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エリザのセイロン史


スリランカの歴史9
大航海時代
ポルトガルの上陸






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史9
大航海時代
ポルトガルの上陸
 

シナモンを求めてアジアへ



 シナモンは古代から欧州に持ち込まれていたが、そのシナモンを産する国に関することは長い間、欧州人に知らされることがなかった。
 ヘロドトスHerodotusの記するところに寄れば、紀元前484年、古代ギリシャ人はインダス川の東にある国々や島々に関しいくらかの、おぼろげな知識を持っていたと思われる。
 オンエシクリタスOnesicritusは、紀元前330年、ランカー島に関する記録を残している。知りうる限りでは彼が始めてランカー島を欧州に紹介したことになる。
 ギリシャからランカー島までは海路500地理マイルで、「ランカー島の象は獰猛で戦闘に向いている」とオンエシクリタスは貿易商人の興味をくすぐるような地誌を著した。そのためにランカー島の象は利益の上がる有利な商品としてもてはやされることとなった。ワンニの森でイスラム人が捕らえた象をジャフナ半島のカイツ港Kayts/ Urkavalthurai へ運び、海路、ギリシャへ輸送した。現在、エリファント・パス(タミル語でAnnai Eravu)と呼ばれるその地は古代ギリシアに始まった象貿易の名残である。

 キリスト教時代の初期になって欧州南部とインドの間で定期的な交易が行われるようになった。毎年100を超える交易船の一団が紅海からマラバル海岸やランカー島へ向かい交易商品の交換を行った。ランカー島から欧州へもたらされた主な交易品は象、象牙、鼈甲、真珠、そしてシナモンであった。

 西暦270年、ランカー島に暮らした文筆家がこの島は広大であると述べ、婦人たちは欧州の婦人たちがするように大切に髪を梳き、長い髪を頭の上に丸くまとめていると書いている。

 修道士コスモスCosmasはギリシャ商人から聞いた話をこう残している --- タプロバーネ
(スリランカ)は胡椒海岸(マラバル)の向こうにあり、椰子の実があふれるばかりにして実り、その島の近くには多数の小島(モルディブ群島)がある。

 6世紀、スリランカは中国と航海とを結ぶ海上交易の中間点とされていた。
 
 西暦1284年、ベネチアの旅行家マルコ・ポーロがランカー島を訪ねた。
 マルコ・ポーロはランカー島の男が戦闘に向かないことを書き残している。男たちは木からあふれ出る酒を飲み、その島は他の何処よりも優れたルビーを産すると書いている。
 400年ほど前まで(ということは今から500年ほど前だが)、欧州を出帆した船はスリランカまで行くことが出来なかった。商人は道程の一部を陸送に頼らざるを得ず、それが欧州に持ち込まれる東洋の商品価格を高くしていた。

ポルトガル、新しい航路を行く

 ポルトガルは欧州南西部に位置する小国である。小国ではあるが、15世紀の末、ポルトガル人は海洋航海においてもっとも勇敢で果敢な国民だった。彼らは既にアフリカ沿岸のほとんどを帆走し、更に新しい航路の発見を目指して冒険の航海に挑んでいた。
 1486年、ポルトガルのジョン王はバルソドメウ・ディアスBartolomeu Diasにこれまで誰も試みることのなかったアフリカ大陸周遊を命じた。
 翌年、リスボンを出航したディアスは数ヶ月の航海の後、自らは気付くこともなく喜望岬に到達し、更に南へ向かっていた。東の方角に陸地の途絶えたのを見てディアスは北へと舵を取って戻り、間もなく岬の東に横たわる海岸線を見た。こうしてアフリカ大陸を越える航路を発見したのである。
 そのまま更に東へ向かうことに彼はためらいがなかった。だが、船員たちの道への不安ががその先の航海を止めさせてしまった。彼は止む無く船をリスボンに引き返した。16ヶ月に及ぶ航海だった。
 アフリカ南端の岬を過ぎるとき、大きな嵐に遭遇した。ディアスはアフリカ南端の岬を「嵐の岬」と名付けた。だが、ポルトガル王ジョンは探検の成功を祝して「希望の岬」と命名した。

