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エリザのセイロン史


スリランカの歴史18
英国・カンディ国の戦闘、激しさを極める






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史18
英国・カンディ国の戦闘、激しさを極める
 

ダンバデニアの和平交渉

  英軍にカンディを占拠されてしまったピリマタラウワだったが、彼はそれでもノース総督への攻撃を緩めなかった。セブン・コラレー(これはシンハラ七王国という意味だが実は一つの国だ))のダンバデニアで和平交渉を持つことがピリマタラウワ側から提案され、英国は直ちに同意した。
 ピリマタラウワは簡単な警備兵を従えてダンバデニアへ向かった。一方、バーブット少佐は300のマレー兵をを従えて会談の場へと向かった。英国の大軍を前にしてアディガーはなす術を失った。先に交わされた条約の批准が淡々と行われた。

 だが、この時、カンディの駐留軍は手薄になっていた。マレー人を含めた駐留軍のうち欧州からの兵士はほとんどが熱病に罹り病院に送られている有様だったのだ。
 カンディでは豪雨で河川が増水し船が押し流されコロンボとの通信が途絶えていた。カンディ軍は都に近づくと塹壕を掘って駐留軍を囲み、攻撃の足場を固めた。マレイ兵の英国への忠誠を削ぐために土地を与え、また金を与えると約束して自軍に引き込む計略にも出た。


 この時期のスリランカを描いた歴史小説「パヨン・プリ・パンダーラ・ワンニヤンPayum Puli Pandara Vanniyan」がタミルナドゥのカルナー二ディ・ムットゥヴェールKarunanidhi Muthuvelによって書かれ、クムクマンで毎週放送された。第67話の舞台はワンニ。登場するのは英軍に追われたピリマタラウワとその愛人マルタニだ。
 ワンニ地方の長バンダーラ・ワンニヤンは祖国を英国の侵略と支配から解放しようと軍事行動を起こす。これに共鳴したのがマルタニだった。マルタニは英軍から逃れて身を隠したムッライティウからピリマタラウワの下に戻ると、
「侵略軍の英国と戦いこの国を救いましょう」と言った。そして、
「タミルとシンハラが憎しみ合い敵対している時ではない。戦う相手は英国です」と続けた。
 だが、ピリマタラウワはその言葉に逆上する。彼が欲しいのは祖国ではない。シンハラの王権だった。
 王位に就くためなら英国とも手を組む。そして同胞の政敵さえ殺す。だが、その野望はワンニの戦士たちの祖国を守る活躍で破れてしまう。ワンニの戦士たちがカンディ王国のウィクラマシンハ王と手を結び英国をこの島から排除する戦いを始めたのだった。

 スリランカを西欧の侵略から守るためにシンハラとタミルが同盟する。この小説を世に広く紹介したのはダルマラトナム・シワラムPayum Puli Pandara Vanniyan。タミル・ネットの編集を担当してタミル・ネットを一躍有名にした、あの「ターラカ」、「星」と呼ばれた男である。Island 18 February 1990, Sri Lanka / Tamlnation.org Karunanidhi's Novel: Payum Puli Pandara Vanniyan
 ターラカはマラダーナの料理屋を出た後に何者かに拉致され、翌日射殺体で発見されたタミル人ジャーナリストだ。日本の外務省がスリランカ和平に本腰を入れていたことがあった。ターラカを日本に招致し和平への道筋を探ろうと苦心したことがある。それは彼がマラダーナで暗殺されたことによって叶わなかった。
 ターラキが紹介したタミル小説は歴史小説でありながら、明らかに現代のシンハラ・タミル問題を写している。それは今なお終結に至らないシンハラ政府とLTTEの戦闘であり、長い歴史の中で怨念を膨らませ続けた民族間の紛争そのものである。

