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エリザのセイロン史


スリランカの歴史6
4 マハセンの即位~チョーラ王国の支配 275AD-1023AD 
「マハーワンサ」最後の王マハーセン
マハーワンサの時代③






1893年6月、スリランカのヌワラエリヤでエリザベス・ホワイトは冊子を手にした。英国キリスト教伝道協会がコロンボで発行した'History of Ceylon'(セイロンの歴史)だ。115ページのコンパクトなハンドブック。そこにスリランカの歴史が丁寧にまとめられている。ナイトン、プライダム、ターナー、テンネント、ファーガソンという、当時のスリランカ研究第一人者たちの著作から歴史に関わる部分を集めている。言ってみればこのハンドブックはスリランカの歴史と文化の「まとめサイト」。




スリランカの歴史6
4 マハセンの即位~チョーラ王国の支配 275AD-1023AD 
「マハーワンサ」最後の王マハーセン
マハーワンサの時代③
 

「マハーワンサ」最後の王マハーセン



  西暦275年、マハーセン(マハーセナー)が王位を継いだ。
 マハーセンは熱心なバラモン教徒で彼が師事していたバラモン司祭の教えに従い、王位に就くや否や仏教僧へのダーネ(布施)を禁じた。当時の仏教僧は布施のみに頼って暮らしていたので仏教界は大いに混乱した。彼はバラモンの教えに従い青銅宮殿と363の仏教寺院をも破壊した。
 彼が仏教の正しさに目覚めて布施の禁令を解き、破壊した寺院を再建し、新たにジェータワナラマ・ダーガバJaytawanaramaを建造するまでの間、アヌラーダプラはその生気を失っていた。

 マハセン王に関して特筆すべきことと言えばミンネリアMinnairia・ウェワ(ウェワは灌漑地)の造営があげられる。ミンネリア湖はトリンコマリとダンブッラの中間に位置し(ハバラナの東10キロ)、2万フィールドの農地に水を供給した。
 ミンネリア湖を一望するためにマハーセン王はなだらかな丘の一角、ヌワラ・カンダNuwara Kandaに王宮を構えた。

 彼の時代の利水工事は壮大だった。ミンネリア湖に灌漑用水を湛えるため長さ1マイル、高さ6フィートの堤防を築き、カラ川の流れを堰きとめた。ミンネリア湖は広大な貯水池となり、そこからの流れは程よい水量となってマハウェリ川に注いだ。さらにその流れで運河を通しカンタライ湖を造った。
 ミンネリア・ディヨー。マハセンは死後、そう呼ばれた。ミンネリアの神という意味である。だから、彼を祭る寺院には今も献花が絶えることがない。

 マハーセンは「マハーワンサ(大王統史)」の最後を飾る王である。彼以降、「マハーワンサ」は「スラ・ワンサ(小王統史)Culavansa」に継がれてシンハラ王朝の歴史が語られる。そして、マハーセン王以降、シンハラ王朝を中心とした島の繁栄は陰を指す。更なるタミル軍の侵略と大航海時代を迎えた西欧の進出がシンハラ王国を崩壊に導いてゆく。

 マハーセンはシンハラ語ではマハー・セナー(大いなるセナー家)となるはずの名だ。なぜタミル語風にNの子音止めでセンと彼の名が呼ばれるのだろう。いや、マハーセンばかりではない。彼以降のシンハラ王族にはタミル語音の名が次々と登場する。
 マハーセンはブラーマン(バラモン教)を信仰した。後に仏教に改宗したのだが、そのときも彼はシンハラ仏教の主流であるマハー・ウィハーラ(大寺)派を避けてアバヤギリ(無威峰)寺派を選んだ。インド南部のタミル国家からの侵攻にさらされてシンハラ人の社会は大きく揺れていた。「スラ・ワンサ」(小王統史)にも多くの賢王が登場するが、タミル国家の影響はシンハラ王族の純血とシンハラ仏教徒の生き方をその根底から揺さぶる。

カッサパとシーギリの王宮


シギリヤのレストハウスから岩山を眺める。この岩山の頂に古代、美しい王宮が建ち、王族と僧侶が暮らしていた。

 西暦298年、マハセンの王位を息子のキリティ・スリー・メガワーナkirtisrimeghawarnaが継いだ。彼の時代に仏陀の臼歯がカリンガの王女によってスリランカにもたらされたという話が伝えられている。インドの戦乱から逃れてスリランカに逃れた王女がランカー島のシンハラ仏教徒が至宝として崇める仏歯を運んできて信仰のシンボルを輝かせたのである。

