිසිදා
රටට වින කළ සතුරු කැළ පිටුවහල් කෙරුමට යුධ වදින්නෙමි

පුරුතුගීසි - ලන්දේසි - ඉංගිරිසි වෙසින් එන අන්තරා වළකා
මුතුන් මිත්තන් එදා රැකදුන් යසස් අභිමන් නොහැර ලංකා
යළි රකින්නම් මවු කිරට ණය නොවී නොදී සංකා
පුරමු ජයපැන් දිනා සටනින් උතුම් දළදා නමින් ලංකා
උතුම් දළදා නමින් ලංකා...

ගී පද - ජනිත ප්‍රදීප් හේවාවසම් / ගී තනු - නවරත්න ගමගේ / ගායනය - සුනිල් එදිරිසිංහ


උතුම් දළදා නමින් ලංකා、ウトゥム・ダラダー・ナミン・ランカー。
そう、カッピティポラはスリランカのシンハラ人にとって民族の「宝島ランカー」を蘇生させた勇者なのだ。


 カッピティポラは敵を英国植民地政府に定めた。ウヴァの政庁を占拠し反乱軍の指揮者となると、アディガーのごとくに振舞った。こうして、わずか6ヶ月の間に、サバラガムワの低地を除いてすべてのシンハラ諸侯の治める国が英国に戦線蜂起した。この混乱の中で第3・第4コラレー、ウドゥヌワラ、ヤッティヌワラ、そして、第1アディガーを除く総ての要職にある領主が武装蜂起に同調し加担したとして英国政府により逮捕監禁された。エイラポラも監禁されたひとりとなった。
 この武装補記で英国軍は多大な損害をこうむった。
 狭い道を抜け、密林に入り、険しい山を越え、荒れ狂う雨に打たれ多くの兵が病に冒された。
 だが、武装蜂起したカンディ人の被害は更に深刻だった。反乱を起こす。すると反乱の地に軍の拠点が置かれ戒厳令が敷かれる。反乱者の家は焼かれ、牛も穀物も奪われ、果樹が切り倒された。
 植民地政府の軍は国中を駆け回り監視を強め、反乱者と目される者、銃を手にしている者を捕らえては殺した。
 人々は殺戮の世相に恐れおののいた。植民地軍の武器を眼にしても、彼らの銃を突きつけられてもカンディの人々は叫び声すら上げられなかった。近くの高台にやっとの思いで逃げ登り、自分の家が焼かれる炎や、連れ出す間もなかった牛が追い立てられるのをじっと無言のまま見据えるほかに術はなかった。
 治まる気配のない反乱に窮した英国はインドから大隊の援軍を呼び寄せた。その大軍が形勢を英国側を有利にした。
 インドからもたらされた強大な軍事力がカンディの反乱軍を押さえ始めた。カンディの領主たちは彼らの強さが「連帯」にあることを忘れ去り、命と財産を賭けて闘う勇気さえも放り出した。挙句には身の回りに生じる細々としたジェラシーに振り回され、己の利己的な利益に振り回され、くだらぬ論争に明け暮れる日々を過ごした。かれらはより強大な英国の圧迫に耐えることができなくなったのである。数度にわたり英国と挑み、時には数千の兵を集めて果敢に戦ったカッピティポラも敗れてしまった。

 反乱の端緒を作った還俗僧はマハウェリ川を渡りドゥームベラの基地へ進むよう訴えていた。その地には彼のための王宮が建てられていた。王宮では領主と領民とが彼を王としてもてなしていたのだが、カッピティポラと仲の悪かったドームベラの領主のひとりが還俗僧をペテン師と名指した。還俗僧はウィルバワWilbawa村の出身であって、王家の血を引いているはずもないとして足枷の刑にし、民衆の前に曝したのだった。

 反乱の炎がようやく収まった。1年にわたる争いだった。殆どの人々がその間、密林や山の上に暮らした。2期に渡って土地は耕されることがなかった。敵の収奪は激しかった。牛は殺され、穀物倉庫は壊された。総ての土地で略奪が行われた。英国軍の略奪と破壊だった。
 雨季が近づいた。窮乏と困難が深まった。英国軍の攻撃に持ちこたえられる見込みがなくなった。反乱を起こした各地が次々と降参していった。
 1818年10月、ピリマタラワ、最後の第1アディガーの息子、カッピティポラがアヌラーダプラ近くでフレイザー陸軍大佐Colonel Fraserの率いる分遣隊に捕らえられた。マドゥガッラMadugalleも捕らえられ、やがて平和が戻った。

 カッピティポラとマドゥガッラは軍法会議にかけられ斬首刑にされた。ピリマタラワ、エイラポラ、そのほかの領主たちはモーリシャス島送りとなったが、1832年、カンディ元国王の死によりセイロンへの帰島が許された。

 カンディの行政にはその後、いくつかの変更があった。英国人の役人が各地域に分散して置かれ、税の徴収と裁判を監視した。下級領主はその地の領主が毎年任命していたが、この任命権を植民地政府が持ち、直接、命令を下すようになった。

 1820年、ロバート・ブラウンリッジ卿が職を離脱してエドワード・バーネスEdward Barnesが副領事となった。
 1823年、エドワード・パジェット卿Edwaed Pagetが領事となったが在職期間は10ヶ月だった。
 この間、カンディ王を名乗り即位した「ペテン師」が何人かいたが、英国植民地政府はペテン師たちの企てを反乱と見なした。王の即位は以前のように武装蜂起をもたらすこともなく、最後の「ペテン師」は王としてカンディの街路をただ通り抜けただけだった。
 
 1824年、エドワード・バーネス卿が植民地領事となり1831年まで勤めた


 

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