 1802年、英国はフランスと条約を結んだ。両国とも国内事情の悪化があって戦争を継続できない状態だった。この条約でフランスはオランダから強奪したセイロンを英国に委ねた。
 実際には英国東インド会社はセイロンへ手を伸ばしており、セイロンお人意図の抵抗に手を焼いていた。セポイの傭兵をセイロンへ大挙派遣してシンハラ・カンディ王国を潰したのは1798年のことである。その占領と領有を欧州の植民市経営国家の間で認め合ったのが英国とフランスの条約であり、1802年のことだったのだ。アジアの国を植民地の名の下に欧州の国同士が勝手に売買する。高度に進化した産業と軍事を持つ西洋と戦い敗れ、懐柔され、平伏したことがこの後、いかなる形の怨念をこの島に生むのか。
 英国はフランスからスリランカ北東部を奪い、セイロン全土の開発に本腰をいれる。英国はそのとき、産業革命をバネにして飛躍していた。インドの綿を英国本土へ運び、それをリバプールの織機で生地にして再びインドへ戻しアヘンと交換した。アヘンは中国へ運び込まれ、そこで銀と交換された。それと同時にアフリカの人々をアメリカへ奴隷船で運び黒人奴隷として売った。大英帝国の富はこうして蓄えられた。スリランカの現在の経済発展はその延長線にあり、現在のスリランカ内戦もまた、その怨念を引いている。



ディビー少佐

 1803年6月24日、ディビー陸軍少佐Major Davieはカンディ軍の急襲を受け駐屯地近くの丘に立てこもった。7時間にわたる攻防戦の末、、戦闘の余力を失った守備隊は休戦旗を振った。
 両軍の間で休戦交渉が持たれた。英軍は兵器を持ってカンディを撤退することになった。トリンコマリとコロンボに撤退する準備が整うまで傷病兵らがカンディに残され、食料と薬が与えられた。
 取り決めはオラの葉Olasに記され、ディビー少佐とアディガーがオラの文書を取り交わした。アディガーは王の名で通行証をディビー少佐に渡し、英軍の帰途の安全を保障した。

 同日、34名の欧兵、250名のマレー兵、140名の銃撃兵gun Lanscarsの一隊はムトゥサーミとその臣下を連れてカンディを出立、マハウェリ川に面したワッタプルワWattapuluwaへ向かった。川は雨で増水していて渡れる状態ではなかった。この状況を知ったカンディ王は領主を通じてムトゥサーミと5人の関係者の降伏を求めた。ディビー少佐はこれを受諾、カンディの隣のオードゥーウィラOodoowilaにいる王の下へムトゥサーミを連れて行っき引き渡してしまった。
 カンディ王はエーイラポラEheylapolaにムトゥサーミを尋問させた。王家の一族たる者が英国のごとき侵略者に下ることは正しいことかと、訊いた。ムトゥサーミには自らを弁護する言葉がなかった。王の情けにすがる、とだけ言った。
 裁定が下された。ムトゥサーミは王宮から引き出され、串刺しの刑に処された。
 王はすぐさまアディガーを呼びつけた。英軍を追って皆殺しにするよう命じた。アディガーは、しかし、拒絶した。「殺すなど好ましい行為ではありません」と進言した。王は激昂した。「再び英国のもとにひれ伏せと言うのか」と怒鳴りつけた。
 われわれに勝ち目はない。アディガーは状況をそう読んでいた。更に戦いを避ける提案を申し入れたが、それは王を更に怒らせるだけだった。

 王宮で混乱が生じている中、カンディの領主らが数人集まりディビー少佐に接見した。カンディに戻りピリマタラウワと交渉を持つよう、彼らは話を持ちかけた。ディビー少佐はしぶしぶ承諾し、カンディへ向かって出発した。
 その場には兵士たちが残されていた。カンディ行政府のマレー人モハンディラムMohandiramが現れた。彼はマレー兵と銃撃兵Lascarsに英軍から離脱するよう説得した。それと歩調を合わせて、カンディ人が欧兵に近づき、ディビー少佐は船でマハウェリ川を渡りカトゥガストタKatugastotaへ逃げてしまったと虚言し、「だから、残されたあなた方は武器を捨て降参すべきだ」と勧めた。欧兵は抵抗する気力を失いカンディに戻ることを決めた。

