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エリザのセイロン史


スリランカの歴史16
大航海時代
オランダの支配






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史16
大航海時代
オランダの支配
 

オランダの過酷な統治


 オランダ人は民生の向上にほとんど興味を示さなかった。彼らの最大の関心は自分の利益だった。
 スリランカを植民地としてから最初の数年はシナモンの輸出に没頭し、シナモン樹の栽培に全力を注いだ。たとえ地主でもその所有地に芽を出したシナモンを自由にすることはできなかった。すべてのシナモンは公有財産であり、シナモン園の監督者には絶大な権限が与えられた。
 チャリア(シナモン剥き)が剥いたシナモンの皮はオランダの貯蔵所へ運ばれたが、チャリアに対してオランダ人は何の報酬も支払わなかった。
 オランダの植民地経営はシンハラ人を窮乏させた。窮乏は奴隷を増やした。そして、奴隷は酷使された。
 オランダの領事の中には裁きに公正を帰する者もあった。ラムフRumph領事は人道と平等を尊重した。だが、コロンボで起こった奴隷の暴動がかれの死期を早めてしまった。
 ラムフを継いだ領事の中にヴーイストVuistがいる。かれは、まるで自分がシンハラ王国の王子であるかのように振る舞った。独裁者となったかれは本国政府によって捉えられバタビアBatavia送りとなり、そこで処刑された。
 ヴーイストを継いだベルスルイスVersluysは前任者の残した教訓を省みず私腹を肥やした。守銭奴ヴーイストは急激な米価の暴騰を招き、この島に飢饉をもたらしている。
 1736年、ヴァン・インホフVen Imphoffが領事となった。彼の時代にオランダ領セイロンは始めて繁栄のかすかな光に恵まれた。
 ヴァン・インホフ領事はコロンボの南部を開墾してココナツの木を植えた。残念なことに彼の統治は短期間で終わり、1761年にはオランダ統治に対するシンハラ人の激しい反乱が起こった。シナモン・プランテーションが襲われ多くの居住者が殺害された。
 1765年に領事として来島したファルクFalckは領事としての才とヒューマニティにあふれる人物だった。彼は、大きく、そして実りある変革をスリランカにもたらしている。
 ファルク領事はスリランカ内陸部における植民地経営は懸命でないと判断していた。カンディ人の手によって生まれる産品はオランダがアジアの他の土地から集める生産品より劣り、また安価でしか売れなかったからである。 
 彼の統治下、胡椒、コーヒー、カーダモンがこの島に導入された。農業生産は飛躍的な伸びを示した。シナモンの需要が増大し、その供給を円滑に進めるため、ファルク領事はカンディ王国に独立の地位を与えざるを得なくなった。


大英帝国の出現


 大英帝国Great Britainはインドランドとスコットランドから構成される欧州最大の島国である。
 英国は300年前からトルコと通商を行っていたが、ポルトガルのインド進出とその成功は英国を刺激し、更に東のアジアへと向かわせた。
 インドとの交易は利益あふれるものだった。インド交易にシェアを獲得することは国家の事業だった。
 アジア東方調査に4人の商人が選ばれ、その中の1人、ラルフ・フィッチが1589年、コロンボに上陸した。恐らくは彼がこの島を見た最初の英人だろう。
 1591年、英国からインドへ直行する船団が始めて結成された。
 1592年、エドワード・ボナベンチャーEdward Bobaventureの乗る英国船がゴールGallaに着いた。これがスリランカに寄港した始めての英国船である。
 インドでは広大な領地を持つようになっていた英国だったが、シンハラ王国との間に交易が行われたのは1664年のことである。その時にはラージャ・シンハ2世のカンディ王国に捕われた交易船の乗組員らを救い出すことはできなかった。英国がシンハラ王国との接点を見出すのは、シンハラ王朝衰退のとき、タミル人をカンディ国王とした時期にまで時代を下らなければならない。

 1763年、英国はスリランカでの交易の足固めを始めた。英国のマドラス領事がピーバスPybusをキルティ・スリ王の元へ送った。キルティ・スリ王は好意的に英国の使節を受け入れた。だが、この時は英国政府がシンハラ王国に対して関心を示さず、会談は不調に終わった。
 その後1782年まで、英国との間にはなんら進展がなかった。だが、その年に英国とオランダの間に戦争が起こった。英国マドラス領事はヒュージス海軍大将の率いる艦隊とモンロー陸軍元帥の率いる上陸兵を派兵しオランダのセイロン居留地を攻撃した。
 英国の軍はトリンコマリーを攻略し、ボイドBoydがカンディ国王ラージャディ・シンハRajadi Singhの下へ使節として向かった。
 その当時のカンディの様子をボイドはこう伝えている。
 みすぼらしい家ばかりで、家は泥土で作られている。王宮は薄暗いアパートメントのようで、王の様子にはまったく尊大さが見られない。王は黒い男で大臣たちが四方でひれ伏している。
 ボイドの接見後も英国はカンディ王国へ使節を送らなかった。1783年に英国とオランダに和平が結ばれるとトリンコマリはオランダの領有に戻された。
 
 1795年、ランカー島で英国オランダ戦争が再び始まった。マドラス領事ホバートHobart卿はスチュワートStewart元帥をセイロンへ派遣しセイロンのオランダ領奪還を目論んだ。
 3週間の戦闘でトリンコマリーは英国の手に落ち、続いてジャフナが占領された。
 1796年初頭、スチュワート元帥はネゴンボを攻撃、そこからコロンボへ進軍した。
 オランダ軍の激しい抵抗が予想されたが、英国軍は何のレジスタンスも受けずにケラニ川を渡り、コロンボ市街の近くで野営した。フランス人指揮官に率いられたマレー人の雇い兵が送り込まれたが、指揮官に戦闘の意欲はなく、マレー人兵士らはあっさりと退却した。2月16日、コロンボは英国軍に占拠された。続いてガーッラも占拠された。138年に及ぶオランダのランカー島海岸地域の領有が終わった。

 英国のセイロン征服はなぜこうもたやすく成されたか。それはオランダ軍司令官たちには行動力も勇気も欠如していたからだ。そうした欠如は兵士の反乱さえ生み、これもオランダの敗因となった。最後のオランダ領事バン・アンゲルベックVan Angelbeckの命でさえたびたび危機に瀕した。
 
 セイロンのポルトガル人は兵士だった。 
 セイロンのオランダ人は商人だった。

 よくそう言われる。オランダ人は利益を膨らませるためにシナモンなどの交易農産物の植樹を行ったが、スリランカの人々の利益になることにはほとんど何もせず、そうした興味を示さなかったのである。

 ポルトガル人と同様にオランダ人は宗教を広めることにきわめて熱心だった。しかし、その布教方法は非難されるべき非道の行いに満ちている。
 中にはオランダ人であっても勤勉で、正しく人々を導き、神への忠誠を誓いまとまりながら行動する人々もあった。ローマン・ダッチ法が多少なりともこの国の法廷に残っているのはオランダ人がランカー島を占領していたことの証であるし、この島を法の下に導いた証でもあるからだ。

 

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