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エリザのセイロン史


スリランカの歴史12
大航海時代
4 ポルトガル、全土を支配する






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史12
大航海時代
4 ポルトガル、全土を支配する
 

オランダの商船も喜望峰を越えた



 英国の近くにある小さな国で暮らすオランダ人は実業と貿易に長けていた。オランダの船はポルトガルへ行ってスリランカやインドからもたらされるスパイスなどの商品を買い、それらを欧州で売りさばいていた。だが、ポルトガル王は商才に長けたオランダに嫉妬反目し、オランダとの関係を閉ざした。
 それから1年を経ずしてオランダが直接インド貿易に乗り出したのにはそうした事情があった。

 1595年、オランダの商船が始めて喜望峰を越えた。オランダは当初、ジャワと中国を相手に貿易を行ったが、スピルバーゲンSpilbergen提督の率いる3隻の船がスリランカへ向かったことからポルトガルの権益が脅かされるようになった。
 1602年3月、スピルバーゲン提督の船がバティッカロア近くに寄港した。スピルバーゲンは自らカンディへと歩を進め、ウィマーラ・ダルマ王に謁見した。
 ウィマーラ・ダルマ王はオランダ提督を最大限に歓待した。式典に馬を並べ、西欧のスタイルで祝宴がもてなされた。オランダ提督はカンディ王国のいかなる公館へも入場が認められ、国内にオランダの砦を築くことも許された。それに対する見返りの条件は王女と王子らの欲しがるものを提督が用意すること。それだけだった。こうしてオランダはスリランカのシナモンと胡椒を手に入れたのである。

 オランダのスリランカ進出を継いだのはシバルド・ダ・ウィールドである。ウィマーラ・ダルマ王はダ・ウィールドと交渉するために直接沿岸へ出向き、祝宴でワインを飲み大いに浮かれていた。そして、酔いに任せるまま「犬をつなげ」と口走ったのである。
 ウィマーラ・ダルマの軍勢は王の命令とあって、ダ・ウィールドと50人を超えるオランダ人を捕らえ、あまつさえ次の文書をポルトガル語で作り、オランダ戦艦の将校に送りつけてしまった。
 「ワインなど飲んでも良いことなど何もない。神は正しいことを為す。貴殿らが平和を望むなら平和を、戦争を望むなら戦争を」

 1604年、ウィマーラ・ダルマ王が逝去した。ドンナ・カタリーナとの間に2人の子供があった。だが、戴冠して王位を継ぐは幼すぎた。ウヴァの王子と先王の兄弟とスリ・パーダの仏寺の僧が残された子らの後見を争った。
 スリパーダの僧侶は還俗して現世に舞い戻った。彼はひそかに王子を毒殺してドンナ・カタリーナと妻帯した。そしてセネラトSeneratの名の下、王冠を戴いた。

 1612年、オランダからマーセラス・ダ・ボッシュホーデルが使者としてランカー島を訪れ、新たな交易がセネラトのカンディ王朝との間に結ばれた。
 オランダはトリンコマリ近くのコッチアールKottiarに砦を築き交易を始めたが、同年、サイモン・コレアSimon Coreaの指揮の下にポルトガル軍がその砦を襲い、そこにいたすべての者を殺害した。
 オランダと友好関係にあったセネラト王は即座に反応した。サイモン・コレアの軍が領地に戻る途上、彼らに5千の矢を浴びせ厳しい罰を下した。

 1613年、ドンナ・カタリーナが逝去した。彼女はウィマーラ・ダルマ王との間に生まれた長男がセネラトに毒殺されたのではないかと疑い悩んでいた。本来、カンディ王国の王位を継ぐのはその長男であった。疑念は彼女を苦しめ、苦しみが命を奪ったのだった。
 死の迫り来るとき、ドンナ・カタリーナはベッドの傍らにボッシュホーデルとウヴァの王子を呼んだ。二人に忠誠を求め、残された子らの保護を懇願した。

デンマークとの交渉

 1615年、セネラト王はボッシュホーデルを介してオランダ本国に対しポルトガルの排除を求めた。ボッシュホーデルは本国へ戻りセネラトの要請を伝えたが、本国政府はそれを断った。
 オランダ政府に要請を断られるとボッシュホーデルはデンマークへ向かった。そして、セネラト王の全権代理としてカンディ王国との交易を持ちかけた。欧州からの帰路、ボッシュホーデルはデンマーク軍の将校として小隊を率いて船に乗り込んでいた。だが、航海の途中で彼は亡くなり、セネラト王はデンマークとの交易を拒絶した。

 1591年、ポルトガル軍がジャフナを占拠した。ジャフナ王はオランダへの貢納の見返りに暫時の統治権を得たものの、その後王位を略奪されている。ポルトガルは1624年、ジャフナでの要塞建設に着手し、1632年に完成させた。
 ポルトガルがジャフナを完全に掌握していたのは40年間であった。彼らはジャフナ半島を細分化し、それぞれの地区に教会を建てた。教会は遺跡として現在も残っているが、そこでは数年のうちにほとんどすべてのジャフナ市民が、ブラーマンを含めてヒンドゥ教の偶像崇拝を止め、キリスト教の洗礼式に臨んだのだった。

 1597年、カンディ王国のドン・ジュアンが逝去した。その遺志によりスリランカ全土が彼の後見人に委ねられることとなった。カンディ王国との交易権を持っているポルトガルは、かくして何の苦労もなくスリランカ沿岸地方をも交易地にすることができるようになった。スリランカ東部の防衛拠点トリンコマリにも、その南のバティッカロアにもポルトガルの要塞が建てられたのである。

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