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エリザのセイロン史


スリランカの歴史7
5 パラークラマバーフ王~ダルマ・パラークラマ・バーフ九世 AD1153-1505
反撃
マハーワンサの時代③






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史7
5 パラークラマバーフ王~ダルマ・パラークラマ・バーフ九世 AD1153-1505
反撃
マハーワンサの時代③
 

ルフナ、未開の地



 スリランカ南部、ルフナはいまだ未開の地であった。
 南部のシンハラ王たちはそれぞれの国を経営しながら虎視眈々と中央政権ポロンナルワの王位を狙っていた。そうした王族の中から頭角を現したのはローカイスワラLokaiswaraであった。カタラガマに政権を打ちたて王宮を建て、その地で1071年に亡くなった。そうして、ウィジャヤバーフ
(1056~1110)が旧王家出身として王位に就いた。

 「セイロンの歴史」はこう語っているが、おそらくこれはテンネントの「セイロン」から記事を引いてきたものだろう。テンネントはシンハラ王朝がタミル王国のチョーラに征服される様をこう書き残している…

 1023年、チョーラ王国は再びセイロンを襲った。シンハラ王をインドに追放し、代わりにマラバルの太守を王都ポロンナルワに国王として就かせた。マラバル人は86年の永きに亘りシンハラ人に戦を仕掛け、少しづつではあったがランカー島のすべての村々にマラバルの影が浸透していった。
 1028年、ルフナの地ではシンハラ王族たちが内紛を続け戦国状態にあった。4人の王族は互いにシンハラ唯一の王を名乗って無法と陰謀を互いに繰り返したが、その最後に残ったのはローカイスワラで、カタラガマに王宮を建て、1071年、亡くなった。

 若く精力的なウィジャヤバーフ王がタミル人から王都ポロンナルワを奪い返すと、ランカー島全土にシンハラ人の勢力が復興し拡大した。
 だが、彼が王位に就いたとき、シンハラ仏教は衰退していた。永いチョーラ王国の支配の後、ランカー島には5人の仏教の高僧が残るだけだった。仏教再興のためにアルラマナArramana(おそらくビルマ、またはシャムの一部)にウィジャヤバーフ王は使節を送り高僧の派遣を依頼した。
 ウィジャヤバーフ王には跡継ぎがなかったため、彼が亡くなって王権をめぐる争いが起こった。

パラクラマバーフ王の栄華


パラクラマ王石像。パラクラマの海とたたえられた広大な灌漑池の前に立っている。手にしているのは経文かあるいは頚木 か。ここは仏教と稲作の栄える島だ。

 西暦1153年、パラクラマバーフがポロンナルワで王位に就いたと宣言した。彼はシンハラ王権史上、最も賞賛された王だった。シンハラ王国の富と力の回復。それがパラクラマバーフ王に与えられた使命だった。
 彼は教育に最も力を注いだ。また、荒れた貯水池を復興し水路を回復した。稲作基盤の整備によって米の生産は最大に達し、米の生産に余力を持ったシンハラ王朝はビルマ?に米を輸出するまでになった。
 パラクラマバーフ王はポロンナルワを取り囲んで石組みの防壁を築き、その各所に砦を設けた。戦火で崩れた建物を修復するためにインドからタミルの石工やその他の技術者を連れてきた。

 彼の時代、カンボジア王国との間に紛争が生じている。
 カンボジア王国に出向いたスリランカの大使が侮辱を受けたことと、シンハラ王女を乗せてランカー島からインドへ向かった船がカンボジア軍に拿捕されたことを理由にパラクラマバーフ王はカンボジアに攻撃を仕掛けた。
 5隻の軍艦がランカー島を出港してカンボジアへ向かった。そのシンハラ軍の司令官はアディッカラムAdikaramという名のタミル人だった。


 シンハラ人とタミル人の戦いは1000年の昔から民族闘争などではなく、国家の指導者たちの権益抗争に過ぎなかったことがアディッカラム司令官の存在で理解されるだろう。
 いま、バティッカロアでタミルのLTTEと戦っているのもシンハラ人のシンハラ軍ではなく、カルナKaruna Ammanと名を変えたタミル人軍人ビニャガマムーシ・ムラリタランVinayagamoorthy Muralitharanが率いるLTTE系グループであることを思い起こせばシンハラ人とタミル人の闘争と周知される、あるいは民族紛争と括られるもろもろの事件の「謎」も容易に解けてくる。そこには「民族」などと呼べる純粋な存在も精神もない。民族紛争を演出する一部の集団。彼らが渇望する利権と権力への欲求。それが透けて見える。

