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エリザのセイロン史


スリランカの歴史10
大航海時代
ポルトガルとシンハラの王国






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史10
大航海時代
ポルトガルとシンハラの王国
 

コーッテ王国の内紛



 1527年、ダルマ・パラークラマ王が逝去した。王の弟のサカラ・ラージャSakara Rajaが多くの人々から王位継承を求められたが、かれは名声を避けて王位には就かず他の兄弟がウィジャヤバーフ七世VijayabafuⅦの名の下に即位した。
 ポルトガルは頑強な要塞を新たに築いた。守りを固めると度々兵を挙げ、不法な暴力行為を働き、シンハラ社会を乱すようになった。それが2万のシンハラ兵をコロンボに集結させる結果を導いた。
 要塞に籠ったデ・ブリットDe Britto総督は周囲を包囲するシンハラ軍をあざ笑ったが、篭城の事態が長引くとその顔はみるみると青ざめた。シンハラ軍の目的は戦闘ではなく、ポルトガルの要塞を兵糧攻めにすることにあったと気付かされたからだった。

 コロンボ要塞のポルトガル軍はやっとのことでコーチンCochinに対して援軍を請う知らせを届けた。コロンボ守備隊の危機を受けたコーチンの総督は食料を積んで船をコロンボに出航させた。絶望に瀕していたポルトガル兵は援軍と物資に勇気づき、300のポルトガル兵を砦から出陣させた。
 驚いたのはシンハラ軍の兵だった。兵糧攻めをして労せずに要塞を落とすはずだったが、思わぬ反撃に遭って折角築いた陣地も、軍の物資も投げ捨てて散り散りとなって逃げ出した。シンハラ軍の物資はすべてポルトガルの手に落ち、植民地の反乱は収拾した。

 ウィジャヤバーフ七世は最初の妻との間に三人の子をもうけた。ブワネカバーフBhuwaneka Bahu,ライガム・バンダーラRaygam Bandara、マヤ・ドゥンナイMaya Dunnaiがその三人だった。王は、しかし、その3人に王位を継がせたくなかった。二度目の妻との間に王子が生まれ、その子に王位継承をしようと願ったので、先妻の子らは父王にするどく反目した。
 ウィジャヤバーフ七世は3人の王子らの殺害を決めた。計画を知った王子らは父王の下を去って逃れ、逆に軍を集めて父の居城コッテを攻撃した。襲撃のその夜、父王は王子らの雇い兵に殺された。

 西暦1536年、コーッテの王宮襲撃の翌日、長男のブワネカバーフ王子が即位し王となった。
 ブワネカバーフ王は孫のダルマパーラDharmapalaを後継者として望んでいたが、これはシーターワカSitawakaを統治する弟のマヤ・ドゥンナイに反対された。この軋轢は後々、兄弟の間に憎悪に満ちた戦闘を生むことになる。
 兄の攻撃に備えてマヤ・ドゥンナイはシーターワカを要塞化したが、ブワネカバーフ王はポルトガルの援軍を得て弟の領地に攻め入った。小さなレジスタンスがあったが、ブワネカバーフ王とポルトガルの連合軍はマヤ・ドゥンナイの軍を破った。
 マヤ・ドゥンナイはシーターワカの都を追われマハー・ライガム・バンダーラの下に逃げ込み、共に武器を徒って兄に対抗するよう説得した。しかし、バンダーラは用心深く、争いには加わらなかった。
 

シーターワカ王国の内紛


 ブワネカバーフ王は兄弟の干渉を払いコーッテ王国を意のままに経営するため、ポルトガルに軍事援助を求めた。孫の彫像とその彫像に被せる黄金の王冠を作り、サラップ・アーラッチSalappu Arachiにそれらを持たせ使節としてポルトガルへ送った。それはポルトガル王ジョン三世に対して、偶像への戴冠を要請し、孫を王と認める儀式をするよう要請するためだった。
 要請はジョン三世によって快諾された。1541年、偶像は戴冠し、クリスチャン名ドン・ジュアンDon Juanと名付けられ、リスボン城の大広間に飾られた。

 マヤ・ドゥンナイはマハー・ライガム・バンダーラを巻き込んでコーッテ王国に再戦を望んだ。ポルトガル軍の応援を受けたブワネカバーフ王は難なく兄弟の軍を追い払い、再びシーターワカを焼き払ったのだが、ブワネカバーフ王自身はその後、ケラニアでポルトガル人によって銃撃され、亡くなっている。射殺は偶然の出来事だという。

 1542年、ブワネカバーフ王を継いでドン・ジュアン・ダルマ・パーラがポルトガル王から戴冠を受け、彼とその臣下が洗礼を受けた。これを機として西海岸に暮らす多くの人々も同様に洗礼を受けローマン・カトリックの信者となった。
 ポルトガルはシンハラ人のキリスト教への改宗を進めるため、キリスト者となった者に米を与え、役所への登用を図った。
 仏教は迫害された。戦禍に荒れたシーターワカとカンディの街の修復のためにコーッテの仏教僧が借り出される有様だった。

 1544年、ローマン・カトリック伝道協会のフランシスコ・ザビエルFrancisco de Xavierの下、スリランカ北部マンナルの多数の人々がキリスト教を受け入れた。
 ジャフナ王は熱心なヒンドゥ教徒で、キリスト教が領地に広まることを恐れた。マンナルのキリスト教徒600人を串刺しの刑に処し、キリスト教宣教師の入国を禁止した。
 だが、むごい努力はむなしく終わる。彼の長男が王宮と取引をするポルトガル商人を通じてキリスト教に改宗してしまったのである。王はその長男さえ処刑し、亡骸をジャングルに捨てた。
 だが、更に王の姉妹がキリスト教に改宗した。キリストの教えは姉妹の息子や王の他の息子たちにも広められた。キリスト者となった彼らは皆、ポルトガル商人を通じて船に乗り、ゴアへ逃亡した。

 キリスト教徒に対する弾圧は激しくなった。ザビエルはポルトガルにキリスト改宗者の救済を求めた。
 宗教を守るのはその教えではない。軍隊である。
 ジャフナ王はポルトガル軍による暗殺を恐れ、1548年、うやうやしくザビエルを受け入れ自らがクリスチャンになると申し入れた。
 ザビエルがゴアへ戻るとき、ジャフナ王はザビエルに彼の使節を随行させ、ポルトガル提督に対してポルトガル王の臣下となれるよう願い立てをした。また、駐留の経費をジャフナ王自身が払うとした上で、自らの護衛のためにポルトガル兵士の派遣を求めた。

 ドン・ジュアン・ダルマパーラはランカー島西海岸の王としてその名を知られるようになっていた。一方、マヤ・ドゥンナイはランカー島の内陸で武力による勢力拡充に腐心しており、その勢力は拡大していた。

 1563年、マヤ・ドゥンナイはコーッテ王国を攻めた。再びコロンボの要塞が兵糧攻めに会った。ポルトガル軍は戦死した兵士の肉を塩漬けにして飢えをしのいだ。
 だが、コロンボ駐留のポルトガル軍に二度目の救済はやって来なかった。ポルトガルはコロンボ要塞を放棄し、ドン・ジュアンはマヤ・ドゥンナイの軍によって要塞の壁の中に生きたまま埋め込まれた。


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