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エリザのセイロン史


スリランカの歴史8
ジャフナのタミル王国






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史8
ジャフナのタミル王国
 

スリランカ北部、ジャフナ



 スリランカ北部は時折歴史に顔を出すものの、その詳細な様子を窺うにはポルトガルのランカー島上陸を待たなくてはならない。
 と言うのも、語られるジャフナの歴史には物証がなく、たとえあっても確たる信頼を寄せることが出来ないからだ。タミル人はシンハラ人の「マハーワンサ」に当るような歴史資料が何一つとして持っていないのだ。
 タミル人が信仰する高名なヒンドゥ寺院にはそれぞれの由来が残されている。だがそれらは、例えばシヴァ神やウィシュヌ神が降臨したとか、神々によって奇跡が起こったとかの霊験が語られるばかりで、しかも、そうした奇跡が起きてから数千年を経た後に語られたものだから、うかつには歴史の俎上に載せられない。そうした故事は歴史を語ることに目的があるのではなく、奇跡を語ることで善男善女を寺院に誘い込み、彼らから金品をいただくということが最大の関心ごとだったようだ。

 スリランカ北部西部の先住民は「マハーワンサ」の記述にあるナーガNagaであるとする人々がいる。ナーガ・ディーパNagadipo、「蛇の島」という名はジャフナ半島を指して言うシンハラ人の呼び名である。ジャフナ近くの小島にヒンドゥ寺院があるが、そこでは今も蛇を祀っている。

  ジャフナはタミルの土地か、シンハラの土地か。現在、シンハラ軍が占拠するジャフナはこの帰属の問題が最大の関心事である。「マハーワンサ」は仏陀がこの地に降りたときナーガ国があったと語る。ナーガの国はケラニアにもあったのだから、ナーガ国とはシンハラの国であったと主張されることがある。ジャフナはそもそもシンハラ人の土地であったとするための論である。今はタミルが住んでいるが、という条件をつけながらも、シンハラはここが元来シンハラの土地であると言い、この地に生まれたタミル自治政府に明け渡しを要求している。

砂のジャングル ジャフナ半島


 ジャフナ半島は当初、タミルによってマナッティダルManattidal(砂の小山)と呼ばれていた。まさに砂のジャングルのようだからである。
 西暦前300年ごろ、デーワーナム・ピヤー・ティッサ王の時代、菩提樹の小枝がジャフナ近く、現在はコロンボガムColombogamと呼ばれているジャンブコロJambukoloにもたらされた。デーワーナム・ピヤー・ティッサ王はその地に仏教寺院を建てた。マハー・セン王はその600年ほど後にヤカーとナーガを雇ってこの地に灌漑用貯水池を作った。

 『セイロンの歴史』が「現在はコロンボガムと呼ばれている」と書く場所はタミルネットに言わせると「植民地時代にコロンボガムと呼ばれたコズムプットゥライKozhumpuththu'rai」となる。TamilNet, Thursday, 05 July 2007
 ここはローマ時代から知られていた港で、マンナルやプッタラムを通り過ぎてコロンボとを結ぶ航路が開かれていた。歴史の中でもここは重要視されるが、それはここがまさにインドから菩提樹が持ち込まれた港だったからだ。シンハラ人にとってもゆかりの深い土地ということになる。
 1984年10月末、ジャフナで仏教の布教を外交で行っていた日本山妙法寺の僧侶横塚信行師がLTTEによって射殺された。今、この地で仏教の布教をすべきでないと説得したのだが聞き入れてもらえなかったと中村尚司から事件後に聞いたことがある。A・T・アリヤラトネのサルボダヤの事務所を出て団扇太鼓を鳴らしてジャフナの街を歩いたところを狙撃された。
 ジャフナはタミルの居住地域だが、かつてはシンハラ仏教のかけがえのない聖地だった。シンハラとタミルの争いは宗教に根深い病根を持っている。
参考/ A.T.Ariyaratne / Presidential Commission on Lessons Learnt and Reconciliation / 2010

