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エリザのセイロン史


スリランカの歴史19
スリー・ウィクラマ・ラージャシンハ王の行ったこと






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史19
スリー・ウィクラマ・ラージャシンハ王の行ったこと
 

マイトランド将軍の治世

 ノース総督の治世になるとローマン・カトリックに対する厳しい法律が廃止された。宗教宗派に関わらず誰もが公職に就けるようになった。公職に就くために英国プロテスタントを装う必要がなくなったのである。
 コロンボには大学が設置され、大学は他の地域にも順次、開設されていった。
 1803年、ノース総督の植民地政府は拷問を廃止した。05年、マイトランド将軍General Maitlandがノース総督を継いだ。

 マイトランド将軍の政府下にもカンディ王国と英国の間に小さな紛争が起こっている。しかし、総じて平穏な時を過ごしていたと言えるだろう。
 1806年、セブン・コラレーの領主(ディサーブDissave)が亡くなった。空位となったセブン・コラレーではエイラポラEhylapolaEhylapolaとマルリゴッダMalligoddaの二人の領主が統治することになった。そのことがセブン・コラレーの領民に反感を抱かせることになった。
 「二人の領主はそれぞれに税を課してくるだろう。一方だけに従うことも要求しても来るだろう」と人々は予感した。
 その悪い予感が的中した。二人の領主は領民に重税を課し、その重圧がこの国に反乱を導き招くきっかけとなった。
 策略家のピリマタラワは機に乗じた。セブンコラレーを彼とその甥のラトワッタDissave Ratwatteのものであると王に宣言させ、彼自身がその地に向かい事態の収拾に当たったのである。
 セブンコラレーの反乱は収まったが、彼の権謀術数に長けた手腕は逆に王に嫉妬の念を抱かせるようになった。かつての恩人が今は妬みの的になったのだ。

 ピリマタラワはカンディ王国の首相である。その彼が、兼ねてから王の進めていた公共事業への参画を拒絶すると表明した。公共事業とはカンディ湖の造営、パッティリプアPattiripuaの建設である。これらの事業は市民の暮らしを圧迫していたから、市民は不満を抱いていた。ピリマタラワの声明は市民に歓迎されたがカンディ国王ウィクラマシンハとの相克は決定的となった。
 ウィクラマ・シンハ王とピリマタラワ首相との間に更に激しい憎しみが渦巻いた。互いが互いの策略で危険に陥れられると恐れた。ピリマタラワがその息子をキルティ・スリの孫娘(彼女は私生児だった)と結婚させると表明したとき、それを王位乗っ取りの策略であるとしてウィクラマ・シンハ王は直ちに彼の全公職を停止した。
 ピリマタラワは恥辱と怒りに震えた。憤怒をたぎらせる男が静かに家に閉じこもるはずもない。
 彼は王の殺害を練った。60人のマレイ兵を束ねるモハンディラムを金で取り込み、王の殺害を煉った。その暗殺を契機として反乱を起こすようウドゥ・ヌワラ
Udunuwaraとヤッティ・ヌワラYattinuwaraの領主らを説き伏せた。

 策略の日が来た。王の寝込みを襲うはずだったが、その夜の王はいつもの時間を過ぎても休まなかったので共謀者らはしばし時を待った。暗殺の時が遅れていることを知らないウドゥヌワラとヤッティヌワラの領主は時を待たず一斉に反乱を起こした。策略がばれてしまった。
 ピリマタラワとその息子は斬首、反乱を起こした6人の領主は首吊りと串刺しの刑に処された。1812年のことだった。

 エイラポラがピリマタラワの後を継いで首相
First Adigarとなった。王は以前にも増して疑い深くなり、また、暴君になっていた。王はエイラポラの家族を反乱に関わったと疑われる役人のいる場所から遠く離して住まわせ、誰も近づけないようにした。王家は一族を孤立して住まうようになった。
 ピリマタラワの反乱に加わった者の自白から、ウィクラマ王はエイラポラをも疑っていた。
 王は最初の妻との間にできた子を何人か亡くして後、2人の姉妹を同時に妻とした。その結婚式の後、エイラポラ首相が祝いの品を献上した。高価な品であった。王はそれを賄賂であると決め付け、受けるに値しないと跳ね除けた。
 結婚式が終わり、王は各領主をそれぞれの領地に送り出して領民の管理と税の徴収を行わせた。エイラポラは彼の領地であるサバラガムワ
Sabaragamuwaへ赴いた。

