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エリザのセイロン史


スリランカの歴史17
1 英国、カンディ王国を陥落す






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史17
1 英国、カンディ王国を陥落す
 

英国の支配とスリランカの傀儡政権

 1796年にランカー島の沿岸を英国が完全に支配して後、英国とカンディ王国との間の交渉が再開された。英国は英領マドラス政府の官吏ロバート・アンドリューRobert Andrewをカンディへ送り、カンディ国王ラージャディ・ラージャシンハRajadhi Rajasinghと条約締結の交渉を行った。
 交渉では、これまで200年の間、カンディ国王が手に入れることのできなかった有利な条件が条約に提示されたのだが、ラージャディ王は条約書に署名することを拒んだ。アンドリューはカンディ王国の全権委任者をマドラスに送るよう国王に提案して交渉は終わった。
 カンディ王国ははしばらくの間マドラスとは交渉を持たずに国を統治したのだが、マドラスに送った使節が東インド会社との契約に同意し署名したことで、王国の行政権を失うことになった。

 ロバート・アンドリューは英国東インド会社が南インドで行っている課税法をスリランカにも適用するべきだと提案し、その徴税を沿岸に住むタミル人に行わせることとした。英国の植民地経営の基本である分割統治がスリランカで実施されたのはこのときが始めてである。しかし、この徴税は1797年にシンハラ人の反乱を招き、英領マドラス政府は調査と称して反乱を収めるために軍を送った。
 
 1798年10月12日、スリランカは英国よって植民地であると宣言され、後にギルフォードの伯爵となったフレデリック・ノースFrederick North閣下が初代の英領セイロン領事となった。これで行き詰まっていた税の徴収が名目どおり行えるようになったのである。
 カンディ王国のラージャディ・ラージャ・シンハ王は英国に送られ、その2年後の1798年に英国で亡くなった。5人の妻を持ちながら彼には子が授からなかった。

 ラージャディ・ラージャシンハ王は数奇な運命に翻弄された人物である。キルティ・スリー・ラージャシンハ王の弟である彼がカンディ王を継ぐためにマドライからスリランカにやって来た時はまだ子供だった。カンディ国王となるべき運命が彼をマドライ市民からカンディ市民に変身させ、そして彼はタミル人からシンハラ人に変貌せざるを得なかった。
 マルワッタ寺院の若くて聡明な修行僧として突如シンハラ世界に現れた彼。洗練された知性を持ち、数ヶ国語を話し、特にパーリ語とサンスクリット語に長けていた。詩をこよなく愛し、彼自身、詩人でも会った。
 カンディ王国の苦渋は深まる。英国に送還されたラージャディ・ラージャシンハ王が亡くなってカンディ王国は王位を継ぐ者を是が非でも探さなければならなくなった。ラージャディには子がなく、王位後継者の指名もしていなかったのである。

 カンディ国王の任命権は首相(アディガーAdigar)であるピリマタラウワPilima Talawweにあった。彼は野心家であり策略を好む男だった。その彼が王として選んだのは若干18歳のカンナサーミだった。ラージャディ・ラージャ王の5人の妻の、その1人の妻の姉妹の息子である。
 カンナサーミは風貌がよいという意外何の取り得もない、教養のない青年だった。儀礼に沿って各地の領主が彼を王として指名した。それを受けて彼が王として公示された。即位のとき彼はスリー・ウィクラマ・ラージャ・シンハSri Wikrama Raja Singhaと名乗った。

悪宰相ピリマタラウワ


 ピリマタラウワは若いカンディ王を自らの悪行の道具として使った。
 ピリマタラウワの決定に反目した副首相と主だったディサーワ( カンディ王国の地方領主)は路頭で殺害され、副首相の忠実な部下だったカーパ>Carpaは絞首刑にされた。ラージャディ王の第1夫人は王の多くの縁者と共に投獄されたが、第1婦人の兄弟で次王と目されていたムットゥサーミMuttusamiは英国人の下に逃れてジャフナに匿われた。

 1799年、ノース総督はピリマタラウワと2度の会見を持った。
 その席でノースはこう言った。もし、カンディ王国が英国の援助を受け入れればカンディ王国は滅びるだろう。英国はカンディ王国を統治下に組み入れる積もりだ。
 ピリマタラウワはカンディ王国に絶えず襲い掛かったタミル王国のことが胸によぎった。英国にはそうはさせまいと決意した。
 無垢で無名の若者カンナサーミをカンディの国王として慌てて即位させたのはノースの脅しが背景にあったと言われる。だが、カンナサーミの即位は人々の反感を買った。国は騒乱状態になった。そして、この即位がカンディ王朝に続いた王朝の血筋を終焉させる結果を導いてしまった。