  エリザが読んだ「セイロンの歴史」は後に、この臼歯が悲惨な運命に遭遇することを明らかにしている。
 仏陀の臼歯はシンハラ仏教の信仰のバックボーンだ。信心のコアがその臼歯に宿る。後の大航海時代にスリランカを植民地とした西欧の国は聖なる仏歯を持ち去り焼き払った。シンハラ人の精神的支柱を崩し去ろうとしたとそこに語られている。

 西暦335年、ブッダ・ダーサBudha Dasaが王位に就く。ブッダ・ダーサ王は「徳の宝庫」「富の海」と呼ばれた。
 彼は医業に優れていた。論文を書いている。医療研究者としての一面が光る。病院を設け、障害者や困窮者に救護所を建てたことは後世に語り継がれた。

 西暦406年にマハーナーマが王位に就く。彼の時代にインドからやって来た仏教僧がいる。ブッダゴーサ(仏陀の声)と呼ばれる雄弁果敢な僧侶である。アヌラーダプラで彼はピタカに関するシンハラ語の注釈書をパーリ語に訳した。

 その後、ランカー島は再びタミル人によって侵略され、シンハラ王が彼らに殺された。

 西暦459年、タミル人に追われルフナに逃れていたダートセナ王がタミル人をアヌラーダプラから排除しランカー島にシンハラ人の平和を取り戻した。彼は仏教を再興し、代々のシンハラ王の役目である巨大な貯水池の造営を行った。カラウェワKalawewaと呼ばれる貯水池を造営し、54マイルに及ぶ長大な運河が引かれアヌラーダプラに豊富な灌漑用水が供給された。

 マハーナモ僧がシンハラ王統史「マハーワンサ」を書き終えたのはこのダートセナ王の治世であった。ウィジャヤの来島に始まるシンハラ王朝の変遷をマハーセン王の逝去まで綴ったスリランカの王統史は仏教と稲作を国の支えの根幹として国家経営をしてきたシンハラ人の民族の歴史書である。

 ダートセナ王の治世は彼自身よりも長子のカッサパKasyapa王子の去就に「マハーワンサ」の話題が集中している。
 カッサパ王子が狂気の王族として人目を引くのは父から王位を剥奪したことにある。そして父王の持つ財宝を総て我が物にしようとしたその貪欲にある。
 だが、息子に捕らえられたダートセナ王は財宝の在り処を教えなかった。カッサパ王子は逆上し、父王を鎖につなぎ、壁の中に生きたまま埋めてしまう。マハーワンサはこう語っている。
 「かくしてカッサパは飽くなく富を求めるようになった。現世化した仏教の精神は富に置き換えられ、その輝きがカッサパを照らした。彼は富の獲得に更に狂奔するようになった」
 あるだけの財宝を奪い、カッサパは王となった。
 
 カッサパの弟ムガラーナMugalana王子は兄への復讐を誓った。父王ダートセナの無念を晴らすためインドへ行き、兄と戦うために軍を集めた。
 ムガラーナは軍を率いてコロンボに上陸した。弟の反乱を知ったカッサパは王都アヌラーダプラを逃れマータレにある断崖の岩山シーギリへ向かった。
 シーギリとその近くの切り立った岩山は仏教僧が瞑想修行をする聖地だった。だが、カッサパはシーギリの山頂に豪奢な城を築き、シーギリの岩山を都とし、奪い取った父王の財宝をその地へ移した。 

 シーギリの岩山は山そのものがライオンのようである。今も残るライオンの前足の巨大な彫刻は、かつてその上に更に巨大なライオンの顔があったことを想像させる。
 シーギリにはカッサパ王の豪奢な暮らしを偲ばせる数々の伝説が残されている。

 ルビーを身につけ薄絹をまとって微笑む王女たち。それはあまりに有名となってしまったフレスコ画だが、シーギリの山腹にその一部分が残されている。
 山頂には沐浴場が作られた。幾多の部屋が山頂に作られた。今は崩れたレンガの壁だけが残っている。
 王宮への入り口が巨大なライオンの前足の間に作られ、岩山王宮の前には整然とした幾何学模様の庭が広がり、噴水がわきあがっていた。

 カッサパは攻め入るムガラーナに応戦したが、結局クルナェーガラの近くで破れ捕らえられてしまう。ムガラーナは再びアヌラーダプラを王都と定めた。
 ムガラーナの後を継いだ8人の王たちは自害が2人、殺害が3人、また1人はダートセナ王のようにわが子の裏切りの中で死んでいった。
 西暦769年、、アグラボーディ4世AgrabodhiⅣが即位する。彼は絶え間なく攻め入るタミル軍を駆逐できず都をアヌラーダプラからポロンナルワに移してしまった。そして、この地にも規模はかなり小さいものの宮殿や寺院が造営された。新たに稲作のための貯水池がつくられ、掘り上げた土の量に見合う巨大な仏塔も築かれた

