スリランカの歴史15大航海時代シンハラ王国の衰退
スリランカの歴史15大航海時代シンハラ王国の衰退
シンハラ王朝の屈辱1687年、ラージャ・シンハ二世王は逝去した。50年にわたる統治だった。 彼は屈強だった。太っていて、とりわけ肌色が黒く、大きな鼻と鋭い野性的な眼を持ち、そして精力的だった。年老いて白髪もまばらになったが、長い毛むくじゃらのあごひげを蓄えていた。羽毛をいっぱいに飾った帽子を被り、東洋の多くの君主がするように宝石と黄金を身に飾り着けることで威厳を示した。 臨終のとき、ラージャ・シンハ二世王はウィマーラ・ダルマ・スーリヤWimala Dharma Suriya王子にオランダとの和平を保つように言い残した。 ウィマーラ王子は常日頃からおとなしい性格で、父王の言葉に従うことになんら異存はなかった。彼が即位し20年にわたるウィマーラ王の時代が続いた。オランダとの間には紛争が起こらなかった。 ウィマーラ王は仏教再興に力を注いだ。古代シンハラ王国のように仏教を国の中心に押立てるため、シャムに使節を送って受戒僧の来島を願った。シャム王国とシンハラ王国の仏教交流は長い歴史を持つのである。 1707年、ウィマーラ・ダルマ王は長男のナレンドラ・シンハNarendra Singhに王位を譲った。ナレンドラ・シンハ王は彼が王宮を建てた村の名をとってクンダサレー王Kundasaleとも呼ばれている。クンダサレーはカンディから4マイル離れたところにある。 ナレンドラ・シンハ王は酒乱で強暴だった。高官を虐待して反乱を起こされ、すぐに王位を剥奪されている。 1739年、ナレンドラ・シンハ王が亡くなった。子はなかった。かれを最後にシンハラ王朝はシンハラ民族としての血を終焉させてしまった。 ナレンドラ・シンハ王はマドゥッラの王女との婚姻を結んでいた。王女の兄弟がシンハラ王朝を狙っていた。そして、そのマドゥッラの王族がシンハラ王国の王位に就いた。スリー・ウィジャヤSri Vijaya(ウィジャ・ラージャシンハ)と名乗った。 ウィジャヤ・ラージャシンハ王は平穏に8年間を治め、1747年、義理の兄弟のキールティ・スリー・ラージャ・シンハがタミル人のシンハラ国王として即位した。 彼の時代、シンハラ王朝は屈辱的な条約を結んでいる。 キールティ・スリー王はオランダにプッタラムとバティッカロアの割譲を認めたのである。カンディの王宮の庭でオランダ大使に強制され、屈辱の中でカンディ王国は屈服したのである。 キルティ・スリ王は弟のラージャディ・シンハ(ラーディラージャシンハ)に王位を譲った。弟王は20年(16年)を統治した。その間、スリランカは平穏と繁栄を享受した。 ローマン・カトリックか、プロテスタントかキリスト教は大きく2派に分かれる。ローマン・カトリックとプロテスタントである。前者のローマン・カトリックは教会の頂点に教皇を置き、後者はその名の通りに「抗議」-プロテスト-、ローマ教会派のいくつかの教義に対して抗議を宣言して生まれた宗派である。 オランダ人はプロテスタントである。彼らはオランダ領としたスリランカにプロテスタント教義を広めたが、布教のために彼らが取った行動は非難されなければならない。 オランダは村々に学校を作った。学校に行かない子供の親には罰金が課された。洗礼と結婚式が校舎で行われ、校長がそれを管理した。洗礼をしてプロテスタント教会に属さなければ、事業を起こすことも許されず、土地の貸借も改宗者以外には禁止された。 オランダのキリスト教でなければ生活が成り立たない。ポルトガルの教会で洗礼を受けた低地の領主たちの多くがローマ教会の誤りを公的に認めざるを得なくなった。地主、下級官吏、Vidahnはオランダ植民地政府から交付される身分証明書を持たなければならなくなった。ジャフナのバラモンさえもがキリスト教に改宗させられた。そして、バラモンはヒンドゥ教徒の証である数珠を手放さなければならなくなったのである。 短期間のうちに数十万の人々がキリスト教プロテスタントに改宗した。だがそれはうわべのことだった。ほとんどの人は仏教とヒンドゥ教を心の内で信じ続けたのである。 オランダ人がスリランカの人々に強いた改宗は悪徳の業である。同じくして、世俗の利益のために偽善を装った人々はより罪が重い。 プロテスタントがローマン・カトリック排除のために仕掛けた仕打ちはひどいものだった。 結婚式をローマン・カトリックで行なうと重税が課せられた。後になってプロテスタント教会が牧師と裁判所職員の立会いの下、結婚式を執り行うようになると、ローマン・カトリックの結婚式は禁止され、その結婚登録も無効にされた。 葬儀も同様だった。ローマン・カトリックの墓地への埋葬は禁止され、プロテスタント教会の墓地で葬儀を行なうよう強要され、葬儀には高額な料金が課せられた。 職業も大幅に制限された。ヒンドゥ教徒とローマン・カトリック教徒は公職に就けなかった。奴隷は親がローマン・カトリックであればその子も奴隷のままであった。ただし、親がプロテスタントであれば職業の自由が与えられた。 この結果、当然ながら、海岸地方に広まっていたローマン・カトリック教会はさびれ、信者と神父たちはその地を追われた。 ラージャ・シンハ王が土地を追われた彼らに入植地を提供し、700家族がカンディの丘のふもとのルワンウェッラRuanwellaに移り住んだと言われている。今日、マータレー山中にあるワタコッタWatacottaの村に住む人々はオランダの迫害を逃れて隠れ住んだローマン・カトリックの子孫である。 ローマン・カトリックの神父は気高かった。ジョセフ・ワーズJoseph Vazはそうした神父の1人だった。 彼がゴアからジャフナにやって来たとき、貧しい彼には友もなかった。赤痢に罹り、粗末なベランダに身を横たえて夜を過ごした。 ワーズを気遣った女性が夜を過ごすために軒下を貸した。そうして救いを受けたが、隣家の人々は、見知らぬ男を家に泊めたと大いに非難し、ワースは道端に投げ置かれた。 照りつける太陽の下でワーズは死を予感した。魂を神に捧げようとした時、彼は再び救われた。死に瀕した彼を哀れんで食事を施してくれた人がいた。ワーズは生気を取り戻し、自分がローマン・カトリックの神父であることを告げた。彼は匿われたが、オランダ人に見つかり、ひそかに船出をしてプッタラムへ逃亡した。 プッタラムからカンディへ向かい、隠れ住むローマン・カトリックの信者と会おうとしたが捕まってしまい、カンディの獄舎で2年間を暮らし、そして釈放された。その後、ローマン・カトリックの布教を始めている。 カンディに天然痘が流行した。予防法は知られていなかった。新たな感染者が次々と生まれ、父は子を捨て、妻は夫の下を去り、残された病人は餓死した。死者は膨大な数に上り、ジャングルの中に捨てられる有様だった。 ペストがカンディを襲ったとき、王は街を離れた。死者があふれ、ワースは食料を持ち森に入り病人を看病し、小屋がけの病棟を建て救助に没頭した。彼の下に人々が寄り添い洗礼を受けた。1711年、ワースはカンディで没した。 次章→ 8 オランダの支配
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