 一連の経緯が柔和を装う策略家ノースの仕業によるものかどうかはわからない。
 ノースは、だが、着々と手を進めた。新たなカンディ王の命を保障し、ピリマタラワを王国の摂政として認める代わりに、カンディ王国内での英国軍駐留を認めさせた。あまつさえ、その駐留費用をカンディ王国に負担させることでピリマタラウワと合意した。
 ノース植民地総督はカンディ王国に大使を送り、護衛として軍隊が同行した。
 ピリマタラウワとの密約によって、1801年、大群を率いたマクドゥウェルMacdowell元帥がコロンボを発った。「混乱を避けよ」という領主たちの忠告を聞き入れたので、一団のうちカンディ王国領内に入ったのはごく少人数だった。マクドゥウェル元帥は長期間駐留した。だが、果たすべき目的も果たせぬままコロンボに帰って行った。
 ノースの策略に抗してピリマタラウワは英国を挑発した。英軍を利用してカンディ王国の権力を手に入れて、その上で英国を追い払おうとしたのである。

 ムーア人の商人がカンディからプッタラムへアレカナッツを運んで帰る途中、カンディ国の役人にその荷と牛を強奪させた。英国政府は強奪した物品を返すよう要求したがカンディ王国は要求を蹴った。ノースは武力で要求を通さざるを得なくなった。
 1803年2月、マクドゥウェル元帥がコロンボからカンディ王国へ、バーブット
Barbut陸軍大佐がトリンコマリからカンディ王国へ、それぞれ軍を率いて向かった。途中、カンディ軍から攻撃を受けることもなく、二つの軍は同時にカンディの街に入った。
 カンディの街は軍の入った前日に放棄され数ヵ所から火の手が上がっていた。人影はまったくない。「パライアPariahの犬」がいるだけだった。


 コロンボのジャーナリスト、アミーン・イアサディーンAmeen Izzadeenは「パライアとは蔑称で南インドのタミル・ハリジャンを指す」として次のように書いている。
「毛布に包まり足をかがめて横たわる若い日のドゥッタ・ガーミニは、なぜ、そんな風に寝るのだ?、と訊かれて、パラに囲まれて身動きも出来ないのに、足を伸ばして寝ることなぞ出来ようもないじゃないか、と応えた。
 「パラ」を優雅に訳せば「外国人」だが、この言葉は軽蔑的な意味で南インドの最下層民パーリア>Pariahを意味する。皮肉なことにこの最下層民は後に仏教に改宗するのだ。
Why is Sri Lanka's Past Hidden from its Own People? / Ameen Izzadeen / Khaleej Times / July 3, 2007

 カンディ軍によって王宮の一部に火が付けられていた。宝飾品や貴重品は持ち去られていたが多量の弾薬と大砲が残されていた。カンディ王とピリマタラウワはカンディの南16マイルにあるハングランケタHanguranketaに避難した。
 英軍がハングランケタに迫った。ピリマタラウワは敗色が濃くなれば王を英軍に差し出すと言った。彼には国王を守り抜かねばならないという意思などなかった。彼の眼中にあったのは英軍分遣隊を壊滅することだけだった。
 王を引き渡すというピリマタラウワの申し入れを受けてバイリー陸軍大佐Colonel Bailieの指揮の下、800名の兵士が2班に分かれてアディガーに指示されたルートをたどった。険しい岩山が進軍を惑わせた。丘ごとに藪地ごとにカンディ軍の銃撃Gingalsとコールタールの火炎の玉が彼らを襲った。やっとの思いで2班はハングランケタの手前で合流した。カンディ軍からはわずかな抵抗があったが英軍は難なく王宮を奪った。
 だが、カンディ王はそのとき王宮を抜け出していた。バイリー大佐はアディガーの裏切りに怒り、王宮に火を放って作戦本部へ戻った。  

 この後、英国はムトゥサーミをカンディ王として即位させ、彼と条約を結んだ。マクドゥウォル元帥は軍の大半を率いてカンディを去り、バーブット陸軍大佐が1000名の兵士と共にその地に残った。


 

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