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エリザのセイロン史


スリランカの歴史11
大航海時代
ポルトガルの策略
ドン・ジュアンという男






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史11
大航海時代
ポルトガルの策略
ドン・ジュアンという男
 

ラージャシンハ1世の即位



 1581年、マヤ・ドゥンナイの逝去と共に末子のラージャ・シンハ一世がシーターワカ国に即位した。(ポルトガル側ではラージャシンハ一世が年老いた王と兄弟を殺害したとしているが)
 ラージャ・シンハ一世は少年期、ティキリ・バンダーラTikiri Bandaraという名だったが、父の軍と共に戦闘に関わる中、その勇敢な戦いぶりからラージャ・シンハ(ライオンの王)と呼ばれるようになった。

 ポルトガルはシータワカの王位継承という政変期を捉えて大軍を送った。ポルトガルに敵意を持つ地方の強国を征服しようとしたのである。
 ラージャシンハ一世王はポルトガル軍の正面と背後に自軍を回りこませて挟み撃ちにした。すさまじい戦闘だった。ポルトガル兵もシンハラ兵も像の尻尾に捕まりながら闘った。ラージャシンハ一世王は馬にまたがり縦横に飛び回り戦った。ムッレリアMulleriawaの草原に洪水のごとくに血が流れ、ポルトガル軍は1千7百の兵を失い、この戦いに破れた。

 ポルトガル軍のシーターワカへの侵攻を食い止めたラージャシンハ一世はコッテを襲い、更にコロンボをも陥れようとした。だが、シーターワカに反乱が起こり、王はポルトガル軍への戦いを中止せざるを得なくなった。
 国へ戻ったとき、反乱の首謀者はジャフナへ逃げた。シーターワカは平穏を取り戻したがラージャシンハ一世はこの後、彼を取り巻く者すべてに懐疑の目を向けるようになった。
 王家一族のスンダラ・バンダーラ王子に反乱の疑いを抱いた。
 ラージャシンハ王はスンダラ・バンダーラ王子に親書を送り、忠誠を称え褒美に村を与えるから王宮へ参るようにと伝えた。二人のムダリヤーMudaliyarsがスンダラ・バンダーラの下に出向き王子を王宮へ導いたのだが、その途上、ムダリヤーは王子を落とし穴にはめた。穴は草で覆われ、天を向いた槍がバンダーラ王子を待ち構えていた。
 罪は必ず罰を受ける。王子の虐殺がバンダーラ一族に知らされると息子のコナップ・バンダーラKonappu Bandaraはすぐさまコロンボへ向かい、その場でキリスト教カトリックの洗礼を受け、その名をドン・ジュアンDon Juanと改めた。

 ラージャシンハ王はそのときヒンドゥ教に改宗していた。仏教を弾圧し、僧侶を残虐に扱った。仏教聖典を焼き払い、サマナラ・カンダの神を社から追い払い、ヒンドゥの神を祀る寺院に代えた。

 再びコロンボのポルトガル軍を襲う。ラージャシンハ王はそう胸に誓いを立て用意周到な準備を重ねたが、シーターワカの国内では戦争に反対する声が高まっていた。
 ラージャシンハ王に父を惨殺されたドン・ジュアンはマンナルに出帆し、そこからカンディへ向かい、幾人かの領主から援軍を得てシーターワカを脅かしていた。ポルトガル軍もまた、遠征隊を組み、南海岸へ送り出した。遠征隊はそこからシーターワカ攻略を狙った。
 デウンデラDewunderaにあるヒンドゥ寺院はスリランカで最も素晴らしいものだったが、このときのポルトガルの遠征軍によって破壊された。その非道に怒ったラージャシンハ王はコロンボに向けて軍を送ったのだが、それは9ヶ月続いたヒンドゥ寺院破壊のことだった。
 ラージャシンハ王の進軍によってドン・ジュアンはゆっくりと南へ、東へと退却させられた。この後数年の間、両軍による小競り合いが繰り返されている。こうした内乱状態を背景にしてポルトガルは再び、ランカー島搾取といううまい汁を吸うことになる。