 ポロンナルワ王国の軍がカンボジアに上陸するとすぐに戦闘が始まった。アディッカラムの軍勢はたちまちのうちに王都に進軍し王宮を占拠した。そして、カンボジアを属国にすると言い渡し、慌しくポロンナルワの軍はスリランカへ戻った。
 カンボジアとの戦争に勝利して気を良くしたパラクラマバーフ王は次にパンディヤPandyaとチョーラCholaの連合軍と闘っている。
 勝利の波に乗るパラクラマバーフ王の軍に対して2国の連合軍は手堅く応戦したものの敗北を喫する。ラメスワラム島とその隣接する地域がランカーに割譲され、パンディヤ国王は王位を略奪されて、その息子がランカー王国の属国として王位に就けられた。

 パラークラマバーフ王の時代、シンハラ王国の経済は大いに栄えた。
 スリランカの歴史を振り返るとき常に言われることだが、シンハラ王の王としての評価は灌漑用水の管理をいかに的確に行ったかどうかに掛かっている。
 パラクラマバーフ王は放水路を設けて川の流れを変え、その水が貯水湖を満々と湛えた。ある水路はマータレのエッラハラEllaharaniに源を発するアンバン川Amban gangaから水を引き、延々100マイルの長さで北東へ流れを向かわせ、ミンネリアやカンダライkaidelaiなどの貯水池に水を貯めた。水路は運河に劣らぬ大きさで、農産物の運搬にも使われていた。
 いくつもの貯水池。それらの貯水池を結ぶ水路。水管理のシステム全体が「パラークラマの海」と誇り高く呼ばれた。
 

シンハラ王国のタミル王

 西暦1187年、カリンガの王室からキルティ・ニッサンガKirti Nissangaがポロンナルワにやってきて王位に就いた。カリンガ、それはインド南部にあるタミルの王国である。


  キルティスリ・ニッサンガについてはテンネントSIR JAMES EMERSON TENNENTの「セイロン」1860 London のセイロン王一覧に122代シンハラ国王として名が上げられ、説明にカリンガ国王子とある。彼もまた、シンハラ国の王となったタミル人なのである。
 後述するがキルティスリ・ニッサンガ王はその徳をシンハラ人さえもが褒め称える傑出したタミル国出身の王子だった。だから、1983年に端を発する現在のシンハラとタミルの抗争を単に民族紛争、民族浄化とするのは誤りなのである。それはランカー島を舞台にシンハラとタミルが織り成す民族混交の歴史なのである。
 キルティスリ・ニッサンガはシンハラ人だとする歴史家がいる。シンハラ人としての彼の名はニッサンカマッラである。歴史は純粋な科学でないからこうした誤りも大手を振って世間を闊歩する。

 キリティスリ・ニッサンガ王が王位にあったのはわずかに9年だったが、その徳は深く称えられ、「大地の守護者」「世界を照らす光」と賞賛された。彼が腰掛けた王座はいま、コロンボ博物館に展示されているが、それはシンハラ民族を象徴するシンハ(ライオン)を象っている。

 キルティスリ・ニッサンガ王の甥は大臣のニヤーンガ(ニカンガ)によって目をくりぬかれ、その大臣はパラークラマバーフ王の寡婦で王座に就いたリラワティLilawatiと結婚した。この間シンハラ王の即位と退座はめまぐるしく、リラワティは3度王位に就き、3度とも王位を追われている。


  「クラワンサ」に残された記録はリラワティとカリンガ、チョーラといった南インドのタミル王国との関係を色濃く伝えている。パラークラマバーフ王の死後、後を継いだウィジャヤバーフ2世がカリンガのマヒンダによって殺害され、マヒンダはカリンガ王子でウィジャヤバーフ政権の首相だったキッティニッサンガによって王位を追われ、キッティニッサンガはシンハラ人を思わせるニッサンカ・ムッラの名で1187年から1196年までポロンナルワ王国の国王となっていた。シンハラ王国と南インドのタミル王国との関係は融和と拒絶を頻繁に繰り返すのである。

 13世紀の初頭、スリランカは膨大な数の侵略者たちによって国を陵辱される。インドから攻め込むタミル軍は数百の仏塔を壊し、仏教寺院を兵舎に変え、仏典を焼き払い、王家の人々を奴隷とした。
 侵略のタミル軍が欲したのはシンハラ王国の財宝であった。シンハラ王家の財貨を強奪し、財宝が見つからないとタミル軍はシンハラ王家の人々の手足を切り落とした。「クラーワンサはこう記している。
 「ランカー島はまるで火をつけられた家のようだった。ダミラは村から村へと略奪の手を伸ばしていった」

 西暦1214年、タミル人のマーガがスリランカの王となった。同1235年、シリ・サンガボ一世の流れを汲むウィジャヤ・バーフ三世が即位し、ランカー島の一部からタミルの侵略者を追い出した。
 マヤ地方(スリランカ中央部)とルフナ地方(南部)では完全にタミル勢力を駆逐したが、ピヒティ地方(北部)では現在と同様に既に多くのタミル移民が定住していた。そうした状況から彼らを正規のスリランカ国民として迎え入れて国税を徴収するしかなかった。
 タミルのランカー島侵略が続く中、ウィジャヤ・バーフ三世は500年続いたポロンナルワを離れ、セブン・コラレーのダンバデーニヤDambadeniyaへ王都を移した。

