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エリザのセイロン史


スリランカの歴史 20 カンディ王国、英国に屈す






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史 20 カンディ王国、英国に屈す
 

英国、カンディ王国に開戦を宣言す

 1812年、ロバート・ブラウンリッグ卿Sir Robert Brownriggが英国植民地政府を継いだ。 
 エイラポラがブラウンリッグ卿と接見した。英国植民地政府はエイラポラに友好の証としてカンディ王国への援助を約束した。歴史の常だが、この友好的な関係が構築された後には両国の間に事件が起こる。英国がカンディ王国に進軍するのに都合の良いことが起こるのである。
 「セイロンの歴史」はその顛末をこう語る。

 1814年、10人の現地の商人と英国人が交易のためカンディ王国へ入った。ところが、その通商団はスパイであると見なされて捕らえられた。処刑が行われた。
 全員の鼻が削がれた。耳を削がれた者も腕を切り取られた者もあった。王国を放り出され2人だけが生き残り、コロンボにたどり着いてその悲惨な姿をさらした。
 事件は別の場所でも起こった。カンディ王国の一団が領地境界を通ったとき、英国領に属する村に火を放ったのである。
 この事件を契機に英国はスリー・ウィクラマ・ラージャ・シンハ王に対して開戦を宣言した。1815年1月10日のことだった。
 開戦文書にこうある。
 
 英軍はカンディ国民に戦争を仕掛けることはない。戦争の対象はカンディ国王その人である。英軍は暴君の権力に対してだけ戦いを挑む。カンディ国王の権力は悲惨な暴力と侮辱で塗り固められており、それは英国民の非難と怒りの対象となっている。現在のカンディ王は古より続く高貴なカンディ国王一族の系統を継いでおらず、カンディの国土をその国民の血で染め、宗教とモラルの法を犯した。その逸脱の行為は人類の敵として憎悪すべきことである。

 英国はカンディ王国を攻めた。
 英軍は8隊に分かれて侵攻した。コロンボから2隊、ネゴンボから1隊、ガーッラから2隊、トリンコマリから2隊、そして残りの1隊がバティッカロアから進軍した。
 コロンボ分隊はルワンウェッラRuwanwellaへ侵攻し、そこにカンディ国王軍の大隊が終結しているのを発見した。コロンボ分隊とカンディ国王軍は交戦した。カンディ国王軍はわずかの抵抗を試みただけで退散した。カンディ国王軍を指揮していたモッリゴダは彼を運ぶ輿を放り出してジャングルへ逃走した。
 モッリゴダはようやくジャングルへと逃げ込んだ。彼ははエイラポラの二の舞を踏むことを恐れた。モッリゴダの妻と一族はカンディに残したままだった。カンディ国王の仕打ちが恐ろしかった。
 身動きが取れなくなったモッリゴダは英国軍に降伏した。そして、反国王の旗を掲げるとスリー・コラレーとフォー・コラレーもカンディ王国に反旗を翻してモッリゴダの側についた。

 カンディ国王は行動を起こしかねてカンディにとどまっていた。都に近づく英国軍に気付かない風だったが、モッリゴダ首相らが叛旗を翻したことを知って都を放棄せざるを得なくなった。戦況の不利を伝えた2人の使者が斬首され、串刺しの刑に処せられた。

 投降したモッリゴダが英軍司令官の下に連れて行かれたとき、彼はエイラポラとの面会を望んだ。二人は出会った。モッリゴダは自らを破産者だと告げた。エイラポラは「お前が破産者なら私は何だ?」と言った。
 
 2月14日、英軍はカンディへの侵攻を進め都の一部を占拠した。王は反撃の叶わないことを知り、ただ数人のタミル人従者を伴うだけでドゥームベラDoomberaへ逃れた。王族の女性たちを残し、少々の財宝を携え、征服者の情けを求めたのである。
 激しい雨で山中に一日中閉じ込められ身動き一つ取れず一夜を過ごした。その後、山を降りてメダマハヌワラMedamahanurawa近くの一軒家に隠れた。近くに敵軍が待ち受けていると気付かなかった。エイラポラの仲間がすぐに王を見つけ、エクネッリゴダEcknelligoddeらが2人の妻と共に隠れている王を取り囲んだ。
 隠れ家は攻め込まれた。ドアは強固に固められていた。エクネッリゴダの軍は壁を破って家に侵入し王を捕らえた。闇の中、トーチ・ライトに照らされた王は震えていた。王はあざ笑いの対象となった。
 軍の急襲は王を混乱させた。王は奴隷のように卑下されることなどなかった。それは彼が王となって15年、初めての屈辱だった。
 スリー・ウィクラマ・ラージャ・シンハ王は身柄を拘束され、すぐにコロンボへ移送された。翌年、彼はマドラスのウェルロアVelloreへ送られ、1832年に死んだ。

 スリー・ウィクラマ・ラージャ・シンハ王の退位はカンディで行われた英国政府とカンディ王国領主(ムダリヤール)らの会議で公式に合意された。

 ムダリヤールとは「第一番の位にある者」という意味がある。中世の封建領主である。主に南インド・タミルナドゥのタミル人の間で使われていた言葉だが、「ラージャワリヤ」「ムッカラ・ハタナ」などの文献に現れる。ムダリヤールのムダリはムダル、つまり「資金」「資本」を意味する。中世のスリランカでは「シンハラ王国軍の指導者ら」を現す言葉でもある。


 英国植民地領事が大会場の最上位に着いた。武器が王宮前広場に集められ、アディガーと主要な領主らが通り過ぎるまでその場に置かれた。エイラポラが真っ先に入場した。そしてただ1人、英国領事の右の席に着いた。モッリゴダが次に入場し主席アディガーとして各地領主Dissarves
を従えた。
 英文の和平条約が英国国務大臣代理によって朗読された。
 それをムダリヤールMudaliyar(カンディ王国軍指揮官)がシンハラ語で復唱した。
 ゴダポラGodapolaの領主がカンディ王国の領主は皆、余すところなく条約に同意していると表明した。その言葉はムダリヤールによってシンハラ語に翻訳され、一般領主と会議場の外に並ぶ人々に向かって伝えられた。

 条約締結式の最後に英国国旗が掲揚された。21発の皇礼砲が撃たれた。こうして1815年3月2日、スリランカ全島は英国国王ジョージ三世JeorgeⅢの支配に下った。

 

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