 1497年、バスコ・ダ・ガマBasco de Gamaに率いられた三艘の船がリスボンを出港した。10ヶ月の航海のあと、彼の船団はカリカットCalicutの反対側にあるマラバル海岸に錨を下ろした。
 インドのヒンドゥ教徒たちは好意を持って彼らポルトガル人を受け入れたが、その当時、インドの外国貿易を一手に握っていたムーア人は交易の新参者に対して強い敵意を燃やした。

 バスコ・ダ・ガマは欧州で高価に裁けるインド産の荷を買い込んで船に積み、ポルトガルに戻った。
 ポルトガルの人々は賞賛を持ってバスコ・ダ・ガマを迎え、彼は王のように華やかにリスボンの街を凱旋した。この後、ポルトガルの商船が海路を通って直接インドへ向かうようになり、インドには何ヵ所もの入植地が開かれていった。

白い石を食べ、赤い血を飲む人たち


 1505年、インドのポルトガル居留地総督フランシスコ・ダルメイダFrancisco D’Almeidaはモルディブ方面にあるムーアの商船を追い払うために息子のロレンツォLorenzoを軍艦に乗せ派遣した。ところが西風のため船はモルディブへ行けず、逆の方角にあるスリランカへ流されてしまった。ランカー島の海岸に接近したロレンツォの軍艦はコロンボ港の停泊地に錨を下ろした。
 この事件はすぐにコーッテのダルマ・パラークラマ・バーフ王に知らされた。ラージャワリヤはその事件をこう書き残している。
 「1522年のことだった。4月にジャンブドウィーパのポルトガルから1隻の船がやってきてコロンボに停泊した。その事件は住民によって王へ次のように伝えられた…我らの港に外国人がいる。とても白く美しい。ブーツを履き鉄の帽子をかぶり、いつも立ち動き働いている。彼らは白い石を食べ、赤い血を飲んでいる。彼らは魚を買うと金や銀の硬貨Ridisを2,3枚払う。雷のような音をとどろかす鉄砲というものを持ち、ユガンダラ・パーワタYugandara Parwateに向けて大砲が撃たれたとき、その響きは鉄砲よりもすさまじかった。大砲の弾はかなりの距離を飛んで、大理石も鉄をも粉々にしてしまった」
 ダルマ・パラークラマ・バーフ王は議会を招集した。
 「異邦人と和平を結ぶべきか。それとも戦争か」
 議論が飛び交った。地方領主チャクラChakraは、自らが変装しポルトガルの様子を観察してくると提案した。
 チャクラはコロンボへ行き恐る恐るポルトガル人を見た。慌ててコッテに帰り王に報告した。このような手に負えそうもない訪問者は友好的に扱うのが懸命だと伝えた。
 こうしてコッテ王国はポルトガルと条約を結ぶことになった。ポルトガルは大使2人をコッテに送るよう求められ、ポルトガルはその条件を受け入れた。贈り物が交わされ、友好条約が結ばれた。

 その後13年間、ポルトガルはスリランカから遠ざかっていた。
 1518年、ロペス・スアレス・アルワレンゴLopez Suarez Alvarengoの率いる10隻の軍艦がランカー島にやってきた。たちまちのうちに上陸し砦を築き始めた。
 ムーアの商人たちはポルトガルに貿易の利権を奪われることを恐れて、大軍を持って砦を攻めるようシンハラ王に訴えた。王は言われるままに軍を動かしたが、あっさりとポルトガル軍に排撃されてしまった。ポルトガル軍の軍事力ははるかにシンハラ軍の力を超えていた。銃と大砲はその破壊力を見せ付けた。規律に従って作戦を遂行するポルトガルの兵隊たちもシンハラ軍の立ち及ぶところではなかった。
 シンハラ王はポルトガル商船の入港を認めざるを得なかった。その上、毎年の上納としてシナモン・ルビー・サファイア・象をポルトガルに贈ることを承諾させられた。

 ポルトガルが築いた要塞は当初、土壁だった。1520年、新たに軍が増強されると石組みの砦に補強された。こうしてシンハラ王国は軍と商船を送りつける西欧の植民地に落ち込んで行くのである。

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