 英軍はカンディに逆戻りした。二人の欧兵に二人のカンディ人が付き添った。カンディ人は列の距離を置き、前方を行く欧兵の姿が後ろの欧兵たちに見えないようにして進軍させた。罠であった。ジャングルの中の小さな谷で英軍の敗残兵は次々に殺されていった。
 英軍の傷病兵120名を収容したカンディの病院にはカンディ兵が乱入した。入院していた英軍兵すべてが大きく掘られた穴に生きたまま埋められた。カンディに残された英軍兵は2人の欧人士官とディビー少佐だけとなった。

 マレー兵の指揮を取っていたノーラディーン
Nouradeenはマーレーの兵の一団を率いてカンディ軍へ入隊するよう求められた。しかし彼は英国王への忠誠の誓いは破れないとその誘いを気高く拒絶した。
 ノーラディーンとその弟は投獄された。ある月の終わりに彼らは獄舎から出され、死を選ぶか、カンディ国王に跪くかの選択を迫られた。彼は再び拒絶した。即座に処刑が行われた。ノーラディーンらはロープを足に巻かれ、密林の中に捨てられた。

 ディビー少佐の軍を壊滅したカンディ王は得意になっていた。戦で功績を積んだ軍の士官らが王をたき付けたため、王の決意は高まり、ランカー島内に築かれた英国領土を奪い返す決心を固めた。
 まず、マータラの砦を大軍を持って襲った。住民を強制して兵に徴用し、英国に対する反乱を起こすための軍勢を集めた。
 マータラの司令官はタンガッラ
Tangallaの小連隊へ出向いていた。英軍の砦はすぐにカンディ軍の手に落ち、砦が取り壊された。カンディ軍に占拠されたマータラの奪還にビーバ陸軍大尉Captain Beaverが兵を差し向けるよう命じられ、彼はやむなくガーッラ港を船で発った。陸路はカンディ軍に閉ざされていたのである。ビーバー陸軍大尉の軍はカンディ軍を彼らの領土まで引き下がらせた。
 だが、カンディ王の攻撃は揺るがなかった。次にカンディ軍は100名ほどの守備兵で守られたハングウェッラを襲撃した。王自らが率いたカンディ軍は屈強で、戦いは果敢だった。一斉砲火を英軍基地に浴びせると出さずあっという間に緒戦を勝利した。カンディ軍には負傷者が一人も出なかった。
 緒戦に敗れた英軍のポロック大尉は
Captain Pollock敵軍の進行を妨げず叶う限り近づける作戦に出た。敵軍観察のためマーサー陸軍中尉LieutenantMercerを前線へ送り、ひたすら突撃の機を待った。
 合図の一撃が王の脇を打ち抜けた。戦闘は2時間続いた。カンディの軍旗、奪われていた英軍の銃、そして、多くのカンディ軍捕虜が英軍の下に転がり込んだ。

 ハングウェッラの戦いに負けたカンディ王はレウカ
Desaveとマハ・ムダリヤーMaha Mudaliyarにその責があるとして二人の首をはねた。王は狂気に紛れ更に多くの士官を彼の恨みの犠牲にした。

 ポロック大尉はハングウェッラの近くに王が建てた優雅な接見場を壊した。その接見場の前には2本の串が立っていた。捕虜となった英兵はここで処刑されたのだった。 

 敗退したカンディ軍はルワンウェッラまで逃げ落ち、更に森の奥深くへと逃げた。
 1804年9月、300の兵を率いてバティッカロアを発ったジョンストン大尉
Johnston Captaioは英領内で他軍と合流すると、そのままカンディへ進軍した。命令の通りそのままカンディ市街に突撃したが、すでにカンディの町は住民によって焼き払われた後だった。
 焼き払われた市街に立ってジョンストン大尉はカンディ軍に陥れられたことを知った。カンディで合流するはずのほかの部隊からの知らせはいつになっても届かなかった。そればかりか、彼の一隊は英軍の服を着たカンディ軍で取り囲まれていたのである。カンディ軍は英国カンディ守備隊の軍服をまとっていたのだった。
 カンディ軍はジョンストン大尉の一軍が南国の日射で疲弊するのを待っていた。ジョンストン大尉はすぐに退却を命じた。130マイルを駆け抜けて、一気にトリンコマリへ逃げ帰った。


 

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