 1266年、ウィジャヤバーフ王はパンディタ・パラクラマバーフPandita Parakramabahuに王位を譲った。彼は道路を整備し、橋を架け。現在カンディと呼ばれているスリー・ワラダナプラSriwaradanapuraの街を作った。彼は教育に力をいれ学校の設立にも多大な努力を払っている。
 パンディタの時代に、タミルと共にマレイからの侵略があった。
 多くの戦死者を出してマレイの侵略は失敗した。スリランカの歴史家は彼ら侵略者を指して、「葦の草むらのごとくに無数の軍隊が、嵐のごとくに激しくすべてを踏み潰し、ランカーの富を根こそぎにして奪って行った」と記している。

 西暦1303年、ブワネカ・バーフ王はダンブッラの南西セブンコラレーにあるヤーパフが都となった。だがパーンディヤの軍がヤーパフを奇襲し、仏歯を奪いインドへ持ち帰ってしまった。スリランカが物資をパーンディヤ王国から取り戻すのはブワネカ・バーフ二世のときで、彼は1319年、都をヤーパネからクルナェーガラに移した。

 1347年、ブワネカバーフ四世はガンポラの街を再興し都とした。ガンポラは紀元前504年、パンドゥワーサの義理の兄弟によって作られたと言われている。
 シンハラ王国はこのように頻繁に遷都を繰り返した。タミル軍の攻撃がいかに激しかったかを物語ている。

 ウィクラマ・バーフ三世の時代だった。王は首相のアラカイスワラAlakaiswaraはコロンボ近郊に砦と街を作り、その地をジャヤワルダナプラと呼んだ。現在、コッテKotte/Cottaとして知られている街がそれである。
 そして、その地に安住する間もないうちに、パーンディヤ王国のアリヤ・チャックラワルティAriya Chakkrawartiによってシンハラ王国は征服された。
 アリヤ・チャックラワルティはスリランカ西海岸のコロンボ、ネゴンボ、チラウに要塞を築いた。ランカー島の北部をこれらの要塞で島中央部のシンハラ王国と切離し、ジャッフナパタムJaffnapatamにタミルの政府を開いたのである。
 アリヤ・チャックラワルティはしばらくの間、アラカイスワラに年毎の朝貢を強いていたが、シンハラ国はそれに反撃した。アラカイスワラ首相はジャッフナパタムのパーンディヤ王国分権政府を討った。こうしてランカー東北部のタミル政府は終焉を迎えた


中国(明)の属国となる


  明の時代、朝貢外交を進める永楽帝は鄭和をビルマ、態、インドなどへ7度にわたり派遣した。永楽帝の目的は朝貢であり周辺諸国を中国に従わせることが目的であった。
 第3次の鄭和の航海ではスリランカに寄航した。このとき船に積まれた財宝を狙ってスリランカ軍が襲っている。

 だが、スリランカの記録には襲撃のことが書かれていない。記されているのは、中国人の多くが仏教徒であること、そして、中国の朝廷は上座部仏教国ランカーへ貢物を上納するためにランカー島に上陸した、ということである。また、永楽帝の使節一行をシンハラ軍が取り囲み中国の武将を大いに辱めた。それは、ウィジャヤ・バーフ六世の治世であった

 屈辱を受けた中国は新たに軍を組織するとスリランカへ派遣した。そして、ガンポラの王都を占拠し、王家一族を捕虜として連れ帰った。
 永楽帝はスリランカを中国の属国とするために王家の中で最も忠義な者を王に選ぶよう命じてシンハラ王族をスリランカへ帰した。
 こうして1410年、パラークラマ・バーフ六世が王に選ばれ、この後約30年間、スリランカは中国に対して朝貢を続けるのである。

 パラークラマ・バーフ六世はコッテに王都を置いた。彼の52年に及ぶ長い治世はシンハラ王国にかつての力を呼び戻し、一方、北部のタミルはほとんど勢力をなくしていた。彼の政権は長期にわたったが、財政は緊迫し、そのために物品に税がかけられた。
 パラークラマ・バーフ六世は孫のジャヤ・バーフ二世JayabafuⅡに王権を継いだが、ジャヤ・バーフ二世の統治はわずか2年で終わり、王位は王家の流れを汲むブワネカ・バーフ六世BhuwanekabahuⅥによって奪われた。この後を継いだのは弟のウィーラ・パラークラマバーフ王で、彼は20年、コッテのシンハラ王国を治めた。
 西暦1505年、ウィーラ・パラークラマ・バーフ王の死によってダルマ・パラークラマ・バーフ九世が王位を継承した。
 彼の時代にポルトガルのランカー島上陸という大事件が起こる。


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