 シンハラ両軍の戦闘が行き詰まり硬直する中で、仇敵からの攻撃を受けなくなったポルトガルはアウィッサウェッラAvisawellaとセブン・コラレーの大部分を手に入れてしまった。カンディも占拠し、シンハラ王家の血を引くという名目の新王がドン・フィリップDon Philipの名で洗礼を受け、王位に就いてしまった。
 この一件はドン・ジュアンを怒らせ、彼の心はポルトガルから完全に離反してしまった。ドン・ジュアンはカンディに進軍し、期を待ってドン・フィリップを毒殺した。ポルトガル軍はそのとき武装を解いて、シンハラ王朝の政変に干渉することはなかった。ドン・ジュアンをラージャシンハ王と闘わせるほうがポルトガルにとって有利だと目論んでいたのである。

 ラージャシンハ王は大変な高齢にもかかわらず(ポルトガル人は彼が120歳まで生きたという)、ドンジュアンとの戦いを続けていた。
 彼の最後の戦いはカドゥガンナワKadugannavaで起こった。軍は体制を整えてドン・ジュアンを待ち構えていたが、そのときラージャ・シンハ王の劣勢は明らかだった。
 戦士のからだは飛び散り野原に死骸が散らばった。戦の途絶えた日暮れに年老いた王は悲惨な光景を目の当たりにした。ラージャ・シンハ王自身が足を負傷し、自らの最後が迫っていることを知っていた。「この11年、私に並ぶ戦士はいなかった。だが、今の敵は私に勝る」ラージャ・シンハ王は傷の手当てを振り払い、老いたその身をただ嘆いた。
 ラージャワリヤに寄れば1592年、ラージャ・シンハは臣下の裏切りによって殺されたとされている。

ドン・ジュアンの即位



 ラージャ・シンハ王の死によってドン・ジュアンが王位に就き、名をシンハラ名のウィマーラ・ダルマWimala Dharmaに改めた。自ら仏教に帰依すると宣言するとキリスト教を捨て、さらに国内でもキリスト教を禁止した。
 古代インドのカリンガからランカー島に持ち込まれた仏の歯はシンハラ王権の象徴だった。
 ポルトガルは仏歯をカンディから奪い、1560年、ゴアに持ち込んで潰し焼き払っていたが、ランカー島の王権は仏歯を所有するものに授けられるという伝統がカンディ人にあるため、ウィマーラ・ダルマ王は仏歯はサバラガムワに隠されておりポルトガルの略奪を逃れたとし、今はカンディに戻され無事に保管されていると言った。
 コロンボのポルトガル人はウィマラ・ダルマ王の翻意に憤慨したが表立った反論をしなかった。
 その後、ペドロ・ロペス・デ・ソウザPedro Lopez de Souza司令官がマラッカからゴアへ戻る途中、コロンボへ寄港した際、その翻意の件が伝えられ、デ・ソウザはゴアの総督にシンハラ王国制裁を進言した。

 制裁の提言は即座に受け入れられ、出撃の軍をデ・ソウザが動かすことになった。
 彼には戦略があった。ポルトガルがカンディ王として即位させたドン・フィリップにはドンナ・カタリーナDonna Catharinaという娘がいる。この娘をカンディ王朝正等の後継者であると吹聴し、自らの甥と結婚させる。その上で、デ・ソウサの率いるポルトガル軍がウィマーラ・ダルマ王を攻め落とせばランカー島は彼と彼の国ポルトガルの手中に落ちる。
 デ・ソウザはポルトガル軍を率いて直ちにゴアを出帆した。マンナルに入港しドンナ・カタリーナと出会い、盛大に謁見の儀を催し、彼女をポルトガル軍の司令官においた。
 ポルトガル軍はネゴンボを発ちカンディへ向かった。ウェッラネWellaneの中心部を過ぎたとき、突然辺りからトムトムの音が湧き上がり矢、タールの砲丸と槍が飛び交い隊列が襲われた。ポルトガル軍はあえなく全滅し、ドンナ・カタリーナがウィマーラ・ダルマ王の手に落ちた。策略には更なる謀略が生まれる。ウィマラ・ダルマ王は彼を夫として認めるようドンア・カタリーナに迫ったのである。
 その数年後にポルトガルは再び島の内陸を襲いカンディを陥れようとした。が、その企ても成功しなかった。こうして、ポルトガルはカンディ王国の扱いに破綻をきたしていたのだが、他の地域への進出は確実に果たしていた。
 オランダがアジア進出をもくろんで軍艦を派遣し、長い航海の後に喜望峰をまわったのはこのころだった。

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