 シーギリは1982年、世界遺産に登録された。この下の資料はH・ディサーナーヤカ氏が書記官として東京のスリランカ大使館に勤務していた時に彼女自身が作ったもの。
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 …シーギリの岩山を登り,項上まであと半分という所まで至ると、更に上へ昇る鉄の梯子を設えた広場に出ます。ここは、かつて巨大なライオンの前足の間をくぐり抜けて階段を昇るようになっていましたが、今ではライオンの爪の部分が残っているだけです。ライオンは岩山を削って彫り上げました。今に残る前足と爪からライオンの姿がいかにリアルだったか、想像できるでしょう。

ライオンの足元からシギリヤの王宮跡を目指して
上る。途中に王女らのフレスコ画と鏡の壁がある。


 岩山の西側には避難所があります。その真下に有名なシーギリのフレスコ画があって、王宮の美しい乙女たちが描かれています。現在、確認できる乙女たちは19体ですが、かつては500体も描かれていたそうです。
 フレスコ画の近くの通路には2,86メートルにも及ぶ長い漆喰の壁があり、特殊な処置をされているので光り輝いています。これが「鏡の壁」です。この壁には、何世紀にもわたりシーギリヤへ訪れた人々が、その興奮とも受け取れる感情の高ぶりを綴ったシーギリ短詩(クルドゥ・ギー)が彫られています。

 岩山の下、西にある水の広場は左右対称に作られましたが、高い場所にあるボウルダー広場は左右が不対象です。水の広場は当時の世界では最も進んだ水力技術で造られたとされています。各広場には珍しい形をした池、小島、噴水、遊歩道、休憩所、丸石、木々等があります。

 カッサパ王は王族でない母の下に生まれたので、ダーツセナ王の長子ではありながら異母弟のムガラン王子とは仲が悪かったようです。ムガラン王子と争い、ムガラン王子が南インドへ逃げている間に王座を奪おうとして父王を殺したと言われています。
 「マハーワンサ」によると、カッサパは異母兄弟のムガランがインドから帰って来て政権を脅かすのではないかと恐れ、王宮を岩山のシーギリへ移したと言われています。しかし、シーギリの遺蹟を見ると、他のスリランカ王室に比べてカッサパ王は贅沢で優雅な暮らしをしていたことは確実で、本当に恐柿におびえていたかどうかは疑問です。

 考古学者たちはカッサパ王が富の神、クヴェラ神のように暮らしたいと願い、クヴェラ村付くでよく起こる雷をフレスコ画に描かせたと言っています。また、フレスコ画は、近くのピドゥランガラ寺まで行く準備をしているカッサパ王の女王や侍女たちを描いたものだという説もあります。

シギリヤ。岩山の宮廷の皇女。透き通る絹の衣をまとい、蓮の花を手にして寺院へ向かう。


 「マハーワンサ」によると、カッサパ王は、長年難民として南インドに留まったムガランと彼が引き連れてきた南インド軍によって滅ぼされました。敗北が決まったとき、カッサパ王は岩山から飛び降りて自害し、王女もその後を追いました。

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 古代シンハラ人の王朝文化は海のように大きな湖とランカー島の自然に溶け合う優雅な姿を持つ仏塔に象徴される。ただ、ランカー島の仏教は平和の中にその真価を発揮しても、戦争に対してはいかにも無力だった。シンハラ王家はインド・タミル国家の王女と政略結婚を結ぶことで戦争を回避しようとしたが、その結果もたらされたのは仏教王都の中に共存する新しいヒンドゥ寺院だった。タミル国の侵略は止まず、また、時として、その逆に反撃の勢いをつけたシンハラ国軍のインド侵攻が繰り返された。

 西暦795年から800年にかけてダプロ3世が即位した。
 ダプロ3世は国の民の幸福にもっとも意を注いだ王だった。公共事業を起こし、医療の充実のために学校を起こした。法の整備を進めて法律を体系化しようとした。
 しかし、そうした中で、これから4世紀にわたりランカー島はタミル軍によって更に激しく蹂躙されてゆく。

 西暦1023年、インドのチョーラ王国はスリランカに進軍しポロンナルワのシンハラ王を拘束しインドへ連れ去った。そして、代わりにタミル人の総督を置いた。こうして30年近くに亘りポロンナルワを支配した。

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