 サバラガムワでの彼の名声は偉大だった。彼は領主として善政を敷き、領民から尊敬を集めていた。その彼に王からの命令が下った。カンディへ呼び返されたのである。その召還に悪意の込められていることを予感したエイラポラは王への反乱を決意し、サバラガムワの領民も彼の決意に従って集まった。
 エイラポラが反乱を起こすという知らせがすぐにカンディ王ウィクラマシンハ
Sri Vickrema Rajasingheに伝わった。 王は即座にエイラポラのすべての役職を解き、その妻子を投獄した。そして、モッリゴダMolligoda を首相に任命しサバラガムワの領主に任じると、その席でサバラガムワの鎮圧を命じたのである。。
 モッリゴダは勇んで命に従った。シリパーダの峰を越えてサバラガムワに進軍した。蜂起したサバラガムワの人々はモッリゴダの軍勢に圧倒されて蜂起の勢いを失った。
 1814年5月、7日間のレジスタンスの後にサバラガムワの蜂起軍はカンデイ王国軍に敗北した。モッリゴダは捕虜の一群を連れてカンディ王国に凱旋し、エイラポラは英国に助けを求めてコロンボへ逃れた。

 エイラポラとウィクラマシンハ王の確執は世に知れ渡り今でも繰り返し語られている。2006年2月5日号のファンディ・タイムスFundey Times / Lakdiva(Sunday Tiomesではない!)には1814年5月の両者の戦闘がこの「セイロン史」に書かれた上記の内容と同じことが掲載されている。

 この反乱はエイラポラの2度目の蜂起だった。スリー・ウィクラマ・ラージャ・シンハ王の憤怒はとどまるところを知らなかった。反乱に加わったと目されるすべての者を拷問にかけ、斬首刑と串刺しの刑を執行した。かつてピリマタラワが起こしたセブンコラレーの反乱に加わったと推測される者までがカンディに呼び出された。
 法廷ではモッリゴダを含む3人の領主が審議官となり、モッリゴダに逆らう容疑者は死刑を宣告された。容疑をかけられた者は激しく鞭を打たれて70人が処刑された。彼らは地方領主の下で要職にあった者たちだった。

 カンディ王国の暴君は報復を恐れた。王はエイラポラの妻と子らと王の弟の処刑を宣した。王の弟とエイラポラの子らは斬首され、妻は溺死の刑を処せられた。
 カンディ王宮の正面にナータ神社とマハー・ウィシュヌ神社がある。その社の間に牢獄から引き出されたエイラポラの妻と子等が投げ置かれた。二人の運命は刑の執行者にゆだねられた。妻は自らと子らと、そして夫の潔白を訴えた。処刑のときまで彼女は王の慰み者とされた。彼女も子らも王に身をささげさせられた。夫が助けに来ることだけを望みにつないで生きていた。
 彼女は11歳の長男にその運命を告げた。長男は処刑を恐れて母に縋りついた。泣きじゃくるばかりだった。9歳の次男は凛々しくも前に進み出て兄に泣くなと諭し、自ら死への道を歩んだ。剣が振り下ろされ次男の首が飛んだ。血飛沫を上げて刎ねられた首が飛びワンゲディヤ(臼)の中へ落ちた。母はモールガハ(杵)を持たされワンゲディヤを突くように命じられた。


 「セイロンの歴史」が記す処刑の姿はすさまじいばかりだ。この記述の後にも処刑の仔細な様子が克明に記録されている。

 処刑の執行された2日間、カンディは暴君の王宮を除いて、街そのものが喪中の家のようにひっそりと静まり返った。
 王が下した不愉快で、陰惨な命令は、カンディ王国の領主たちと領民に反乱の機が熟したことをはっきりと思い知らせた。領主たちは王への忠誠を捨てた。
 英軍が王国に侵攻したのは、その時だった。


 

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