 タミル人が信仰するヒンドゥ教ではスカンダSkanda(又の名をカンガイセンKangaisen)をシヴァSivaの子であるとしている。
 スカンダはジャフナ北方12マイルにあるカンガイセントゥライKangaisenturai(カンガイセンの港、つまりスカンダの港)の近くにあるケーリマレイKeerimaleiの池に大きな徳を授けたと言う。ライオンの醜い顔に生まれた南インドの高名な王がその池で沐浴をしたら美男子になった。馬の顔で生まれたタンジョーTanjoreの王女がこの寺院の井戸で沐浴をしたら絶世の美女となり、先の王と結ばれた。

  こうした功徳の伝承はヒンドゥ教によくあるタイプだ。「セイロンの歴史」が語るこの奇跡の部分はティッルチェンドゥ寺院Tiruchendue Templeに伝わる伝説と酷似している。馬の顔をしたパンディヤの王女がティッルチェンドゥ寺院の井戸で沐浴し美女に生まれ変わった、シヴァ神の怒りを買い五つの顔のうち一つをなくしたブラーマンがここで沐浴したら無くした顔を取り戻した。古代の逸話ばかりではない。ティルッチェンドゥ寺院の奇跡は現在も有効だ。先のインド洋ツナミの際、この寺院だけは奇跡の井戸水のおかげで災害を免れた、と言う。ナサの衛星写真が津波を免れたこの寺を映し出している(と衛星写真付きでヒンドゥ寺院がもたらす奇跡のすばらしさを賞賛するサイトがある)。


 こんな話もある。
 チョーラの国からやってきた盲目の吟遊詩人がスリランカ北部の王ナラシンハ・ラージャの宮廷に招かれた。盲目の詩人が吹くリュート(タミル語でヤルYal)とその詩は王を深く感動させた。褒美として王はジャフナ半島を彼に授けようと言った。吟遊詩人は砂洲に囲まれたその半島をヤールッパナン・ナードゥYalppanan Nadu(リュート奏者の国)と名付け、チョーラ国から移住者を呼び寄せ半島の各地に住まわせた。

 ナラシンハ・ラージャ王が逝去すると国内に抗争が起こった。そのためマドゥラの王子シンハ・アーリヤSingh Ariyaが王として招かれた。シンハ・アーリヤ王は片手が不自由だったことからクランカイKulankai(不具の手)とあだ名されていた。
 彼はジャフナから2マイルの地ナッルゥNallurにシヴァ神を祀る寺院と王宮を造った。類い稀な能力を持ち、精力的に活動するシンハ・アーリヤ王は勢力をワンニWanni全域、さらにマンナルへと伸ばし南下した。彼の後継者はジャフナをアーリヤ・チャクラワルティAriya Chakrawartiの名の下に統治しシンハラ王国と常に紛争を繰り返した。

 インドのタミル王は常にシンハラ王国と争いを繰り広げていた。そうしたタミルの王の1人はマドゥーラ王クラセーカラ・パンディアンKulasekhara Pandyanの援軍を受けてブワネカバーフ一世と戦い、1304年、その王都ヤーパフを陥れ、王国の財宝を持ち去った。また、別のジャフナ王はチラウChilaw、ネゴンボ、コロンボに要塞を築きランカー島の西海岸を征服した。
 この当時、シンハラ王国がタミル王国の侵攻を食い止めることが出来たのは1371年、アラカイスワラ大臣Alakaiswaraの反撃の時だけだった。

 西暦1410年、コッテで即位したシンハラ王スリー・パラークラマ・バーフ六世はその長子に軍を預けてジャフナに送りタミル王国の壊滅を図った。シンハラの記録によれば「タミル人への殺戮は激しくジャフナの通りは血で埋まった」とある。シンハラの王子はタミル王を撃ち、その妻と子等をコッテへ送り、自らはジャフナのタミル王国の為政者となった。
 ランカー島にポルトガルがやってきたとき、ジャフナはタミル王の下、繁栄の頂点にあったことが知られている。だが、それも長くは続かなかった。

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